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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第三章 同時進行の異変
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第51話 まねごと

 マックスとシドニーが乗った電車は、エイジが降りた「居住区B2駅」で止まったまま動かず、それ以降のアナウンスもない。ふたりはなんとなく会話をしたり、ゲーム機を取り出して遊んだりして時間を潰していたが、一向に運転が再開される気配もないので、マックスはホームにあるトイレに行くと言って席を立った。帰宅の足を止められて途方に暮れた様子の職員とすれ違い、困っている人がたくさんいることを実感しながら車内に戻る。


「シドは平気? トイレ行かなくて」

「うん、俺は……平気」


『先ほどから停車中の当列車ですが、ただいま全線において運行不能となっております。原因につきましては現在調査中です。大変ご迷惑をおかけいたしておりますが、今しばらくこのままでお待ちください』


そこでやっとアナウンスが流れると、待たされる乗客たちは不平を洩らしはじめた。子どもは大人の膝の上で愚図っている。


「まだ調査中って、どうなってんだよ?」

「もう三十分以上経ってるよ。仕事帰りの人がどんどん増えてきたな」


 仕事を終え、B.A.T.本部から帰路につく職員たちが、ホームに並ぶほどの人数になってきた。エイジがいた時は空いていたのに、いつ発車するかわからない状況でも、すでに空席は一つもない。


『お待たせしております。ただいまより各車両のドアを、中央の一ヶ所を除き閉めさせていただきます。車内の空気を調整するため、ご理解ご協力をお願いいたします』


 ホームにはますます人が増えてきた。周囲はざわざわと騒がしく、苛立つ者も出始める。


「なんか、嫌な予感がする……」


 下を向いたシドニーがぼそっと呟いた声は、マックスには届かなかった。ふと斜向かいが気になってそちらを見ると、正体不明の違和感を放つ青年が座っていた。




 夕暮れ時の街は、買い物客や映画を見に出かけてきた者、食事をしに来た者などの人で溢れている。家族連れやカップルが楽しそうに歩くすぐ近くの樹に、突如数体のエンジェルがどこからともなく飛来してきた。上空から観察していたのか、人が一番多くいそうなショッピングモールの中央辺りに、彼らはごく自然に集まり、街路樹の上から人間を観察するように漆黒の目で見ている。触角を細かく震わせているのは、会話の声を聴いているのだろうか。大人の男女、高齢者、幼児、赤ん坊と、様々な年代の人間を見ては、首を傾げて知識を咀嚼するような動作をしている。そしてある程度の観察が済むと、白い翅をばさっと開いて樹の根元に着地した。いきなり目の前に現れたエンジェルに、若いカップルは驚いて声を上げる。


「ぅわっ、びっくりした! なにこれ、エンジェルのロボットか何か?」

「やだ、気持ち悪い! 頭がふわふわだし、ぬいぐるみじゃないの?」


 ふたりは手を繋いだまま、エンジェルに顔を近づけた。エンジェルの形をしたロボットやぬいぐるみを作るなんて、あまりにも不謹慎で悪趣味ではないかと憤っている。


「今どこから来た? 誰かが持ってきたのかな」

「上から降りてきたみたいだったけど、どうしてここに?」


 街路樹に止まったまま動かないエンジェルに、他の買い物客も気づいて近寄ってきた。誰でもエンジェルの姿など二度と見たくはないはずだ。それなのに、なぜ人が集まるモールにこんなものがあるのだろう。どんな目的で作られたオブジェだというのか、ほとんどの人が思い出したくない凄惨な記憶に、無理矢理蓋をしているのだ。これを作り、設置した責任者に抗議しようという者も出てきた。


「え、これってもしかして……エンジェルの模型、ですかね?」

「そうだと思うんですけど、誰が運んできたんでしょうね」


 目の前にいるエンジェルが本物だとは、誰も思っていない。この地下シェルターは、「絶対にエンジェルが侵入しない安全圏」なのだから。だが次の瞬間、街路樹を取り囲むように立っていた十名ほどの人間は、悲鳴を上げてその場から逃げ出した。


「うわーっ! 逃げろ!」

「早く早く! 殺されるぞ!」


 作り物だと思われたエンジェルが、触角を震わせてわずかに翅を開いたのだ。飛び上がる準備をしているようなその動きに、誰もが反射的に踵を返し、散り散りに走り出す。辺りが血の海になり、大切な人たちの命が奪われたあの日の光景が目の前によみがえっては、正気でいられるはずがない。


「きゃあーっ! エンジェルが! エンジェルがいる!」

「いやーっ、助けて!」


 大声で叫びながら走る女性が何を言っているのか、多くの人は聞き取れなかったが、「エンジェル」という単語は確かに聴こえた。エンジェルと叫ぶ人が悲鳴をあげているのだから、まさかここにも現れたのかと誰もが思う。

 一瞬後、ショッピングモールはパニックになった。家族連れは子どもをしっかりと抱いて、とにかく大きな建物の中に入ろうとする。それに続いてたくさんの人が入り口に殺到し、中からは何も知らない客が出てこようとしていた。入ろうとする者に押されて出られない客が中から押し返す。


「出る人が先ですよ! ドアの前を開けてください!」


 普段ならそれが当然だ。だが今はそれどころではない。命がかかっているのだと、外の者は殺気だった顔で怒鳴る。


「どいてくれ! 中に入れてくれ!」

「そうだ、早く入れてくれ。じゃなきゃ全員殺されるぞ!」


 建物内にいる客は、外にいる者が何を言っているのか理解できない。映画の時間に間に合わなくなってしまうと、無理矢理外に出ようとする若い男性が、目の前で向き合っていた男性と小競り合いになった。お互いに相手の胸を押し、どかせようと譲らない。誰か、誰かが「エンジェルが来た」とひとこと言えばいいのだろうが、誰もその単語を口にしない。どこか感覚がズレてしまっている。エンジェルがいるはずのない地下シェルターで、こんなことになるとは想像したこともなかったのだから。


「エンジェルがいるのよ! 早く逃げなきゃ殺されちゃう!」


 やっと、女性が悲鳴まじりに叫んだ。だがそれが新たなパニックを生んだ。


「なんだって、そんなの嘘だろ?」

「ここにあいつらが来られるわけないだろう」

「本当だよ! エンジェルがいるんだ」

「だから早く中に入れてよ!」


 建物内の客たちは蒼褪め、我先にと奥へ逃げようとする。入口が空き、外にいた者がどっとなだれ込む。高齢者や子どもは大人に押されて動けなくなった者もいる。そんな中、とにかく弱い者を先に安全な場所へ避難させなければと、居合わせたB.A.T.の職員が誘導を始めた。


「こちらから二列で入ってください! 中に入ったらB.A.T.職員の指示に従って待機してください。今、事実確認を急いでいます。不確かな情報に惑わされず、落ち着いて行動してください」


 「エンジェルがいる」という誰かの言葉だけで、人はこんなにも慌てふためき、パニックを起こしてしまうのだ。それほど、奴らのしたことと存在は、人間たちにとって恐ろしく、絶対的な脅威なのだと、人々を誘導する隊員は思っていた。



 モール中央から少し外れた位置にあるアクセサリーショップのスタッフは、店の前を大慌てで走る買い物客を不思議そうに眺めていた。あの人たちはなにをそんなに慌てているのだろうと、のんびりした顔で外に出してある商品の並び替えをする。すると、ひとりの女性が息を切らしながら店の前で止まり、途切れ途切れに言った。


「す、すみません。お店の中に入らせてもらってもいいですか? もう走れなくて……。あなたもこんなところにいないで、早くシャッターを閉めて奥へ……」

「え……? どうされたんですか? まだ営業中なのでシャッターを締めるわけには……」


 何も知らないこのスタッフが困惑した顔で応えると、相手はいきなり激昂して叫んだ。


「エンジェルが来てるのよ! 早くしなきゃみんな死ぬの!」


 それだけ言うと、彼女はわあぁ、と泣き崩れた。過去に体験した恐ろしい光景を思い出したのか、肩を震わせて号泣している。


「本当なんですか? その……本当にエンジェルがこの層に?」


 女性の様子を見ても、慌てて走る買い物客たちを見ても、まるで実感が沸かない。絶対に安全なこのフロアにエンジェルが? どうしてそんなことに? スタッフはとにかく女性を中に引き入れ、店の前を走っている人たちにも中に入るよう声を掛けた。


「エンジェルから逃げている人は、よろしければ店内に入ってください。これからシャッターを閉めます!」


 どこまで逃げれば安全なのか途方に暮れていた人たちは、ショップの中に入り、ゆっくりと締まってゆくシャッターを見てほっと一息ついた。両隣や向かい側にあるショップも、同じように買い物客を店内に誘導している。その時、完全に締まった格子状のシャッターの隙間から、真っ赤で細く、折れ曲がった何かが伸びてきた。それに気づいた何人かは絶叫し、さらに店の奥に顔を向けて震えている。真っ赤なものは少しずつドアガラスに近づき、鋭い先端でそれを引っ掻いている。キイィィ、と神経に障るその音にも、人々は耳を塞いで震えることしか出来ない。そして次に漆黒の目が現れた。外から店内をじっと観察しているようなその個体は、口吻を伸ばさずに声を出した。


「ナカヘ、ドウゾ……」


 それは、このショップスタッフの声真似だった。急いで大勢の客を受け入れた時、彼女はそう言っていたのだ。「中へどうぞ」と。真似をされたスタッフは、恐怖で顔を引きつらせてから、その場で嘔吐した。



 周囲に人間の気配がないと感じたエンジェルは、数体が別の場所を目指して飛び立った。上空から街を観察するように見下ろし、居住区B2駅に人が集中しているのを見つけると、その入口から構内に入っていった。エンジェルの姿を見た大人たちはパニックになり、改札から外に出ようとする者、電車内に逃げ込もうとする者でごった返し、誰もが揉みくちゃになっている。


「エンジェルだ! エンジェルが来たぞ!」

「……はぁ?」


 大声で周囲に知らせようとする者がホームに来ると、若い男は怪訝な顔をする。それも当然だ。今までは誰もが「ここは安全だ」と信じ切っていたのだ。だが改札から通路を抜けた数体のエンジェルがホームに降り立つと、その男は真っ先に悲鳴を上げ、右往左往して逃げ惑う。


「ちょっと待てよ! どうなってんだ! なんでエンジェルがここにいるんだよ!」


 恐怖が激しい怒りに変わり、若い男は一番近くにいたスーツ姿の男の襟を掴んで詰め寄る。そんな行動になんの意味もないと自分でもわかっているが、誰かに感情をぶつけていないと、どうすればいいのかわからない。


「B.A.T.はいないの!? 誰かエンジェルを退治できる人はいないの?」


 子ども連れの女性が叫ぶ。彼女は子どもの頭を守るように手で覆い、止まったままの電車内に急いで飛び込もうとした。だが同時に入ろうとした男性とぶつかり、子どもは彼女の手からホームへとすべり落ちてしまう。


「ニッキー!」


 大声で子どもの名前を呼びながら手を伸ばすが、人波に揉まれて彼女は電車内の奥へと流される。ホームに残されたニッキーは立ち尽くして泣くことしか出来ない。「ママ! ママ!」と呼ぶ声が哀しく響いている。


「ドアを閉めろ! 手動でできるだろ」

「ダメだ! 開けろ! まだ子どもがホームに残ってるんだ」

「いや、早く閉めろ!」

「エンジェルが入ってきたらどうすんだよ!」

「ニッキー! お願い、誰かあの子を助けて! 中に入れてあげてください!」


 男たちの怒号、母親の泣き叫ぶ声、誰もが正常な判断をすることが出来ずに、ただ喚き、怒り、焦り、自分だけは助かりたいと願う。


「子どもを見捨てるわけにはいかねえだろ!」


 身動きできないほど人が詰め込まれた車内で、マックスが立ちあがった。今まで座っていた座席の窓を開け、そこから素早くホームに降り立って泣いているニッキーを抱えて戻ってきた。人の間を縫ってようやくマックスの元へたどり着いた母親は、大声で泣き続ける幼児を落ち着かせ、しっかりと子どもを受け取った。


「あ、ありがとうございます! ありがとうございます」


 目の前で子どもを抱きしめながら母親が泣き崩れる。マックスとシドニーは顔を見合わせて頷き合った。


「マジかよ、配属初日にこれって、どうなってんだ」

「マックス、俺は本部に連絡してみるよ。でも本当にエンジェルなのか? どうして突然……」

「わけわかんねえよな。エイジは大丈夫だったかな? あいつらと鉢合わせてなきゃいいけど」

「エイジなら、きっと大丈夫だよ。だってブリクサ班だぜ」

「だな……。クソッ、こんなことなら何か武器を持ってこられれば良かった。装備がなきゃ戦えねえよ」


 マックスは車内を見回し、B.A.T.として出来ることはないかと考える。シドニーは通信機を取り出して本部へとつないだ。その時、ホームの奥から現れたものを見て、人々は戦慄した。異形のエンジェル? 先天性異常なのか発育過程で異常が生じたのか、あるいは人間が把握していなかった新種なのか、赤い後脚が異様に長く伸び、その細い脚で二足歩行している個体が、ゆっくりと停車中の電車の方に向かって歩いている。


『こちら、30C-08(サーティーシー・ゼロエイト)ゲイザー班のシドニーです。居住区B2駅にエンジェル発生。繰り返します。居住区B2駅に通常とは異なるエンジェル発生。至急出動願います』

『こちらB.A.T.本部です。30C-08、シドニー、確認します。現在地は居住層ですか? そこにエンジェルが現れたということで間違いありませんか? 少々お待ちください』 


 いきなり居住層にエンジェルが現れたと聞いても、通信部の職員には実感が沸かないだろう。だが、シドニーとマックスが見ているのは、紛れもない現実だ。


『お待たせしました。今から10Bワンゼロビー、第一軍のギデオン班が出動します。一般人の安全を確保しつつ、待機してください』

「早くしてください! お願いします」


 通信が切れると、シドニーはマックスと協力して、ホームに取り残された人をできるだけ車内に押し込んだ。ぎゅうぎゅう詰めの状態では誰もが苦しいが、ギデオン班が到着するまで皆を守らなければならない。


「あなたたち、B.A.T.ですか? 何か武器は持っていないんですか?」


 通信を聞いていた者がマックスに詰め寄るが、今は戦うことはできないと説明する。騒がしい車内で、ざわめきが途切れた瞬間、誰かの笑い声がシドニーの耳に届いた。周囲の誰もが殺気立ち、喚いたり叫んだり泣いたりしている中で、彼だけは「あ……? あ、はは。あはは」と肩を揺らしている。シドニーが見つけたのは、さきほど違和感を持った青年だった。声を上げて笑っているのに、表情は笑っていない。真剣な顔で笑い声だけ発しているのだ。この状況で精神が崩壊してしまったのかと、シドニーは何とも言えない気持ちになった。

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