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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第7話:作り置きという名の口実

木曜日の午後七時。スーパーマーケットの自動ドアをくぐり抜けた瞬間、瀬戸文乃の足取りは、いつになく明確な目的意識を帯びていた。


オフィスを出る際、先輩の倉田佳奈から「文乃ちゃん、今日は一段と退社が素早かったわね。デート?」とからかい交じりに声をかけられたが、文乃はただ曖昧に笑って会釈するだけで精一杯だった。


デートなどという浮ついたものでは断じてない。


文乃の頭の中を終日支配していたのは、昨夜――日付が変わった水曜日の深夜二時過ぎに、ドアスコープの向こう側で目撃したあの凄惨な光景だった。


床に落ちた鍵を拾うことすらままならず、四つん這いになって肩で息をしていた佐伯航平。


汗と疲労で皺だらけになったワイシャツ。


そして何より、深夜まで身を粉にして働き続けながら、水分の一滴、パンの一片すら握っていなかった、あの痛々しいほどに空っぽだった両手。


「……あんな生活、絶対に長く続くわけがない」


野菜売り場の鮮やかな照明の下、文乃は買い物かごを握りしめた。


他人の生活に踏み込んではならないという大人の分別は、昨夜の航平の蹲る背中を思い出すたびに、脆くも崩れ去っていた。


自分は救世主でもなければ、あの親子の何者でもない。けれど、同じマンションの壁一枚隔てた隣に住んでいて、自分の手元には美味しいものを作る知識と時間があるのだ。それなのに、飢えと過労で擦り切れていく人間をただ黙って見過ごすことなど、文乃の良心がどうしても許さなかった。


八百屋のコーナーで、文乃は丸々と太った大玉の玉ねぎを三つ、濃い橙色をした甘みの強そうな人参を二本、そして長野県産の瑞々しいサンふじリンゴを一つ、吟味してかごに入れた。


続いて精肉コーナーへ向かい、国産の鶏もも肉を二枚手にとる。


カレー用の角切り肉ではなく、あえて大判の一枚肉を選んだ。脂身と皮を丁寧にトリミングし、一口大よりやや小ぶりに自分で切り揃えるためだ。


今夜作るべきものは、昨夜のうちに決めてあった。


――チキンカレー。


ただし、それは大人がスパイスを利かせて楽しむような刺激的なカレーでも、市販のルーに角切りの人参やじゃがいもがゴロゴロと転がっているような一般的な家庭のカレーでもない。


すずちゃんが恐怖を抱くような「野菜の形」をこの世から完全に消し去り、同時に、胃腸が弱り切っている航平の身体を芯から労る、特製の『すりおろし野菜のチキンカレー』だ。


急ぎ足でマンション『メゾン・ド・フルール』へ帰り着くと、文乃はコートを脱ぐのももどかしくエプロンを身につけた。


時計の針は午後七時二十分を指している。


あおぞら保育園の通常の延長保育上限は午後八時。もし航平が今夜、緊急のシステム障害に見舞われていなければ、すずちゃんの手を引いてマンションに戻ってくるのは午後八時前後になるはずだった。


「残された時間は四十分……急がなきゃ」


文乃は袖をまくり上げ、作業台の上にまな板を置いた。


まずは玉ねぎの下処理だ。三つの玉ねぎのうち、半分だけは薄い繊維に沿って極薄の微塵切りにし、残りの二個半は、すべて目の細かいおろし金で一気にすりおろしていく。


ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ。


激しい摩擦音とともに、すりおろされた玉ねぎが半透明の白いペーストとなってボウルに溜まっていく。立ち上る強烈な硫化アリルに目が痛み、自然と涙が滲んでくるが、文乃は手を止めない。


続いて、皮を剥いた人参二本も、同様に徹底的にすりおろす。


鮮やかな朱色の細かな粒子が、玉ねぎのペーストと混ざり合い、夕焼けのような鮮烈なオレンジ色のソースへと変わっていく。さらに、サンふじリンゴの皮を剥き、芯を除いて、これもまるごと一つ分をすりおろして加えた。


これだけの量の野菜をすりおろすのは、並大抵の重労働ではない。二の腕の筋肉が熱を持ち、手首が軋むような感覚を覚えるが、文乃の表情は真剣そのものだった。


すずちゃんの偏食の原因は、野菜の固形感と、繊維を噛んだ時に溢れ出す青臭い苦味にある。


ならば、繊維を極限まで細胞レベルで破壊し、形そのものを消滅させてしまえばいい。野菜を「食べる」のではなく、旨味と甘みが溶け込んだ「スープのベース」として身体に取り込ませるのだ。


「よし……次は炒め作業」


深底の鋳物ホーロー鍋に、少量の米油と、香り付けのためのごくわずかな無塩バターを熱する。


微塵切りにした半個分の玉ねぎを放り込み、弱火でじっくりと炒めていく。焦がさないよう木べらで鍋底を絶え間なく擦り、水分を飛ばしながら、飴色のペーストへと変化させていく。


そこへ、すりおろした玉ねぎ、人参、リンゴのペーストを一気に投入した。


ジュワワワッ――!


派手な蒸発音とともに、甘酸っぱく濃厚な香りがキッチンの天井へと立ち上る。


ここからが、このカレーの心臓部だった。


水分を多く含んだ野菜のすりおろしは、放置すればすぐに鍋底に焦げ付いてしまう。文乃は木べらを休めることなく、八の字を描くように動かし続けた。


加熱されることで、玉ねぎのツンとした刺激臭は見る見るうちにまろやかな甘みへと昇華し、人参のカロテン特有の土臭さはリンゴのフルーティーな酸味によって完全に中和されていく。


水分が徐々に飛び、鍋の中身がぽってりとしたジャム状のペーストに煮詰まってきたところで、別のフライパンを強火で熱した。


余分な黄色い皮下脂肪を丁寧に取り除き、皮目をフォークで突いて下味の塩と酒を揉み込んでおいた鶏もも肉を並べる。


パチパチと心地よい音を立てて皮が縮み、きつね色の香ばしい焼き目がつく。中まで火を通す必要はない。表面を焼き固めて肉汁を閉じ込め、余分に出た鶏の脂をキッチンペーパーで綺麗に吸い取ってから、ホーロー鍋の野菜ペーストの中へと肉を移した。


そして、水。


だが文乃は、水道水をそのまま注ぐようなことはしない。


今朝のうちに昆布を浸しておいた出汁水を注ぎ入れ、さらに隠し味として、実家の祖母の手前味噌――大豆のコクが深く、甘みの強い信州味噌を、大さじ一杯だけ溶き入れた。


味噌に含まれるアミノ酸は、スパイスの角を丸くし、日本人の舌に馴染む深い奥行きを生み出してくれる。


沸騰したら弱火に落とし、丁寧に灰汁をすくい取る。


仕上げに加えるカレールーは、市販の甘口ルーを二種類ブレンドしたものだ。幼児でも安心して食べられる刺激の少ないマイルドなルーを選び、包丁で細かく削ってから少しずつ溶かし込んでいく。


コトコト、コトコト。


ホーロー鍋の重い蓋の下から、湯気とともに漏れ出してくるのは、誰もが幸福を連想せずにはいられない、圧倒的なまでに豊かなカレーの香りだった。


スパイスの温かな芳香。


すりおろしたリンゴと人参の瑞々しい甘み。


飴色玉ねぎの深いコクと、鶏もも肉から溶け出した澄んだ旨味。


そして、全体を包み込む出汁と味噌の優しい和の調べ。


スプーンで煮汁をすくい、息を吹きかけて味見をする。


舌に乗せた瞬間、まず飛び込んでくるのは果実と野菜の濃密な甘みだ。続いて鶏肉の旨味が広がり、喉を通る瞬間に、ほんのりとしたスパイスの温もりが身体の内側をぽかぽかと温めてくれる。辛味はほとんどない。けれど、物足りなさは微塵も感じられない。


具材として視認できるのは、柔らかく煮込まれた小さな鶏肉の塊だけ。


人参も、玉ねぎも、形としてはどこにも存在しない。けれど、その一さじの中には、間違いなく大量の大地の恵みが、完璧に溶け込んでいた。


「……うん。これなら、すずちゃんも絶対に怖がらない」


文乃は満足そうに頷き、火を極々弱火にして保温状態に切り替えた。


深型の耐熱ガラス容器――日曜日に航平がピカピカに磨き上げて返してくれた、あのタッパーを取り出す。


底からすくい上げた熱々のカレーを、なみなみと注ぎ入れた。三人前は裕にある、ずっしりとした重み。


蓋を閉めると、容器の内側が一瞬で真っ白な水蒸気で曇った。


時計の針が、午後七時五十八分を指していた。


文乃はエプロンを外し、耳を澄ませた。


静かな夜のマンション。換気扇の音の向こう側から、エレベーターが三階に到着する澄んだ電子音が響いた。


――チーン。


続いて、廊下のカーペットを踏みしめる二つの足音。


昨夜のような絶望的な足取りではない。ペタペタとした小さな子どもの靴音と、それに歩幅を合わせる、少し疲れた大人の靴音。


「パパぁ、だっこ」


「すず、もうすぐお部屋だから、頑張って歩こうな」


廊下に漏れ聞こえてきたその微かな会話を聞いた瞬間、文乃は迷いを捨てた。


熱いタッパーを清潔なリネンで包み、あらかじめ用意しておいた紙袋へと収める。


玄関の鍵を外し、躊躇うことなくドアノブを押し開けた。


ガチャリ。


静かな廊下に響いた解錠の音に、三〇二号室のドアの前で鍵を取り出そうとしていた航平が、びくりと肩を震わせて振り返った。


その足元には、黄色い通園リュックを背負ったすずが、眠たそうに目をこすりながら立っていた。


「あ……」


航平の喉から、間の抜けたような声が漏れた。


昨夜のネクタイを緩めて蹲っていた姿とは違い、今夜はきちんとしたスーツを着ている。だが、その顔色はやはり痛々しいほどに白く、眼鏡の奥の瞳には、一日中モニターを見つめ続けた後の充血と、重たい疲労が澱のように沈んでいた。


文乃は、相手に気まずさを感じさせる隙を与えないよう、胸の前に紙袋を抱え、努めて明るく、けれど穏やかな声で微笑みかけた。


「佐伯さん、おかえりなさい」


「せ、瀬戸さん……?」


航平は目を丸くし、それから咄嗟に背筋を正そうとした。


「こんばんは……あの、昨日のお礼もまだ直接言えていなくて、すみません。タッパー、ドアノブに掛けてしまって……失礼じゃなかったでしょうか」


「いいえ、とんでもないです! あんなに綺麗に洗っていただいて、それに……温かい付箋までいただいて、私の方こそ本当に嬉しかったです」


文乃は一歩、航平へと歩み寄った。


航平は文乃の持つ紙袋から、ふわりと漂ってきたスパイスの香りに気づいたのか、微かに鼻腔を動かし、それから警戒するように半歩身を引いた。


「あの……その、袋は……」


「これ、カレーなんです」


文乃は紙袋の口を少しだけ広げて見せた。


「昨晩……あの、深夜に少しお仕事の音が聞こえていて。とても遅くまで大変だったんだなと思って。それで、今日はお仕事から帰ってきてからご飯を作るのも、きっとすごく大変だろうなと思ったんです」


「っ……」


航平の顔に、サッと血の気が引いた。


昨夜の醜態を、聞かれていた。


深夜二時に鍵を開けられず、廊下で崩れ落ちていたあの無様な姿を、この女性は知っているのだ。男としての恥辱と、他人に生活の底を見透かされた動揺が、航平の端正な顔を強張らせていく。


文乃は、その動揺を包み込むように、慌てて言葉を重ねた。


「あ、誤解しないでください! うるさかったとか、そういうことじゃ全然ないんです! ただ、佐伯さんが倒れてしまわないか、心配で……。このカレー、お肉以外の野菜は、玉ねぎも人参もリンゴも、ぜんぶすりおろして煮込んであるんです。野菜の固形感は一切ありませんし、甘口のルーで作ったので全然辛くありません。すずちゃんも絶対に食べられますし、佐伯さんも、お鍋で温め直すだけで、今夜すぐに食べられますから」


「瀬戸さん……」


航平は、信じられないものを見るような目で文乃を見つめていた。


だが、その瞳の奥に宿ったのは、感謝だけではなかった。


むしろ、それ以上に深い、苦悩と自責の色だった。


航平はぎゅっと唇を噛み締め、両手を体の横で握りしめると、深く、深く頭を下げた。


「……瀬戸さん。お気持ちは、本当に……涙が出るほどありがたいです。でも、受け取れません」


「佐伯さん……」


「いくらなんでも、甘えすぎです」


頭を下げたまま、航平の掠れた声が廊下に落ちる。


「カボチャの煮物だけでも、僕たちにとっては身に余る救いでした。それなのに、またこんな……独身の瀬戸さんに、僕たちの食事の面倒まで見させてしまうなんて、人として間違っています。僕たちばかりが一方的に施しを受けて、瀬戸さんの時間や労力を奪うなんて、そんな卑怯なこと……僕には、できません」


それは、父親としての意地であり、一人の大人の男としての、最後の防衛線だった。


他人の善意に無神経に寄りかかり、若い女性の優しさを搾取するようなクズにはなりたくない。その鉄のような倫理観が、航平の喉元を締め上げているのが、文乃には痛いほど伝わってきた。


断られることは、最初から分かっていた。


だからこそ、文乃は今日、この瞬間のための「完璧な嘘」を用意していたのだ。


「佐伯さん、違うんです!」


文乃は一歩踏み込み、頭を下げる航平の目の前で、自分もまた直角に腰を折り、深々と頭を下げた。


「え……?」


突然の文乃の行動に、航平が驚いて顔を上げる。


文乃は頭を下げたまま、必死の形相で、あらかじめ何度も練習していたセリフを一気に捲し立てた。


「違うんです! 佐伯さんたちのために作ったんじゃないんです! 私、カレーを作るといつも目分量を誤ってしまって、一人暮らしなのに大鍋いっぱいに作っちゃうんです! 今日もすりおろすのが楽しくなって、野菜を入れすぎて、一週間分くらいの量になっちゃったんです!」


「は、はあ……?」


「うちの冷蔵庫、小さいんです! このままじゃタッパーが入り切らなくて、明日の朝にはダメにして捨てなきゃいけなくなっちゃうんです! 食べ物を無駄にするのは、農家の実家に対して本当に申し訳なくて、罪悪感で押し潰されそうなんです!」


顔を上げた文乃は、潤んだ瞳で真っ直ぐに航平を見据えた。


「だから、お願いです! 施しなんかじゃありません! 私の料理の失敗を、食べるのを手伝って、私を助けると思って受け取ってください!」


「瀬戸さん、そんな……助けるだなんて……」


航平は完全に言葉を失い、目を白黒させていた。


論理的で、常に正しさを重んじるエンジニアの男にとって、「一人暮らしの女がカレーを作りすぎて冷蔵庫に入らないから助けてほしい」という、あまりにも理不尽で、けれど圧倒的な熱量を持った懇願は、完全に計算の外側にある事態だった。


その隙を、文乃は見逃さなかった。


「傷みやすいですから、今夜絶対に温めて食べてくださいね! すずちゃん、パパと一緒に食べてね!」


「あ、瀬戸さん……っ!」


文乃は航平の胸元へ、ずっしりと重い紙袋の持ち手を強引に押し込んだ。


反射的に両手で紙袋を抱き留めてしまった航平。その腕の中に、出来立てのカレーの温もりと、リンゴとスパイスの甘い香りが、ずしりと重く沈み込む。


航平が何かを言いかけるよりも早く、文乃はくるりと踵を返した。


「失礼します!」


脱兎のごとく自分の部屋へと駆け戻り、玄関に滑り込んでドアを閉める。


カチャリと鍵をかけ、内側のドアスコープに額を押し当てた。


外の廊下では、航平が紙袋を両手で抱えたまま、狐につままれたような顔で立ち尽くしていた。


その足元で、すずが航平のズボンの裾を引っ張り、嬉しそうに飛び跳ねている。


「パパ! カレーだって! あやのちゃんのカレー、いいにおいする!」


「すず……お前なぁ……」


航平は困り果てたように眉を八の字に下げ、それから抱きしめた紙袋の底の温もりに触れ、深く、深く息を吐き出した。


その口元に、呆れと、そしてどうしようもない安堵の笑みが、ほんのわずかだけ滲み出ていたのを、文乃は見逃さなかった。


航平は三〇一号室のドアに向かって、誰にも見られていないはずの廊下で、深々と一礼した。


そして、すずの手を引いて、三〇二号室のドアを開け、中へと入っていった。


バタン。


ドアが閉まり、廊下に静けさが戻る。


「……ふぅぅぅぅぅぅっ!」


文乃は玄関のたたきに座り込み、天井を仰いだ。


心臓が破裂しそうなほど激しく打っている。手のひらは汗でびっしょりだった。


「言えた……なんとか押し付けられた……」


一人暮らしでカレーを作りすぎるなんて、あまりにもベタで下手くそな言い訳だったかもしれない。彼のような聡明な大人が、文乃の嘘に気づかないはずがなかった。


けれど、あの真面目な父親は、その下手くそな嘘を、娘のために受け取ってくれたのだ。


文乃は立ち上がり、静まり返った自分のキッチンへと戻った。


コンロの上には、まだたっぷりと残っているホーロー鍋のカレー。


ふわりと立ち上る出汁とスパイスの香りに包まれながら、文乃はスプーンを手に取った。


今夜は、一人分の食卓だ。


けれど、壁の向こう側で、あの不器用な親子が同じ温かい鍋を囲んでいるのだと思うだけで、胸の奥底がじんわりと、優しく満たされていくのだった。

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