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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第三章 同時進行の異変
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第64話 変わりゆくもの

 化学班による報告会議が開かれた翌日から、ブリクサをはじめとする戦闘班は、交代で居住層のパトロールにあたることになった。警察から「捕獲または処理された個体数と、最近の行方不明者数が一致した」と発表され、地下居住層に残存するのはウォーカーのみであると決定づけられる。そのため補欠を含む隊員たちは、二十四時間体制で居住層をくまなくパトロールし、戦闘装備の上で各交番へ応援隊を派遣。さらにウォーカーを捕獲するべくボードを飛ばして上空からの捜索も行うが、いまだ発見には至らなかった。


 地下鉄を含む、居住層におけるセラフィムの騒動から十日経った頃には、B.A.T.の調査を踏まえた政府から『現時点で市民生活に直接的な危険を及ぼす個体は確認されていない』と発表され、市民に外出許可がおりた。これから徐々に以前の暮らしに戻るはずだが、人々はみな不安を払拭できず、誰も家から出ようとはしなかった。だが、政府からの食料品や日用品等の配布を終了するとの告知を受けては、いつまでも家にこもっているわけにもいかない。じきに生活が成り立たなくなるのは目に見えている。人々はエンジェルへの恐怖心を抱きながらも、必要に迫られて外出をはじめた。しかし、街に多くのB.A.T.隊員が巡回していることを知ると、ほっとした顔で彼らに挨拶をしてくる者もおり、逆に「なぜ地下にエンジェルを入れたんだ」などと、わざと隊員たちの耳に届くような声で言う者もいたが、概ね穏やかな暮らしを取り戻しつつあった。



 この日、ブリクサとエルは二人体制でショッピングモールをパトロールしていた。いつセラフィムが現れても対応できるようにと、二人とも戦闘用のスーツを着けている。そんなデビルを初めて見る市民の中には、エンジェルに対してと同様に恐怖心を抱く者もいるようだ。

 ブリクサはもちろん怒っているわけではないが、正面から走ってきた子どもが自分の脚にぶつかって固まると、その姿を見下ろして子どもと顔を見合わせた。いつもの無表情だが、端正で繊細なつくりの顔は、決して恐ろしくはないはずだ。


「我々がパトロールしていますので、もう街は安全ですよ」


言葉が出ないブリクサの代わりに、隣に立つエルが微笑みながらその子どもと母親らしい女性に話しかける。母親の陰に隠れてまだブリクサをちらちら見上げる子どもも、エルのことは怖くはないらしい。


「ありがとうございます」


 母親はエルだけに会釈し、泣き出しそうな顔をした子どもの手を引いて、笑顔で去っていった。親子を見送ったブリクサは、ふぅーっと息を吐き出してから言う。


「……助かった」

「なにがですか?」

「お前も知ってるだろう。子どもの相手をするのは苦手だ」

「そういえば、昨年の等々力シェルターでもそう言ってましたね。女の子がエンジェルにさらわれそうになった時」

「そうか?」

「そうですよ」


 等々力シェルターか……。ブリクサとエルは、エイジのことを思ってしばらく沈黙した。あの日のことがなくても、彼はB.A.T.に入隊しようと思っただろうか。エルは斜めに照り付ける人工太陽を眩しそうに見あげ、手をかざして片目を閉じる。


「もうセラフィムは本当にいないんじゃないでしょうか。まぁ、またどこかで蛹が見つかる可能性もゼロとは言えませんが」

「そうだな。だが一旦は『安全だ』と言われなければ地下の奴らも動けねえだろう。最初に外に出る勇気など誰も持っちゃいねえ。住人は誰かにそう言ってほしいんだ。だったら、国としてはそう発表するしかねえよ」


 すれ違う人の中には、まだ怯えた様子で空を見上げたり、道端を気にしながら歩いたりする者もいる。安全宣言が出されても、やはり自身で確かめなければ安心できないのだろう。


「えぇ、そもそもエンジェルが地下に来るなんて想定外のことでしたから」

「人間が想定できることなんざたかが知れてる。今までの当たり前が今日から異常と呼ばれることもある。エンジェルの存在自体が想定外だっただろ。それに、奴らが人間の手で生み出されたことも、今度はヒトが混じってるってこともな。……ったく、どこまでもふざけた野郎だな、エンジェルを創った人間とやらは。とにかく、どこに来ようが次は殺すだけだ」


 ブリクサの言葉を聞いたエルは、小さくため息をついた。さきほどの子どもは、ブリクサから漏れ出る殺気を感じ取ったのかもしれない。そういったことに対し、子どもは大人よりも敏感だ。

 人が増え始めた地下は、かつての、エンジェルが現れる前の地上のような活気を取り戻しつつあった。ぽつぽつとシャッターが開き始めたショッピングモール。下校途中の学生たち。高校生は戦闘服を着たB.A.T.隊員を見て歓声を上げ、握手を求める者さえいた。彼らは卒業したらB.A.T.の訓練校に入るのだと話す。そんな光景を横目で見ながら、エルはさり気なくブリクサをいたわった。


「ブリクサ、眠れてますか」

「寝る時間は与えられてる」

「そういうことを言ってるんじゃありませんよ」

「お前の言いたいことはわかる。だがな……」


 ブリクサの不器用さを笑えるのはエルだけだ。そのやさしい笑顔は、地下が平和を取り戻した象徴のように輝いていた。



 一方エイジは、入隊時から教育係のように接してくれるイザークとともに、居住区域のパトロールをしていた。地下鉄の駅から主要な街路を抜け、現在は低層住宅のエリアを歩いている。


「エイジ、上ばっかり見てるんじゃねえよ。ちゃんと人間を見ろ」


 イザークに注意されると、エイジははっとしてすれ違う人たちに目を遣った。B.A.T.のスーツを着た自分たちを見て、安心した顔で会釈する者や、ひそひそと何か話し合う者など、住民の反応はブリクサたちの方と同じだ。しばらくは交代でパトロールしなければならないらしいが、いつまでこんな居心地の悪い仕事をするのだろうと、早くもうんざりしている。


「イザークさんは、化学班の報告のこと、どう思ってますか」

「どう思ってるかじゃねえよ。なんで十年も経ってからいきなり変化したんだ? わけがわからねえ」

「そうですよね……」


 マックスとシドニーが活躍した、地下鉄パニックの際に出動できなかったエイジは、次にセラフィムが出たら自分が一番に見つけてやると躍起になっている。そんなエイジの思惑が手に取るようにわかり、イザークはエイジをたしなめた。


「エイジ、常に冷静でいろよ。じゃなきゃこの前みたいなことになるぞ」


 イザークは、初出動でエイジが死にかかったことを差している。あのときの自分が何を思い、どう考えたかを思い出し、エイジはぷるぷると首を振ってみせた。


「いや、もう大丈夫です! イザークさん、上から見てみましょう!」

「よし、行くか!」


 素早くボードに乗り込み、二人は建物の二階程度の高さをゆっくりと飛ぶ。今日までに何も起こらなければ、明日からのパトロールは補欠隊員だけが担い、エイジたちはエンジェルの襲来に備え、本部で通常のトレーニングを行うことになっているはずだ。先に走り出したエイジを追い越し、イザークは少し離れて進行方向左側に顔を向ける。


「エイジ、お前はそっち側をしっかり見るんだ。フローラお気に入りのウォーカーが潜んでいそうな場所ってのは、どういうとこなんだろうな」

「了解です! やっぱり昼間は薄暗いところに隠れているとしたら、上空からじゃなくて地上をくまなく探す方がいいかもしれないっすね」


 この静かで美しく整えられた街で、ギデオン班のカリタ隊員が犠牲になったことは、エイジにとってもショックだった。なぜ地下にエンジェルが発生したのか、この前の化学班の発表では、肝心の部分がぼやかされている気がしてならないが、とにかくウォーカーがここにいることだけは確かなのだ。二足歩行のセラフィムを捕獲し、早く本当に安心だと兄弟たちに言ってやりたかった。




 科学棟の出入り口は照明が半分に落とされ、研究員が忙しく働く時間帯よりもしんとしている。四階からエレベーターで降りてきたアネモネは、バッグの中に手を入れて家の鍵があることを確かめると、ほっとしたような顔で出口に向かう。アネモネを待っていたフローラは、彼女が出てきた途端に親しい友人のような気やすさで声を掛ける。


「ハーイ! アネモネ、今日もお疲れさま。私は第三軍ヘスティア班のフローラです」


 いきなり高揚した大声で話しかけられ、アネモネは警戒しながら返事をした。待ち伏せしていたのかと気づいて少し腹を立ててもいるが、報告会議でおかしな発言をした女だと思い出す。


「ああ、先日の会議で質問してくれた人ね」

「憶えていてくれて嬉しいです! 早速ですが単刀直入にうかがいます。化学班ではウォーカーについて、今後はどのような研究をする予定ですか?」

「捕獲されていない個体は、まだ研究対象ではないわ。私たち研究班は、実物を見てもいないわけだし」

「そうでした。あなたたちはまだあの子に会ってはいないんですよね。では、今回のヒト由来の子たちの解析結果がでたら、私にも教えてください」

「なぜ?」


 この人は、どんな思惑で接触してきたのだろうと、アネモネは困惑とともにフローラに対する警戒心を強めた。だがフローラ劇場は今夜も盛り上がりを見せる。


「それは、ウォーカーのためです」

「意味がわからない。結果を発表するのは総指揮官の許可を取らなければならないの。個別に教えることはありません」


 そう言ってみたが、フローラは怯む気配もなくじっとアネモネを見つめている。その瞳は純粋な輝きを持つ宝石のようだ。それにフローラは、ウォーカーに至近距離まで接近し、その翅に直接触れたと言っていた、貴重な唯一の体験者だ。そんな女を邪険に扱うわけにもいかないだろう。


「いいわ。だったら、あなたが憶えていることも全部話してちょうだい」

「もちろんです。私はフローラ。よろしく、解剖解析部主任のアネモネさん」

「あなたの名前はさっき聞いたわ。でも、そういうことならお互いの利害は一致しそうね。よろしく、フローラ」


 科学棟出入り口の下で、美しい女性同士が固く握手をしている。一人はデビルと呼ばれるB.A.T.の戦闘員。もうひとりはB.A.T.上層部が隠している真実を暴きたい研究員だ。


「じゃ、場所を変えましょうか。居住層に戻って、どこかで一杯やりながらでも」

「いいわね、そうしましょう」


 エレベーターに乗り込み、B.A.T.層からもう一段階下の居住層へと移動したふたりは、地下鉄に乗って『居住層C3』駅で降り、小さなバルに入った。入り口には小さな石段があり、その両側には草花の鉢が並んでいる。木製のドアを開けると、取り付けられた鐘が澄んだ音を立てた。店内は八割方のテーブルが埋まっており、客たちは思い思いの酒を楽しんでいる。ふたりは奥の席に向かい合って座り、それぞれのグラスを取った。


「あらためてよろしく、フローラ」

「こちらこそ、アネモネ」


 グラスをかち合わせ、フローラはまず自分のことを話し始める。今まで得られなかった知識を吸収したいと、積極的に質問するつもりだ。


「私ね、本当はずっと研究班への異動を申請してるの。でもなかなか上が認めてくれなくて」

「え、そうなの? ……思い出した! ヘスティア班のフローラって『美しくて強い』って有名な人でしょ?」


 フローラの告白に、アネモネは意外そうな顔で応えた。フローラにとっても、科学棟のアネモネにまで噂が届いているのは意外だったが、どうせ「変人」というおまけの評価つきだろうと思う。


「有名かどうかはわからないけど、私は本当にエンジェルが好きで、恋焦がれていると言ってもいいくらい、あの子たちに心酔してるの。だから日々エンジェルの近くで観察し、そのうえ解剖なんてできちゃう化学班が、心底羨ましい」

「『心酔』? あいつらに? 人間の敵じゃない」

「そうね、確かにそうとも言えるわ。でも、エンジェルという俗称は、あながち見当違いでもないと思うの。あの子たちが現れてから、人間たちはそれまでよりも『正しく』生きていると思わない? エンジェルに導かれるように」


 フローラの真剣な眼差しに、アネモネは思わず圧倒された。今まで、こんな意見は聞いたことがない。だが、それではB.A.T.の存在意義が揺らいでしまう。とにかく話題を変えようと、アネモネはフローラの知りたいことを問うた。


「ね、フローラ、あなたが一番知りたいことはなに?」

「一番って言われると迷うけど、そうね、エンジェルとの共生は可能か。それはぜひ知りたい」


 テーブルを挟んで、フローラは上体をずいっと乗り出してきた。アネモネの顔に鼻先が付きそうなほど近づき、キラキラと目を輝かせている。この人は本気だ、とアネモネは少し怖くなった。


「共生……。今の段階では絶対に不可能ね。私たちは殺し合う関係よ。そもそも、私たちはあいつらのことを知らなさすぎる」

「確かに。それで、今そちらにいる子たちは、どんな様子?」

「会議の時に動画を公開したように、人間の状態に戻りかけている個体が多い。でも、徐々に人間的な外見になってゆく個体と、またセラフィムに戻る個体、あとはどちらにもなれずに死ぬ個体の三パターンに分かれるわ。その違いは、おそらくヒトだった時の健康状態や、生活環境によるものだと仮定してる」


 アネモネの答えを聞いたフローラは、「死ぬ個体」が少なからずいることに悲しそうな顔を見せた。だが、それも彼らをより深く知り、真実を見極めるためには必要な犠牲かもしれない。


「かわいそうに。早く行方不明者全員の身元が判るといいわね」


 溜め息をつきながらつぶやくフローラを、アネモネは不思議な感情を抱きながら見つめた。この人といると、何が正しいことなのかわからなくなりそうで怖いと感じ、早く酔ってしまえるようにとグラスの中の液体を一気に飲み干した。




 人工の月明りは、上機嫌で舗道を歩くフローラの影をくっきりと示していた。その影を覆うように、背後から大きな影がかぶさってくる。そのおぼろげな輪郭は愛しいあの子のものだと直感したフローラは、振り向きながらすでに泣いていた。


「ウォーカー!?」


 ウォーカーは、飲食店が多く入居するテナントビルの屋上に立ち、月の光を背負ってフローラに頷いたように見えた。それをみとめたフローラは、両手を伸ばしてウォーカーに応えようとする。すると、ウォーカーは自らフローラのいる地上まで降りてきた。


「ウォーカー、脚が……」


 フローラは両手で口を覆って感動の呻きを洩らした。ウォーカーの右足の指、親指に当たる部分が人間のそれに変化している。先日、居住区B2駅で会ったときは、セラフィムの赤い後脚で立っていたウォーカーだが、今はどうだ、人間と同じ形の足指が生え、そこは人間の皮膚で覆われている。指の先には爪のようなものまであり、フローラは思わず屈んでそこに口づけしたくなった。


「ウォーカー、少し変わったのね。あなたの名前はウォーカーよ。私がつけたの。気に入ってくれる?」


 ウォーカーは、フローラの言葉を理解しようとするかのように首を傾げ、漆黒の眼で彼女を見つめる。翅も胸部も腹部も変化は見られないが、足の先から変わってきているのだ。アネモネが発表していたように、ウォーカーもまたヒトに戻ろうとしているのだろうか。フローラはよろよろと歩いてウォーカーに近づこうとするが、ウォーカーはそのまま飛び去ってしまった。


「待って!」


 切なげに呼ぶフローラの声が、夜空にこだました。その声が聞こえたのか、ウォーカーは一度振り向きかけ、また翅を大きく羽ばたかせた。足の指は、確かに人間と同じだった。置き去りにされたフローラは、胸の前で指を組み、それを静かに見送った。

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