第9話:玄関先のティータイム
マンションの三階、外気と直接つながる共用廊下には、冬の訪れを告げる冷たい風が容赦なく吹き抜けていた。
瀬戸文乃の「少しだけ温かい麦茶でも」という呼びかけに対し、佐伯航平はまるで重大な規律違反を指摘された新兵のように背筋を強張らせ、激しく両手を横に振った。
「い、いえ! 滅相もありません! 独身の女性のお部屋に、こんな身なりの男が上がり込むなんて常識外れにもほどがあります! それに、これ以上瀬戸さんのお時間を奪うわけには――」
いつもの、鉄壁の拒絶と恐縮。
だが、その生真面目すぎる断りの言葉を遮るように、航平の足元から小さな音が漏れた。
――コホッ、コホッ。
乾いた、小さな咳払い。
見下ろすと、トトロのぬいぐるみを胸に抱きしめたすずが、喉の奥を小さく鳴らしながら、ぺろりと自分の唇を舐めていた。朝起きてから水の一滴も口にせず、パジャマ姿のまま慌てて部屋を飛び出してきたのだ。乾燥した冷たい空気を吸い込んで、幼い喉がカラカラに渇いてしまっているのは明白だった。
さらに、靴下も履いていない裸足の足指が、冷え切ったカーペットの上でぎゅっと丸まり、寒さで薄いピンク色から紫色へと変わりかけている。
「すず……っ、喉渇いたのか?」
航平が狼狽えて膝をつく。
すずはトトロの耳を握りしめ、申し訳なさそうに小さく頷いた。
「……パパ、のど、ペタペタする」
「あ……すぐ部屋に戻ってお水飲もうな。瀬戸さん、お気遣い本当にありがとうございました、僕たちはこれで――」
「佐伯さん」
文乃はすっと片手を挙げ、航平の言葉を穏やかに制した。
航平が何を恐れているかは痛いほど分かっていた。
朝の十時、寝起きのボロボロのスウェット姿の男が、年下の独身女性の部屋に上がり込むことの世間体。相手に対する遠慮。そして「娘を口実に女性に近づいている」と邪推されることへの、潔癖なまでの警戒心。
ならば、部屋に上げる必要など最初からない。
「お部屋の中まで上がっていただくつもりはありません。靴を脱ぐ必要もありませんから、ここで――この玄関先で、すずちゃんに少しだけお茶を飲ませてあげてください。外は寒すぎます」
「え……玄関先、ですか?」
「はい。一分で用意しますから、すずちゃんを抱っこして、ドアの内側に入っていてください」
文乃はそれだけ言い残すと、航平が反論する間を与えずに踵を返した。
玄関のたたきは、先ほどハッカ油を垂らしたぬるま湯で拭き上げたばかりで、埃ひとつなくピカピカに磨かれている。文乃はシューズボックスの脇に立てかけてあった、通販の衣類が入っていた清潔で厚みのある平らな段ボール板を一枚取り出した。
それを四つ折りに畳み、たたきの真ん中、上がり框のすぐ下に敷く。さらにその上に、ふかふかのウールで編まれた小さな生成りのひざ掛けを二つ折りに敷き詰めた。
「すずちゃん、ここにおいで。お靴を脱いでも冷たくないよ」
文乃が手招きすると、すずはおずおずと視線を父親に向けた。
航平は廊下に立ち尽くしたまま、文乃が即席で作り上げた「特設ベンチ」の清潔さと細やかな気遣いに圧倒され、喉を詰まらせていた。
「瀬戸さん……そこまでしていただくなんて……」
「いいから、風邪を引かせたら大変です。ほら、すずちゃん、座って」
すずはトタトタと廊下から足を踏み入れ、段ボールとひざ掛けの上に、ちょこんと正座するように腰を下ろした。柔らかな毛布の温もりが冷えた足裏に触れたらしく、「あ……あったかい」と小さく吐息をもらす。
「佐伯さんは、そこに立っていて大丈夫ですからね。すぐ持ってきます」
文乃は小走りでキッチンへ向かった。
温かいお茶と言ったものの、小さな子どもは熱い飲み物が苦手だ。冷たすぎても胃を冷やしてしまう。
文乃は冷蔵庫のドアポケットから、愛用しているガラスピッチャーを取り出した。中に入っているのは、国産の六条大麦を丸ごと使い、前日の夜からじっくりと水出ししておいた自家製の麦茶だ。市販のペットボトルのような苦味や酸味がなく、大麦の殻が持つ素朴な甘みと、ふくよかな香ばしさがそのまま溶け出している。
これを電子レンジで十秒だけ温め、冷たさを和らげて常温に近い温度に整える。すずの小さな手でも滑らないよう、表面に凹凸のある強化ガラスの小さなグラスに八分目まで注いだ。
さらに、冷蔵庫の野菜室から、木曜日にカレーを作った際に残っていた『サンふじリンゴ』を半分取り出す。
すずの喉の渇きを潤し、固形物を咀嚼させるための、ちょっとしたおやつ。
包丁を握り、素早く皮を剥く。ただし、子どもの小さな口と喉を考慮し、通常の八等分のくし形ではなく、さらに厚みを半分にした極薄のスライスに仕立てた。薄くスライスされたリンゴは、噛む力が弱い幼児でもシャリシャリと小気味よく音を立てて噛み砕くことができ、果汁がじゅわりと舌の上に広がる。
淡い青色の波佐見焼の小皿に、扇状に美しく並べたリンゴ。小さな竹製の菓子楊枝を添え、麦茶のグラスと一緒にお盆に乗せる。
キッチンを出るまで、わずか二分。
玄関ホールに戻ると、なんとも微笑ましく、そして少しだけ不器用な光景が広がっていた。
たたきの上に敷かれたひざ掛けの上で、すずがトトロのぬいぐるみを膝に乗せ、背筋をピンと伸ばして座っている。
そしてその半歩後ろ、玄関のドアの枠に張り付くようにして、航平が長身を極限まで小さく縮こまらせて立っていた。片足は玄関の内側、もう片足は廊下という、いつでも逃げ出せるようなぎこちない姿勢。左右チグハグの履き物(右がベランダサンダル、左がスリッパ)のまま、彼は部屋の壁や靴箱に指一本触れまいと、両手を体の横にぴたりと揃えて固まっていた。
「お待たせしました。すずちゃん、喉渇いたでしょう。麦茶、少しだけ冷たさを取ってあるから、飲んでみて」
文乃はすずの前にしゃがみ込み、お盆から麦茶のグラスを手渡した。
「あやのちゃん、ありがとう……!」
すずは両手でしっかりとグラスの側面を包み込み、小さな唇を縁に当てた。
ごくん、ごくん、と喉を鳴らして飲む。
大麦の香ばしい香りが喉を通るたびに、すずの強張っていた頬の筋肉が、目に見えて緩んでいくのが分かった。ふう、と息を吐き出し、グラスの中身が半分以上減ったところで、すずは満面の笑顔を咲かせた。
「……ぷはぁ! おいしい! お茶、あまい!」
「ふふ、よかった。こっちのリンゴも食べてね。薄く切ってあるから、サクサク食べられるよ」
小皿をすずの膝の前に差し出すと、すずの瞳がキラリと輝いた。
「りんご! すず、りんごすき!」
楊枝を器用に使い、薄切りのリンゴを一切れ口に運ぶ。
シャクッ、シャクッ。
心地よい咀嚼音が、静かな玄関に響き渡る。
「あまい! お汁がいっぱいでる! しゃくしゃくする!」
「甘いでしょう。長野のおばあちゃんが送ってくれたリンゴなのよ」
美味しそうにリンゴを頬張るすずの頭上から、消え入るような航平の声が降ってきた。
「……瀬戸さん。本当に、何から何まで……すみません。僕が至らないばかりに、こんな……」
航平は頭を下げたまま、耳の先まで真っ赤にして身を縮めていた。
大人の男が、休日の朝にパジャマ姿の娘を連れて、隣の家の玄関のたたきで施しを受けている。その状況の情けなさに、彼の中の理性と自尊心が激しく軋みを上げているのが手にとるように分かった。
文乃は立ち上がり、航平と目線を合わせた。
「佐伯さん、謝らないでください。私、土曜日の午前中はいつもこうして玄関を掃除しているんです。一人で掃除して、一人でお茶を飲むよりも、こうしてすずちゃんが美味しそうに麦茶を飲んでくれる方が、ずっと楽しいですから」
「ですが……」
「それに、ほら。すずちゃん、すごく嬉しそうですよ」
文乃が促すと、すずは二切れ目のリンゴを口に咥えたまま、顔を上げて文乃の部屋の奥をくんくんと鼻を鳴らして嗅いだ。
「あやのちゃんのおうち、すっごくいいにおいがする」
「え? 私の部屋?」
「うん! いいにおい。……お出汁のにおい!」
すずのその無邪気な言葉に、文乃は思わずハッと目を見張った。
四歳の子どもの嗅覚は、大人が思っている以上に敏感だった。
昨夜のチキンカレーのスパイスの奥に潜んでいた昆布と味噌の気配。そして、今朝の換気扇の奥に残る、昨日までに煮出した一番出汁の名残。自分にとっては当たり前になっていた部屋の空気を、すずは正確に「お出汁のにおい」と言い当てたのだ。
「すずちゃん、お出汁の匂い、分かるの?」
「うん! カボチャのときも、たまごのときも、このにおいしたもん。すず、このにおい、だいすき!」
すずは両手を広げて、全身でその香りを表現するように笑った。
その天真爛漫な笑顔を見つめながら、文乃の視線は、自然とすずの頭へと向かった。
左右に綺麗に分けられた、細い二本の三つ編み。
近くでよく見ると、右側の三つ編みは少し太めで編み目がゆったりとしており、左側の三つ編みは細めで編み目がキュッと詰まっている。毛先を留めているシリコンのゴムも、右が黄色で左がピンク。決してプロの美容師のような左右対称の美しさではない。
けれど、その一本一本の編み込みには、短い子どもの後れ毛を逃すまいと、何度も指先を通した痕跡があった。痛がらせないように、けれど崩れないようにと、丁寧に、丁寧に編み込まれたのが分かる、手の温もりに満ちた三つ編みだった。
「すずちゃん、三つ編み、すごくお上手ね。髪の毛、とっても可愛いわ」
文乃が屈んで三つ編みの毛先をそっと指先で撫でると、すずは誇らしげに胸を張った。
「パパが結んでくれたの! きょうは、痛くなかったよ!」
「パパが?」
文乃が驚いて顔を上げると、ドア枠に立っていた航平が、まるで秘密を暴かれた子どものようにビクッと肩を跳ね上がらせた。
「あ……いや、その……」
航平は居心地悪そうに視線を泳がせ、右手で自分の跳ねた寝癖の頭をガシガシと掻いた。
「すみません、不恰好で……。僕、手先があまり器用じゃなくて。妻が……元妻がいなくなってから、すずの髪を結ぶのも僕の仕事になったんですが、最初はゴムで縛ることすらできなくて、すずを泣かせてばかりで……」
航平の声は小さく、けれどその奥には、彼が娘のために積み重ねてきた悪戦苦闘の歳月が滲み出ていた。
「毎朝、YouTubeの動画を見ながら練習してるんです。『幼児の三つ編みの結び方』とか『崩れないヘアアレンジ』とか、そういう動画を一時停止しながら……。でも、男の手だとどうしても加減が分からなくて、いつも左右で太さが違っちゃったり、編み目が歪んでしまって。母親がいれば、もっと可愛く結んでやれるんでしょうけど……僕の腕じゃ、これが限界で」
自嘲気味に笑う航平の横顔。
そこには、母親という存在を奪ってしまったことに対する、消えない罪悪感と負い目が影を落としていた。
自分は母親の代わりにはなれない。料理も下手で、髪を結ぶのも不器用で、娘に寂しい思いばかりさせている――そんな痛ましいまでの自責が、彼の言葉の端々からこぼれ落ちていた。
文乃の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
違う。
そんなことは、絶対にない。
文乃は立ち上がり、廊下で縮こまる航平の真正面に立った。
そして、逃げようとする航平の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「佐伯さん」
「は、はい……」
「とても、綺麗に結べています」
はっきりとした、けれど温かな声で文乃は告げた。
「左右の太さが少し違うのだって、すずちゃんのつむじの位置や髪の生え癖をちゃんと見て結んでいる証拠です。毛先まで解けないように、こんなに丁寧に三つ編みにするの、大人の女の人だって慣れていなきゃ難しいんですよ。毎朝動画を見て、練習して……佐伯さんがどれだけすずちゃんのことを大切に想って結んでいるか、この三つ編みを見れば誰にだって分かります」
「瀬戸、さん……」
航平は息を呑み、目を見開いた。
文乃はふわりと笑みを深め、たたきの上に座るすずへと視線を移した。
「すずちゃん。パパが毎朝、一生懸命結んでくれて、嬉しいね」
すずはリンゴを飲み込み、満面の笑みで大きく頷いた。
「うん! パパの三つ編み、すず、だーーいすき!」
「…………っ」
航平の喉仏が、大きく上下した。
その双眸に、じわりと熱いものが滲み出そうになるのを、彼は必死で奥歯を噛み締めて押し留めていた。
誰にも褒められたことなどなかった。
毎朝のバタバタの中で、泣かれながら、焦りながら、歪な三つ編みを結び、保育園へと駆け込む日々。周囲の母親たちの華やかなヘアアレンジを見るたびに、「自分のせいでみすぼらしい思いをさせているのではないか」と自分を責め続けていた。
その不器用な格闘を、この女性は「愛情」だと肯定してくれたのだ。
航平は耐えきれなくなったように視線を天井へと逸らし、手元をぎゅっと握りしめた。
「……ありがとうございます。瀬戸さんにそう言っていただけると……救われます」
掠れた、けれど芯のある男の声。
その耳の付け根は、やはり真っ赤に染まっていた。居心地が悪そうに、けれどどこか誇らしげに視線を漂わせる航平の姿に、文乃の口元も自然とほころぶ。
すずは空になったグラスと小皿をお盆の上に戻し、ひざ掛けの上で「ごちそうさまでした!」と両手を合わせた。
「おいしかった! あやのちゃん、ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした。すずちゃん、喉、もう痛くない?」
「うん! 痛くない!」
すずはトトロを抱き直し、立ち上がった。
航平がようやく半歩足を踏み入れ、すずの小さな手を包み込むように握りしめた。
「瀬戸さん……朝から、本当にありがとうございました。お茶までいただいてしまって……何とお礼を言っていいか分かりません」
「お礼なんていりませんよ。すずちゃんが元気になってよかったです」
「……はい。あの、タッパーは……木曜日のタッパーは、今日中に洗って、またお返ししますので」
「急がなくて大丈夫ですからね。佐伯さんも、今日はお仕事お休みなら、少しはゆっくり休んでくださいね」
「……ありがとうございます。失礼します」
航平は深々と頭を下げた。
すずも真似をして、ペコリと頭を下げる。「あやのちゃん、ばいばい!」。
「ばいばい、すずちゃん。またね」
二人が廊下へ出て、三〇二号室のドアへと向かう。
すずは父親の手をぶんぶんと振りながら、スキップするように弾む足取りで歩いていた。その背中で、パパの手によって結ばれた二本の歪な三つ編みが、初冬の柔らかな光を浴びて、楽しそうに左右へと揺れていた。
ガチャリ、と隣のドアが開き、二人の姿が吸い込まれ、静かに閉じる。
三階の内廊下に、再び静寂が戻ってきた。
文乃は、たたきの上に敷かれた段ボールとひざ掛けを片付け、空になった小さなグラスと小皿を抱えてキッチンへと戻った。
シンクの蛇口をひねり、グラスをスポンジで洗う。
ふと、洗い桶に映る自分の顔を見た。
そこには、自分でも驚くほど穏やかで、満ち足りた表情を浮かべた自分がいた。
一人暮らしの静かな週末。
誰にも邪魔されない自分の城。
かつてはそれが何よりも心地よかったはずなのに、ほんの十分前まで玄関先に満ちていた、あの幼い笑い声と、不器用な父親の照れたような声の残響が、今の文乃の胸をじんわりと温め続けていた。
「……お出汁のにおい、か」
文乃はキッチンの空気を胸いっぱいに吸い込み、ふふっと一人で笑った。
壁一枚を隔てた向こう側で、あの小さな三つ編みが揺れている日常。
その距離が、ほんの少しずつ、けれど確かに縮まり始めていることを感じながら、文乃は残りの掃除を片付けるために、軽やかな足取りでリビングへと戻っていった。




