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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第5話:洗われたタッパーと付箋の文字

日曜日という一日は、夕暮れを境にして急激にその色合いを変えていく。


西の空を覆っていた薄紅色の残照が、濃紺の夜の帳へと静かに溶け込んでいく時間帯。月曜日から再び始まる労働の足音を遠くに聞きながら、多くの社会人が胸の奥に薄い憂鬱を抱え始める頃、瀬戸文乃は自室のベランダに出て、深く冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んでいた。


ピンチハンガーに揺れる白いブラウスや、肌触りの良い綿のタオル。


初冬の冷たい風に吹かれてパリッと乾いた洗濯物を一枚ずつ取り込みながら、文乃の思考は、どうしても昨日の夕方の出来事へと引き戻されていた。


「……やっぱり、強引すぎたよね」


思わず口から零れ落ちた呟きは、夜風にさらわれて小さく霧散した。


昨日の土曜日の夕暮れ。耐熱ガラスのタッパーに詰めたカボチャのそぼろ煮とだし巻き卵を、エコバッグごと隣の三〇二号室――佐伯航平の手に半ば押し付けるようにして手渡した、あの瞬間の記憶だ。


実家から野菜が届いて作りすぎた、という口実をでっち上げ、娘のすずちゃんのお腹が鳴った隙を突いて逃げるように立ち去った。あの時は「このままではこの親子が倒れてしまう」という一心だったけれど、一晩眠り、冷静な頭で振り返ってみればみるほど、自分のしたことの無遠慮さが恥ずかしくなってくる。


いくら隣人とはいえ、所詮は挨拶程度しか交わしたことのない間柄だ。


若い独身女性からいきなり手料理を渡されたところで、相手の立場からすれば困惑するに決まっている。もし相手が「壁越しの声を聞かれて同情されたのだ」と気づいていたらどうしよう。生真面目すぎるあの父親のプライドを、無自覚な憐れみで傷つけてしまったのではないか。あるいは、「家庭のことに干渉してくる厚かましい女だ」と警戒されているのではないか。


「……断りづらい状況を作って押し付けたんだもの。迷惑だったに決まってる」


取り込んだ洗濯物を腕に抱え、サッシを閉める。


リビングに入り、部屋着のワンピースの裾を直しながら、文乃は小さく肩を落とした。


良かれと思ってやったことが、相手にとって重荷になる――人間関係においてもっとも避けたいボタンの掛け違いを、自分はやってしまったのかもしれない。せめて「お口に合わなければ処分してください」とでも書き添えておけばよかったのか。あれこれと終わったことを反芻しては、胃のあたりがきゅっと縮むような落ち着かない思いを抱えていた。


腕いっぱいの洗濯物をローテーブルの上に広げ、丁寧に畳み始める。


月曜日から着ていくオフィスカジュアルのブラウスにシワがないか確認し、ハンガーに掛ける。フェイスタオルは角と角をきっちりと合わせ、三つ折りに整える。無心で手を動かすルーティンは、ざわつく心を落ち着かせるための文乃なりの防衛策だった。


時計の針が、午後八時を回った。


テレビからは日曜夜のバラエティ番組の賑やかな笑い声が流れていたが、文乃の意識はどうしても壁一枚隔てた隣の部屋へと向かってしまう。


昨夜も、そして今夜も、あの金曜日のような激しい泣き声や父親の切迫した怒声は聞こえてこない。


静かなのは良いことのはずだ。けれど、静まり返っていればいるほど、「昨日のおかずは一口も手をつけられずにゴミ箱へ捨てられたのではないか」「すずちゃんは相変わらず何も食べられずに泣き疲れて眠ったのではないか」というネガティブな想像ばかりが頭をもたげてくる。


最後のハンドタオルを畳み終え、立ち上がろうとした、その時だった。


――カサリ。


玄関の方角から、極めて微かな、けれど確かな物音が響いた。


文乃の動きが、ぴたりと止まる。


メゾン・ド・フルールの内廊下は、普段から住人の足音がほとんど響かない絨毯敷きだ。だが、今の音は廊下を歩く足音ではない。


紙か、あるいは薄い布が擦れ合うような小さな摩擦音。何かが、自分の部屋の玄関ドアの金属に触れたような、控えめな気配。


ピンポン、というインターホンの電子音は鳴らなかった。


文乃は息を殺し、忍び足で玄関ホールへと向かった。


冷え切った三和土(たたき)の上に立ち、そっとドアスコープに片目を寄せる。


魚眼レンズの丸く歪んだ視界の向こう、薄暗い内廊下の照明の下に、人影があった。


濃紺のパーカのフードを浅く被り、長身の背中を丸めるようにして、足早に去っていく男の後ろ姿。


――佐伯航平だ。


彼は一度も振り返ることなく、まるで夜の闇に紛れるようにして、音もなく三〇二号室のドアへと吸い込まれ、吸い付くように静かに鍵を閉めて消えていった。


「…………」


文乃は胸元を押さえ、小さく息を呑んだ。


インターホンを鳴らさなかった理由。それは痛いほどよく分かった。


日曜日の夜、独身女性の部屋の呼び出しボタンを押すことの無遠慮さを恐れたのだろう。顔を合わせて直接言葉を交わすことすら、相手に無駄な気遣いを強いる行為だと判断したに違いない。どこまでも礼儀正しく、どこまでも他人との距離感に過敏な、あの人らしい配慮だった。


カチャリ、と音を立てないように慎重にドアロックを外し、ノブを引く。


隙間から滑り込んできた冷たい空気が、文乃の頬を撫でた。


ドアノブの外側に、何かが掛けられていた。


昨日、文乃がタッパーを入れて渡した、あの無地の生成りのエコバッグだった。


ずっしりとした重みはない。けれど、空っぽの軽さでもない。中には確かに、あの二段重ねの容器が収まっている気配があった。


文乃は周囲の廊下を一度だけ見渡し、誰の姿もないことを確認してから、そのバッグを抱きかかえるようにして部屋の中へと引き入れた。


ドアを閉め、鍵をかける。


玄関の明かりの下、文乃は抱きしめたバッグを胸元から離し、じっと見つめた。


心臓がトクトクと激しく脈打っている。


もし、中身が手付かずのまま返されていたらどうしよう。


『お気持ちだけいただきます』と、冷めきったカボチャの煮物がそのまま入っていたら――そんな最悪の想像が頭をかすめ、バッグの口を広げる指先が微かに強張った。


「……確認しなきゃ」


意を決して、文乃は部屋のローテーブルへと戻り、バッグの底から中身を取り出した。


取り出した瞬間、文乃は思わず小さな息を呑んだ。


「これ……」


テーブルの上に置かれたのは、昨日自分が渡したはずの、四角い耐熱ガラス容器だった。


だが、その状態は、文乃の予想を遥か斜め上から打ち砕くものだった。


タッパーは、驚くべきことに、新品の未開封品のようにピカピカに磨き上げられていた。


ガラスの側面にも、四隅の縁にも、鶏そぼろの油膜や醤油の色素沈着など爪の先ほども残っていない。それどころか、指紋の跡一つなく、水滴の一粒すら残さず、極細のマイクロファイバー布で磨き上げられたかのように、透明な輝きを放っていた。


四角い蓋のシリコンパッキンは、一度溝から外して洗われたのだろう、寸分の狂いもなく正確に溝へと嵌め直され、パッキンの裏側の細かな溝にまで水気が完全に拭き取られている。


さらに、その二つのタッパーの下には、丁寧に四つ折りにされた、新品の吸水マットが敷かれていた。


淡いグレーの、まだ折り目のパリッとした真新しい吸水マット。


ガラス容器同士が触れ合ってカチャカチャと音を立てたり、傷がついたりしないように、容器と容器の間にも薄いクッキングペーパーが一枚、綺麗に挟み込まれている。


狂気的なまでの几帳面さ。


そして、借りた他人の道具に対する、痛烈なまでの敬意と誠実さ。


「佐伯さん……どれだけ時間をかけて洗ったのよ、これ……」


文乃の口から、呆れと感嘆の混ざった溜息がこぼれた。


普段から自炊をして、調理器具を何よりも大切に扱っている文乃だからこそ分かる。油分の強い鶏そぼろの餡と、みりんの糖分を含んだ煮汁は、ガラス容器の隅に薄い膜となって残りやすい。それをここまで完全に、指先でキュッと擦っても微塵の引っかかりもない状態にまで洗浄し、乾燥させるのに、どれほどの手間がかかったことか。


男の一人暮らしで、手荒れがひどかったあの指先で、彼は深夜か早朝に、スポンジと布巾を持ってこのタッパーと格闘したのだ。


タダで施しを受けたのではない。せめて借りた道具だけは、預かった時以上の美しさで返さなければならないという、悲痛なまでの意地と礼儀が、そのガラスの透明度から痛いほど伝わってきた。


そして。


上段のタッパーの、半透明な蓋の中央。


そこに、一枚の長方形の付箋が貼られていた。


オフィスで書類の回覧に使われるような、淡い水色のシンプルな付箋。


その上に、青い油性ボールペンのインクで、几帳面な文字がびっしりと書き込まれていた。


文字の線は細く、定規を当てて書いたかのように水平で、トメやハライが角張っている。IT企業のエンジニアらしい、論理的で端正な男の筆跡だった。筆圧の強さから、彼がどれほどペンを握る手に力を込めていたかが窺える。


文乃は、ローテーブルの前に正座し、その小さな付箋に顔を近づけた。


『瀬戸様』


書き出しは、丁寧な宛名から始まっていた。


『突然の不躾なお裾分け、本当にありがとうございました。


偏食が激しく、何ヶ月も野菜を口にしなかった娘が、

生まれて初めてカボチャを完食しました。


娘の笑顔を、久しぶりに見ることができました。


本当に、感謝してもしきれません。


佐伯』


「…………っ」


読み終えた瞬間、文乃の喉の奥がきゅうっと音を立てて狭まった。


胸の真ん中が、熱い湯に浸されたタオルのように、じわりと温かいもので満たされていく。


文字を、もう一度なぞる。


『生まれて初めてカボチャを完食しました』


その、たった一行の短い言葉。


飾らない、無骨な事実の報告。けれどその文字列の奥底から、この父親がどれほどの安堵と喜びに震えていたのかが、濁流のような勢いで押し寄せてきた。


半年間、毎晩のようにスーパーやコンビニの惣菜を前にして、泣き叫ぶ娘と向き合い続けてきた父親。


金曜日の夜に壁の向こうから聞こえていた、あの「なんで食べてくれないんだよ……」という絶望のため息。


土曜日の朝、ゴミ集積所に落ちていた、からあげ棒とゼリー飲料のレシート。


その過酷な日々の果てに、この人は昨夜、娘が笑ってカボチャを平らげる姿を見たのだ。


暗闇の中で手探りを続けていた親子の食卓に、小さな、けれど確かな光が灯ったのだ。


「……よかった」


ぽつりと零れ落ちた自分の声が、微かに震えていた。


文乃は目頭に指先を当て、溢れそうになった涙をそっと押し戻した。


押し付けがましいお節介だったかもしれない。迷惑がられたかもしれないと、一日中ビクビクと怯えていた自分のちっぽけな保身が、恥ずかしくてたまらなかった。


自分がキッチンで費やした、あの小一時間。


利尻昆布と鰹節で丁寧に出汁を引き、カボチャの厚い皮を削ぎ落とし、角を面取りして、鶏ひき肉の餡で包み込んだ、あの手間。


それは決して無駄ではなかった。


自分の作った料理が、壁一枚隔てた向こう側にいる見知らぬ誰かの心を、ほんの少しだけ救ったのだ。


四歳の小さな女の子の偏食の呪縛を解き、限界まで追い詰められていた父親の肩の荷を、ほんの一ミリだけでも軽くすることができたのだ。


文乃は、付箋の貼られたタッパーの蓋に、そっと指先を滑らせた。


青いインクで書かれた『佐伯』という署名。


その几帳面で不器用な筆跡が、やけに愛おしく、尊いものに思えた。


立ち上がり、キッチンへ向かう。


シンクの脇の吊り戸棚を開け、いつもタッパーを重ねて収納しているスペースに目をやる。


そこへ、ピカピカに洗われ、新品の吸水マットの上に置かれたガラス容器を、大切に両手で運んだ。


戸棚の定位置に、カチリと音を立てて収める。


蓋に貼られた水色の付箋は、剥がすことができなかった。剥がして捨ててしまうのがどうしても惜しくて、そのまま蓋の中央に残したまま、棚の奥へと静かに仕舞い込んだ。


「……ふふ」


戸棚の扉を閉めた時、文乃の口元から、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちていた。


一人暮らしの静かなワンルーム。


換気扇の止まったキッチンは、いつも通り清潔で、どこか無機質な空気を漂わせている。


けれど、さっきまで胸を重く支配していた日曜夜特有の憂鬱は、跡形もなく消え去っていた。


誰かのために料理を作るということ。


そして、その料理を誰かが心から喜び、綺麗に平らげて「美味しかった」と返してくれるということ。


祖母がかつて教えてくれた台所仕事の本当の喜びが、何年もの時を経て、この都会の無機質なコンクリートマンションの一室で、文乃の心にじんわりと蘇っていた。


「……作って、よかったな」


もう一度、声に出して噛み締める。


明日は月曜日。また忙しい一週間が始まる。


けれど文乃の足取りは、昨日までよりもずっと軽く、どこか前を向いていた。


冷蔵庫の前に立ち、メモ帳とペンを手に取る。


来週の献立を考える文乃の頭の中に、浮かんだのは一人分のメニューではなかった。


――すずちゃんは、他にどんなものが嫌いなんだろう。


――佐伯さんは、ちゃんと夜ご飯を食べる時間が取れているんだろうか。


無意識のうちに、隣室の親子の姿を思い描きながら食材の名前を書き留めていく自分に気づき、文乃は少しだけ照れくさそうに、けれど幸せそうに目を細めた。


壁一枚を隔てた二つの部屋の間で、交わされた言葉は付箋の数行だけ。


それでも、凍りついていた二つの部屋の境界線に、微かな、けれど確かな春の兆しのような温もりが、静かに根を下ろし始めていた。

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