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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第三章 同時進行の異変
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第58話 その手を離さない

 父親を思い出そうとすると、口の中に錆の臭いと血の味がよみがえってくる。思い出したくもない男だが、自分の半分はあの男の細胞から始まったのだ。だがそう思うと、激しい嫌悪感に囚われた。父親だけでなく、自分を一切庇ってくれなかった母親に対しても同様の感情を持っているので、カリタは自分自身の存在をずっと憎んできた。


 娘と母親という、力も立場も弱い女二人に暴力を振るう、最低の男だった。カリタが八歳の時に両親は離婚し、そのあとは少しの間母親の実家にふたりで身を寄せた。だが居心地が良いはずもなく、その二年後、母親は職場で知り合った今の夫と再婚した。

 二人の間には子どもがふたり生まれ、やがてカリタはB.A.T.に入隊する。そのあとに生まれたのがクリスだ。カリタだけが前夫と自分の間に生まれた子どもなので、母はカリタの姿を見るのも嫌がった。


『宿舎があるなら、あんたはそっちに住めばいいじゃない』


 ここにお前の居場所はない、カリタには出て行けという意味だ。新しい家族と水入らずで幸せに暮らしたい。それが母の本音だった。母親から徹底的に排除されていたカリタは、家にいて楽しいことも安らぐこともなかったので、出て行くことは構わなかったが、そもそもカリタがB.A.T.に入隊することになったのは、母親の強い勧めがあったからだ。B.A.T.隊員の家族なら、エンジェルに襲われることのない、安全な地下層に住居を確保してもらえるというのが理由だった。カリタの母にとっては、自分と新しい夫、そしてその夫との三人の子どもだけが家族なのであって、五人で安心して幸せに地下層で暮らすために、カリタを生贄にしたのだ。しかも、カリタのおかげで安全な場所で暮らせているというのに、カリタに感謝することもなく、家に帰ってくるなと、常に邪魔者扱いしていた。カリタは、母親からの愛情を一度でも受けたことがあるかと、自分に問うてみた。血の繋がった父親がいたころですら、彼女からの愛情を受けた記憶は一切ない。



 カリタは弱々しく傷口を圧迫するが、指の隙間からも血が溢れ続け、デビルスーツの上を這ってゆく。カリタのスーツに描かれた赤いアラベスク模様と重なり、禍々しさを強調するよりも、危機を知らせているように見える。身体の下の床には、すでにドロッとした血だまりができていた。キヨハルの援護によって、三体のセラフィムから無事に逃れたアンが、ボードを急発進させてカリタの元へ駆けつけた。


「カリタ!」

「カリタ!」


 キヨハルもカリタを襲った個体を処理してすぐに駆けつけ、ギデオンに報告を試みる。アンはカリタの上体をそっと抱き起して膝に乗せると、傷口を押さえるカリタの手の上に自分のそれを重ねた。


「カリタ! カリタ! しっかりして! すぐに隊長が来ますからね。キヨハル、タオルはありませんか!?」


 カリタのデビルスーツの襟に着けられた通信機から、まだツヨシがカリタを呼んでいる。その声には次第に焦りと切迫感が増してきた。


『カリタ! カリタ、応答しろ!』

『こちらキヨハル。カリタがセラフィムの攻撃を受けて重傷です。救護班が到着していたら直ちに向かわせてください! 大量出血です!』


 カリタの襟にキヨハルが顔を寄せ、必死に呼びかけるツヨシに報告した。機器の向こうでツヨシが息を呑む気配があり、セラフィムへの強い怒りとカリタを心配する想いが伝わってきた。


『なんだと……、よし了解。隊長には俺が伝える』


 ツヨシとの通信が切れると、キヨハルは他の隊員にもカリタが負傷した旨を報告した。アンは泣きながらカリタを抱きしめ、動かしてはいけないと、そっと傷口を圧迫し続けている。


「カリタ……、カリタ、返事を……してください」

「……アン」


 閉じられていた蒼いまぶたが震え、カリタがうっすらと目を開いた。母親に擬態したものは、まだ近くでキヨハルの言葉を真似ている。


「お母さんを……、擬態個体を、捕獲して。弟を、クリスを守って……」

「擬態個体!?」


 キヨハルが、はっとカリタの母親に視線を移した。人間の形をしてはいるが、その動きは明らかにおかしい。さらに気味の悪いことに、自分がツヨシに言った言葉を繰り返している。


「シュッケツ……、ア、ア゙、ア゙……タイ……タ。ァハハ」

「なんなんだよ、こいつ……。これがカリタの母親に擬態したセラフィムなのか? よし、おみゃあさん、捕獲してやるで解剖してもらえ!」


 麻酔銃を構えたキヨハルが二発打ち込むと、擬態個体は左右に身体をひねってもがくような仕草をした後、肩の辺りから白い翅を表した。ディーノ、マティアス、オスカーも到着する。擬態セラフィムはゆらゆらと翅を動かし、やがてその場に崩れた。まだ意識があるのか、首が小刻みに動いている。


「ママ!」

「見ちゃだめだ」


 クリスが倒れた母親の方に走り寄ろうとするのを、ディーノが後ろからやさしく押さえ、手のひらで目を覆ってやった。クリスは身体を翻してディーノの胸に顔を押し付け、ぎゅっとしがみついて泣き出した。


「大丈夫だ。大丈夫だよ……」


 何が大丈夫だというのだ。クリスの母はセラフィムに身体を乗っ取られ、姉のカリタは瀕死の重傷を負っている。こんな時に他に言えることはないのかと、ディーノは自身に失望した。


 擬態個体は、倒れたまま変化を続けている。頭部からは触角が伸び、顔は白い毛で覆われ、赤い六本の脚も生えてきた。これで完全にセラフィムの形になったわけだ。クリスが見なくて良かったと、ディーノはため息をついた。

 やがてギデオンとツヨシも到着し、カリタの状態を把握して応急処置を施せないかと試みる。


「救護班は!? 同行していないんですか!」


 アンがギデオンを仰ぎ見て、涙に濡れた目を向けながら大声を出した。その声にカリタがぴくっと反応し、血まみれで震える手を伸ばす。そしてアンの手を握ったカリタは、何か言いたそうな顔で視線を彷徨わせた。


「カリタ? カリタ!」


 アンは涙でカリタの顔が良く見えない。右手でカリタの傷口を押さえているが、カリタと握り合っている左手は血でぬるぬるし、力の走らないカリタの手はすぐに滑り落ちてしまう。


「カリタ! じきに救護班が来る。もう少しだ、頑張れ!」


 オスカーはカリタの足元に膝をつき、必死に励ましている。涙が出そうになるのをこらえ、絶対に助かると信じることで、願いが通じると思いたかった。その横で、マティアスはあれほど恐れていたカリタのオーバーキルを肯定し、それを継承したいと伝える。


「カリタさん、またエンジェルの酷い殺し方教えてくださいよ!」


 ディーノはクリスにカリタの姿を見せないよう、五メートルほど離れた場所で背中を向けていた。いまどんなにカリタのそばにいたいか、こんな時になって初めて、同じ班のメンバーとしてカリタを認め、頼っていたのだと思い知る。


「カリタ、昨日誕生日のお祝いしてもらったばっかだろ! お前、あの時『ここがあたしの居場所』って言ってたじゃねえか。いつも態度悪いくせに、あの時は素直だったよな? だったら早く戻ってこやぁ、たわけ!」


 キヨハルは、喧嘩友だちともいえる、小競り合いを繰り返すカリタに救われていた。まるで鏡を見るように、戦い方のいいところ、悪いところが似ていたふたりは、そうすることで互いを高め合っていたのだ。


「カリタ、伝えるのが遅くなったけどな、……うちで一緒に暮らさないかって、言おうと思ってたんだ。かみさんもそうしたいって言ってる。子どもたちも楽しみにしてるんだ。この怪我が治ったら、そうしろ。必ず助かってくれ! カリタ!」


 蓮っ葉な態度ばかり取っていたカリタを諭し、家族として迎えようとまで考えていたツヨシは、目の前の光景を受け入れられない。B.A.T.は、確かにいつ誰が死んでも不思議ではない組織だ。全員その覚悟をもって臨んでいる。だが、娘のように感じ始めていたカリタを、今このタイミングで失うのはつらすぎると、悔しさと怒りでツヨシは胸が張り裂けそうだ。


「アン……、いる……?」

「カリタ! 当たり前でしょう? 私はいつもカリタのそばにいますよ。だって、カリタをひとりにしたら、すぐに暴走しますからね」


 カリタの呼びかけに、アンは必死に平静を装った。私たちが弱気になってはいけない。カリタを本部に連れて帰ったら、緊急手術をしてもらおう。ゲオルク医師はカリタに素っ気ないが、本当は好もしく思っているはずだ。自分の膝に抱いているカリタが、アンに「いる?」と訊ねた理由は無視した。もう目が見えていないのかもしれないとは、思いたくはなかった。


「なんですか? カリタ。またツヨシ副隊長の家にみんなでお邪魔したいですね。次はディーノのお誕生日でしょうか。……今度は私がケーキを焼きますから、カリタも手伝ってくださいね……」

「たんじょう……び? あぁ、昨日、は、あたしの一生で……、いちばん、しあわ、せ……だった、よ」

「一生なんて、カリタの人生はまだまだこれからですよ!」


 意識をつなぎ留めておかなければ、カリタがどこかへ行ってしまいそうで、アンは恐ろしかった。エンジェルとの戦闘など、カリタを失うことに比べれば怖くもなんともなかった。


「どうなってる!? 救護班はまだなのか? もういい、このまま医療棟へつないでくれ。直接医療スタッフと話す」


 ギデオンは隊員に背を向け、人口太陽の夕日を背中で受けながら、本部と通信を交わしている。救護班を要請するも、なかなか到着しないことに怒りと苛立ちを露わにしていた。


「こちらギデオンだ! ゲオルク医師はいるか? あぁ、そうだ。……ゲオルク先生、うちのカリタがやられた。出血がひどいんだ。おそらく頸部の太い血管が傷ついてる。止血は追いつかない。やられたのが首だから、縛って止血することもできないんだ。現場でできることは何かないか!? 大量の輸血バッグと、緊急手術の準備をしておいてくれ。すぐに戻る。頼む……カリタを助けてやってくれ……」


 喉から絞り出すような声は、ギデオンの胸中が解りすぎるほど隊員の胸にも迫ってきた。ゲオルクとの通信を切ったギデオンは、急いでカリタの元へと走り寄り、その状態を再度確認した。カリタの周囲にできた血だまりを見ると、おそらく二リットルは失血しているだろう。女性の場合は三分の二の血液を失っても、生存確率は男性よりはるかに高い。確実に止血し、B.A.T.層へと繋がるエレベーターホールまでカリタを運ぶことができれば、あとは直ちに手術を開始すればいいのだ。だが果たして、これほど出血しているカリタを動かせるのか、止血もままならない状態で、ボードに揺られるのは無理だ。地下鉄も復旧していない、車を停めた場所まで移動し、担架もない状況でどうやって安静に運べばいいのだ。ギデオンは途方に暮れて頭を抱えた。


「アン……、ごめん。あたしがアンを守るって言ったばかり……、なのに……。こっちに気を取られるなんて、バカだ……」


 はぁ……はぁ……と、かすかな息遣いの合間に、カリタは少しずつ言葉を絞り出す。その頬を思わずアンが手のひらで包むと、そこはカリタ自身の血で真っ赤に染まった。その赤を目にしたアンは、鮮血の圧倒的な生命のイメージに慄いた。これは、カリタの、いのちそのもの……。


「カリタ、もうこの周辺のセラフィムは一掃されたことを確認済みですよ。一緒に、帰りましょうね……」


 アンの言葉を聴いたカリタは、まぶたを閉じたまま弱々しく首を振った。アンが抑えた声で言う。


「カリタ、お願い……動かないで……」


 動けばせっかく止まりかけていた出血が、またぶり返してしまう。血の気を失くした真っ白い顔、蒼褪めたまぶたと唇。冷たい指先。さっきまでいつも通りの憎まれ口をきき、明るい笑顔を見せていたカリタが、その命の灯が、今まさに消えかかっている。それなのに、自分にできることは何もないのか? と、ギデオン班の誰もが、仲間を失うかもしれない恐怖と、自己の無力感に打ちひしがれていた。


「ギデオン隊長、全員でここにいるより、何かできることはないんでしょうか?」


 マティアスが涙を拭いながら立ち上がり、B.A.T.の隊員としてカリタのために何かしたいと、ギデオンに指示を仰ぐ。ギデオンはしっかりとカリタの姿をとらえ、数秒間考えたのち、静かに首を振った。


「みんなで、カリタのそばにいよう」


 隊長が発したその言葉が何を意味するのか、それは、カリタの命がこの場で尽きるということだ。それを全員で見守ろう、カリタの最期を見届けよう、と隊長が言っている。


「ギデオン隊長! 諦めないでください! ゲオルク先生も手術の準備をして待っていてくださるのですよね? それなら、私たちが信じなければ誰がカリタを……!」


 アンはもう、自分が泣いていることをカリタに知られてしまっても仕方ないと思った。涙がとめどなく溢れ、アンの頬を伝って顎から滴り、カリタの額やまぶたを濡らしてゆく。カリタの呼吸が、また一段と弱くなった。蒼褪めた顔は冷たく、指先は氷のようだ。アンは夢中でその指先を包み、温めようとした。


「アン、もう……いいよ」

「カリタ……、そんなこと言わないでください」

「ねぇ、アン……あたし、ちゃんと守る側に、なれたのかな……?、」

「えぇ、もちろんです」


 アンがそう答えると、カリタは満足そうに微笑んだ。アンの涙がカリタの前髪にしみ込んでゆく。その髪を撫でるアンの指は、ためらいながらカリタのまぶたや唇をなぞった。


「……そっか。だったら……あたしの人生……捨てたもんじゃ、なかっ……た、よ」


 ギデオン班の全員が、カリタを囲んで見守っている。まるで、昨日の誕生日パーティーのようだ。昨日もカリタはみんなの中心にいて、みんながカリタに愛情と信頼を示していた。ひとりひとりが、かけがえのない仲間なのだと、再確認したばかりではないか。


「カリタ!」

「カリタさん!」


 みんながカリタの周りで泣いていた。ディーノもクリスを抱いたまま膝を着き、カリタのそばでその姿を見つめた。だがギデオンだけは、厳しい表情で黙っている。その時、アンの膝の上でカリタの身体がぐいっと伸びた。つま先まで緊張させ、首は傷口を真っ赤に燃やしてのけぞっている。


「カリタ! だめ! いやーっ!」


 アンの声が建物の間に吸い込まれ、一切の力が抜けたカリタの腕が、アンの膝の上から滑り落ちた。それはかすかな音を立てて、カリタ自身の血だまりに沈んだ。


「カリタ、あぁ、カリタ、カリタ……」


 アンがカリタの身体をきつく抱きしめる。出血はまだ止まっていない。肩から温かい血を浴びながら、アンはこの悲しみの行方を想っていた。


「……カリタを連れて帰ろう。そのあとは任務を続行する」

「……了解」

「了解……」


 ツヨシは泣き崩れながら床を叩き、マティアスとオスカーは顔を覆って静かに泣いている。キヨハルは子どものようにしゃくりあげ、ディーノはクリスの小さな肩に顔をうずめて泣いた。アンは呆然としたまま動けず、まるで現実感のない様子でカリタの亡骸から手を離すことができない。ギデオンが銀色のボディバッグを取り出し、みんなで入れてやろうと言った。


 バッグに入ったカリタは、いつもより小さく見えた。だが、いつもよりやわらかで、心なしか微笑んでいるようにも見える、穏やかな顔をしていた。アンはその額に唇を押し付ける。


「カリタ、おやすみなさい」


 それは、母親が幼い娘を寝かしつけるときのような、やさしい声だった。だがアンは、嗚咽しながらもカリタにまだまだ言いたいことがたくさんあった。伝えたかったこと、伝えなければいけなかったこと、それらが昨日までのカリタの姿とともに、アンの目の前に浮かんでくる。涙で霞んで見えない現実よりも、記憶の中のカリタの姿の方がより鮮明で、アンにとっては本物のような気がしていた。



「カリ、タ……、タ、タ、」


 麻酔銃によって眠っていたはずのカリタの母だったものは、完全に擬態を解いた状態で、拘束されたまま人の声真似を続けている。それは真似だったのか、それともカリタの身に起きたことを感じたからなのか、誰にもわからなかった。

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