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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第三章 同時進行の異変
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第53話 擬態

 青年の顔は、人間のそれではなかった。触角こそ見えないが、粉を塗布したように真っ白い顔には鼻がなく、漆黒の大きな眼はシドニーをとらえている。そして、その顔がふたたび全方向に高速で回り始めた。大まかな形しか把握することはできない。だが遠心力のせいなのか、そこからは白い毛がふわふわと生え、さらに腕は身体に吸収されるように一体化していった。


「シド! なんだそいつ!」

「たぶんエンジェル……だよな? さっきから様子がおかしかったが、まさかこのタイミングで変化するか?」

「なんでヒトの形だったんだよ!?」

「俺にもわからない。でも、こいつは今までのエンジェルとは違う。ホームにいた個体も攻撃してこなかったし、こいつはまだ顔だけがエンジェルだ。……一体どうなってる」


 周囲で一部始終を見ていた乗客たちは、新たな脅威の出現にたちまちパニックになった。座席に座っていた者は慌てて立ち上がり、どこに向かって走ればいいのかわからずに右往左往して近くの者を押しのけている。


「ぎゃーっ! なんだそいつは! エンジェルなのか? そうだよな?」

「どうして中にいるんだ? どこから入った?」

「違う、こいつは人間の形だった。たったいま変身したんだ」

「いい加減なこと言うな! 人間がエンジェルに変化するっていうのか?」

「おい、B.A.T.! これはどういうことなんだ? 説明しろよ!」


 それぞれ勝手に喚いているが、誰もが正常でいられるはずがない。恐怖が目の前に迫っているのだ。いつ襲われ、いつ殺されるのかわからない状況で、落ち着いていられるわけはない。


「ちょっと待てよ! そいつがさっきまで人間だったって言うなら、お前だっていつエンジェルになるかわかったもんじゃないだろう」

「ふざけるな! それはお前だって同じじゃないか。それとも、ここにいる者は全員がエンジェルになっちまうって言うのか!」


 恐怖のため疑心暗鬼になり、罵り合う乗客たちを目の当たりにしたシドニーは、このままではマズいと思った。彼らが暴徒化したら、この走行中の列車の中で、弱者が犠牲にならないとは限らない。エンジェルを斃さなければならないのに、人間同士が争っていては危険だ。


「みなさん、落ち着いてください! このエンジェルはもともと挙動がおかしかったことは把握しており、我々も注視していました。人間とは明らかに違います。この個体以外の乗客がエンジェルに変化することはありません!」


 わあぁ、と口々に喚いている彼らに、果たしてシドニーの言葉が届いたかどうかは不明だが、何人かは口を閉じてシドニーとマックスの顔を見ている。


「落ち着いてください! B.A.T.が必ずみなさんを守ります! 後部車両から順番にシールドの中に入ってもらっていますので、静かにお待ちください」


 マックスがシドニーよりもさらに大声で乗客に説明すると、後ろの車両の方が安全だと思ったのか、人々を押しのけて後部車両に移動しようとする者が現れる。狭い連結部に人が殺到し、手すりに身体や頭をぶつけて倒れた客の上に人が重なった。


「おい押すな! 後ろの車両にもエンジェルがいるかもしれないんだぞ! それに、シールドの中にヒトの真似したエンジェルがいたらどうするんだ? そうしたらもうシールドの中だって全滅だろう!」


 一人の乗客の言葉に、マックスははっとした。そうだ、その可能性だってある。ルキアとギーが乗り込んだ時に人間の姿をしていたら、見分けがつかないままエンジェルと人間を一緒にシールドに収めることになる。そうなったら、その中は血の海になるんじゃないのか? 


「シド、なんとか次の駅まで持ちこたえよう。車内での戦闘はハイリスクだからな。刺激しないで頑張ろう」

「頑張ろうって言っても、こいつがどんなタイミングでエンジェルになるかわからないんだぞ。とにかく乗客の安全だけは守らないと。ギーさんたち、後ろの車両から順番にシールド張ってくるんだよな?」


 そうだ、この車両からこいつを出してはいけない。この中だけで静かにしていてくれれば、次の駅で捕獲できるのだ。だが目の前の擬態エンジェルは、そんなルーキーたちの思惑を嘲笑うように、唐突に異形化していった。

 胴部に吸収された腕は、左右対称の細く赤い六脚となって服の下から突き出されてきた。人体でいえば、ちょうど胃の辺りだ。そしてその胴部からは人間の脚がまだ生えたままなのだ。その不気味さに、ニッキーの母親はぶるぶる震えながら呼吸を荒くしている。


 目の前の青年だったものは、さらに姿を変えてゆく。肩の関節がぼきぼきと音を立てたかと思うと、そこはなだらかに降りる曲線を描いて身体に巻き付き、エンジェルの顔を載せていた首はがくんと後ろに倒れたあと、胴部にめり込むように連結した。そして未だヒト型の脚は震え続けていて、その膝が急激に縮むと、太ももまでのすべてが一瞬で胴部に吸収されていった。マックスたちが呆然と見ていると、その背中からバサッと音を立てて白い翅が広がり、完全なエンジェルの形が構成されたのだ。


「キャーッ!」


ニッキーの母親が思わず叫ぶ。必死にニッキーの目を覆い、腕の中の娘を守ろうと自分の身体でかばっている。その声を聴いた他の乗客も、さらに恐怖に顔を引きつらせた。


「あんたたちB.A.T.なんだろ? なんとかしてくれ!」


さっきまでは顔だけだったが、今や目の前の個体は完全にエンジェルと化していた。その個体は広げた翅を細かく震わせて飛び立つと、天井の幅いっぱいにゆっくりと飛び回ったり、窓枠に逆さに止まって外を見たりしている。車両内のパニックはさらに大きくなり、大勢の悲鳴と怒号が重なり合う。その時、ひとつ後ろの車両までのシールド化を終えたルキアとギーが、慌てて貫通扉を開けて入ってきたところだった。そのあたりに固まっていた乗客は、やっと助かったと声を出す。


「どういう状況?」

「人間に擬態していた乗客がエンジェルになりました! あれがそうです」


 シドニーが人間から変化したエンジェルを指して報告するが、ルキアはいまひとつ呑み込めないようだった。しかし乗客に被害を出すわけにはいかないと、連結部の前に立ったまま銃を構える。だがルキアのいる連結部に向かってくる乗客が邪魔で、エンジェルを狙うことができない。一方、ルキアの横をすり抜けたギーは、恐怖に怯える人々に声をかけ、なだめようとした。


「すぐにシールドを張ります! 中は絶対に安全ですから、皆さん落ち着いてください」

「落ち着いてなんかいられるか! まだこいつらの中にエンジェルが潜んでるかもしれないんだぞ! エンジェルと一緒に閉じ込めようっていうのか!」


 両手で自身の周囲を示しながら、ひとりの乗客が喚く。それにつられたように、他の客たちも同様のことを口走った。

 目指す次の駅はかなり先だ。自動運転にプログラムされたこの列車は「快速特急」となっている。いくつもの駅を飛ばし、ターミナル駅だけに停車する。


「ルキアさん、どうしますか? この辺にいる人たちをシールドに入れてからじゃないと、発砲は危険じゃないですか?」


 シドニーがルキアに叫んだ直後、エンジェルがシドニーに向けて首を傾げるような仕草をした。そしておもむろに翅を広げると、緩やかな動きで天井から離れ、ふたたび車内をゆったりと飛び回った。そしてマックスの近くの窓際に止まって落ち着く。まるで自然の中にいる昆虫の蛾のようで、さらにそのまま窓外の景色を眺めている。ときどきマックスとシドニーの方を振り返り、何か言いたそうな様子を見せるのだ。これは、どういうことだろう。さっき「B2」のホームに現れた異形も同様だった。人間を観察してでもいるような様子は、何を意味しているのか。


「うわーっ! こっちに来るな!」


 乗客はギーが広げているシールドの中へ避難するため、人を押しのけて先に行こうとする。だが隣にいる人間がエンジェルに変化しないかという恐怖も捨てきれない。


「押さないでください! 列を作り、順番を守った方が安全で早く避難できます! 子どもを先にしてください!」

「並んでる間に襲われたらどうするんだ? 誰からでもいいだろ、早く入れてくれ」


 ギーの方に集まった乗客は、シールドに入りたい思いと、他の人間を信じられない思いの間で揺れ、興奮が収まらない。だがとにかく、エンジェルと同じ場所には一秒だっていたくないと、シールドの列を押しながらも周囲をきょろきょろと見まわし、結局は中に入ってゆくのだった。


「ママ! ママ! こわいよぅ」

 ニッキーはまだ母親に視界を塞がれたままだ。そのまま母の胸にしがみついて泣き始め、その声は徐々に大きくなってゆく。


「うわぁーん! ママぁーっ! あぁーん!」


 泣きわめくニッキーを力強く抱きしめ、母親はエンジェルから目を逸らすことなく娘を守っている。エンジェルがゆっくりと壁を伝って降りてきた。マックスとシドニーがゲイザーから受け取った銃では、おそらく一発で仕留めることはできないだろう。

 エンジェルに照準を合わせたままでじりじりと焦るマックス、シドニー、ルキアの三人は、それぞれの方向から一体のエンジェルを狙っていた。だが動けない彼らをよそに、エンジェルはゆっくり移動しながら、次第にマックスが自分の身体で庇っていたニッキーと母親の近くまで進み、顔を近づけては首を傾げるような仕草をする。


「コワ……イヨゥ……。ァハ……は、は」


 聞き取りにくい声でなにかつぶやき、また笑い声のようなものを発したエンジェルに、ついに母親の精神が限界を迎えた。金切り声で叫びながらマックスの銃を奪い取ると、至近距離からエンジェルを撃ったのだ。


「あっ、やめ……!」


 マックスが遮るよりも早く、母親が握ったマックスの銃から弾が飛び出す。その軌道は、シドニーにはスローモーションのように見えていた。運悪くエンジェルの胴体を貫いた銃弾は、そのまま壁に突き刺さった。身体から青い粘液をどろりと溢れさせるエンジェルは、触角を立てて細かく震わせ、怒りを表しているようだ。


「ニッキー! お母さん! あなたたちも早くシールドに入って!」


 連結部で乗客を誘導していたギーが叫ぶ。だが、母親の足はすくんでしまって立つこともできない。


「ニッキー、走れるか?」

「うっ、うん!」


 マックスが母親を抱き上げ、シドニーがニッキーと手をつないで車両後方まで走った。待ち構えていたギーがシールドに入口を作り、素早く閉じる。これでもう、車両内に乗客は残っていない。


「コワクナイ……コワイ……? コワクナイノ?」


 胴部から自分の中身をどくどくと垂れ流しながら、エンジェルは覚えたての言葉を繰り返すように、首を傾げながらつぶやいている。誰に向けてでもないだろうが、この個体は学習しようとしているのではないかと、シドニーは思う。


「ルキアさん、こいつ、捕獲した方がいいんじゃないでしょうか?」

「なぜ?」


 ホロサイトから目を離さずに、ルキアは冷たい声で答えた。


「こいつは最初、人間の姿で座席にいました。それが、あとからエンジェルに変化したんです。捕獲して調べた方が良いと思われます」

「それは私には判断できない。隊長から命令があればそうするが、こいつが攻撃してきたら迷わずに撃つ」


 マックスもシドニーも、乗客の安全が確保された今、この個体は重要な研究材料として本部に持ち帰った方が良いと思っていた。だが、ルキアの考えは少し違うらしい。ふたりは銃を構えたままで、顔を見合わせた。そのとき、床に降りていたエンジェルが、ふたたび翅を広げて天井に飛び移り、さらに三人の方めがけて飛んで来た。ルキアは素早く銃を構えなおし、一発目を放つ。このような狭い場所での戦闘は初めてなので、銃弾は翅をかすめて窓ガラスを割った。


「ルキアさん!」


 エンジェルは、ルキアめがけて翅を広げ、威嚇するように車両の端から端までを使って飛んだ。そんな動きが癪に障るのか、ルキアはさらに二発、三発と胴部に命中させたあと、エンジェルの頭部を打ち抜く。それが致命傷となり、人間に擬態していたエンジェルは落下した。

 次の駅が見えてきた。だが快速特急のこの列車は、ここには停車しないのだ。


「おい、なぜ止まらないんだ! さっと止めて降ろしてくれよ」

「そうだ、早く駅に止めてシールドを解除しろ!」


 シールドの中から乗客が叫ぶ。


「『自動運転モード』が解除できないためと思われます。次の停車駅は……」


 マックスも咄嗟に次の駅が出てこなかった。次にこの列車が止まるのは、たしか「居住層J4」ではなかったか。そこは、あと五駅ほど先だ。


「『居住層J4駅』です。あと八分ほどで到着します」


 マックスが路線図を見ながら答えると、シールドの中から不平の声と不安のため息、怒りの声などがいっぺんに聞こえてきた。

 シドニーは、この人たちは一体何を学んできたのだろうと思う。この大人たちは一人残らずあの惨状を見てきたはずだ。それなのに、安全な場所に数年暮らしていただけで、もうこれほど傲慢になるなんて……。人間の限界を見てしまったようで、少しやりきれない気持ちになった。




 「居住層B2駅」に残ったギデオンとゲイザーたちは、勝手に走り出してしまった列車への通信を試みた。


『マックス、シドニー、聴こえるか? ゲイザーだ。状況を知らせてくれ!』


 電波状態が悪いのか、ノイズが多く入りこんでなかなかルーキーにつながらない。彼らだけでは心配だと、ゲイザーは次第に焦りを感じ始めたが、そこにシドニーの声が返ってきた。


『こちらシドニー。車内にて人間に擬態していた個体を発見。戦闘中のため、一旦通信を切ります』


 そこで通信は途切れた。通信機を握ったまま、ゲイザーはいま聴いたばかりのシドニーの言葉を反芻する。


「人間に擬態した個体……? おい、ギデオン!」

「聞こえてた。人間に擬態した個体って一体どういうことだ? 実物を見ないことには何もわからんぞ」


 二人の会話を聞いていた他の隊員たちも、不安げな顔をしている。そして口々に「人間に擬態?」と車両内のエンジェルとの戦闘を想像してざわざわと話している。


「人間に擬態した個体? なにそれどういうこと?」


 カリタが半分笑いながら言う。頭の中でどんな想像をしているのか、エンジェルが服を着た姿でも浮かんでいるのだろうか。


「人間のフリをされたら困っちゃうよね。敵と、守る対象の見た目が同じなんて、どうすればいいのさ」


 カルマも両手を上に向けて肩をすぼめている。お手上げだということだろうか。冗談めかしているが、それが本当なら大変なことだと思っているに違いない。

 ホームに降り立った何体かのエンジェルたちは、じっと動かずにいて攻撃してくる気配もない。そのすぐ近くで、シールドの中に避難した人たちが震えている。いくらこの中は絶対安全だと言われても、近くにエンジェルがいるという事実に対する恐怖はどうしようもない。「攻撃してきた」と目視できてからB.A.T.が動いたのでは遅いのだ。



 そこへふらふらと近づいて来たのはフローラだ。視線は異形のエンジェルに固定され、いや、駅構内に入ってきた時から、彼女は異形のエンジェルしか見ていなかった。その目は熱く潤んでいて、まるで異形に恋をしているようだ。その気配を察知したのか、異形のエンジェルも立ったまま振り返って彼女を見つめる。フローラもさらに熱を込めた視線を異形に返し、ふたりのあいだには数秒間、誰にも理解されない特別な空気が流れた。


「あ、あなたは……?」


 恍惚としているフローラは、うわずった声で異形に訊ねた。その黒く大きな眼には自分が映っている。 


「これは……運命だわ」


 フローラがつぶやくと、異形個体の表情がかすかに変化する。そしてフローラに向け、ほんの少しだけ首を傾げた。異形が動きを見せたことで、他の隊員たちは焦った。攻撃に転じるプレパレーションではないかととらえたのだ。


「よせ、フローラ!」

「フローラ! 危ないぞ!」


 だが、彼らの声はフローラの耳には届いていない。フローラと異形だけの世界が、その場に構築されつつあった。

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