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16.結界の外

 残念ながら、私のナイフは勇者様に軽々と躱された。


 頭に血が上りすぎて、冷静ではなかった。よく考えたら、魔族になったからといって、強くなったわけでも、特殊能力が身についたわけでもない。


 勇者様が私をふんわりと抱きとめ、ナイフを取り上げる。


「ああ、僕の愛しい婚約者。やっぱり、生きていたんだね。怖かっただろう? 僕が来たから、もう大丈夫」

「な、何ですかっ!? いやっ、離してっ!」


 宝珠を奪って見捨てたくせに、その図々しい発言に恐怖すら湧く。勇者様を突き放そうとして、軽々と手首を掴まれる。


「どうしたの、暴れないで? そうだ、ロマーラに戻ったらすぐ結婚式にしよう」

「ちょ、ちょっと、まってください……え?」


 勇者様が何を言っているのか、理解が追い付けない。もはや恐怖ともいえる笑顔が、何故か唇を奪おうと近づいてくる。


 金色の柔らかい髪が、ふわりと顔に掛かる。


「い、嫌ですっ」


 勇者様の顔を引っ搔くと、勇者様は咄嗟に顔を押さえ、私を強く突き飛ばした。


「……つっ。何をするんだよ!?」


 勇者様は手についた血を見て、頬に傷ができた事に気付くと、怒りに顔を赤らめて私の髪を掴み上げる。


「いたいっ……」

「……僕は……世界の希望だよ? その勇者の顔に、傷? ねぇ、自分が何をしたか、分かってるの?」


「――お前こそ。誰に喧嘩売ってんのか……分かってねえな。その汚え手を離せ」


 空気がザワリと揺れ、辺りに低い声が響いた。


 周囲に立ち込めた異様な空気に気付き、勇者様がびくりと震える。

 勇者様にも聞き覚えがあるはずの、その声。ゆっくりと、勇者様が私から結界へと視線を移す。


 私もその視線を追うと――結果の穴に、手をかけているフライがいた。


「ま、魔王!? や、やめろ、こっちに来るな!」

「……フライ!? 結界から出てはだめです! サツリ、フライを止めて……あれ、サツリ!?」


 サツリは、木の根元でぐったりと倒れていた。既にフライを止めようとして、吹き飛ばされた後らしい。


 私が開けてしまった穴から、フライが結界の外へ出て来る――。



 ――瞬間、辺り一帯が闇のような瘴気に包まれた。

 肌が触れるだけでピリピリと痺れる程の、濃い瘴気。


 フライは獲物を狙う獣のように、勇者様を目で捕らえると、赤く口を歪ませた。

 その圧に耐え切れなかった勇者様が、ガクリと腰を抜かす。


「な、な、なんで、魔王が、こんな所に――」

「フライ! 正気に戻ってください!」


 結界から解放されて冷たく光る赤い目に、いつもの気怠さは微塵も無い。

 これが、本当の魔王フライ。モナの記憶で見たままの、黒い化物。


「――フライ!」


 何度フライの名を呼んでも、いつもの反応は無い。

 鬱陶しそうに私をチロリと見る赤い目に、ぞくりと全身が凍る。



 サツリが意識を取り戻し、頭を押さて立ち上がる。フライが結界から出た事に気付き、声を荒げる。


「いけません……サン、すぐ逃げてください! 早く結界へ!」

「さ、サツリ。足が……」


 逃げないといけない事は分かってはいるのだけど、足が震えて動けない。



 フライが、ゆっくりと指で宙を薙ぐ。

 その軌道に沿って渦のように空間が歪み、渦から現れた一陣の黒い風は、まるで鋭い刃のように触れた物を容赦なく切り刻んだ。


 サースに何重にも強化防御を掛けてもらっていたのに、風に触れた瞬間、肩が弾けるように裂けた。飛び散る私の血に、サツリが悲鳴をあげる。


「い……いたいです」


 ボタボタと流れる血を止めようと、傷口を押さえてその場に蹲っていると、


「聖女殿――!」

「……戦士さん」


 戦士が急いで駆け寄り、傷口を確認して止血を始めてくれた。魔法使いは私を庇うように防御魔法を展開する。


 包帯を巻きながら、戦士が悔しそうに声を漏らす。


「聖女殿、魔王城では、貴女を守り切れず申し訳なかった。あの状態から、生きていたとは……」

「戦士、そういう事は後回しです。聖女様を早く神官の所へお連れしないと――」


 ロマーラの神官に、魔族の傷は治せない。

 つまり、魔族の私が帰る場所は、もうロマーラにはない。


「ありがとうございます。お気付きでしょうが、私は魔族になりました。このくらいの怪我、全然平気ですよ」


 正直な所、痛くて気を失いそうだけど。

 無理やり笑顔を作ると、魔法使いが震える手で私の両手を握る。


「聖女様、無理なさらないで。私達と一緒に逃げてください。魔族と勇者から、貴女を必ずお守りします」


 魔法使いの泣き出しそうな顔に、首を横に振る。

 これ以上この場所にいると、戦士と魔法使いの命まで危険に晒される。


「ごめんなさい、それはできません。もう大丈夫ですから、あなた達は早く逃げてください。『帰還の宝珠』は持っていますよね?」


 じっと二人を見つめると、私に戻るつもりが本当に無いと気付いた戦士が、がっくりと項垂れる。


「くそっ、また俺達には何もできないのか。……どうか、せめて御無事で」


 魔法使いが、勇者様に聞こえないように小さな声で囁く。


「口留めをされておりましたが……ギルドにいた我らを選定し、私共に聖女様を託されたのは、王妃様です。王妃様、私と戦士、いつでも聖女様の味方です」


 二人は名残惜しそうに私を見つめたまま、宝珠を起動させた。



 私が止血をしてもらっている間に、勇者様は早々と戦意喪失状態に陥っていた。

 血まみれの勇者様が動かなくなると、フライは勇者様への興味を失い、遠くロマーラへと視線を移す。


 このままだとロマーラだけでなく、残り半分の世界も亡ぼされる。


 攻撃手段を持たない私は、魔王とは戦えない。

 でも、魔神官なら、モナのように結界に魔王を封じる事ができる。


「フライ、正気に戻ってください――」


 震える足で立ち上がり、呼吸を整える。

 意識を集中し、結界の構築を開始して――、


「え……まさか、魔力が足りない!?」


 モナが結界で世界の半分を易々と覆っていたから、結界構築に必要な魔力量なんて、気にしていなかった。

 この結界の構築には、想像を超える魔力が必要。私では、フライを覆うだけの小さな結界すら、構築できない。


 戸惑う私に気付いて、フライがニィと赤く口を歪ませる。


「あ……」


 きっとこれは、次の獲物に認定されてしまった。

 青褪め立ち竦む私に、サツリが叫ぶ。


「サン! 結界の機能を持つ『魔法陣』は作れませんか? 魔法陣なら、幾分は魔力の消費を抑えられるはずです!」

「魔法陣……ですか? は、はい、やってみます!」


 サツリの指示のもと、急いで魔法陣を編み上げ、フライの足元に展開する。

 フライが眉をひそめ、魔法陣を消そうと片手を伸ばす。


「させません、起動します!」


 ――フライに消されるより早く、全力で魔力を流し込んだ。


 カチリ、と音を立てて、魔法陣が起動する。


 フライを纏う瘴気が大きく渦を巻き、魔法陣に吸い込まれる。と同時に、私の魔力も勢いよく魔法陣に吸い取られる。


「ま、魔力が……!」


 私の魔力が尽きるのが先か、フライの闘気を吸い切るのが先か、せめぎ合いの中……魔力が枯渇する直前、やっと辺りから全ての瘴気が消えた。



 この魔法陣、吸収する闘気に比例して、術者の魔力を消費するらしい。

 フライから常に闘気が滲み出ている以上、魔法陣を維持するだけで、一定の魔力を消費してしまう。

 私の魔力が尽きて、フライが再び黒い魔王へと戻るのは時間の問題となってきた。もしフライが結界に戻ろうと魔法陣から足を踏み出しても、黒い魔王へと戻る。


「つ、詰んでいるかも。これから、どうすれば……」

「――よし。い、今の内に」


 視界の片隅で、勇者様がこっそりと『帰還の宝珠』を起動させた。……魔王城で勇者様に奪われた、私の宝珠。


「あ、それ! それ、返してください!」

「うわ……っ、何をする、聖女!」


 残された気力を振り絞って勇者様へ駆け寄ると、いつかの仕返しのように、その手から宝珠を毟り取ってやった。


「フライ、受け取ってください!」


 起動中の宝珠に干渉して行先を書き換えると、フライに向かって放り投げる。


「……あぁ?」


 魔法陣の上で状況を飲み込めていないフライが、反射的に宝珠を受け取る。直後、宝珠が発動し――フライの体が、結界内のサツリの真横へ転移した。



 サツリの横で、フライがいつもの気怠そうな顔で、頭を掻いている。

 フライの転移に気付いたサツリも、ほっと胸をなでおろした。


「良かったです。これで……」


 安堵した途端に体から力が抜け、膝からカクリと崩れ落ちた。


「聖女、貴様!」


 宝珠を失い、怒りに顔を歪めた勇者様が、私に飛び掛かろうとして――、


「――これでも、くらえですー」

「……チューズ?」


 いつの間にか駆け付けていたチューズが、結界から勇者様目掛けて、氷の矢を次々と発射する。


「わ、うわ! 何だ!?」


 激しく降り注ぐ氷の矢から勇者様が逃げ惑っている間に、サツリがそっと結界を抜け出した。

 サツリも私と同様に、闘気は薄い。結界から出ても、フライのようにサツリが暴走を始める事はなかった。


 サツリはこそこそと私を担ぐと、勇者様に気付かれないよう静かに結界へと戻る。


「サ、サツリ。止まってください、穴を埋めます」

「埋める? ええ、是非お願いします」


 サツリに抱えられたまま、急いでペタペタと結界の穴を埋める。

 結界が元通りになった瞬間、緊張の糸が切れたように、サツリとその場に転がり込んだ。



「お、おわりました……え、えへへ、もう駄目かと思いましたよね……」


 ヘラリ、と笑うと。サツリの顔が、沸騰したように真っ赤に染まる。


「まったくです! 寿命が格段に縮まりましたよ! 結界に穴を開けられるなんて、僕ですら初耳です! 二度と、勝手な真似はしないでください!」


 今回の件、完全なる自業自得。反論の余地はない。


「す、すみませんでした」


 サツリの説教にしょんぼりと項垂れると、サツリは深く息を吐いて私に『竜の魂』を手渡した。

 受け取った宝珠からは、まだ僅かに火竜の温もりが感じられる。


「反省したのであれば、もう結構です。火竜の一族には僕から話をしておきますので、この宝珠は、サンが持っていてください。

 それにしてもあの勇者、宝珠の作り方なんて……よく知っていましたね」


 サツリが目を細め、結界の外をじっと見つめる。勇者様は、チューズの攻撃から逃げるように、既に姿を消していた。


「宝珠、大切に……します」


 激しく動いたせいで、止血の包帯がずれて傷に食い込んでいる。足元には血だまりができていた。

 指先が麻痺して、渡された宝珠が、手から落ちて地面を転がっていく。


 少し気まずそうに視線を逸らしていたフライが、転がる宝珠を拾う。


「何やってんだ。しっかり持っとけ……って、おい。その顔、どうした!?」

「すみません……もう――」


 私の顔色と溢れる汗に、フライの表情が一瞬で変わる。フライが何か叫んでいるけど、その声はもう聞き取れなかった。

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