第54話 誰も知らない
エイジはもちろんだが、すぐ下のジュリアンとエディの二人も、コンピュータが内蔵された通信機器を所有している。それより年少のルーシーとヨシトは、まだ自分用のものを与えられてはいなかった。血の繋がりのない弟妹達と暮らす家の中で、その三台の機器から突然緊急アラートが大音量で鳴り響いた。何度聞いても不愉快で驚かされるその音に、小さなヨシトは口の中の食べ物を喉に詰まらせて苦しそうだ。ルーシーが背中をそっと叩いてやっているが、ヨシトは涙を流している。ヨシトの向かいに座っているエイジが介抱しようと立ち上がった時、ようやくその口からカレーの肉片がぽろっと飛び出した。安心したヨシトは泣きながら笑っている。ほっとしたエイジが通信機を取りに行って画面を見ると、そこには、信じられない文字が表示されていた。
『居住層にエンジェルが出現しました。外出中の人は、ただちに近くの建物内に避難してください。自宅にいる人は、絶対に外に出ないでください』
「えぇっ、どういうことだよ?」
訳が分からずに思わず声に出すと、ジュリアンも自分の機器に届いたメッセージを読んだ。
「お兄ちゃん……、これって」
「あぁ、いま本部に確認してみる。大丈夫だ、心配すんな」
ジュリアンはルーシーとヨシトを両腕に抱き寄せ、不安そうな顔をしている。その横でエディは、きょうだいに何かあったら自分が守ると、眼に強い光を映してエイジを見つめた。
『こちら10A-08、エイジです。地下にエンジェルが出たってどういうことですか!』
『本部です。30C-08、シドニー隊員から報告があり、居住層市街地および「居住区B2駅」にエンジェルが出現したとのことで、20Aギデオン班と30Cゲイザー班が出動しました。未だ本部でも全容を把握していません。現場からの報告待ちです』
「居住区B2駅」は、自宅の最寄り駅で、先ほどの停車したまま動かなかった列車から降りたばかりだ。マックスとシドニーのふたりはどうなったのだろう。シドから通報があったというなら、武器もない状態でエンジェルに襲われてるんじゃないのか? エイジは身体が急激に熱くなるのを自覚しながら、二人を助けに行かなければ、と本部職員に告げる。
『自分も出動します!』
『10A-08、エイジ隊員。ブリクサ隊長の指示に従ってください』
エイジと繋がっているのは隊員専用の回線だが、一般居住者からの通報や問い合わせが殺到しているのか、本部のコールは鳴りっぱなしだ。それは事の重大さを物語っているようで、エイジにとっても恐怖となった。
『もしもし……?』
呼びかけてもすでに通話は切れていた。エイジは「クソッ」と言いながら通信機を置き、ブリクサに電話をかける。
『ブリクサ隊長!』
ワンコールですぐに出たブリクサは、うんざりしたような声で応えた。
『あぁ、お前が何を言いたいのかわかってる』
『地下に奴らが出現って、どういうことなんですか? いま本部に連絡しましたが、まだわからないって言うし。俺の友だちが装備もなしで現場にいるんです。出動許可をください!』
『いや、だめだ。いまどこだ? 自宅だろ? お前だって装備も武器もねえ。出動したって役に立たねえよ』
『でも……!』
なおも食い下がるエイジに、ブリクサは大きな溜め息を聞かせた。装備も武器も持たない者が現場にいて何ができるのか、感情的になっていてはエンジェルとの戦闘などできるはずもない。
『そんなこともわからねえのか、自宅にいるなら家族を安心させてやれ』
『家族は家の中から出なければ安全です! 現場に行かせてください!』
『……いい加減にしろ。これは命令だ』
『隊長!』
エイジは通信機を力いっぱい握ってじりじりと焦った。そんな兄の背中を、弟妹達が心配そうに後ろから見ている。
『ギデオン班とゲイザー班が急行した。カルマと他の射撃特化隊員も同行してるらしい。地下じゃ炎が使えねえからな。想定外のことが起きた時こそ冷静になれ』
『カルマさんはどうして行かれたんですか? だったら俺だって!』
『命令だと言ったはずだ。カルマは偶然本部に残ってた。それだけのことだ、俺もここからじゃ向かえねえ。お前と同じだ』
「同じだ」というブリクサの言葉に、エイジははっとする。その声音には悔しさがにじみ出ていたのだ。ブリクサに八つ当たりしたようなものだと自分を恥じ、エイジは隊長に謝ろうとしたが、電話はすでに切れていた。
振り返ると、幼いルーシーとヨシトが泣きそうな顔で立っている。その後ろにいるジュリアンとエディは、弟妹を安心させようと肩を抱いていた。
「ごめん! つい感情的になった。奴らがこの層に出たらしいんだ。お兄ちゃんの友だちが現場にいるんで、心配になっちゃってさ。でも大丈夫だよ。ここには絶対に来ないし、俺も家にずっといるから」
そう言ってテレビをつけると、ドローンがとらえた映像が流れていた。間違いなく「居住区B2駅」の外観が見える。そして映像がアーケードに切り替わると、そこには飛び回る何体ものエンジェルが映っていた。
「なんだよこれ、どうなってんだ」
ニュース映像を見ながら小声でつぶやくエイジの頭には、マックスとシドニーの顔が浮かんでいた。
フローラは異形との距離を縮めながら、さらに表情を変えていった。もうすでに、それはB.A.T.隊員のものではない。まるで恋人との逢瀬に夢中な乙女のように甘く、いまにも蕩けてしまいそうだ。
「フローラ、戻ってこい!」
「危険だ! 攻撃されたらどうする!」
周囲の隊員が口々に「あぶない」と叫んでいるが、やはり異形は動かず、攻撃するそぶりも見せない。この個体は外見だけではなく、性質も今までのエンジェルとは違うのかと、誰もが疑問に思う。フローラはさらに近づき、もう指が触れるほどにまで接近していた。
「ねぇ、あなたは私が触れることを許してくれるの? 今までそんな子はいなかったわ。でもきっと、私の想いはいつか届くと信じてた。信じていて、良かった……」
もうフローラには、誰の声も届いていないのだろう。半ば目を閉じ、熱に浮かされたような口調で異形に愛を囁く彼女は、完全に自分の立場から逸脱している。
同じ「居住区B2駅」のホームに張ったシールドには、三百人ほどの人間が避難していた。周辺を飛んでいたエンジェルは、その外側にとまって中の人間を見ている。エンジェルは次々に飛来し、シールドを囲んで漆黒の眼で人々をじっと見つめた。見られていることに気づいた人間が悲鳴を上げるが、エンジェルはまったく動かずにひたすら見ているのだ。まるで人間を観察しているような行動に、異形に銃を向けていた隊員たちは一旦それを下ろした。
なぜ動かない? なぜ攻撃してこない? いくつもの疑問がそれぞれの頭の中に浮かぶが、誰も答えを出せずにいる。
「ギーくん、だいじょぶかなぁ」
そしてカルマは、走り去った列車の中のギーを心配していた。ギーもこの日、晴れて二軍に配属されたばかりだ。射撃の腕はSランクだが、まだ他の隊員との連携や、実戦経験がない。いきなり居住層にエンジェルが現れたという、ベテラン隊員でさえ遭遇したことのない事態なのだ。エンジェルに襲われ、命を落とすことのないようにと切実に願う。
本部職員は、あちこちから殺到する問い合わせに応えるだけで手いっぱいだった。居住層の住民からだけでなく、非番の隊員からの通信も多く、出現情報も多々寄せられる。どの情報がどこの誰からもたらされたものか、整理が追いつかない状態だ。そうこうするうちに、通信室の隣にある指令室にゲンシュウがやってきた。
「これは何ごとだ」
「ゲンシュウ総指揮官、地下の居住区と鉄道内に、通常とは異なる外見のエンジェルが出現したとの情報があり、隊員が急行したところ、このような画像が送られてきました。今までのエンジェルとは全く違う外観です。現在、ギデオン班とゲイザー班、一部の射撃特化隊員が臨場しています」
「なにっ? 居住層にやつらが? 現場との通信は可能か?」
「はい、こちらがギデオン隊員と繋がっています」
職員がマイクを渡そうとすると、ゲンシュウは尊大な仕草で自分の口元に寄せた。ひと呼吸してから大きな声で現場を呼ぶ。
『ギデオン、ゲンシュウだ。何が起こった? 状況を説明しろ』
『こちらギデオン。現在「居住区B2駅」です。画像を見てください。異形ともいえるエンジェルが現れており、今のところこの個体は攻撃してきません。あと、ホームに設置したシールドにも群がっていますが、あちらもただ人間を見ているだけです』
『なぜ居住層に現れたのだ? どこから入り込んだかわからないのか?』
『まずは住民の安全確保を優先しています。全容はまったく掴めていません。入り込んだ経路や原因は、その後に調査します』
そこで通信は切れた。誰も経験したことのない状況で、現場はさぞ慌てているだろうと、ゲンシュウは想像した。だが、送信された画像の異形のエンジェルとは……。
「妙だな……、想定外の突然変異か」
ぽつりと独り言を漏らすが、本部職員の耳にゲンシュウの言葉は届かなかった。なおも大量に入る問い合わせへの対応に追われる職員に、ゲンシュウが問う。
「ゼロ総監に報告は?」
「はい、統括総監には報告済みです」
「そうか、ならいい……」
職員の答えを聞いたゲンシュウは、あごをさすりながら窓を向いてほくそ笑んだ。B.A.T.統括総監であるゼロは、資金調達のためにゼアスへと出向いているはずだった。
一体どれほどの人間がB.A.T.を責めているのだろう。マックスとシドニーがいるのは列車の三両目だ。人々を押しのけて運転席に向かった男は、四両目から子どもを抱いてやってきた。六両編成の列車は、スピードを緩めることなく次の停車駅へと向かっている。
シールド内に避難したとはいえ、不安や恐怖が人々から消え去るわけではない。確実に安全だとわかるまでは、誰もが生存本能の奴隷にでもなったように取り乱すのは仕方のないことだ。
シールド内から聞こえてくる叫び声や悲鳴、怒号、B.A.T.に責任を求める声、声、声。聴き取れないほどたくさんの人の声が狭い車内に渦巻いている。
「早く解放してくれ!」
「こんなところにいたくない! 家に帰らせて!」
「B.A.T.はなにやってんだ!」
人間に擬態していたエンジェルは、ルキアが仕留めた。一発目はニッキーの母親が撃ったので、きっかけは彼女だったが、マックスもシドニーも、あの個体が今後どうなるのか、生かしたまま捕獲して知りたかったので、とても残念に感じている。その個体が死んで床に落ちていることで、この場は一旦落ち着いていると言えるだろう。三両目と四両目の連結部にいたギーも合流し、ギデオンに報告しようとした時、後方の車両から、それまでの呪詛の言葉とは別の、複数人の絶叫が聞こえてきた。
「なんだ!?」
ギーがそちらを振り返り、マックスとシドニーも身構える。叫び声と悲鳴はまだ続いていて、その人数は徐々に増えているようだ。まさか後ろにエンジェルが出たのかと、ふたりは急ぐ。
「後ろの車両を見てきます」
まさか後ろにもエンジェルが出たのかと、マックスとシドニーは銃を構えて連結扉に向かった。四号車は左側に寄せてシールドが張られており、中にはニッキー親子を含めた六十人ほどの乗客がいる。みな恐怖に引きつった顔で後方に視線を送っていた。
「大丈夫です、確認してきますのでこの中で静かにしていてください」
シドニーが乗客をなだめ、マックスと並んで上体を低く保ちながら後方へと進む。四号車は何ごともなく通り過ぎることができた。続いて連結扉を開けて五号車に入る。この車両では進行方向の右側にシールドが張られていた。重さで車体が傾いてしまわないようにと、ギーが咄嗟に判断したのだろう。ざわざわと声は漏れているが、すっきりと棚に収めたような人々の中に、悲鳴を上げている者はいない。絶叫は、最後尾の六号車の乗客が発しているのだ。連結扉が閉められているため、六号車の中の様子はふたりにはわからない。
『こちらマックス。五号車までは異常なし。六号車から悲鳴が聴こえてくるので、これから当該車両に入ります』
『ルキア了解。おそらくエンジェルがいると思われるので気を付けて。発見したらすぐに呼びなさい』
『了解』
マックスが取っ手に手をかけ、シドニーが銃を構える。そろそろと扉が開いてゆくと、気配を感じた乗客たちが一斉にふたりを見た。進行方向左側に張られたシールドの中には、五号車の半分ほどの人数の乗客が避難していた。最後の車両に乗っている人たちは、おそらく取り残されたような不安を覚えたのだろう。だからあのようにB.A.T.を罵る言葉を吐いていた……。いや、それだけではなかった。乗客たちの視線の先にあるものを見たマックスは、吐き気のような不快感にとらわれた。
荷物棚の上に寝そべっていたであろう老人が、吊り革と同じ高さに、ずるりと頭を下ろしてきていたのだ。その首は振り子のように揺れながら徐々に伸び、三十センチほどの長さにまでなると、突然顔の向きを正位置に戻した。そして肩、腕、上半身と、薄く伸ばしたようなその身体が、ゼリーのようにとろとろと座席に流れてきたのだ。緑色の粘液でできたような身体は、エンジェルの中身とそっくりだった。身に着けていたものは溶解して身体に吸収され、頭には白い毛と触角が見えてくる。人間の目は漆黒の大きな眼に変わり、それがいきなりつるん、と滑って床で立ち上った。
「キャアァァァーッ! ァキャァーッ!」
さっきは笑い声を出していたエンジェルが、今度は悲鳴のような声で叫んでいる。個体によって鳴き声が違うということかと、シドニーはそのエンジェルの顔をまじまじと見ながら思った。
「ぎゃあぁーっ!」
「いやーっ!」
エンジェルが擬態を解く様子の一部始終から目を離せなかった人たちは、完全なエンジェルになった個体を見て、また大きく絶叫した。小さな男の子が母親の胸に顔を押し付けて泣き出す。
「マックス! これもさっきのと同じか? 擬態する個体……?」
「俺にもわかんねえけど、たぶんそうだよな!?」
「どうする? 俺は殺さずに捕獲した方がいいと思う」
「俺もそう思う。でもとりあえずギーさんかルキアさんに報告しよう」
マックスが通信機を取り出し、三両目にいる仲間に通信を試みた。
『こちらギー。マックスか? 後ろはどうだ?』
『やっぱりいました! 完全擬態です。今エンジェル体に変化しました!』
『了解、すぐ向かう。手を出さずに乗客を見守っていろ』
『了解!』
通信を終えたマックスは、乗客に安全だと徹底して思わせることが先決だと、シールドに近づいて人々をなだめにかかった。最後方の乗客たちは徐々に静かになっていったが、車両前方、つまり五号車との連結部に近い位置の乗客は、ふたたび大きな悲鳴を上げる。
「今度はなんだ?」
シドニーが急いで走ってゆくと、乗客の一人が天井を指している。白いワンピースを着た中年女性が、天井にへばりついているのが目に入った。
「大丈夫ですか、そこは危険です。降りてきてください!」
上を見て声をかけるが、女性はびくともせずに天井に張り付いている。まるで、接着剤で胸や腹が付いてしまったようだ。いくら非常時だといっても、掴まるところが何もない場所で、人間があのように張り付いていられるものだろうか?
シドニーの背中をイヤな汗が伝った。まさか、これも……エンジェル、か?
マックスとシドニーが目を見合わせた時、女性は体幹部を天井につけたまま、首と両手両脚をだらりと下に伸ばした。それはたった今擬態が解けた老人と同じパターンで、どこまで伸びるのかと思わせるほど、長く、細くなるまで伸びていった。そしてまた、別の鳴き声なのか、言葉を発した。
「ァア……タ、たすケテ……? タス、タス……けけけっ」
これは笑い声なのか? エンジェルが笑うというのも、恐怖心を煽るのに十分な要素だ。さあ、どうする? 本当にシールドは安全なのか、こいつらは攻撃してこないのか? 何もかもが不明なまま車内は戦慄に包まれ、乗客はパニック寸前だ。だが列車はさらに加速していった。




