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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第12話:対価の提案

火曜日の夕暮れ。西の空を覆っていた薄墨色の雲が夕陽の残光を吸い込み、街全体を冷ややかな薄紫色の影が包み込んでいく。


定時退社のチャイムと同時に会社を出た瀬戸文乃は、駅前のスーパーで手早く買い出しを済ませ、足早にマンション『メゾン・ド・フルール』へと帰り着いた。


コートを脱ぎ、部屋着に着替えてエプロンをきつく結び直す。


昨日の昼休み、オフィスのデスクで先輩の倉田佳奈から浴びせられた鋭い眼光と、「その男があなたの手を大事にしてくれるかどうかよ」という痛烈な忠告が、今も胸の片隅に小さく引っかかっていた。


けれど、キッチンの作業台の前に立ち、まな板と包丁を取り出した瞬間、文乃の意識は目の前の食材へと一気に集中していった。


「……今日は、これ」


文乃が冷蔵庫から取り出したのは、新鮮な国産鶏ひき肉と、水で戻しておいた小鉢いっぱいの『芽ひじき』だった。


金曜日の夜、あの薄い壁の向こうから聞こえてきた、すずちゃんの最初の泣き叫び。


『これ嫌だ! 黒いの入ってる! お野菜入ってるもん!』


あの時、すずちゃんが激しく拒絶していた「黒いもの」。それが、スーパーのハンバーグや煮物によく混ざっている、ひじきや細かな海藻、あるいはキノコ類のことではないかと、文乃はずっと気にかけていた。


海藻類はミネラルや鉄分、食物繊維の宝庫であり、成長期の子どもにはぜひ食べさせたい栄養素の筆頭だ。しかし、独特の磯臭さと、真っ黒で細長い見た目は、視覚と味覚が過敏な幼児にとって「得体の知れない異物」として映り、本能的な恐怖を呼び起こしやすい。


「形が見えなくて、パサつかなくて、お肉の旨味がぎゅっと詰まってれば……絶対に大丈夫」


文乃は小さく呟き、調理の手を動かし始めた。


まずは芽ひじきの下処理だ。たっぷりの水で戻したひじきを、一度熱湯でさっと茹でこぼして余分な磯臭さとアクを抜く。ザルにあげて水気を徹底的に絞り、まな板の上で、包丁の刃先を使って細かく、細かく叩いていく。


トントントン、とリズミカルな音がキッチンに響く。


長さ数ミリ程度になるまで徹底的に微塵切りにされたひじきは、もはや「細長い黒い糸」ではなく、黒胡麻よりも細かな粒子へと変わっていた。


次に、大きなガラスボウルに鶏ひき肉を移す。


文乃が用意したのは、コクと脂の甘みがある『もも肉』と、あっさりとしてキレのある『むね肉』を七対三の黄金比で合わせた特製のブレンドだ。ここに、しっかりと水切りをして裏ごしした木綿豆腐を肉の三分の一ほどの分量加え、さらに長芋のすりおろしを大さじ二杯投入する。


豆腐と長芋が、冷めても決して硬くならず、舌の上でふわりとほどける極上の柔らかさを生み出してくれるのだ。


すりおろした生姜の搾り汁をほんの数滴、酒、薄口醤油、そして昆布出汁の粉末を極少量。


粘りが出るまで手早く指先で練り混ぜ、白っぽく糸を引くようになったところで、先ほど細かく刻んだ芽ひじきを惜しみなく投入した。


全体を均一に混ぜ合わせると、淡いピンク色の肉だねの中に、黒い小さな粒々が星屑のように散らばる。これなら、黒い塊として視界に飛び込んでくることはない。


「よし、焼いていこう」


熱したフライパンに薄く米油を敷き、スプーン二本を使って、肉だねを子どもの手のひらに収まる小判型に整えて落としていく。


じゅわっ、と心地よい音とともに、香ばしい鶏肉の匂いが立ち上る。


中火で両面に綺麗なきつね色の焼き目をつけたところで、酒を回し入れ、ぴったりと蓋をして弱火で蒸し焼きにする。蓋の内側に白い水蒸気が立ち込め、ふっくらとつくねが膨らんでいく。


その間に、小さなミルクパンで照り焼きのタレを仕込む。


一番出汁をベースに、みりん、てんさい糖、そして濃口醤油を合わせたものを煮詰め、ほんのわずかな水溶き片栗粉でとろみをつけておく。


蓋を開け、竹串をつくねの中央に刺す。澄んだ透明な肉汁が溢れ出てきたのを確認し、余分な油をペーパーで吸い取ってから、熱々の照り焼きタレを一気にフライパンへと流し込んだ。


ジュワワワッ――!


甘辛い醤油と出汁の香りが、爆発するように換気扇へと吸い込まれていく。


木べらでフライパンを揺すりながら、飴色のタレをつくね全体にたっぷりと絡め合わせる。艶やかなタレをまとったつくねは、まるで宝石のように輝き、微塵切りのひじきはタレの色と同化して、ほとんど目立たなくなっていた。


さらに、隣のコンロでは、大根と油揚げの味噌汁が仕上がっていた。


昆布と厚削り鰹節で丁寧に引いた合わせ出汁に、短冊切りにして柔らかく煮た大根と、湯通しして油抜きをした油揚げ。仕上げに信州の白味噌を溶き入れた、身体の芯から温まる優しい汁物だ。


文乃は、洗って乾かしてあった深型の耐熱ガラスタッパーに、熱々の鶏つくねを崩さないよう丁寧に並べ入れた。底に残った照り焼きのタレも、余すことなく回しかける。


別のスープ用の保温容器には、具だくさんの味噌汁をなみなみと注いだ。


「完璧」


時計の針は、午後七時十分を回ったところだった。


昨日、神谷陸からどんな言葉を投げかけられたかも知らず、文乃はただ、あの不器用な父親と小さな女の子の笑顔を思い浮かべていた。


すずちゃんがこのつくねを口に入れて、「おいしい!」と目を丸くしてくれる姿。


そして、先週の木曜日にチキンカレーを受け取った時、胸の前で紙袋を抱きしめ、安堵と感謝に震えていた航平の横顔。


あのお父さんは、本当に一生懸命だ。


不器用で、真面目すぎて、自分を追い詰めてばかりいるけれど、娘への愛情だけは誰よりも深い。だからこそ、自分の料理がその過酷な日々のほんのわずかな支えになれるのなら、それだけで十分に報われると思っていた。


文乃は清潔な布バッグに容器を収めると、部屋の鍵を手に取って玄関を出た。


三階の内廊下は、いつも通りの静けさに包まれていた。


三〇一号室から三〇二号室へ。歩いてわずか三歩の距離。


インターホンの呼び出しボタンを、人差し指でそっと押し込んだ。


ピン、ポーン――。


電子音が廊下に響く。


いつもなら、少し間を置いてから、覚束ない足音とともにチェーン越しに恐る恐るドアが開くはずだった。


だが今夜は、違っていた。


呼び出し音が消えるか消えないかのうちに、ガチャリと内側から鍵が外され、勢いよくドアが開かれたのだ。


「佐伯さ――」


文乃が笑みを浮かべて挨拶を口にしようとした瞬間、その言葉は喉の奥で凍りついた。


「…………っ」


ドアの向こうに立っていたのは、佐伯航平だった。


だが、その姿は、文乃の知っているどの航平とも違っていた。


濃紺のビジネススーツを着込み、ネクタイは寸分の狂いもなく結ばれている。まだ帰宅したばかりなのか、それともわざわざ文乃を迎えるために着替えたのか、その身なりには土曜日の朝のような崩れた気配は微塵もなかった。


そして何より――その表情だった。


航平の端正な顔立ちは、まるで氷の彫刻のように冷たく、強張っていた。


普段なら文乃の顔を見るなり、恐縮して耳を赤くしたり、眉を八の字に下げて情けなく笑ったりするはずの男が、今夜は一切の感情を削ぎ落とした、硬直した仮面のような面持ちで文乃を見据えていた。


その瞳の奥には、深い苦渋と、張り詰めた決意の色が、鋭利な刃物のように光っている。


「……こんばんは、瀬戸さん」


低く、どこか乾いた声が、冷たい廊下に落ちた。


「あ……佐伯さん、こんばんは。あの……お仕事、お帰りなさい」


文乃は咄嗟に違和感を察知し、心臓がトクンと嫌な音を立てるのを感じた。


けれど、努めていつものように明るい声を作り、手元の布バッグを持ち上げて見せた。


「あの、これ……今日の晩ごはんのおかずにと思って。ひじきを細かく刻んで練り込んだ鶏つくねなんです。柔らかく蒸し焼きにして甘辛いタレを絡めてあるので、すずちゃんも絶対に食べられますし、お味噌汁も温かいのを――」


文乃がタッパーを取り出そうと手を伸ばした、その時だった。


「瀬戸さん」


航平の手が、すっと前に出された。


タッパーを受け取るためではない。


文乃の手元を制止するように、空中でぴたりと平手を向けられたのだ。


「え……?」


文乃の動きが止まる。


航平は文乃の持つ料理を一瞥すらしようとせず、スーツの内ポケットへと右手を滑り込ませた。


そして、内ポケットから取り出したひとつの物体を、両手で捧げ持つようにして、文乃の目の前へとまっすぐに差し出した。


「……これを受け取ってください」


「…………」


文乃の視線が、航平の手元へと落ちた。


差し出されたのは、郵便番号の枠すら印刷されていない、真っ白で上質な和紙の長方形の封筒だった。


封はしっかりと糊付けされており、その厚みは、文乃の指の第一関節ほどもあった。中に入っているものが何であるか、どれほどの重みを持っているのか、大人であれば一目で理解できるだけの、無機質で生々しい存在感。


「これ……なんですか?」


文乃の声が、微かに震えた。


分かっていながら、そう問いかけるしかなかった。


航平は視線を逸らさず、逃げ場のない真剣な眼差しで、氷のように整った声音のまま告げた。


「今までいただいたお料理の材料費と、今月分の食事代です。……五万円、入っています」


「五万……え……?」


「先週のカボチャの煮物やカレーの分、そして今後、もし瀬戸さんがお料理を分けてくださるのだとしたら、その手間賃と食材費として、毎月この金額をお支払いします」


航平の一言一言は、理路整然としていた。


感情を交えず、論理的に、社会人としての筋を通すための言葉。


「僕たちは、瀬戸さんにとってはただの赤の他人です。隣に住んでいるというだけで、何の血縁も義理もない独身の女性に、無償で食事を作らせて甘えるなど、人としてあってはならないことです。それは善意へのタダ乗りであり、搾取以外の何物でもありません」


搾取。


昨夜、親友の陸から叩きつけられたその言葉を、航平は自らの唇で、ナイフのように紡ぎ出していた。


「ですから、これを受け取ってください。きちんと対価をお支払いし、契約としての関係にさせてください」


航平はさらに両手を突き出し、白い封筒を文乃の胸元へと押し付けようとした。


そして、最後に、逃げ道を完全に断ち切る冷酷な宣告を口にした。


「もし……これを受け取っていただけないなら。僕は二度と、瀬戸さんからのお料理を受け取るわけにはいきません」


「っ…………!!!」


その瞬間。


文乃の胸の奥を、真冬の吹雪のような冷たい風が、容赦なく吹き抜けていった。


身体中の血液が、急速に引いていくような感覚。


耳の奥で、キーンという甲高い耳鳴りが響いた。


「……五万円」


文乃の唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。


「はい。足りないようであれば、仰ってください。実費に合わせて増額します」


航平は、大真面目だった。


悪意など微塵もない。相手を侮辱しようという下心もない。


ただひたすらに、自分が正しいと信じる倫理観と、独身女性の善意に無神経に寄りかかってはならないという悲痛なまでのプライドから、彼はこの五万円を用意したのだ。


けれど。


その「正しさ」こそが、文乃の心を粉々に引き裂いていた。


文乃は、目の前に差し出された分厚い白い封筒を見つめた。


その白い紙の向こう側に、自分が過ごしてきた日々の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。


金曜日の夜、壁の向こうから聞こえてきた切迫した泣き声を聞いて、居ても立ってもいられなくなったこと。


土曜日の朝、泥だらけのカボチャを抱え、小さなすずちゃんが食べやすいようにと、指先を痛めながら厚い皮を削ぎ落とし、角を面取りしたこと。


深夜二時に廊下で崩れ落ちていた航平の後ろ姿を見て、涙が出そうになり、翌日必死になって玉ねぎと人参とリンゴをすりおろし、腕を痙攣させながら鍋をかき混ぜ続けたこと。


土曜日の朝、玄関のたたきをハッカ油で磨き、すずちゃんに「お出汁のにおい、だいすき!」と笑ってもらえた時の、胸が破裂しそうなほどの幸福感。


歪な三つ編みを結ぶ航平の手の温もりを想い、「佐伯さんは立派なお父さんです」と心の中で祈り続けていたこと。


そして――今日も。


ひじきを嫌がらないようにと、細かく刻んで鶏つくねを丸めながら、「喜んでくれるかな」「お父さんの疲れが少しでも取れるといいな」と、胸を弾ませていたこと。


そのすべてが。


文乃が注ぎ込んできた時間も、手間も、祈るような願いも、誰かの力になりたいと願った温かな感情のすべてが。


この、目の前に突きつけられた五万円という札束によって。


『金で清算可能な、ただの労働』へと、一瞬にして塗り潰されてしまったのだ。


「…………」


文乃は、すっと目を伏せた。


視界が、悔しさと悲しみで急速に歪みそうになるのを、奥歯をギリリと噛み締めて必死に押し留めた。


ここで泣いてはいけない。取り乱してはいけない。


この人は、何も分かっていないのだ。


自分がどんな思いで火の前に立っていたのか。


自分がどれほど、あの二人の「おいしかった」という言葉に救われていたのか。


この生真面目すぎる男にとっては、文乃の手料理は、ただの「重たい施し」であり、「金銭を支払って処理しなければならない負債」でしかなかったのだ。


「……瀬戸さん?」


沈黙に耐えかねたように、航平が怪訝そうに呼びかけてくる。


文乃は、ゆっくりと顔を上げた。


その表情から、先ほどまでの柔らかな温もりは完全に消え去っていた。


静かに、けれど芯の通った冷ややかな光を宿した瞳で、文乃は航平の差し出す白い封筒を、まっすぐに見据えた。


そして――。


力いっぱいに、左右へと首を振った。


「受け取れません」


「……え?」


「そんなもの、一円たりとも受け取れません」


文乃の声は、低く、澄んでいた。


取り乱すこともなく、怒鳴ることもなく、けれど絶対の拒絶を含んだその声音に、航平は息を呑んで硬直した。


「瀬戸さん、なぜですか……! これは、僕たちの誠意なんです! 瀬戸さんの時間と労力に対して、正当な対価を――」


「誠意?」


文乃は小さく、乾いた笑いをこぼした。


その瞳の奥に滲んだ深い傷の色に、航平の言葉が途中で詰まる。


「佐伯さん。私は、お金が欲しくて台所に立っていたわけじゃありません」


「それは……分かっています。瀬戸さんが善意でやってくださっていたことは……」


「分かっていません!」


文乃の声が、鋭く廊下の空気を切り裂いた。


航平がビクッと肩を震わせる。


文乃は両手で、抱えていた布バッグを胸元にぎゅっと引き寄せた。リネン越しに伝わってくる、出来立ての鶏つくねの温もり。大根と油揚げの味噌汁の熱。


その温かさが、今の文乃にはあまりにも痛々しかった。


「私は……自分の料理が趣味で、余り物を分けるのが好きで、すずちゃんが美味しそうに食べてくれるのが嬉しかったから、お裾分けしていただけです。私の勝手なお節介でした。……でも」


文乃は航平の目を、射抜くように見つめた。


「佐伯さんにとって、私の料理は……そんなふうに、札束を突きつけて清算しなければならないような、迷惑な施しだったんですね」


「っ……ち、違います! そんなつもりじゃ……!」


「同じことです」


文乃は容赦なく言葉を重ねた。


その声は微かに震えていたが、決して涙は零さなかった。


「お金を払えば、気兼ねなく処理できると思ったんでしょう? 隣の独身の女から施しを受けているという惨めさから、自分が逃げたかっただけでしょう? 私の気持ちなんて、最初からどうでもよかったんですね」


「瀬戸さん……っ!」


航平の顔から、完全に血の気が引いた。


土気色を通り越して、真っ白に染まっていく航平の横顔。


違う、そうじゃないと叫びたそうに唇を震わせるが、文乃の放った痛烈な刃は、航平が心の奥底に抱えていた「男としてのプライド」と「罪悪感からの逃避」の核心を、あまりにも正確に抉り抜いていた。


文乃は深く、深く息を吸い込んだ。


そして、静かに、けれど二度と覆らない決定的な一言を告げた。


「……よく分かりました。私のお節介で、佐伯さんに不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」


「瀬戸さん、待ってください、違うんです……!」


「もう二度と、お料理はお持ちしません」


言い切ると、文乃は一歩も引くことなく、くるりと背を向けた。


「瀬戸さん!!」


背後から、悲鳴のような航平の叫び声が響いた。


彼が伸ばそうとした手が、空を切る気配がした。


けれど、文乃は一度も振り返らなかった。


早足で三〇一号室へと戻り、玄関に滑り込む。


そして――。


バタンッッッ!!!


静かなマンションの三階に、雷鳴のような激しい音が轟いた。


文乃は両手でドアを力いっぱいに閉ざし、内側から鍵を二重に回し、チェーンロックを乱暴に掛けた。


ガチャリ、ガチャリ、ガチャン。


重たい金属音が、外の世界と、隣の部屋とのつながりを、完全に断ち切った。


「はぁっ、……っ、……っ……」


文乃は玄関ドアに背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。


冷たい三和土の上に膝を抱え、胸元に抱きしめた布バッグを、折れそうなほど強く抱きしめる。


バッグの中からは、まだ出来立ての、柔らかな鶏つくねの香ばしい匂いが漂っていた。一番出汁と味噌の、優しい温もりが、リネン越しに文乃の胸をじんわりと温め続けていた。


なのに。


文乃の全身は、まるで氷水に浸されたかのように冷え切っていた。


ポタ、ポタと。


我慢していた涙が、堰を切ったように両目から溢れ出し、布バッグの結び目を濡らしていく。


「……ばか」


文乃は膝に顔を埋め、声の限りに呟いた。


「佐伯さんの……大馬鹿者……っ」


誰のための五万円だったのか。


誰のための誠意だったのか。


あのピカピカに洗われたタッパーも、あの几帳面な水色の付箋も、あの土曜日の朝の笑顔も、すべて幻だったのだろうか。


閉ざされた鉄のドアの向こう側からは、もう何の物音も聞こえなかった。


航平がまだ廊下に立ち尽くしているのか、それとも部屋に戻ったのかすら分からない。


ただ、暗い玄関ホールに、冷めていく鶏つくねの切ない香りだけが、どこまでも虚しく漂い続けていた。

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