第55話 君がいる車両
長く伸びた手脚と頭は、とうとう列車の床に触れるまでになった。だが彼女の胸と腹は、まだ天井にぴたりと着いている。細くなった手脚は緑色から徐々に赤へと変化し、頭部からは白くもっさりとした毛が生えてきた。老人に擬態していたエンジェルの変化は素早かったが、この個体はとても遅い。マックスとシドニーが出来損ないかと思ったほどだ。だが、目を離すわけにはいかない。いつ襲ってくるかわからないのだ。赤く変色した手脚が徐々に短くなり、見た目でも硬くなっているのがわかる。伸びきった首は白い毛を少しずつ増やしながら床を這い、やがて黒く大きな眼が出現すると、胴体に吸い込まれるようにして短くなっていった。
エンジェルの変化に、シールドの中から見ている乗客たちの悲鳴は止まらない。老人だったエンジェルは後方で翅を振るわせ、ドア付近の手すりにとまっている。いま目の前で変態の過程を披露している彼女は、やがて白いワンピースを翅に変え、それを細かく震わせた。シールドの上に鱗粉が落ち、さらさらと音を立てる。
「きゃーっ! 気持ち悪い!」
「イヤーッ、やめてやめて!」
「さっさとそいつを殺してくれ!」
車内はふたたび悲鳴の嵐となり、シールドは人々の呼気で内側が曇りだした。あまりにも人間が叫ぶからなのか、天井に張り付いて彼らに視線を送っていたエンジェルは、そのままの姿勢でゆっくりと動いて六号車の天井から五号車へと移動していった。連結部の段差も難なく乗り越えている。今度は五号車の乗客が大きな悲鳴をあげた。
ちょうど、ギーが四号車から五号車に入ったところだった。シールドに避難した乗客たちが、天井を指してギーに知らせる。車両後部の天井を見ると、羽化したてのように翅が濡れたエンジェルがいた。
これも人間に擬態していたのか? ギーの頭の中をいくつもの疑問が占める。五号車にシールドを張ったとき、確かに全員を避難させたはずだ。一体どこに隠れていたのだと考えながら、ギーは銃を構えた。
「動くな!」
エンジェルは言葉を理解できるのか、カルマに訊いたことはなかったが、シールドで囲った人々がすぐ近くにいる状態での射撃は、なかなか難易度が高い。ホロサイトを覗きながら躊躇していると、エンジェルのいる方向から何かが聞こえた。
「ウゴ……クナ、ウゴウゴ、ウゴ、クゥ……」
ギーの言葉を真似て声に出し、さらに繰り返す個体は、天井に止まったまま動かない。これは一体……。いや、それよりマックスとシドニーはどうしてる? あいつらは六号車にいるはずだが、まさか殺られ……?
「マックス! シドニー! どこだ!」
「六両目です! こっちにも人間に擬態してた奴が一体います!」
その間も、天井の一体はずっとギーの言葉を模倣している。その鳴き声は心なしか嬉しそうに聴こえる。
「マッ、マッ……シド、ニ……」
「クソッ、なんなんだよ!」
こんな報告はなかった。言葉を喋るエンジェルだと? また新種が出たっていうのか?
ギーは混乱しながらも、マックスたちとうまく連携しようと試みる。
「こっちにも一体いる。できれば捕獲して持ち帰りたい」
「俺らもそう思います! こいつらは化学班と解析班に渡したいです。今そっちにいるのは六号車から移動した個体です」
「だよな、じゃあ協力してくれ。こっちに来られるか?」
「すぐ行きます!」
車両間で怒鳴り合うように会話したあと、マックスとシドニーは慎重に五号車に移動した。途中、シールド内の乗客たちから不安や避難の言葉を浴びせられる。
「人間に擬態したエンジェルってどういうことなんだ!」
「来るなっ、俺に近寄るな!」
「お前だって変身するかもしれないだろ!」
シールドに避難した乗客が、口々に言い合っている。目の前で人間からエンジェルに変化するさまを見てしまったのだから、乗客同士、疑心暗鬼になるのも当然だろう。
だがシールドの中の乗客は、目の前を通る若きB.A.T.隊員にすべてを任せるしかないのだ。助かりたい想いが強いほど、それが怒りになって爆発するのも仕方のない感情だ。マックスとシドニーは、大勢の人間の命を預かっているという事実に、頬をピリピリと緊張させて前の車両へと移動した。無事にギーのところまでたどり着いたふたりは、一旦大きく息をつく。そして六両目で見たことを話した。とにかくギーの命令に従って一体ずつ片づけるしかない。
「人間の姿に擬態して、言葉も真似してる。観察するようにシールド内を見てるのは、学習してるんじゃないか」
「俺にもそう見えます。人間を観察しているとしか思えません」
三人の意見はまとまり、なんとか二体を捕獲しようとするが、乗客は静かにならず、ずっと誰かしらが喚いている。だが、彼らの恐怖はもっともだ。来るはずのない居住層にエンジェルが現れたことは、B.A.T.でも想定外なのだから。過去に凄惨な現場を目撃したことのある者なら、エンジェルが殺戮とイコールするのは当然だった。
三人は銃を構えながらも、どこに当てれば良いか計れずにいた。生け捕りにするには、そして化学班が調査するのに支障がない場所はどこなのか……。そうしているうちに、女性の姿から変身したエンジェルは、ふわりと天井から離れ、静かにホバリングしながらシールドに近づいて行った。三人に緊張が走る。個体の動き次第では、ここで射殺しなければならない。だがその個体はシールドに顔を近づけ、中の乗客の表情を見て回っているような行動を見せた。何人もの人と目を合わせるようにし、首を傾げる動きまでしている。
「ウゴ、ク、ナ?」
「ぎゃーっ、やだやだ、来ないで!」
「ヤダ……?」
「来るなっ! おいB.A.T.、なんとかしろよ!」
一人の男が、シールド越しにエンジェルの胴部を蹴った。恐怖のあまりつい攻撃してしまったのだろう。だが、三両目にいた個体との発端がニッキーの母親だったように、蹴られたエンジェルは触角を震わせて怒っているようだ。
いきなり翅を大きく広げて振り回すようにし、車両内を暴れだした。左右の壁に何度も体当たりするので、車体が傾き、走行中の列車は音を立てて軋む。いくら人間を攻撃しないといっても、これではあまりに危険だ。
「どうしますか、これ。攻撃されなくても、このままじゃ列車が脱線するかもしれない!」
シドニーが叫んだ時、六両目からもたくさんの悲鳴が上がった。三人が一斉にそちらを見る。
「きゃーっ! 来ないでよ! やめて!」
「お母さん! お母さん!」
まさかヒトを襲い始めたのかと、シドニーが慌てて戻り、マックスもそれを追った。すると老人だった個体は、手すりから離れて車内をゆったりと飛び回り、まるで死んだように座席の上でじっとしてみたり、車内広告の文字を読んだりする素振りを見せていた。
「なんなんだよ、こいつ……」
「攻撃はしてこないんだよな」
マックスとシドニーは捕獲器具を持ってはいない。こいつを捕獲するならギーに頼むしかないのだが、そこへルキアから通信があった。
『出たの?』
『はい、またヒトに擬態していました。ですが、さっきと同じようにまったく攻撃してきません』
『乗客は』
『全員がシールドに入っています。問題ありません』
『すぐ行く』
『ルキアさんは一、二両目に擬態個体が紛れていないか確認してください』
『了解』
マックスたちは、攻撃してこないエンジェルを前に、どうするのがベストか判断できずにいた。五両目の個体はずっと暴れている。あれがいつ攻撃に転じないとも限らない。ゲイザーの指示を仰ごうにも、ここは地下層のさらに深いところに作られた「地下鉄」なので、さっきからノイズに邪魔をされている。シドニーと顔を見合わせてマックスが焦れていると、ひと際大きく車体が揺れた。あの個体がこのまま暴れ続けたら、脱線か車体が損傷するか、どちらにしても乗客の無事は保証できない。運転台にいる男に連絡がつけば、自動運転モードを解除して、最寄り駅に停車しろと言えるのだが、それもできないのだ。じりじりと焦りながら、ふたりは老人だった個体を見つめた。
「居住区B2駅」ホームのフローラは、おずおずと指を異形に向けて伸ばしてゆく。周囲で見守る隊員たちは、こんなフローラは見たことがないと驚いていた。普段はB.A.T.隊員らしからぬエンジェル贔屓な発言で、会議のムードもめちゃくちゃにする迷惑な女だが、目の前のフローラは少女のように可憐で、さらに妖艶な色気をも漂わせる美女としか映らない。
そんなフローラの指先が、ついに異形の翅に触れる。異形はフローラの指先に視線を遣ってから、翅をかすかに広げた。その翅で抱きしめられるのを待っているかのように、フローラは目を閉じる。
「あぁ……!」
官能的な溜め息を洩らして歓喜に震えるフローラ。見守る隊員は、何が起こるのか決して気を緩めない。その背後でギデオンが命令を下す。
「捕獲一択だ」
フローラの恋人であるような異形と、周囲を飛ぶセラフィムと思われる個体を捕獲しようとするが、隊員たちの動きでそれを察したのか、エンジェルたちは隊員居住区の方向と、市街地とに分かれて飛び去ってしまった。もちろん異形のエンジェルも仲間たちと同様だ。
「あぁっ、待って! 行かないで!」
やっと触れることができたのに、とフローラは泣き叫んだ。異形を追いかけて覚束ない足取りで走り出そうとするところを、ゲイザーが羽交い絞めにして止めた。
「いやっ、ゲイザー、放して! あの子が行ってしまう……」
長い髪を振り乱し、激しく首を振って抵抗するが、恋する乙女な今のフローラは、いつも通りの力を出せない。ゲイザーを振り切ることはできず、弱々しくホームに崩れ落ちた。
エンジェルたちが去ったのを見たカルマが、ギデオンの後ろから近づいてその肩に指先で触れた。ギデオンが振り向いた先には、にこにこ顔のカルマがいる。
「なんだ」
「ギーくんが乗ってる列車、追っていいですか? ギデオン隊長」
「……撃てるのか」
「もちろん」
「じゃあ行け」
「ありがとうございまーす!」
颯爽とボードを取り出し、そこにいくつもの銃をセッティングしたカルマの元へ、イリスが走り寄ってきた。アナトもそのうしろからついてくる。
「私も援護につかせてください!」
「お前は撃てるのか」
ギデオンに訊かれたイリスは、自信なさそうに一旦俯くが、すぐに顔を上げてきっぱりと言う。
「カルマさんほどではありませんが、ヒットさせられると思います」
「『思う』ではだめだ。お前は他の隊員と市街地へ行け」
「はい」
残念な表情を隠すことなく、イリスとアナトは市街地へと飛んでゆく。ギデオン班とゲイザー班の隊員も、続いて飛び立っていった。ギデオン班は隊員居住区方面に。ゲイザー班は商業施設に向かう。
「よーし、じゃあ列車を追うぞ」
カルマはボードに乗り、そこで伸びをしながら大きく息を吸った。
地下鉄は狭いトンネルの中をずっと走っているようなものだ。地上戦の時のように大きく飛べるわけではない。ボードも完全体まで広げることはできず、狭い足場の上に立たなければならない。加えてトンネル内は薄暗く、少し飛ぶ方向を間違えれば壁に激突する危険もある。そんな状況でカルマが出動を申し出たのは、やはりギーを想ってのことだろう。同期のギーとは気心が知れた仲で、現在のブリクサ班のメンバーよりも、カルマにとっては話しやすい相手だ。そんなギーがやっと二軍デビューした日に、まさかこんなイレギュラーなことが起こるとは思っていなかった。たまたま本部に残っていた射撃Sランクのギーは、誰も体験したことのない「居住層での戦闘」が初出動となったのだ。これはかなりのプレッシャーがかかっているに違いない。乗客の安全を最優先にしながらの戦闘は、間違いなく精神が削られる。だから早く行ってやりたいと、カルマは少し焦っていた。
「さ~て、新種登場か。面白くなってきたじゃない!」
狭く安定の悪いボードは、いつもの出動時とはまったく勝手が違っていた。地下坑道内ではやはり動きが制限され、当然スピードも地上戦のようには出せない。だが、カルマはそんな悪道を難なく進み、じきにギーたちが乗る列車の最後部が見えるまでに接近した。ここで一旦速度を落としてマックスに通信を試みるが、誰も応答しない。最新の状況が知りたかったが、戦闘中なら仕方ないと、ふたたびスピードをあげてゆく。すると六両目にエンジェルを発見した。マックスとシドニーが対峙しているが、彼らは捕獲用の銃など持っていないだろう。
「なんだ、あいつ」
その個体は車内の吊り広告に顔を近づけ、じっと内容を追っている。その様子はまるで人間のようだ。ホームにいたヤツも脚で立ってて気色悪かったし、人間との混血なんじゃないよねぇ? と、カルマは新種登場を喜んでいるのか面倒がっているのか、どちらか分かりにくい。だが、新種ならばギデオンの命令通り捕獲一択だ。生きたまま、できるだけ損傷の少ない状態で持ち帰らなければならない。
そこで緩いカーブに差し掛かった。列車はスピードを落とし、連結部が動く。するとカルマからも前の車両の様子が見えた。すべての車両で、乗客はシールドの中に納まっているようだ。それなのに擬態していたエンジェルがいるとうことは、まだ車内は混乱しているはずだ。坑道の壁面と車両の間をボードで縫うのは、普通なら容易いことではない。だがカルマはその狭い隙間をすいすいと滑るように飛んでゆく。
五両目を窓から覗こうと近づくと、いきなり車体がカルマを押しつぶすように迫ってきた。間一髪で屋根の上に逃れるが、その衝撃なのか車内の照明がバチンと音を立てて消えた。全車両から一斉に悲鳴と怒号が上がる。猛スピードで走る制御不能な地下鉄、中には人間に擬態したエンジェル。その上いきなり真っ暗になれば、乗客の恐怖は倍増するだろう。
「地下鉄ってこんなに揺れるんだっけ」
屋根の上で暗視ゴーグルに切り替え、カルマはもう一度ボードを発進させた。激しい揺れの正体は、エンジェルが左右の壁に体当たりしながら飛んでいるからだとわかった。
「おー、ギーくんみっけ」
五両目の中で、ギーが必死で乗客を守ろうとしているのが見えた。その姿を見たカルマは、なぜかたまらなく嬉しくなり、暗い坑道内を飛びながら暗視ゴーグルの下でにっこりしている。
「いきなり外から発砲したら、ギーくんびっくりするかな」
ふふ、と笑い、カルマはデビルスーツに装着された銃を引き抜いて構えた。バスッ、と重い音が響き、飛び回っていたエンジェルの翅の付け根に当たった。エンジェルがカルマを振り向く。
「ギーくん!」
窓に穴が開いたため、そこから空気が排出される音が轟々とうるさい。ギーにカルマの声は届いただろうか。
エンジェルはカルマに向けて触角を大きく震わせ、怒りを表しているようだ。撃たれた翅は痛みを感じるのか、それとも攻撃された事実に反応するだけなのか。左右の翅を少しだけ開き、そのあわいから気味の悪い胴体と赤い六脚を見せびらかすようにカルマの方へと向けている。
エンジェルってもともとは夜に活動する蛾だっけ? だったらバッチリ見えてるんだよね? ま、その方がやりやすいや。カルマはエンジェルの注意を自分に向けようと、窓の外から手を振って見せる。
「そうだ、もっとこっちに来い。動くなよ」
ホロサイトを通して見たエンジェルは、なぜか時折、ほんの一瞬だけヒトの顔をしているように見えた。漆黒の大きな眼が、ヒトの顔の位置に移動し、鼻のように中央が隆起する。
「え……、どゆこと? こいつ女に擬態してた? なんか口の辺りが赤く見えるじゃん。めっちゃ気味悪いんだけど」
人間に擬態したエンジェルを初めて見たカルマは動揺したが、迷わずに二発目を撃った。今度はもう一方の翅の付け根に当たり、その個体は翅を上げることさえできなくなった。
「ギーくん、やっちゃって!」
カルマの声が聴こえたかはわからないが、ギーはエンジェルの顔の下あたりに麻酔弾を三発撃ち込んだ。崩れ落ちた個体は、飛んでいた時よりもずいぶん小さく見える。窓のヒビを蹴ってガラスを割ったカルマは、そこから車内に飛び込んだ。
「いえすっ! ギーくん!」
「カルマ……、来てくれたのか」
「あったりまえじゃん!」
ギーの肩を抱いて上機嫌なカルマだが、他の車両にもまだ奴らは残っているのだ。
「初日に頑張ったねぇ! けっこう大変だったでしょ? まぁ僕が来たからにはもう心配いらないよ。ルーキーたちの方もチャチャッとやっちゃお」
カルマが合流したことで、ギーの表情も急に明るくなった。とりあえず一体、確実に捕獲できたのだ。六号車のマックスとシドニーを脅かしてやろうと、カルマとギーは姿勢を低くして連結部を渡った。




