第10話:職場の先輩・佳奈のツッコミ
オフィス街特有の乾いた風が、高層ビルの谷間を吹き抜けていく。
月曜日の正午を告げるチャイムが、フロアのスピーカーから控えめな電子音となって鳴り響いた瞬間、それまでキーボードを叩く音と電話の呼び出し音で満たされていた営業フロアの空気が、ふっと弛緩した。
「――以上で、午前の伝票処理はすべて完了です。飯島課長、午後一番の営業会議用の資料、デスクの右側に置いておきました」
「ああ、瀬戸さん、いつも助かるよ。段取りが完璧だから、僕は何の心配もなく会議に出られるよ」
直属の上司である飯島誠課長が、柔和な目尻をさらに下げて穏やかに頷く。
瀬戸文乃は「お疲れ様です」と丁寧に一礼すると、自席の引き出しから小さな布包みを取り出した。
中堅食品メーカー『ヒノデフーズ』の営業事務として働き始めて六年目。受発注の管理や在庫の調整、営業担当たちが持ち込んでくる無理難題な見積書の修正など、文乃の日常は地味だが息の抜けない作業の連続だ。そんな文乃にとって、一日のちょうど折り返し地点にあるこの昼休みの四十五分間は、乱れた呼吸を整えるための大切な止まり木だった。
まずは給湯室へと向かう。
ステンレスのシンクが綺麗に磨かれた給湯室で、文乃は自分専用の陶器のマグカップに、実家から送られてきた深蒸し茶の茶葉を急須で淹れる。給湯器の熱湯を一度湯呑みに移して湯冷ましし、八十度ほどに落としてから茶葉へと注ぐ。立ち上る青く芳しい蒸気が、午前中のパソコン作業で凝り固まった目元の奥をじんわりと解きほぐしてくれる。
急須の最後の一滴まで丁寧に落とし切ると、文乃は熱いマグカップを手に、自席へと戻った。
デスクの上に広げたのは、濃紺の麻の風呂敷だ。
結び目をほどくと、中から現れたのは、文乃が三年前に奮発して購入した秋田杉の曲げわっぱのお弁当箱だった。漆を塗らず、白木のまま仕上げられた二段重ねの小判型。木の呼吸を妨げない無塗装の杉は、ご飯の余分な水分を吸い取り、冷めても米粒の弾力と甘みを保ってくれる最高の相棒だ。
深呼吸をひとつして、上段の蓋をそっと外す。
ふわりと、出汁と醤油の優しい香りが鼻腔をくすぐった。
「……うん、崩れてない」
思わず小さく頬が緩む。
上段に詰められているのは、彩り豊かなおかずの数々だった。
メインを張るのは、きつね色の照り焼きタレをまとった『野菜の肉巻き』だ。
豚ロースの極薄切り肉で巻かれているのは、極細の千切りにした人参と、下茹でして筋を取ったインゲン。大人の弁当なら豪快に太く切った野菜を巻くところだが、この肉巻きは違っていた。中の野菜は一本あたり二ミリ角ほどの極細に切り揃えられ、豚肉の繊維を断ち切るように柔らかく火が通されている。これなら、乳歯が生え揃ったばかりの幼児の小さな口でも、前歯で容易に噛み切ることができ、野菜が喉に引っかかる心配もない。仕上げに絡めたタレも、みりんと出汁を多めに含ませた、角のない優しい甘辛味だった。
その隣に並ぶのは、文乃の代名詞とも言える『甘口のだし巻き卵』。
土曜日の朝、隣のすずちゃんが「ぷしゃーってお出汁が出た!」と目を輝かせて頬張ってくれた、あのレシピそのままの配合だ。焦げ目ひとつない見事なレモンイエローの断面が、杉の白木に美しく映えている。
さらに、隙間を埋める副菜には『人参しりしり』。
細かく削った人参を、たっぷりのツナと炒め合わせ、鰹出汁と溶き卵でふんわりとまとめ上げたもの。人参特有の青臭い土の匂いはツナの旨味と卵のまろやかさで完全に覆い隠され、鮮やかなオレンジ色が弁当箱の隅で花のように咲いていた。
下段の蓋を開けると、ふっくらと炊き上げられた白米が顔を出す。その中央には、実家の祖母が漬けた昔ながらの赤紫蘇の梅干しが鎮座し、黒胡麻が上品に散らされていた。
赤、黄、緑、白、黒。
栄養学の基本である五色が完璧に調和した、目にも鮮やかで、どこまでも温もりを感じさせるお弁当。
文乃が割り箸を割り、「いただきます」と小さく手を合わせた、まさにその瞬間だった。
「…………じぃーーーー」
右斜め前のデスクから、強烈な視線のプレッシャーが突き刺さってきた。
文乃が箸を止めて視線を上げると、隣のデスクの先輩社員――倉田佳奈が、コンビニのサンドイッチの袋を片手に持ったまま、細めた双眸で文乃のお弁当箱を凝視していた。
「……あ、あの、倉田先輩? 私の顔に、何か付いてますか?」
文乃がおずおずと尋ねると、佳奈はデスクのキャスター付きチェアをガラガラと音を立てて引き寄せ、文乃のパーソナルスペースへ一気に侵入してきた。
今年で三十二歳になる佳奈は、仕事ができて面倒見が良く、社内でも頼れる姉貴分として知られている。既婚で共働き、私生活でも歯に衣着せぬ物言いで後輩たちから慕われているが、その観察眼の鋭さは社内一と恐れられていた。
佳奈は片肘を文乃のデスクのパーティションにつき、ジトッとした眼光でお弁当箱の隅々をスキャンするように見つめた。
「ねえ、文乃ちゃん」
「は、はい」
「ちょっと、お弁当のレパートリー、露骨に変わってない?」
「えっ……? そ、そうですか?」
文乃の心臓が、トクンと嫌な音を立てて跳ねた。
佳奈はサンドイッチを包装紙から少し引き抜き、かじることもせずに文乃のお弁当を人差し指で指し示した。
「そうですよ、大ありですよ。あんた、先月までのお弁当、どんなんだったか覚えてる? 切り干し大根の煮物に、ひじきと大豆の煮物、蓮根と牛蒡のきんぴら。茶色、茶色、ときどき緑のほうれん草。地味だけど滋味深い、いかにも『丁寧な暮らしを満喫してる一人暮らしOLの地味弁』の極みだったじゃないの」
「そ、それは……煮物は作り置きがききますし、身体にも優しいですし……」
「そうよ、それはそれで文乃ちゃんらしくて美味しそうだったわよ。でもね」
佳奈はぐっと顔を近づけ、低い声で核心を突いてきた。
「ここ一〜二週間のあなたのお弁当、何なのその異様な可愛らしさは。肉巻きの野菜、わざわざ極細に刻んで柔らかくしてあるし、人参しりしりはツナと卵で徹底的に苦味を消してあるし、極め付けはその卵焼き! あんた、昔『卵焼きは甘くない出汁巻き派です』って給湯室で熱弁してたわよね? なんで最近、見るからにみりんと砂糖が効いてそうな甘口の黄色い卵焼きばっかり巻いてるわけ?」
「っ……!」
文乃の喉が、ヒュッと音を立てて詰まった。
佳奈の観察眼は、文乃の予想を遥かに超えて正確だった。
自分では「作り置きのおかずを適当に詰めただけ」のつもりだった。だが、無意識のうちにすずちゃんの口に合わせて仕込んだ常備菜――苦味を消し、繊維を細かく刻み、甘みと出汁でコーティングしたおかずたちを、自分の弁当箱にもそのまま詰めて持ってきていたのだ。
「し、しかもよ」
佳奈の追撃の手は緩まない。彼女は手元のスマホをピッと操作し、文乃の目の前に突きつけた。
「先週の金曜日、あんたが『実家から野菜が届いたので常備菜作りました』って社内チャットの雑談部屋に上げた冷蔵庫の写真。私、見逃さなかったわよ。タッパーの数、先月の倍に増えてたじゃない。一人暮らしの小さな冷蔵庫に、深型の耐熱ガラスタッパーがギッチギチに積み上がってたわよね? あんなの、成人女性の一人暮らしで一週間に消費できる量じゃないわよ。フードファイターでも目指してんの?」
「ごほっ、げほっ……!」
文乃は慌てて口に含んだ熱い緑茶を吹き出しそうになり、激しく咳き込んだ。
喉が焼けそうになりながら、ペーパーナプキンで口元を押さえ、涙目で佳奈を見上げる。
「ち、違います! 倉田先輩、違います! あれは……その、冷凍保存用のストックです! 今月は営業事務の伝票処理が月末にかけて忙しくなるから、平日に包丁を握らなくていいように、休日のうちにまとめて一ヶ月分くらいのベースを作っておこうと……そう、時短のためのライフハックなんです!」
「ふぅん……? ライフハック、ねえ?」
佳奈は顎に手を当て、疑わしげに目を細めた。
「でもねえ、文乃ちゃん。冷凍ストックにするなら、小分けのジッパー袋に入れるのが常識でしょ。なんでわざわざ、あの高くて重たい耐熱ガラスの大きなタッパーに、三人前ずつドカンと詰めて保存してるわけ? まるで――誰かにそのまま手渡しして、温めて食べてもらうのを前提にしてるみたいじゃない」
「っっっ…………!!」
心臓を素手で鷲掴みにされたかのような衝撃が、文乃の全身を駆け巡った。
図星だった。
あまりにも完璧に図星を突かれすぎて、文乃の口からは「あ」とも「う」ともつかない掠れた空気しか漏れ出てこない。
誰かに手渡しするため。
隣の三〇二号室に住む、あの限界まで働き詰めて今にも倒れそうな佐伯航平と、偏食で泣き叫んでいた小さなすずちゃんに、いつでも「余り物ですから」と言って差し出せるように。そのために、あえて小分けにせず、二人分の夕食としてちょうどいい分量を、あの四角いガラス容器に詰め込んでいたのだ。
顔から一気に血の気が引いていく文乃の耳元で、佳奈がニヤリと唇の端を吊り上げた。
「ほーら、図星。分かりやすすぎるのよ、文乃ちゃん。あんた嘘つく時、左の手首を反対の手でぎゅっと握る癖があるんだから」
「あ……」
言われて初めて気づき、文乃は慌てて自分の左手首を放した。だが、もう完全に遅かった。
佳奈がさらに身を乗り出し、文乃を尋問の檻へと追い詰めようとした、まさにその瞬間――。
「おや、瀬戸さん。今日のお弁当も、一段と見事だねえ」
のんびりとした、腹の底から響くような低い声が、二人の頭上から降ってきた。
振り返ると、そこには社食のランチを済ませて楊枝をくわえた飯島課長が、両手をズボンのポケットに突っ込んで立っていた。四十代後半の丸みを帯びた体型と、いつも社員を温かく見守る柔らかな笑顔。社内のどんな揉め事も、この人が間に入ると不思議と角が取れて丸く収まるという、頼れる課長だった。
飯島は文乃の曲げわっぱを覗き込み、感心したように何度も頷いた。
「いやあ、素晴らしい彩りだ。赤、黄、緑とバランスが取れていて、見ているだけで胃袋が刺激されるよ。うちの妻も昔はよくこういう肉巻きを作ってくれたんだが、子どもたちが大きくなって家を出てからは、すっかり手抜きになっちゃってねえ」
「か、課長……」
文乃が救いの神を見るような目で見つめると、飯島は温和な笑みを絶やさないまま、佳奈の方を向いた。
「倉田さん、あんまり瀬戸さんをからかっちゃいけないよ。料理っていうのはね、食べる人の段取りの良さがそのまま出るものなんだ。食材を買い揃え、下ごしらえをして、火加減と時間を計算して、決められたスペースに美しく収める。これだけのことができる人間はね、仕事の工程管理も絶対に正確なんだよ。だから瀬戸さんの受発注データには入力ミスが一つもない。僕はいつも感謝してるんだ」
「もう、課長ったら。瀬戸さんを甘やかすんだから」
佳奈は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「でも、課長の言う通りですけどね。文乃ちゃんの段取りの良さは、うちの部署の宝ですから」
「ははは、そうだろう。じゃあ瀬戸さん、ゆっくりお昼を食べて午後もよろしく頼むよ。僕もそろそろ会議の準備をしなきゃな」
飯島課長は機嫌よく自分のデスクへと戻っていった。
フロアに漂っていた張り詰めた空気が一気に霧散し、文乃はデスクの下で大きく安堵のため息を吐き出した。助かった。課長の呑気な助け舟がなければ、今頃佳奈にすべてを白状させられていたところだった。
文乃は冷めかけたお茶を一口飲み、小さく息を整えた。
だが――。
「……課長は騙せても、私は騙されないわよ」
低く、湿り気を帯びた囁き声が、文乃の右耳のすぐ真横で響いた。
ハッとして顔を横に向けると、飯島が去った隙を見計らって、佳奈が再び椅子を詰め寄せていた。
その表情には、先ほどのからかいの色は微塵もなかった。
真剣で、どこか厳格で、本気で後輩の身を案じている大人の女性の、鋭い眼光。
「倉田、先輩……?」
「文乃ちゃん。あんたね、嘘をつく時の癖だけじゃないのよ」
佳奈は身を乗り出し、文乃の目を逃げ場のない距離で見据えた。
「今のあんたの顔、完全に『誰かに自分の作ったご飯を食べさせてる女の顔』をしてるの」
「っ……!」
「誰かが自分の料理を美味しそうに食べてくれて、その笑顔を見て、胸の奥がいっぱいになって……そういう幸福感を知っちゃった人間の顔をしてるのよ。一人暮らしで自分のためだけに自炊してる人間が、そんな満たされた、とろけそうな顔でお弁当箱を見つめるわけがないでしょ」
文乃は息を呑んだ。
反論の言葉が、一つも浮かんでこなかった。
土曜日の朝、玄関のたたきの上で、小さな手でグラスを握りしめて「お茶あまい!」「お出汁のにおい、だいすき!」と満面の笑みを浮かべてくれたすずちゃんの顔。
そして、爆発した髪と左右チグハグの履き物のまま、真っ赤になって「生まれて初めてこんなに美味しいカレーを食べました」と頭を下げてくれた航平の姿。
あの瞬間に文乃の胸を満たした、言葉にできない温かな感情。
それを、佳奈はただ文乃の表情を見ただけで、完全に看破していたのだ。
佳奈は静かに息を吐き出し、オフィスの周囲に人がいないことを確認してから、文乃の耳元にさらに顔を寄せた。
「……相手は、誰なの?」
「え……」
「男でしょ。それも、一人じゃない気配がする。さっきのおかずの作り方、どう見ても小さな子ども向けよ。……まさかとは思うけど、子持ちの男?」
「…………っ」
文乃の喉が痙攣した。
なぜ、そこまで分かるのか。佳奈の洞察力は、もはや恐怖の領域に達していた。
動揺して言葉を失う文乃に対し、佳奈は普段の陽気な先輩の仮面を完全に脱ぎ捨て、冷徹なまでの現実を突きつけるように、低い声で釘を刺した。
「文乃ちゃん。よく聞きなさい」
その声には、深い、深い棘のような心配が込められていた。
「男の胃袋を掴むなんてね、料理が上手な女なら誰だってできるのよ。出汁を利かせて、相手の好みの味付けにして、温かいものを差し出せば、どんな男だってコロッと転がるわ。そんなの、簡単すぎるの」
「先輩……」
「大事なのは、そこじゃないの」
佳奈の瞳が、文乃の心の奥底を射抜く。
「大事なのは、その男が、あなたのその料理を作る『手』を大事にしてくれるかどうかよ」
「……手?」
「そうよ」
佳奈は文乃の膝の上に置かれた、小さな白い手をそっと指先で叩いた。
「野菜をすりおろして、出汁を引いて、毎日火の前に立って……その手がどれだけの時間を費やして、どれだけの労力をかけているか。それを当たり前だと思って、タダで美味い飯が食える便利な女として消費するようなクズ男なら、今すぐそのタッパーを取り上げて縁を切りなさい」
「佐伯さんは……っ、そんな人じゃありません!」
文乃の口から、無意識のうちに名前が飛び出していた。
咄嗟に口を押さえたが、もう遅かった。
佳奈は「佐伯さん、っていうのね」と小さく呟き、けれどそれ以上名前を追及することはせず、真剣な眼差しのまま言葉を続けた。
「相手がどんなに真面目そうに見えてもよ。子持ちの男が、独身の若い女の善意に甘え始めたら、最後は家事も育児もなし崩しに押し付けられるのがオチなの。あなたがどんなに好きでやってるとしても、相手がそれに甘えきったら、それはただの搾取よ。……変な男に都合よく使われて、ボロボロになって泣く文乃ちゃんなんて、私は絶対に見たくないの」
佳奈の言葉は、鋭利なナイフのようだった。
けれど、その刃の根元には、文乃を本気で守ろうとする、痛いほどの愛情が詰まっていた。
職場の先輩として。同じ社会を生きる女性として。
世の中に溢れる「善意につけ込む無自覚な搾取」の構造を、佳奈は嫌というほど知っているからこそ、文乃にこれほど厳しく釘を刺しているのだ。
「……分かってるわね?」
佳奈が最後にそう念を押すと、文乃はゆっくりと、けれど深く頷くことしかできなかった。
「……はい。ありがとうございます、先輩」
「よろしい。なら、もう何も聞かないわ。お弁当、冷めちゃうから早く食べなさい」
佳奈はそう言うと、いつものサバサバした調子に戻り、自分のサンドイッチを大きく一口かじった。
「……でも、その肉巻き、一口ちょうだい。一個だけでいいから」
「あ、はい……どうぞ」
文乃がお弁当箱を差し出すと、佳奈は割り箸で器用に肉巻きを一つ摘み、口へと放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼した瞬間、佳奈の眉がピクリと跳ね上がり、それからなんとも言えない複雑な顔で天井を見上げた。
「……クソっ、めちゃくちゃ美味いわね。中の人参が柔らかくて、タレの甘みが絶妙だわ。……こんなの胃袋に叩き込まれたら、そりゃ男も子どももイチコロだわよ、馬鹿」
悪態をつきながらも、佳奈の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
文乃は、苦笑いを浮かべながら、自分も箸を手に取った。
曲げわっぱの隅に残った、一切れの甘いだし巻き卵。
口に運ぶと、じゅわりと出汁とみりんの甘みが広がり、舌の上で優しく解けていく。
――佐伯さんは、私の手を大事にしてくれているだろうか。
佳奈の言葉が、胸の奥で重い波紋を広げていた。
航平は決して、文乃を利用しようなどとはしていない。
むしろ、迷惑をかけまいと必死で拒絶し、タッパー一つ返すのにも指紋を拭き取り、土曜日の朝には左右チグハグの履き物のまま、床に頭を擦り付けて平謝りしていた。あんなに不器用で、あんなに他人への遠慮に身を縮めている男が、文乃を搾取しようとするはずがない。
それは、文乃自身が一番よく知っていた。
けれど――。
文乃の善意が、いつかあの人を追い詰めてしまうのではないか。
あるいは、自分自身が「お隣の親切なお姉さん」という無害な仮面を被ったまま、知らず知らずのうちにあの二人の生活の中に踏み込みすぎてしまっているのではないか。
冷めかけたお弁当箱を見つめながら、文乃の胸の奥に、ほんの少しだけ冷たい影が落ちていた。
美味しいはずの肉巻きの味が、先ほどよりも少しだけ、大人のほろ苦さを帯びて感じられた。




