11.魔族の対
丘に座って傷にいつかの塗り薬を塗っていると、私の様子を眺めていたフライが、ふと呟く。
「お前、本当に傷だらけだな……弱すぎだろ。もういっそのこと、魔族にならねぇか?」
「はい? 魔族に、ですか?」
フライは私の首元に近付いて匂いを確認すると、珍しく真剣な眼差しに変わる。
「さすがに、この甘い匂いを垂れ流し続けるのも危ねぇだろ」
「そう、なのかもしれませんが……」
腕にはチューズ達の歯形がしっかり残っているし、その傷跡はじんじんと痛い。
自分の匂いが危険という事は充分身に染みて分かっている。
「もし魔族になるなら、お前を魔族にする時に、俺の匂いを混ぜてやるよ。そうすれば魔神官の匂いは薄れるし、俺の匂いがする奴に誰も手は出せない」
魔王の匂いを振りまく魔神官に、手を出す命知らずはいない、と。
「人族は体も弱いし、寿命も短すぎる。いつ死ぬか分からない魔神官は、不安要素でしかない。それに……正直、魔神官を早々に手放すのが惜しい」
「ま、待ってください。そもそも、人族が魔族になれるんですか?」
フライが、子供のようにニィと悪戯っぽく笑う。
「おそらくな。一つだけ、可能性がある」
もし本当に魔族になれるとしても、私には判断が難しい。助けを求めて魔神官の本をパラりと捲ると、白紙のページからモナの声が伝わってきた。
『は、アンタが魔族に? うーん……アタシは悪くないと思うわよ?
アンタは闘気が薄そうだから、結界の外でも人族と上手くやれると思うし。魔族になると、寿命は格段に伸びて、体は頑丈。魔力も増えて、いい事しかないと思うけど?』
「……なるほどです」
魔力が増えるのは、かなり魅力的。
もしロマーラに戻らないなら、魔族になった方がきっと私にとって都合が良い。モナの後押しに心を決め、フライを見て頷くと、フライが面白そうに目を細めた。
「意外に潔いな。いいんだな?」
「はい。でも……一つだけ、お願いがあります」
フライに、大切にしていた魔神官の本を手渡した。
「もしできるなら、この本を魂に植えて欲しいです。魔神官になった時、私が人族という理由で魂に入らないと言われたので……」
「この本が魂に……? よくわかんねぇけど。ま、やってみるか」
フライが地面に向けて手をかざし、私の足元に小さな魔法陣を展開する。
「あ……まさか、この魔法陣って……」
その魔法陣には見覚えがあった。人族と魔族の契約魔術。
自分の血を贄とし、応じた魔族に願いを叶えてもらう愚かな禁呪。戒めとして、ロマーラの血筋に伝えられていた。
古の時代、愚王が人族の手に余る願いを魔法陣に託したという。それに嬉々として応じた魔王は、愚王を飲み込み、地上に魔族を引き入れたと言われている――。
「珍しいな。コレを知ってんのか? ……なら話が早い。俺が応じてやるから、魔法陣に血を垂らせ。魔族にする時に体を作り直す事になるから、そのついでに怪我も治してやるよ」
「……怪我を治してもらえるなら……思い切りいきます」
色々と覚悟を決めて、護身用のナイフで手首をざっくり切る。
「い……っ!」
ボタボタと、血が地面に大きな染みを作った。
痛みに顔を歪める私を見て、フライがさぁと青褪める。
「おい、誰もそこまでとは言ってねぇよ。無茶をするな、一滴で足りる」
「でも、この魔術……確か、贄となる血量で、願いの質が変わりましたよね?」
「……っ」
フライは否定をする事も無く、押し黙った。きっと血量が多いほど、上位の魔族になれる。
魔神官は、時として大量の魔力を使うから、折角なら魔力量が豊富な魔族になりたい。
さらに傷口をえぐるように深く切ると、フライが眉間に深く皺を作る。
「阿呆。それ以上やると骨が出るだろうが。もう始めるからな」
フライが魔法陣に魔力を流しこむと、陣は光を放ち、血だまりを一瞬で吸収した。
私の血が贄となり、魔王フライに捧げられる。
「――はっ?」
突然、フライが驚いたように、口元を押さえて私を見た。
「うそだろ。……お前、血まで美味いのか?」
「そ、そうなんですか?」
そんな事を言われても、匂いすらわからないのに血の味が分かるはずもない。
フライは私の手を取ると、味を確かめるように手首の深い傷をそっと舐める。
「あ、あの」
「何だよ、これ。美味すぎだろ……来い」
次の瞬間、ぐんと体が引っ張られた。
「わっ……!?」
バランスを崩して倒れ込むと、そのままフライがくるりと私を押し倒す。
獲物を狙う獣のような鋭い目が、私の顔を覗き込む。
「あのっ」
暴れようにも、体が押さえつけられて逃げられない。
「ま、待ってください、フライ」
「……待てねぇ」
フライの指が、私の首をなぞる。
指跡に沿って、つぅと切れた肌から温かい血が流れ――フライがペロリと舐める。
「いっ、痛いです――」
「美味い……我慢しろって方が無理だ。もっと――」
痛がる私を無視して、フライが首の傷に直接口を当てる。甘噛みをするように血を絞り、美味しそうにそれを啜る。
フライの牙と、舌の感触が首から伝わってくる。
「ふ、フライ。待ってください――」
「……無理。だから、待てねぇって」
体中の血が失われていくのが分かる。
全身から冷や汗が噴き出し、目の前が暗くなってきた。
「だ、だって、これ以上は――」
息が上がり、意識が朦朧とし始める。大半の血を失い、体が危険信号を出している。
「大丈夫。こんなに美味いんだ。お前は殺さねぇよ」
「……そんな事、言って――」
フライが赤く光る目を愉しそうに細め、嗤ったのを最後に、視界が暗転した――。
◇◇◇
――どれだけ経ったのかは、よくわからない。
まだ日が昇っていない所を見ると、気を失っていたのは一瞬だけだったのかもしれない。
体が別人のように、異様に軽い。
傷も全て無くなり、痛みも消えている。
「これが……魔族の体?」
殆どの血をフライに捧げた為か、かなり魔力も底上げされている。
『そうよ、人族より快適でしょう?』
モナの声が頭に響く。魔神官の意思も、上手く魂に収まったらしい。
辺りを見渡すと、少し離れた木陰でフライが欠伸をしていた。私が起きた事に気付くと、気怠そうに笑う。
「よぉ、早いな。気が付いたか」
「はい。なんだか、とてもいい匂い? ……が、しますね」
これまで感じた事のない、人族が感じるものとは全く別の『匂い』がする。
体をゆっくりと起こし、自分の匂いを嗅いでみた。
少し苦いけど、とても心地よくて、甘ったるい。
人族では分からなかった、魔神官の匂い。魔族が次々と私に求婚した理由も、我ながらよく分かる。
その中に、力強い匂いも感じられる。
きっとこれが、フライの匂い。
立ち上がろうとすると、思ったよりもまだ足に力が入らなかった。ふらふらとおぼつかない足取りで何とかフライまでたどり着くと、転ぶように倒れ込む。
「おい、まだ無理して動くな。自分では分からねぇかもしれないけど、その体、できたばかりなんだって」
フライは両手を広げて私を受けとめると――驚いたように、目を開いた。
「これ……うそだろ。まじか――」
「何が、ですか?」
フライの匂いは、私に混じる匂いより遥かに濃くて、力強い。
人族では知る事ができなかった、魔族の――フライの匂い。すごく心地よい。
フライの匂いに包まれるのが気持ち良すぎて、全身の力が抜ける。フライの胸元に顔を埋め、全身で取り込むように深く匂いを嗅いだ。
「私、知りませんでした……フライって、こんなにいい匂いだったんですね。くらくらして、目が回ります」
フライが魔王として慕われているのも、よく分かった。
離れようとしても匂いに吸い寄せられて、体が言う事をきかない。
フライに頭を撫でられて、沼に沈むように体を委ねてしまう。
「すみません。私、ダメみたいです。これ以上フライの側にいると、頭がおかしくなりそうで……少し離れて、頭を冷やしますね」
フライだけの匂いでここまでおかしくなるなら、匂いに慣れるまでは魔族が沢山いる城下町なんて出歩かない方が良いかもしれない。
とにかく冷静になろうと頭を振り、フライから体を引き離そうとすると――それを拒むように、フライが私の体をぐいと引き寄せた。
「あぁ、まじかよ。俺もダメだ……離れるな。お前が変なのは、俺がお前の……対、だからだ」
「――え?」
驚いてフライの顔を見ると……フライの顔が真っ赤になっていた。
「対……」
ぶわりと、一瞬で私の顔も真っ赤に染まる。
これが、対の匂い。匂いに包まれていると、冷静でなんていられない。頭がくらくらして、離れるのを拒むように、体が吸い寄せられる。
「対は……お前、だったのか。どれだけ探させんだ」
引き寄せられるように、お互いの唇が重なる――寸前。私の頭を、フライが胸元にバフリと押し込んだ。
「やべぇって。無理無理。キス一つで終わらせる自信なんかねぇよ」
「な、なんてこと言うんですかっ」
押し付けられたフライの胸から、ばくばくとした鼓動が伝わってきた。




