第60話 ウォーカー
「あの子は、真っすぐな長い脚でホームに美しく立っていました。そして、列車内に擬態個体がいるのを知っていたように、そちらに歩きはじめました! あの細く赤い脚で! それはもう優雅で美しく、あの子は歩いたんです。それに、私が近寄って行ってもじっとしていてくれました。至近距離まで近づいた私と見つめ合うと、心が通じた気がしました。そしてあの子は、私にその白い翅を触らせてくれたのです。エンジェルが敵でなくなる日は近いかもしれません。私は、あの子にも名前を付けました。歩ける子ですから、『ウォーカー』。あの子の名前はウォーカーです!」
ゲンシュウだけではない。新しく配属されてフローラ劇場を初めて見た者は口を開けて驚き、それ以外の隊員は、一様にうんざりした顔を隠さなかった。
「うむ……そいつ……ウォーカーは捕獲できなかったのか?」
「えぇ、残念ながら。ずっとそばにいたかった。あぁ……私のウォーカー」
「それは困った事態だ。市民の安全が保障できない」
ゲンシュウはため息をつき、やっと涙が乾いたフローラも、切なそうに大きく息をついた。そしてゲンシュウからもう一言。
「本日から、隊員は交代で居住層のパトロールを強化しろ。ウォーカーとやらを捕獲するまでは昨日の出動と同じ危機感を持って臨め」
「了解!」
「了解!」
室内から隊員の返事が響き、会議中の緊張感から解放されたような息遣いがそこここから漏れる。じきにアフター会議も終了だと、隊員がほっとしかかった時、居住区の交番勤務の若い警官が手を挙げて最前列に立った。
「自分は居住区B3エリアの交番に勤務するケンイチであります。B.A.T.のみなさんに報告があります」
警察官であるケンイチは、まるで少年が父親の服を借りたように、新品らしい制服が収まりの悪い印象を受ける。だがその眼光は鋭く、B.A.T.隊員同様にエンジェルから人々を守ることを自分の使命と心得ているような頼もしさも感じられた。
「先ほど居住区B2駅付近の公園にて、惨殺された六名の遺体を発見しました。身元はまだ判明していません。見つかった遺体のうち幼い子どもが二名、大人の男女が二名ずつであることから、両親と子どもひとりずつの二家族か、夫婦一組と両親と二人の子どものそれぞれ家族かと思われます。どの遺体にもエンジェルによるものと目される鋭い切り傷があり、そばに銃が落ちていたことから、先にこの中の誰かがエンジェルに攻撃したものと推測されます。また、公園内にはエンジェルの蛹と考えられるものが多数あったため、その一部を持ち帰り、B.A.T.本部に提出しました。なお、すべての蛹は空になっており、本日居住区に現れたエンジェルたちは、その蛹から孵化したものではないかとの見方が有力です。現場に残った蛹は、冷却銃で凍らせたのちに粉砕して処理しました。以上、報告です」
ケンイチの言葉を聞いた隊員たちは、一様に顔色を変え、周囲とざわざわ会話を始めた。エンジェルの「蛹」? 蛹の存在など今までに聞いたことはない。だがエンジェルは本物のシロヒトリと同様の細胞から成る、完全変態の生物だ。それなら蛹から孵化するのも当然だろう。だが今までの研究で、「通常型」には性別はなかったはずだ。それなら今日発生したエンジェルは「小型」だということだろうか。だが大きさはスウォームのそれではなかった。スウォームなら臨海地区で捕獲されたものを解析した結果、雌雄の違いが見られたと報告されていた。そして蛹が存在するということは、奴らはどこかで産卵しているのか? それが地下居住区? そうだとすると、これから無限に増殖する危険性が生じるのではないか……。がやがやと次第に声を大きくしてゆく隊員たちに苛立ったように、ゲンシュウが壇上から一喝した。
「私語は慎め。犠牲者が出たという話をわかっているのか。さっきまでの報告では、怪我人も犠牲者も皆無であるはずだったが、二組の家族が日中の公園で惨殺された。それを出動した君たちがまったく気づかなかったとは、とんだ体たらくだ」
吐き捨てるようなゲンシュウの言葉に、整列していた隊員たちは冷水を浴びせられたように蒼褪めて鎮まった。だが、確かにゲンシュウの言う通りだ。居住区全体をくまなく捜索したはずなのに、B2駅にほど近い公園を見落としていたとは。出動人数が少なく、命令系統も曖昧だったとはいえ、B.A.T.としてあってはならないことだろう。
カリタの命は、そんな中で失われたのだと、ギデオンはじめギデオン班の仲間たちは唇をかみしめる。ゲンシュウは苦い顔のまま隊員に伝えた。
「その『蛹らしきもの』は、速やかに化学班に分析を依頼する。その結果如何によっては、今後のB.A.T.の方針に変更が生じるかもしれんが、皆、しっかりと受け止めてくれ」
現場での事実をどう報告したところで、誰にも何もわからないだろう。わかったのはこの日起きたことだけだ。状況は全員が把握することができたかもしれないが、何が起きているのか、真実はどこにあるのか、重要なことは何一つとして判明してはいない。居住層で市民を助け、守り、避難させてエンジェルと戦った隊員たちにとって、この日の出来事はあまりにも達成感がなく、やりきれない思いが残る。その徒労感に押しつぶされそうな隊員たちと、カリタを失って悲嘆に暮れるギデオン班の面々。一体、エンジェルの正確な生態はいつ解明されるのだろう。今回蛹が見つかったなら、産卵する親もいるはずだ。一週間から十日という短い寿命の中で、子孫を残すために交尾し、人間の居るエリアで産卵する個体。それは彼らにとってもあまりにハイリスクで危険な行動と言えるのではないか。
B.A.T.の戦闘員がうじゃうじゃいる居住区で、母エンジェルが愛しい卵を産み付けるのはどこなのだ、それがB2付近の公園だったというのか。いや、今一度、居住区全体の公園などをさらうべきだろう。ゲンシュウの命令は、どこか空回りしている。核心を突くことがない。彼自身もきっと、この日起きたことを受け止め切れていないのだ。近いうちに、B.A.T.組織全体での会議が必要だと、ギデオンは感じていた。
「現在、ゼロ統括総監はアーロン氏との会談のため、ゼアスに出向いている。総監が戻り次第、今後の装備等についても審議がなされるだろう」
ゲンシュウは眉間に皺を寄せ、ゼロとアーロンの話し合いの行方を思っているようだ。予算が足りなければ、今日起きたことの解明すら難しくなる。
だが忍び寄る未知のエンジェルへの危機感に、誰もが緊張を強いられている部屋で、フローラだけは、まだ「ウォーカー」のことを考えて涙ぐんでいた。そんなにあの二足歩行のエンジェルと離れ難かったのだろうか。彼女は一体、B.A.T.隊員として何をしたいのだろうと、フローラを初めて見たルキアは冷めた目で見つめていた。
「二足歩行か……よし、その個体を『ウォーカー』と呼称する。ウォーカーは今後、見つけ次第捕獲ないし処理するよう、全隊員に通達する。また、処理する際も死体は本部に持ち帰るように。切り刻んで徹底的に調べてやる」
この日の出来事への不満と、さらに面倒が増えたせいか、ゲンシュウは恐ろしい顔で笑みを浮かべて言った。真に残酷なのは、本当に悪魔なのは、ブリクサ隊長じゃなくて総指揮官だよなと、カルマはゲンシュウの表情を見て密かにほくそ笑んだ。その後は、総務からいくつか報告がなされた。
「総務のユウタです。居住区B2駅より勝手に列車を緊急発進させた男は、B.A.T.内の警察署に留置してあり、夜明けを待って聞き取りをする手配が済んでいます。男と一緒にいた子どもは保育部で預かりました。鎮静剤を投与しましたが興奮が激しく、まだ解放はできません。おそらく父親が釈放されるタイミングになるかと思われます。また、捕獲された大量の生体は、現在科学棟にて化学班の職員が大きさ、外見的特徴などから分別してそれぞれのケージに収納しています。外見的特徴と言っても、ほとんど変化はなく、通常のエンジェルと同様にかすかに色斑の位置が違っていたり、斑の輪郭がくっきりしているか、ぼんやりしているか程度の違いですが、それでも何かヒントがあるかもしれないと思い、この度の解析対象としています。さらに、人間に擬態していたと言われる個体は、一体ごとに別のケージで管理していますので、戦闘員の方々はいつでも見学にいらしてください。以上、何かご質問などがありましたらどうぞ」
「擬態していた個体が、また人間の姿になるかもしれない。二十四時間監視カメラで録画してくれないか」
ゲイザーが手を挙げながら言うと、ユウタは承知しているというように頷いた。
「任せてください。準備はすでにできています。そのような個体を発見次第、各隊長にお知らせします。他には何か? なければ私は持ち場に戻ります」
ユウタが壇上から降りかけた時、フローラが悲痛な声を出した。両手の指を胸の前で組み、行方不明の恋人を捜索してくれと言っている風情だ。
「ウォーカーの行方については、何か情報はありませんか?」
ユウタが困惑した顔でゲンシュウを見ると、彼は苦々しい顔で首を振った。「無視しろ」という意味だろう。ユウタは軽く頭を下げ、そそくさとそこから降りて行った。
隊員たちの顔に、疲労の色がにじみ出てきた。すでに深夜三時を回っている。明日以降のこともあると考えたゲンシュウがアフター会議終了の号令をかける。隊員たちは、今夜は自宅へは戻らず、それぞれが宿舎へと散っていった。
照明が落とされた薄暗い廊下は、いつもより長く感じられた。まだデビルスーツを着たままのギデオンは、コツ、コツと足音を響かせてその部屋に向かう。本部棟の地下一階、北側の端に設置されたその部屋は、地下層の真夏でも室温は十度以下に保たれている。柔らかなクリーム色に塗られたドアには、白い小花で編まれたリースが掛けてあった。ギデオンがこの部屋を訪れるのは初めてのことだ。
先ほどの電話の調子から思うに、ジョージという父親はカリタの遺体と対面することを拒むかもしれない。カリタは血の繋がりのない義娘だ。そしてカリタの母、つまり自分の妻もエンジェルとなり、人間としての「死」を迎えたのと同様の事態になってしまった。もともとカリタへの愛情や責任感などなかったのだろう。そんな男が遺体と対面して何を想うのか、何を問いかけるのか。「ありがとう」とも「おつかれさま」とも、ねぎらいややさしさの言葉など期待するのは愚かというものだ。ギデオンは自身の考えに深い溜め息をつき、ギデオン班の仲間たちだけでカリタを弔ってやりたいと、心から願った。
だが、あと一歩を踏み出せない。ドアの向こうにはカリタが眠っているというのに、ノブに手をかける勇気が出ないのだ。ギデオンは、ふたたび自身に失望した。カリタのそばに行って、話しかけたいことはたくさんある。今までカリタが数々のルール違反をしてきたことを、笑い飛ばしてやりたかった。いつもアンに対して馬鹿にするようなことを言っていたこと。あれは、アンへの甘えでもあったのだろう。ツヨシの言うことだけは素直に聞き、他の仲間たちには生意気な口をきいていた。ギデオンに対しても例外ではなかった。ルールや常識を教えても、「へいへい」と聞いているのかいないのか、わからない態度ではぐらかす。そのくせ、次に同様のケースが起きた時には、しっかりと適切に対処できていた。
「優秀だったんだな、カリタ……」
ギデオンはドアに頭を押し付けて呻くように言った。顔のすぐ横にリースがあり、白い花の可憐な香りが鼻をくすぐる。涙は出なかった。むしろ元気なカリタの姿が目に浮かんで、自然と微笑んでしまうくらいだ。だがその拳はきつく握られ、手のひらからは食い込んだ爪で血が滲み出ている。
コツ、コツと自分と同じような足音が廊下の先から聞こえてきた。ツヨシだろうか、あんなにカリタを可愛がっていたのだ。別れ難くて会いに来たのだろうと思っていると、それはブリクサだった。彼の姿をみとめても、ギデオンは声を出さない。何も言う言葉が見つからない。普段はデビルスーツ姿のブリクサばかり見ているせいか、B.A.T.の制服を着たブリクサは新鮮だった。いつもと変わらない、不愛想な顔のブリクサから無言で缶コーヒーを差し出され、ギデオンは戸惑う間もなくごく自然に手を伸ばして受け取った。
「……冷めないうちに飲め」
これがブリクサのやさしさなのだろう。ギデオンが自分の仲間を失ったのはこれが初めてだが、ブリクサは過去に班の全員を一度に失くしている。ギデオンの気持ちは、わかりすぎるほどわかっているはずだ。ギデオンは何も答えず、黙ってプルタブを引いた。プシッ、と音がして芳しい香りが立ち上る。やっと、ギデオンがほっとできた瞬間だった。
部屋の向かい側に設えられたベンチに腰をおろしたギデオンは、ブリクサから渡された缶を両手で包むように持った。コーヒーの香りを深く吸い込み、そしてゆっくりと息を吐いた。ブリクサは何も言わずにベンチの端に座る。第一軍A班とB班の隊長が無言で座る光景は、最強と言われることへの虚しさ、もどかしさを物語っているようだった。




