第8話:すずの突撃家庭訪問
土曜日の午前十時。カーテンをいっぱいに開け放つと、冬の乾いた青空から降り注ぐやわらかな陽光が、フローリングの木目を白く照らし出していた。
一週間の仕事を終えた週末の朝、瀬戸文乃が最初に行うのは、部屋全体の徹底的な空気の入れ替えと、玄関のたたきの水拭き掃除だった。
靴箱からすべての靴を一旦取り出し、棚板に風を通す。普段履いているローファーやパンプスの靴底をブラシで払い、革用のクリームを薄く伸ばして布で磨き上げる。そして、バケツに汲んだぬるま湯にハッカ油を二滴だけ垂らし、固く絞った雑巾で、玄関の灰色のたたきを四隅まで一拭きずつ丁寧に磨いていく。
スーッとする清涼感のある香りが、微かな土埃の気配を追い散らしていく。
外の空気を取り込んで換気扇の引きを良くするため、文乃は玄関ドアをほんの十センチほど、ドアガードを掛けた状態で細く開けていた。隙間から流れ込んでくる初冬の引き締まった風が、額に張り付いた髪を心地よく揺らす。
「よし、あとはここを拭き上げたら終わりかな」
膝をつき、最後の一角を雑巾で拭いながら、文乃の思考はふと、二日前の木曜日の夜へと向かっていた。
あの大鍋いっぱいに仕込んだ、すりおろし野菜のチキンカレー。
玉ねぎと人参とリンゴを限界まですりおろし、出汁と味噌でじっくりと煮込んだ特製のルー。それを「一人暮らしなのに作りすぎて冷蔵庫に入らないから助けてほしい」という、我ながら穴だらけの下手くそな言い訳を並べ立てて、隣の佐伯航平に無理やり押し付けたのだった。
あの時、航平は困惑しきった顔をしながらも、胸の前で紙袋を抱きしめてくれた。
けれど、あのあと、すずちゃんは本当に食べてくれたのだろうか。
野菜の形は完全に消したつもりだったけれど、舌の肥えた、警戒心の強いあの子のことだ。スプーンを一口近づけただけで「カレー嫌い!」と拒絶してしまったのではないか。徹夜続きで限界を迎えていた航平の胃袋に、少しでも温かいものが収まったのだろうか。
そんなことを考えていた、まさにその時だった。
――トタ、トタ、トタ。
静まり返ったマンションの共用廊下に、小さな、軽やかな足音が響いた。
大人の引きずるような靴音ではない。小さな足が、床を踏みしめるたびに微かに弾むような、小動物を思わせる無邪気なリズム。
その足音は、迷うことなく三階の廊下を進み、文乃の部屋――三〇一号室の前で、ぴたりと止まった。
文乃は雑巾を動かす手を止め、顔を上げた。
十センチほど開け放たれたドアの隙間。
外の光を背にして、そこに小さな影が落ちていた。
――トン、トン。
小さな、遠慮がちなノックの音が、ドアの低い位置から響く。
続いて、隙間からそっと覗き込んできたのは、つやつやとした黒髪を左右で結んだ、見覚えのある小さな頭だった。
「……あやのちゃん?」
鈴を転がすような、愛らしい甲高い声。
文乃は思わず目を丸くし、息を呑んだ。
「すず、ちゃん……?」
そこに立っていたのは、隣の三〇二号室に住む、佐伯すずだった。
着ているのは、淡いピンク色をしたフリース生地のパジャマ。胸元にはイチゴの刺繍が施されているが、ボタンが一つ掛け違えられていて、裾が斜めに歪んでいる。そしてその胸の前には、すずの身体の半分ほどもある、灰色のトトロのぬいぐるみが、ぎゅうぎゅうと両腕で抱きしめられていた。
足元は、靴下も履いていない裸足。
冷たい共用廊下の防音カーペットの上に、小さな白い足指をちょこんと揃えて立っていた。
「すずちゃん! どうしたの、一人で……!?」
文乃は慌てて雑巾をバケツに放り込み、立ち上がってドアのチェーンロックを外した。
ドアを大きく開け放つと、廊下の冷気と一緒に、すずの全身が露わになる。
寝起きなのか、頬はほんのりと赤らみ、左右に結ばれた三つ編みはあちこちから短い毛がピョンピョンと跳ねていた。パパが一所懸命に結んでくれたのだろう、その歪な結び目が、なんとも言えず愛らしい。
すずは文乃の顔を真正面から見上げると、パッと満開の花が咲いたように、大きな瞳を輝かせた。
「あやのちゃん! いた!」
「すずちゃん、寒くないの? 靴下も履かないで……パパは?」
文乃が廊下の左右を見回すが、そこに父親である航平の姿はどこにもなかった。三〇二号室のドアを見ると、あちらもまた、数センチだけ隙間が開いている。どうやら、父親が寝ている隙か、目を離した一瞬を突いて、自力でドアを開けて抜け出してきたらしい。
文乃が心配で眉を寄せたのに対し、すずは誇らしげに小さな胸を反らせた。
トトロのぬいぐるみを片腕で抱え直し、もう片方の小さな手をグッと握りしめて、文乃に向かって声を張り上げた。
「あやのちゃん、あのね! カレー、すっごくおいしかったの!」
「え……?」
「お野菜入ってないカレー! すず、ぜんぶたべたよ! パパとおかわりもしたの!」
すずの顔には、一片の曇りもなかった。
あんなに頑なに野菜を拒み、金曜日の夜には「苦い、食べたくない」と火がついたように泣き叫んでいた少女が、まるで世界で一番の宝物を見つけたかのように、目をキラキラと輝かせながら報告してくれている。
「お野菜、黒いの入ってなかった! あまくて、トローってしてて、すっごくあまいお肉の味したの! すず、お皿ピカピカにしたんだよ!」
「…………っ」
文乃の胸の奥で、カッと熱いものが込み上げてきた。
全部、食べた。
おかわりまでして、お皿をピカピカにしてくれた。
木曜日の夕方、必死になって玉ねぎと人参とリンゴをすりおろし、腕を痛めながら鍋をかき混ぜ続けたあの時間が、すべて報われた瞬間だった。
文乃はたまらなくなって、玄関のたたきに膝をつき、すずの小さな目線と同じ高さまで腰を落とした。
自然と、目尻が深く下がり、温かい笑みがこぼれ落ちる。
「全部食べてくれたの? ……偉かったねぇ、すずちゃん」
そっと手を伸ばし、すずの少し跳ねた柔らかな髪を優しく撫でた。
子どもの髪は驚くほど細く、陽だまりのような温もりを持っていた。すずは文乃の手のひらに自分の頭をすり寄せるようにして、えへへと誇らしげに笑った。
「すずね、パパに言ったの。『あやのちゃんに、おいしかったって言ってくる!』って!」
「そうだったんだ。わざわざ言いに来てくれたの? ありがとう、お姉ちゃん、すっごく嬉しいよ」
「うん! だからね――」
すずがさらに何かを言おうと、小さな口を開きかけた、その時だった。
――ドタドタドタドタッ!!
静かな三階の廊下に、まるで雷鳴が落ちてきたかのような、猛烈な足音が轟いた。
誰かが廊下の床を蹴破らんばかりの勢いで疾走してくる音。
「すずーーーっっっ!?!?」
悲鳴に近い、喉を引き裂くような叫び声。
文乃とすずが同時に顔を向けた瞬間、三〇二号室の角から、凄まじい形相の男が飛び出してきた。
佐伯航平だった。
だが、その姿は、文乃がこれまで見たどの航平ともかけ離れていた。
普段の整った黒髪は、まるで台風の直撃を受けたかのように四方八方へと派手に爆発している。顔色は青白さを通り越して土気色で、目は血走り、顎には薄く無精髭が伸びていた。
着ているのは、毛玉のついたよれよれのグレーのスウェット上下。しかも、慌てて飛び起きて突っ走ってきたのだろう、スウェットの裾は片方だけ靴下にインされ、足元は右足が青いベランダ用サンダル、左足が茶色の室内用スリッパという、完全に崩壊した出で立ちだった。
「すずっ!! お前、どこに……っ!!」
廊下の真ん中で、文乃の部屋の前に立つ娘の姿を捉えた瞬間、航平の足がもつれた。
ズザザッとカーペットを滑るようにして、航平はその場に両膝から崩れ落ちた。
「あ……ああ……よかった……っ、すず……っ!」
床に両手をつき、肩を激しく上下させながら、航平は荒い呼吸を繰り返した。
目覚めた瞬間、隣にいるはずの愛娘が消えていた恐怖。玄関のドアが細く開いていたのを見た時の絶望。一瞬の油断で娘を失ってしまったのではないかという底知れぬ恐怖が、彼の全身から血の気を根こそぎ奪い去っていたのだ。
「パパ?」
すずはキョトンとした顔で、床に四つん這いになっている父親を見つめた。
「パパ、どうしたの? すず、ここにいるよ?」
「どうしたの、じゃないッ!!」
航平は床から顔を跳ね上げ、掠れた声で叫んだ。
「勝手に外に出ちゃダメだって、あれほど言っただろ!? 鍵を開けて外に出るなんて……もし階段から落ちたらどうするんだ!? もし外に出て車に轢かれたら……パパ、パパは……っ!」
怒声ではあったが、それは怒りというよりは、あまりの恐怖に心臓を鷲掴みにされた父親の、痛切な悲鳴だった。航平の大きな手が、ワナワナと小刻みに震えている。
すずは父親の剣幕に驚き、ビクッと小さな肩を竦ませた。
トトロのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、大きな瞳にみるみるうちに涙の膜が張っていく。
「だ、だって……すず、あやのちゃんに……カレーおいしかったって、言いたかったんだもん……っ」
今にも決壊しそうなすずの声を聞いて、航平はようやく、すずの目の前にいる人物――玄関にしゃがみ込んでいる文乃の存在を、視界に捉えた。
「っ…………!!!」
航平の思考が、完全に停止したのが見て取れた。
寝起きの爆発した頭。
よれたスウェット。
左右バラバラの履き物。
そして、休日の午前中から、年下の独身女性の部屋の前で四つん這いになり、みっともなく取り乱している己の無様な姿。
そのすべての情報が脳内で結びついた瞬間、航平の青白かった肌が、まるで沸騰した薬缶のように、首筋から耳の付け根、そして額の生え際まで、一瞬にして鮮烈な朱色へと染まり上がっていった。
「あ……、あ、あの……っ、瀬戸、さん……っ!?」
航平は飛び退くようにして立ち上がろうとしたが、足元がもつれて壁に派手に肩をぶつけた。
「いっ……! あ、すみません! 違います、これは……っ!」
壁に手をつき、パニック状態で両手を激しく宙に泳がせる航平。
その姿は、普段の冷静で礼儀正しいエンジニアの面影など微塵もなく、まるで悪戯が見つかってパニックを起こした大型犬のようだった。
そして、航平は直角を通り越して、頭が床につくのではないかというほどの深い角度で、文乃に向かって腰を折った。
「本当に……っ、本当に申し訳ありませんでしたぁぁぁっ!!」
静かな共用廊下に、航平の絶叫に近い謝罪が反響した。
「朝っぱらから、こんな……娘が勝手に押しかけて、瀬戸さんの貴重な休日の朝をお邪魔してしまって……! それに、僕のこんな……こんな見苦しい格好で、大声を上げてしまって……! すべて僕の監督不行届です! 本当に、穴があったら入りたいというか、ビルの屋上から飛び降りたいくらい申し訳ありません……!!」
言葉の端々に、男としてのプライドの粉砕と、隣人への底知れぬ罪悪感がこれでもかと詰め込まれていた。頭を下げたまま、航平の背中が屈辱と恥ずかしさで小刻みに震えている。
あまりの平謝りっぷりと、その落差の激しさに、文乃は目を丸くしていたが――。
次の瞬間、ぷっと口元から小さな笑いが吹きこぼれてしまった。
「……ふふっ」
「え……?」
航平がおそるおそる、前髪の隙間から顔を上げた。
文乃は立ち上がり、エプロンのポケットに手を入れながら、悪戯が見つかった子どものように目を細めて笑っていた。
「佐伯さん、顔を上げてください。飛び降りられたら困ります」
「で、ですが……瀬戸さんにご迷惑を……」
「迷惑だなんて、これっぽっちも思っていませんよ」
文乃は優しく首を横に振った。
そして、足元で涙を堪えながらトトロを抱きしめているすずの頭に、そっと手のひらを添えた。
「すずちゃん、わざわざ走って言いに来てくれたんですよ。『カレー、すっごく美味しかった』って。『お野菜入ってないカレー、全部食べたよ』って。……私、今朝すずちゃんのお顔を見て、その言葉を聞けただけで、木曜日に頑張ってカレーを作って本当によかったって、心から思いました」
「瀬戸さん……」
航平は目を見張り、それから呆然と文乃を見つめた。
文乃は微笑みを絶やさないまま、すずの目を見つめて、優しく語りかけた。
「すずちゃん。パパが怒ったのはね、すずちゃんのことが嫌いだからじゃないんだよ。すずちゃんが一人でお外に出て、階段から落っこちたり、いなくなっちゃったら、パパは悲しくて死んじゃうから。すずちゃんが大事だから、パパはあんなにびっくりして走ってきたんだよ」
すずは、パパの顔と、文乃の顔を交互に見つめた。
そして、父親がまだ肩で息をし、左右バラバラの履き物のまま、自分を必死に見つめていることに気づいた。
「……パパ」
すずは小さな足でトタトタと駆け寄り、航平の膝にぽすんと抱きついた。
「パパ、ごめんなさい……。すず、勝手にお外でちゃった」
「…………っ、すず」
航平はその場に膝をつき、娘の小さな身体を、トトロごと力いっぱいに抱きしめた。
折れそうなほど強く抱きしめ、その小さな背中に顔を埋める。
「いいんだ……無事だったから、いいんだ……。でも、もう二度と一人でドアを開けちゃダメだぞ。絶対にな……」
「うん……お約束する」
すずの柔らかな温もりを確かめるように、航平は何度も娘の頭を撫でた。
その横顔には、父親としての深い安堵と、愛娘への無償の慈しみが溢れていた。
けれど、安堵が訪れた直後に、再びやってきたのは猛烈な気まずさだった。
すずを抱きしめたまま、航平はゆっくりと顔を上げ、玄関口に立つ文乃と視線を交錯させた。
文乃は、温かな眼差しで二人を見守っている。
その視線に耐えかねたように、航平の顔が再びカッと赤く染まった。
「あ、あの……瀬戸さん……」
「はい」
「本当に……すみませんでした。そして……木曜日のカレー、本当に、本当に美味しかったです。僕も、あんなに美味しいカレーを食べたのは、生まれて初めてでした。……すずが、あんなに笑顔でおかわりをしたのも、初めてで……」
消え入るような声で、けれど一言一言を噛み締めるように紡がれる航平の言葉。
頭の毛は跳ね、服装はボロボロで、左右の履き物はチグハグなまま。
けれど、その言葉の誠実さと、娘を抱きしめる腕の力強さは、どんな着飾った紳士よりも真っ直ぐで、美しかった。
文乃は胸の奥がトクンと小さく跳ねるのを感じながら、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「お口に合って、本当によかったです」
廊下に、穏やかな沈黙が流れた。
初冬の冷たい風が、開け放たれた玄関から吹き抜けていく。
ふと、航平の腕の中で、すずが小さく身震いをした。靴下を履いていない小さな足の指先が、冷気で微かに赤くなっている。
それに気づいた文乃は、ポンと手を叩いた。
「あ……すずちゃん、足が冷たくなっちゃってますね」
文乃は自分の部屋の玄関を振り返り、それから再び佐伯親子へと向き直った。
「佐伯さん。もしよかったら……少しだけ、温かい麦茶でも飲んでいきませんか?」
それは、壁一枚を隔てて暮らしてきた二つの部屋の境界線が、またひとつ、音を立てて溶け出していく合図だった。




