第11話:航平の親友・陸の助言
渋谷の喧騒から少し外れた路地裏、築年数の浅い雑居ビルの四階。
深夜一時を回ったオフィスの中は、空調の微かな送風音と、規則正しいメカニカルキーボードのタイピング音だけが、静寂の底に沈むように響いていた。
ブラインドの下ろされた窓の向こうには、遠く首都高速を走る車のヘッドライトが、かすかな光の尾を引いている。フロアの主照明は落とされ、幾つも並んだデスクの中で、角の一角だけがマルチディスプレイの放つ青白い光によって浮かび上がっていた。
佐伯航平は、両手の指先を激しく動かしながら、画面に並ぶコードの羅列と睨み合っていた。
フロントエンドエンジニアとしての航平の仕事は、緻密さとスピードの極限を求められる。数万行に及ぶJavaScriptのフレームワークを組み立て、画面の描画パフォーマンスをミリ秒単位で削ぎ落とす。
先週の水曜日なら、この時間帯の航平はすでに集中力を完全に切らし、頭痛薬を胃に流し込みながら、朦朧とした意識の中でエラーログを睨みつけていたはずだった。深夜二時に這うようにしてマンションへ帰り着き、鍵すら拾えずに廊下で崩れ落ちたあの夜の記憶は、今でも思い出すだけで背筋が凍る。
けれど今夜は、違っていた。
激務であることに変わりはない。タイトな納期と突発的な仕様変更に追われている現実も同じだ。
だが、キーボードを叩く指先に力があり、ディスプレイを見つめる視界は驚くほどクリアだった。何より、先週まで鉛のように重く淀んでいた胃の腑のあたりが、じんわりと温かく、身体の芯に確かなエネルギーが巡っているのを実感していた。
木曜日の夜に食べた、あの『すりおろし野菜のチキンカレー』。
金曜日の朝、温め直してすずと一緒に食べた二杯目のカレー。
そして土曜日の朝、隣室の玄関先でいただいた、喉の奥を滑らかに潤してくれたあの自家製の麦茶と、薄切りのリンゴ。
あの優しく豊かな出汁と野菜の滋味が、数ヶ月にわたってコンビニ弁当と栄養ドリンクでボロボロに傷めつけられていた航平の内臓を、まるで魔法のように底から立て直してくれていた。
――トン。
不意に、ディスプレイの脇に、ずしりと重みのある円柱状の物体が置かれた。
金属がデスクに触れる乾いた音。
見上げると、そこには赤と黒のパッケージが特徴的な、ホットの缶コーヒーが一本、湯気を微かに立てて置かれていた。
「ほらよ。糖分補給」
声をかけてきたのは、航平の大学時代からの親友であり、このWeb開発会社を共同で立ち上げた相棒――神谷陸だった。
陸は、ラフに崩したリネンシャツの腕をまくり上げ、首から社員証のストラップをぶら下げたまま、航平のデスクの仕切り板に寄りかかっていた。鋭い目元に無精髭をたくわえ、一見すると軽薄な業界人風に見えるが、その観察眼の鋭さとプロジェクトマネジメントの腕前は業界屈指であり、航平がシングルファザーとして過酷な状況にあることを誰よりも理解し、陰で仕事を調整して支え続けてくれている男だった。
「神谷……悪いな、わざわざ」
「いいってことよ。下の自販機でタバコ買うついでだ」
陸は自分の分のブラック無糖のプルタブをパチンと引き、一口喉に流し込むと、まじまじと航平の顔を覗き込んできた。
その視線が、航平の額、頬、そして首筋へと、品定めするように移動していく。
「……何だよ、人の顔をそんなにじろじろ見て」
航平が眉をひそめると、陸は缶コーヒーを片手に持ったまま、低く唸り声を上げた。
「いや……なあ、航平」
「ん?」
「お前、最近ちょっとおかしくないか?」
「おかしいって……何がだよ。ちゃんと進捗通りコードは上がってるだろ。明日の朝のステージング環境へのデプロイには間に合わせる」
「仕事の話じゃねえよ」
陸はデスクの空いているスペースに腰を掛け、真顔で航平の顔を指差した。
「肌のツヤだよ、ツヤ」
「……は?」
「先週のお前、マジで死神みたいな顔してたぞ。目の下にドス黒い隈作って、肌は土気色で、いつ心不全で倒れてもおかしくない能面みてえな顔してただろ。俺、本気でお前の実家の親父さんに電話して『息子さんを強制入院させます』って言おうか迷ってたレベルだったんだからな」
陸の言葉は誇張ではなかった。先週のシステム障害の際、航平の疲弊ぶりは社内でも誰もが触れられないほど痛々しいものだったのだ。
陸は目を細め、怪しむように航平に詰め寄る。
「なのに、何だ今週のお前は。隈は薄くなってるし、血色はいいし、タイピングの打鍵音まで小気味いいじゃねえか。……お前、まさか点滴でも打ったのか? それとも怪しい高級サプリに手を出したか?」
「打ってないし、サプリも買ってない」
「じゃあ何だ。コンビニの弁当をやめたのか? すずちゃんの偏食はどうなったんだよ。毎晩『野菜食わねえ、泣かれた』って頭抱えてただろ」
核心に迫る陸の問いに、航平の喉がぴくりと強張った。
嘘をつくことはできなかった。大学時代から十年の付き合いになる親友だ。誤魔化そうとすれば、かえって怪しまれて根掘り葉掘り追及されるのは目に見えていた。
航平は小さく息を吐き出し、温かい缶コーヒーを両手で包み込んだ。
缶の熱が、指先の冷たさをじんわりと溶かしていく。
「……その、ご飯を、な」
「ご飯?」
「作ってもらってるんだ」
「はあ!?」
陸の目が点になった。
「作ってもらってる? 誰に? お前の実家、山形だろ? 親父さんたちが出てきたのか?」
「違う。……お隣さんだ」
「……は? お隣さん?」
「ああ。先月引っ越したマンションの、隣の部屋の人だ。……瀬戸さんっていう、女性なんだが」
航平は観念して、ここ一週間の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
先週の金曜日に壁越しにすずの泣き声を聞かれていたこと。翌日の夕方、カボチャのそぼろ煮とだし巻き卵を「実家から野菜が届いて作りすぎたから」とお裾分けしてもらったこと。
あのカボチャを一口食べた瞬間、半年間頑なに野菜を拒み続けていたすずが「甘い」と目を輝かせ、生まれて初めて完食したこと。
そして木曜日の夜には、野菜をすべてすりおろして煮込んだチキンカレーをいただき、すずがおかわりまでして平らげたこと――。
「……信じられないかもしれないが、本当なんだ」
航平は遠くを見るような目で、静かに語った。
「その人の料理、本当にすごいんだよ。出汁が利いてて、野菜の青臭さや苦味が完全に消えていて……すずが、あんなに楽しそうにご飯を食べる姿、妻が出ていってから一度も見たことがなかった。俺自身も、そのカレーを温めて食べた時……身体の芯から温かくなって、涙が出そうになったくらいで……」
そこまで話した時だった。
――ブフォッッッ!!!
派手な破裂音が、静まり返ったフロアに響き渡った。
陸が口に含んでいたブラックコーヒーを、危うくデスクのキーボードめがけて噴射しそうになり、慌てて手元のタオルで口元を押さえて激しく咳き込んでいた。
「ゲホッ、ゴホッ! げほっ……!」
「おい、大丈夫かよ神谷……汚いな」
「だ、大丈夫か、じゃねえよ馬鹿野郎!!!」
陸は真っ赤な顔でタオルを放り出すと、猛烈な勢いで航平の両肩をガシリと掴み上げた。
その顔は、先ほどの軽薄な笑みなど微塵もなく、目を剥いて怒号を放たんばかりの迫力だった。
「お前……! おい、正気か!? ちょっと待て、話を整理させろ!」
「な、何だよ、肩が痛いって……」
「相手は隣人! 女! 一人暮らし! しかも若いんだろ!?」
「あ……ああ。確か、二十代後半くらいだと……」
「独身の年下女性から、手料理をタダで恵んでもらってんのか、お前は!?」
オフィスに突き刺さるような陸の怒声。
航平はビクッと体を跳ね上がらせ、慌てて両手を胸の前で振った。
「ち、違う! 恵んでもらってるわけじゃない! 俺だって最初は断ったんだ! 受け取れないって、何度も頭を下げた! でも、『実家から野菜が届いて一人じゃ食べきれないから』とか『カレーを大鍋いっぱいに作りすぎて冷蔵庫に入らないから助けてほしい』って……向こうがどうしてもって押し切るように渡してくるんだ!」
「バカ野郎がッッ!!」
陸は航平の胸ぐらを掴む勢いで、ギリギリと顔を近づけた。
その双眸に宿る怒りと呆れの熱量に、航平は思わず息を呑む。
「お前、本当に三十手前の社会人か!? システム設計のロジックは完璧な癖に、人間関係のロジックは幼稚園児以下かよ!」
「な……何でそんな言われ方をしなきゃいけないんだよ!」
「いいか、よく聞け!」
陸は航平の肩を揺さぶり、一言一言を噛み締めるように叩きつけた。
「世の中に! 『作りすぎたから』って理由だけで! 隣室に住む見ず知らずのシングルファザーとそのガキに! わざわざ手間暇かけて出汁引いて野菜すりおろした料理を何日も恵み続ける聖母が! どこの世界に実在するんだよッ!!」
「っ…………!!」
航平の心臓が、ドクンと激しい音を立てて跳ねた。
陸の言葉は、航平が心のどこかでずっと目を背け、蓋をし続けていた「違和感」の正体を、白日の下に容赦なく引きずり出していた。
「考えてもみろ!」
陸は人差し指を立て、航平の胸元をトン、と突いた。
「一人暮らしのOLが、仕事帰りにスーパーで買い物して、わざわざカボチャの皮を剥いて面取りして鶏そぼろの餡を作って、タッパーに詰めて隣の部屋に持ってくる? 玉ねぎと人参とリンゴをすりおろしてチキンカレー煮込んで、わざわざお前らの帰宅時間に合わせて出来立てを紙袋に入れて待ってる? そんなもん、『余り物』なわけねえだろ!!」
「それは……瀬戸さんは、料理が趣味だって……」
「趣味で他人の男と子どもの胃袋をボランティアで満たす女がいるか! 百歩譲って、その瀬戸さんって人が天性の慈愛に満ちた聖母だったとしよう。善意100%、下心ゼロ、純粋にお前らの生活を見かねて助けてくれたとしようぜ。……だとしたら、なおさらタチが悪いんだよ!」
「タチが悪いって……瀬戸さんの悪口を言うな!」
航平が思わず声を荒らげると、陸はさらに鋭い眼光で航平を睨み返した。
「瀬戸さんの話をしてるんじゃない! お前自身の話をしてんだよ、佐伯航平!!」
「…………っ」
オフィスの空気が、一瞬にして凍りついた。
陸は手を離し、デスクの縁に両手をついて、深く、重いため息を吐き出した。
そして、親友としての痛切な哀しみと厳しさを込めて、静かに語り始めた。
「航平。お前、自分が何をやってるか、本当に自覚してんのか?」
「俺は……」
「相手はな、自分の一週間の疲れを癒やすための貴重な時間と、自腹で買った食材を使って、お前ら親子のために火の前に立ってんだよ」
陸の低い声が、航平の鼓膜を震わせる。
「野菜をすりおろすのに、どれだけ腕が疲れるか知ってるか? 出汁を引いて鍋を洗うのに、どれだけの手間がかかるか知ってるか? それを、お前は『作りすぎたから助けてって言われたから』って……その薄っぺらい言い訳に都合よく乗っかって、タダで美味い飯を胃袋に収めて満足してんだよ」
「違う……俺はそんな、都合よく使おうなんて……!」
「結果として同じなんだよ!」
陸の声が、ピシャリと航平の弁解を切り裂いた。
「相手が善意で差し出してくれたからって、男のお前がそれに無抵抗に甘えきったら、それはただの搾取だ。独身の若い女性の労働力と善意にタダ乗りして、自分の育児の苦労を肩代わりさせてるだけの、無神経な子持ち男と何が違うんだ?」
「…………っっっ」
航平は息が止まった。
血の気が一気に引き、指先から体温が奪われていく。
搾取。
タダ乗り。
無神経な子持ち男。
その言葉の刃は、航平がこれまでもっとも恐れ、もっとも忌み嫌い、絶対にそうはなるまいと必死に抗い続けてきた「醜悪な男の姿」そのものだった。
妻が出ていき、一人ですずを育てると決めたあの日。
航平は心に誓ったはずだった。どんなに苦しくても、誰にも迷惑をかけない。娘を言い訳にして、他人に甘えたり施しを乞うようなみっともない真似は絶対にしないと。
それなのに。
自分は今、何をしている?
瀬戸文乃という女性の、あの優しすぎる嘘にすがりつき、「助けてあげる側」という心地よい毛布にくるまりながら、彼女が時間をかけて作ってくれた温かい料理を、何一つ対価を払うこともなく胃袋に流し込んでいたのだ。
「……相手が善意であればあるほど」
陸は静かに、けれど逃げ場のない真実を告げた。
「受け取る側の男には、鉄のような倫理観が必要なんだよ。甘えちゃいけない一線を、男の側が引かなきゃいけないんだ。『すずのためだから』『偏食が治ったから』って、娘を免罪符にするな。お前は父親である前に、一人の大人の男だろ」
「…………」
航平の喉の奥から、乾いた掠れ声しか出てこない。
頭を殴られたような衝撃の中で、文乃の姿が脳裏をよぎる。
土曜日の朝、玄関のたたきをハッカ油で磨き上げ、すずのために清潔な段ボールとひざ掛けを敷いてくれた姿。
歪な三つ編みを「とても綺麗に結べています」と、真っ直ぐな瞳で褒めてくれた、あの柔らかな笑顔。
あの人は、本当に心から親切でやってくれているのだ。
何の見返りも求めず、ただ隣で限界を迎えていた親子を見かねて、手を差し伸べてくれたのだ。
だからこそ――。
その温もりに無神経に寄りかかり、彼女の善意を湯水のように消費する自分が、許せなかった。
「……じゃあ、俺は」
航平は震える唇を開いた。
「俺は、どうすればいい……? すずは……すずは本当に、瀬戸さんのご飯で、初めて野菜を食べられたんだ。俺の料理じゃ、どうしても喉を通らなくて……でも、もう受け取るなって言うのか……?」
その問いに、陸は厳しい表情を崩さないまま、けれど親友としての覚悟を込めて答えた。
「二つに一つだ」
「二つ……?」
「一つは、きちんとした『対価』を支払うことだ」
陸は指を一本立てた。
「材料費と調理の手間賃。それに見合うだけの正当な報酬を、金銭としてきっちり支払って、ビジネスライクな契約にする。それなら、相手の善意を搾取したことにはならない。胸を張って『料理を作ってもらっている』と言える」
「……お金、か」
「そうだ。そしてもう一つは」
陸は二本目の指を立てた。その瞳は、冷酷なまでに研ぎ澄まされていた。
「これ以上甘えないよう、きっぱりと一線を引いて断ることだ」
「断る……」
「『お気持ちは嬉しいですが、これ以上はご迷惑をおかけするので受け取れません』ってな。すずちゃんが泣こうが喚こうが、それはお前たち親子の家庭の問題だ。他人の独身女性を巻き込んで解決する問題じゃない。……きっちり断って、二度と料理を受け取るな」
「…………っ」
陸の言葉は、逃げ道をすべて塞ぐ、完璧な二者択一だった。
金を払うか、完全に拒絶するか。
そのどちらかを選ばない限り、自分は文乃の善意に寄生するだけの、卑怯な男のままだ。
「航平」
陸は航平のデスクから立ち上がり、自分の席へと戻りながら、最後に背中越しに言葉を投げかけた。
「厳しいこと言ったけどな。俺はお前が、誰かに後ろ指差されるような男になってほしくないんだよ。……お前が必死で一人ですずちゃんを守ってきたこと、俺が一番よく知ってるからな。だからこそ、みっともない甘え方だけはするなよ」
カタカタと、陸のキーボードを叩く音がオフィスに響き始めた。
航平は、一人取り残されたデスクの前で、完全に冷めきった缶コーヒーを握りしめていた。
手のひらに伝わる、冷たいスチールの感触。
脳裏に去来するのは、文乃の部屋の吊り戸棚にしまわれているはずの、あのピカピカに洗ったタッパーの姿だった。
――相手の善意に、甘えてはいけない。
――独身女性の時間と労力を、搾取してはいけない。
陸の痛烈な正論が、航平の胸の奥底に、消えない焼印のように刻み込まれていた。
「……お金を、払わなきゃいけない」
航平は小さく呟いた。
断れば、すずはまた偏食の地獄に逆戻りするかもしれない。けれど、タダで受け取り続けることは、人として絶対に許されない。
ならば、自分が取るべき道は一つしかなかった。
航平はスーツの内ポケットに手を入れ、財布の感触を確かめた。
明日、銀行に行って、まとまった現金を引き出そう。
これまでいただいた料理の材料費と、今月分の食事代として――五万円。
それをきちんとした封筒に包み、頭を下げて瀬戸さんに手渡すのだ。
もし受け取ってもらえないなら、その時は……どんなにすずが泣こうとも、二度と彼女の料理を受け取ってはならない。
航平は奥歯をギリリと噛み締め、決意の痛みを胸に抱きながら、再びディスプレイの冷たい光の中へと視線を戻した。




