第6話:限界パパの深夜残業
静寂というものは、厚みを持っている。
特に、週の折り返し地点である水曜日の深夜、午前二時を回った頃の静けさは、まるで底の知れない冷たい沼のように重く、深く、部屋の隅々にまで沈殿していた。
瀬戸文乃は、ベッドの中で浅い微睡みの中にいた。
翌朝も七時には起き上がらなければならない。営業事務の仕事は月末に向けて加速しており、伝票の山と納期確認の電話対応で、日中の脳は常にフル回転を強いられている。早く深い眠りに落ちなければならないはずなのに、なぜか今夜は、神経のどこか一本が微かに尖ったまま、シーツの冷たさばかりを意識していた。
――ト、……ズ……。
その時だった。
微かな異音が、静寂の膜を切り裂いて文乃の耳朶に触れた。
寝室の窓の外ではない。部屋の玄関ドアの向こう側――マンションの内廊下からだ。
メゾン・ド・フルールの共用廊下には、歩行音を和らげるための毛足の短い防音カーペットが敷き詰められている。通常の足音であれば、コツコツとした硬い靴音はほとんど響かないはずだった。
だが、今近づいてくるその音は、あまりにも異質だった。
――ズ、……ズザ……、トッ……。
足音というよりは、何か重たい鉛の塊を引きずっているかのような摩擦音。
一歩を踏み出すたびに、靴の踵が床を無残に擦り、そこから次の半歩を繰り出すまでに、途方もない時間が空く。まるで、全身の骨から筋力がすべて失われ、残された最後の神経の残滓だけで、前へ前へと無理やり体を倒し込んでいるかのような、不気味なほどに重たく、痛ましいリズム。
文乃の心臓が、トクンと嫌な跳ね方をした。
泥棒や不審者の足音ではない。息を潜めて忍び寄るような軽快さや狡猾さは微塵もなく、そこにあるのはただ、擦り切れた命がアスファルトの底を這いずり回っているかのような、むき出しの疲労そのものだった。
やがて、その引きずるような音は、文乃の部屋――三〇一号室の前を通り過ぎ、すぐ隣の三〇二号室の前で、ぴたりと止まった。
――カチャ、……カシャ……。
金属と金属がぶつかり合う、乾いた細かな音が響く。
鍵穴を探している音だ。だが、その手元はおそろしく覚束ないようだった。一度で鍵穴に鍵が差し込めず、ドアノブの周辺の金属プレートを何度も、何度も引っ掻くように金属片が滑る。
カチャリ、とようやく鍵が回り、カン、とラッチが外れる音がした。
しかし、ドアが開く気配がない。
「…………っ」
文乃は反射的に毛布を跳ね除け、ベッドの上に上半身を起こしていた。
時計のデジタル表示は『02:14』を示している。
こんな時間に帰宅する人間など、このフロアには一人しかいない。
――佐伯航平だ。
あの、日曜日の夜に、ピカピカに磨き上げたタッパーと、几帳面な青いインクで『娘の笑顔を、久しぶりに見ることができました』と感謝の付箋を残してくれた、隣の若い父親。
胸騒ぎが、全身の皮膚をざわりと粟立たせた。
何かがおかしい。鍵は開いたはずなのに、なぜ部屋に入らないのか。中で倒れたのではないか。それとも、廊下で意識を失っているのではないか。
文乃はパジャマの上から、ベッドサイドに掛けてあった厚手のフリースカーディガンを羽織ると、足音を極限まで殺しながらベッドを降りた。冷たいフローリングを素足で踏みしめ、玄関ホールへと向かう。
三和土の上に静かに降り立ち、文乃は息を殺した。
玄関ドアの真ん中に埋め込まれた、小さな真鍮のドアスコープ。
普段なら他人のプライバシーを覗き見るような真似は絶対にしない。だが、今この瞬間だけは、理性よりも胸を締め付ける焦燥感が文乃の体を突き動かしていた。
文乃はそっと片目をドアスコープに寄せる。
魚眼レンズの丸く歪んだ視界の向こう、薄暗い廊下の非常用ライトの下に広がっていた光景に、文乃は喉の奥で息を呑み、思わず両手で口元を覆った。
「…………っ!」
そこにいたのは、今にも崩壊しそうな航平の姿だった。
三〇二号室のドアの前。航平は、開いたはずのドアノブを右手で握りしめたまま、その冷たい鉄の扉に、自らの額を深々と押し当てていた。
百八十センチ近い長身が、途中で折れ曲がったように屈んでいる。
両肩が、激しく、不規則に上下していた。肺の奥底から酸素を絞り出すような、ゼエ、ゼエというかすかな喘鳴が、鉄のドア越しにでも聞こえてきそうなほどだった。
その身なりは、目を覆いたくなるほどに荒れ果てていた。
月曜日の朝にゴミ出しで見かけた時の、整ったスーツ姿の面影はどこにもない。
ネクタイは結び目が無残に緩められ、斜めに大きくねじ曲がっている。チャコールグレーのワイシャツは、第一ボタンと第二ボタンが無造作に引きちぎるように外され、汗と皮脂で首回りがぐっしょりと色を変えて肌に張り付いていた。
仕立ての良かったはずのジャケットは、もはや羽織る気力すら残っていないのか、裏返しになったまま左腕にだらしなく引っ掛けられ、裾が廊下の床に引きずられている。
そして――何より文乃の目を釘付けにしたのは、彼の手元だった。
空っぽだった。
コンビニのビニール袋も、スーパーの紙袋もない。
財布すらポケットに押し込まれたままで、手にはただ、使い古されたボロボロのビジネスバッグが、指先から滑り落ちそうな角度でぶら下がっているだけだった。
飲み物の一本すら、買っていない。
深夜二時過ぎまで働いて、空腹を満たすためのパン一つ、おにぎり一つ口にする余裕すらなく、ただ這うようにしてこの場所まで辿り着いたのだという事実が、その痛々しい手ぶらの姿から残酷なまでに伝わってきた。
――どうして、こんな時間まで……。
文乃の脳裏に、平日の保育園の過酷な現実が去来する。
文乃自身は独身だが、職場の先輩である倉田佳奈から、共働きや子育て世帯の苦労は日常的に聞かされていた。
すずちゃんが通っている認可保育園『あおぞら保育園』の延長保育は、確か午後八時が最終リミットだったはずだ。それ以降は、どんな事情があろうと園児を預かっておくことはできない。
親がどうしても残業を抜けられない場合、何が起きるか。
高額な民間の夜間ベビーシッターを、当日緊急の割増料金を払って手配するしかないのだ。一時間で数千円、深夜になればさらに跳ね上がる料金。
航平はWebデザインやシステム開発を手がけるIT企業のエンジニアだと、入居の挨拶の時に控えめに話していた。
もし、システムに重大な障害が発生し、サーバーがダウンしていたとしたら――。
顧客からの怒号、止まらないアラート、原因究明に追われる深夜のオフィス。抜け出すことなど絶対に許されない修羅場の中で、彼はどれほど焦燥に身を焼かれながらキーボードを叩いていたのだろう。
シッター会社に電話をかけまくり、頭を下げてすずの世話を頼み、時計の針が進むたびに膨れ上がるシッター代の請求に血の気を引きながら、それでも仕事を放り出すわけにはいかず、画面に向かい続けたに違いない。
父親としての責任と、社会人としての責任。
その二つの巨大な歯車に挟まれて、骨まで軋ませながら耐え抜いた結果が、今、目の前でドアノブに額を押し当てて蹲っているこの男の姿だった。
――カラン。
乾いた高い音が、廊下に響いた。
航平の手から、力尽きたように鍵の束が滑り落ち、防音カーペットの上に転がった。
航平は拾おうとして、膝を折った。だが、その足に力が入らず、そのままガクリと両膝を床に強打するようにして、その場に崩れ落ちてしまった。
「っ……、はぁっ、……っ……」
四つん這いに近い姿勢のまま、航平は床に落ちた鍵を見つめていた。
拾い上げようと伸ばした指先が、痙攣したように小刻みに震えている。あまりの疲労と低血糖のせいで、指一本を動かすことすら脳の指令が追いついていないようだった。
「佐伯さん……!」
文乃の唇から、名前が漏れかけた。
胸が張り裂けそうだった。今すぐドアを開けて飛び出したい衝動が、文乃の身体中を駆け巡る。
玄関の鍵を開け、外に出て、あの震える肩を支えてあげたい。
冷蔵庫には、日曜日に作り置きした常備菜がある。ポカリスエットのストックもある。せめて温かい白湯の一杯でも、胃に優しい何かを差し出して、「大丈夫ですか」と声をかけてあげたい。
文乃の手が、無意識のうちにドアの施錠サムターンへと伸びた。
親指と人差し指が、冷たい金属のつまみに触れる。
カチャリ、と微かな回転音が鳴りかけた――その瞬間。
文乃の脳裏に、冷や水のようなブレーキがかかった。
「……ダメだ」
文乃は指を止め、固まった。
時刻は、深夜二時十五分。
ここは賃貸マンションの共用廊下だ。いくら隣人とはいえ、未婚の若い独身女性が、パジャマ姿で深夜に男性の部屋の前に飛び出していくことの危うさ。それは防犯上の問題だけではない。
――航平のプライドだ。
あの人は、他人に迷惑をかけることを極度に恐れている。
タッパー一つ返却するのに、指紋一つ残さず磨き上げ、新品の吸水マットを敷いて、合わせる顔がないとばかりに無言でドアノブに掛けていくような、不器用で、生真面目で、鉄のような自制心を持った男なのだ。
そんな男が、疲労困憊で床に四つん這いになり、鍵一つ拾えずに震えている無様な姿を――よりによって、年下の独身女性に見られたいと思うだろうか?
同情されたと知ったら。
見苦しいところを晒してしまったと知ったら。
彼は救われるどころか、さらに深い恥辱と自己嫌悪の底へと叩き落とされるのではないか。
『大丈夫ですか』という善意の言葉が、今の彼にとっては、もっとも残酷な刃になってしまうのではないか。
サムターンに触れていた文乃の指先が、じわりと冷たい汗をかいた。
開けられない。
開けてはならない。
大人の分別という名の冷酷な鎖が、文乃の手足を玄関の内側に縛り付ける。他人の領域に無神経に踏み込んではいけないという社会のルールが、文乃の喉元を締め上げる。
スコープの向こうで、航平がようやく震える手で鍵を拾い上げた。
彼は壁に手をつき、軋むような動作でゆっくりと立ち上がった。長身を丸め、ドアノブを回して、数センチだけドアを開ける。
隙間から漏れ出してきたのは、すでに消灯された暗いリビングの冷気だった。
部屋の中には、高額な料金で雇われた夜間シッターが、寝室ですずを寝かしつけた後、すでに引き揚げた後の静寂が広がっているはずだった。テーブルの上には、シッターからの業務報告書と領収書だけが置かれているのだろう。
航平は、まるで這いずるようにして、その暗闇の中へと自分の身体を滑り込ませた。
靴を脱ぐことすらままならないのか、玄関の上がり框でよろめくような気配がした。
そして――。
バタン。
低く、重たい音を立てて、三〇二号室の鉄のドアが完全に閉じられた。
ガチャリ、と内側からチェーンが掛けられる金属音が、冷ややかに廊下に響き渡る。
完全な遮断。
外の世界との断絶。
廊下には、再び誰もいない静寂だけが戻っていた。
「…………っ、あ……」
文乃はドアスコープから顔を離し、玄関のドアに背中を預けるようにして、すとんと三和土にへたり込んだ。
心臓が、耳の奥で激しくドクドクと鐘を打ち鳴らしている。
冷たい床の感触が、パジャマ越しに文乃の体温を奪っていく。けれど、胸の奥で渦巻いている感情は、焼けつくように熱く、そして苦しかった。
「……あんなの」
膝を抱え、文乃は小さく身を震わせた。
「あんなの……生きてるっていうより、命を削ってるだけじゃない……」
あの青白い顔。乱れた襟元。
何より、あんな時間まで働いて、胃袋には水の一滴、パンの一片すら入っていない、あの空っぽの手。
すずちゃんのため。
娘を一人で育て上げるため。父親としての責任を果たすため。
その一心だけで、彼は自分の健康も、睡眠も、食事も、人間としての尊厳すらもすべて削り落として、ギリギリの崖っぷちを歩いているのだ。
何か一つでも歯車が狂えば、明日にでも過労で倒れて、そのまま二度と起き上がれなくなってしまうのではないか。そんな底知れぬ恐怖が、文乃の胸を冷たく締め付ける。
部屋に戻り、キッチンに目をやる。
シンクの脇の戸棚の中には、日曜日に航平が返してくれた、あのピカピカに洗われた耐熱ガラスのタッパーが静かに眠っている。
蓋の中央に貼られた、あの水色の付箋。
『娘の笑顔を、久しぶりに見ることができました』
あんなに優しい文字を書く人が。
あんなに娘のことを大切に想っている父親が。
今、壁の向こうの暗い部屋で、一人で倒れるようにして床に転がっているかもしれないのだ。空腹のまま、胃を痛めながら、泥のような眠りに落ちているかもしれないのだ。
「……放っておけない」
文乃は立ち上がり、キッチンの作業台に両手をついた。
他人の家庭に干渉してはいけない。
独身の女が、子持ちの男に深入りしてはいけない。
そんな分別の声は、今の文乃の耳にはもう届かなかった。
誰かが手を差し伸べなければ、あの人は本当に壊れてしまう。
大層な救済なんてできなくていい。彼の人生を背負うことなんてできなくていい。
ただ、仕事から帰ってきたあの限界の男の胃袋に、温かくて、優しくて、明日の朝を生き抜くための力が湧いてくるようなご飯を届けること。
それくらいなら、自分にだってできるはずだ。
「……カレーだ」
文乃の頭の中に、ひとつの料理が鮮明に浮かび上がった。
温め直すだけで、疲れて帰ってきた深夜でもすぐに食べられるもの。
すずちゃんが苦手な野菜を、これでもかというほど詰め込んでも、絶対に嫌がらずに美味しく食べられるもの。
そして、父親にとっても、娘にとっても、一口食べれば身体の芯から温もりが満ちてくるようなもの。
「野菜を、ぜんぶすりおろそう」
文乃は冷蔵庫を開け、中身を確認し始めた。
玉ねぎ、人参、リンゴ。
繊維を断ち切り、形をなくし、出汁とスパイスの香りで優しく包み込む。
言い訳なら、いくらでも作れる。
『また鍋いっぱいに作りすぎてしまったから』
『週末に食べるのを手伝ってほしいから』
どんな下手くそな嘘だっていい。相手が受け取りやすい口実さえあれば、あの生真面目な父親は、娘のために受け取ってくれるはずだ。
時計の針は午前二時半を回っていた。
壁の向こうからは、何の物音も聞こえない。
文乃は、胸の奥で激しく燃え始めた決意の熱を抱きしめながら、静かに、明日の献立のメモを書き殴り始めた。




