第4話:はじめての「おいしい」
パタン、と玄関のドアが閉まり、複数の鍵が内側から掛けられた。
三〇二号室のリビングには、張り詰めたような静寂が舞い戻っていた。壁の向こうへ走り去った瀬戸文乃の足音はもう聞こえない。ただ、換気扇の低い唸り声と、冷蔵庫のコンプレッサーが規則正しく刻む重低音だけが、薄暗い部屋の空気を震わせている。
佐伯航平は、ダイニングテーブルの前に立ったまま、金縛りに遭ったかのように動けずにいた。
両手で抱え込んだ生成りのエコバッグ。
布地越しに伝わってくるのは、ずっしりとした確かな重みと、炊きたての湯気のような、じんわりと肌を侵食してくる温もりだった。それは、自分がここ半年間、コンビニの電子レンジで温めてきたプラスチック容器のトゲトゲしい熱さとは、まるで違っていた。熱の芯に、柔らかな水分と命の気配が宿っているような、不思議な温もり。
「……何やってるんだ、俺は」
航平は、擦り切れた喉の奥から、自嘲混じりの呟きを絞り出した。
受け取ってしまった。
断らなければならなかったのに。自分たちのような、隣で毎晩のように夜泣きと怒声を響かせ、迷惑をかけ続けている身勝手なシングルファザーが、隣室の若い独身女性から手料理の施しを受けるなど、人として絶対にやってはならない一線だったはずだ。
彼女は「作りすぎたから」「実家から届いて困っているから」と、どこまでも自分を卑下し、航平のプライドを傷つけないように完璧な口実を作ってくれた。その気遣いが痛いほど分かるからこそ、甘えてしまった己の浅ましさが、激しい自己嫌悪となって胸を焼く。
だが――同時に、航平の足元には、冷酷なまでの現実が横たわっていた。
昨夜のシステム障害に伴う徹夜作業。今朝のゴミ出し。昼間に片付けた山のような洗濯物と、すずの相手。
航平の体力と気力は、とっくに限界のメーターを振り切っていた。今からキッチンに立ち、野菜の皮を剥き、火を使い、すずが食べてくれるかどうかも分からない料理を作る気力など、全身のどこを探しても一ミリすら残っていなかった。
「……パパぁ」
ズボンの裾を、くい、と引っ張られた。
見下ろすと、すずが両手でお腹を押さえ、潤んだ瞳で航平を見上げていた。
「すず……おなか、ぺこぺこ。さっきの、いいにおいの……たべたい」
小さな、今にも消え入りそうな声。
昼間、コンビニのからあげ棒の端っこを一口かじっただけで、あとは吐き出すようにして口を閉ざしてしまった娘。四歳の小さな身体は、とっくに限界を迎えていたのだ。親のくだらない意地や世間体など、この子の空腹の前には何の価値もなかった。
「……そうだな。食べようか」
航平は震える息を吐き出し、エコバッグをダイニングテーブルの上に置いた。
中から現れたのは、清潔な麻のクロスで丁寧に包まれた、二段重ねの耐熱ガラス容器だった。隅々まで手入れの行き届いた、角の丸いガラスのタッパー。結び目を解くと、それだけで部屋の澱んだ空気を一掃するような、甘やかで深みのある香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
四角い蓋の密閉弁を、指先で引き上げる。
パチン、と小さな気圧の抜ける音が響き、蓋が外れた。
「っ……」
その瞬間、ぶわっと立ち上った湯気に、航平は思わず息を呑んだ。
出汁の香りだ。
化学調味料の尖った匂いではない。昆布のまろやかな海と、鰹節の力強く燻された大地が合わさった、本物の一番出汁の香り。そこに、煮切った本みりんの上品な甘みと、薄口醤油の香ばしさが重なり合い、まるで高級な割烹の厨房の扉を開けたかのような錯覚を覚える。
上段の深型タッパーに収まっていたのは、黄金色に輝く『カボチャのそぼろ煮』だった。
航平は目を見張った。
カボチャといえば、濃い緑色の硬い皮が目立つものだ。すずはその皮を見ただけで「黒いお化けが入ってる」と泣き叫び、頑として口を開けようとしなかった。
だが、このタッパーの中にあるカボチャには、あの禍々しい深緑の皮がほとんど見当たらなかった。外皮は極限まで薄く削ぎ落とされ、淡い若草色のグラデーションがほんの少し残されているだけ。さらに、煮崩れを防ぐための「面取り」が、すべての角に寸分の狂いもなく施されていた。
そして何より、その上から惜しみなく回しかけられた、艶やかな鶏そぼろの餡。
細かく炒りつけられた鶏ひき肉が出汁の効いた餡の中でキラキラと光を反射し、ぽってりとしたとろみが、カボチャの表面を優しく、完全にコーティングしていた。
「……すごいな」
料理の素人である航平にすら分かった。
これは「余り物」なんかではない。どれほどの手間と時間、そして「小さな子どもに美味しく食べてほしい」という細やかな配慮が注ぎ込まれているか、その一角を見れば痛いほど伝わってきた。
もう一つの浅型タッパーを開けると、そこには均等な厚さに切り分けられた、見事な黄金色のだし巻き卵が並んでいた。焦げ目一つなく、スフレのようにきめ細やかな断面からは、今にも出汁が溢れ出しそうだった。
航平は食器棚を開け、一人暮らしの時代から使っている、なんの変哲もない黒い陶器の深皿を二つ取り出した。
大きなスプーンを使い、カボチャを崩さないよう慎重に黒皿へと移す。艶やかな飴色の餡が、黒い陶器の上でいっそう鮮やかに映えた。だし巻き卵も二つ、添えるように並べる。
「すず、おいで。お席に座って」
すずはトタトタと駆け寄り、子ども用のハイチェアによじ登った。
テーブルの上に置かれた黒いお皿を、すずは両手を握りしめたまま、じっと凝視した。
その表情には、空腹への期待と同時に、いつもの「警戒心」が色濃く浮かんでいた。毎晩のように繰り広げられた食事の時間の苦痛。無理やり口に押し込まれそうになった苦い野菜。怒るパパの顔。その記憶が、すずの小さな身体を強張らせていた。
「パパ……これ、なあに?」
すずは、おそるおそる指を差した。
「……お隣の瀬戸さんがくれた、カボチャだよ」
航平は嘘をつかなかった。ここで「お肉だよ」と誤魔化して食べさせれば、後で裏切られたと感じて余計に拒絶されることを、これまでの失敗で嫌というほど学んでいたからだ。
「カボチャ……?」
すずの眉が、きゅっと寄った。
「すず、カボチャきらい。お口がパサパサするもん。かわが苦いもん」
「うん、そうだよね。パパの作ったやつは、パサパサして苦かったよな。ごめんな」
航平はすずの目線まで腰を落とし、小さな子供用スプーンをすずの右手に握らせた。
「でもね、瀬戸さんが、すずのために皮をぜんぶ綺麗に剥いて、お肉の甘い餡をたっぷりかけてくれたんだ。一口だけでいい。もし苦かったら、ペッて出していいから。パパ、絶対に怒らないから。……一口だけ、舐めてみるだけでもいいから、食べてみてくれないか?」
航平の声は、祈るように震えていた。
すずは、スプーンを握ったまま、じっと皿の上のカボチャを見つめた。
いつもの緑色の皮はない。立ち上る湯気からは、お醤油とお肉の、甘くてたまらない匂いがする。お腹が、もう一度小さく鳴った。
意を決したように、すずはスプーンの先をカボチャの端へと突き立てた。
すっ、と何の抵抗もなく、スプーンが柔らかい果肉へと沈み込む。
スプーンの上に、一口大のカボチャが乗った。鶏そぼろの餡が、とろりとその表面を覆っている。
すずは大きく息を吸い込み、目をぎゅっと瞑りながら、そのスプーンを小さな口の中へと放り込んだ。
ごくり、と航平の喉が鳴った。
心臓が早鐘を打つ。吐き出すんじゃないか。やっぱり苦いと泣き叫ぶんじゃないか。全身の筋肉が硬直し、呼吸が止まる。
すずの小さな口が、もぐ、もぐ、とゆっくり動き始めた。
一秒、二秒、三秒。
咀嚼の音が、静かなリビングに響く。
ふいに、すずの動きが止まった。
「すず……?」
航平が恐る恐る呼びかけた、その瞬間だった。
ぎゅっと閉じられていたすずの大きな瞳が、カッと見開かれた。
黒目が驚きに見開かれ、顔全体の筋肉が、まるで魔法をかけられたかのように一瞬で解けていく。
「…………あまい」
ぽつりと、すずの唇から小さな声がこぼれ落ちた。
「え……?」
「パパ、これ……あまいよ! お肉の味する! 苦くない!」
すずは口の中のものを、なんの引っかかりもなく、トロンと喉の奥へと飲み干してしまった。
いつもなら、野菜の繊維が舌に残っただけで吐き気をもよおしていた娘が、まるで上質なプリンでも飲み込むかのように、いとも容易く飲み込んでしまったのだ。
「パサパサしないの! お汁が、じゅわ〜ってして、すっごくあまい!」
すずの顔が、満開の花のように綻んだ。
その瞳の輝きに、航平の思考が完全に停止した。
「あ、甘い……?」
「うん! これ、おいしい! すず、これすき!」
すずは叫ぶと、誰に言われるでもなく、自らの意志で再びスプーンを握り直した。
皿の上のカボチャへ、迷うことなくスプーンを突き立てる。餡をたっぷりと絡め、二口目、三口目と、夢中になって口へと運んでいく。
「もぐもぐ……おいしい! パパ、たまごも食べていい?」
「あ……ああ、いいぞ、食べてごらん」
すずは小さなフォークに持ち替え、だし巻き卵の端を刺した。
ふわりと柔らかな卵焼きが、すずの口に収まる。噛み締めた瞬間、卵の層の隙間から、出汁とみりんの優しい甘みがじゅわりと溢れ出したらしく、すずは「んん〜〜っ!」と両手で自分の頬を押さえて身悶えした。
「パパ! これ、すっごくおいしい!! お出汁がぷしゃーって出たよ!」
「ぷしゃーって……そうか、美味いか……」
「うん! あまい卵焼き、だいすき!」
そこからの光景は、航平にとって、白昼夢を見ているかのようだった。
半年間。
妻が出ていき、二人きりの生活が始まってからの半年間、この食卓は航平にとって戦場であり、拷問部屋だった。
どうにかして栄養を摂らせなければと、仕事帰りにスーパーやコンビニを走り回り、ネットで「幼児食 簡単」「偏食 克服」と夜中まで検索し続けた。だが、自分が作った不恰好な煮物はカボチャの芯が固く、青臭さが残り、すずは一口食べただけで激しく泣き叫んで皿をひっくり返した。
買ってきた惣菜は味付けが濃すぎたり、添加物の匂いが鼻についたりして、すずはスプーンすら握ろうとしなかった。
『なんで食べないんだ』
『お願いだから一口だけ食べてくれ』
『パパをこれ以上困らせないでくれ』
毎晩、毎晩、怒鳴り、宥め、最後には二人で泣いた。
すずの細くなっていく手足を見るたびに、自分の無力さと不甲斐なさに胸をえぐられ、「俺がこの子を飢えさせて殺してしまうんじゃないか」という底知れぬ恐怖に苛まれていた。
その、地獄のような半年間が。
今、目の前で、音を立てて崩れ去っていく。
カチャカチャと、小気味よいスプーンの音が響く。
「おいしいね、パパ。これ、ぜんぶすずの?」
「ああ……すずの分だよ。ゆっくり食べな」
「うん!」
すずは夢中でスプーンを動かし続けた。大きな口を開け、頬をリスのようにパンパンに膨らませて、カボチャを頬張る。あんなに嫌がっていた野菜を、自分から、嬉しそうに、笑顔で食べている。
最後には、お皿の隅に残った鶏そぼろの餡まで、スプーンで丁寧にこそぎ落として、綺麗に口へと運んだ。
カラン、とスプーンが置かれる。
黒い陶器の深皿の上には、米粒一つ、カボチャの欠片一つ残っていなかった。
まるで洗ったかのように、ピカピカに平らげられた黒い皿。
すずは、ぽんぽんと膨らんだ自分のお腹を両手で撫で、満足そうにふにゃりと笑った。
「ごちそうさまでした! ……パパ、おなかいっぱい。すず、お野菜たべられたよ!」
誇らしげに胸を張る娘の姿。
その無邪気で、健やかな笑顔を見た瞬間――。
航平の胸の奥で、半年間張り詰め続けていた鋼のワイヤーが、ぷつんと音を立てて切れた。
「っ…………」
喉の奥が、激しく痙攣した。
視界が、一瞬にして歪んだ。目の奥から熱いものが堰を切ったように溢れ出し、頬を伝ってボロボロと零れ落ちていく。
「パパ……? どうしたの……?」
異変に気づいたすずが、不思議そうに首を傾げた。
「パパ、おなか痛いの?」
「いや……っ、違う……違うんだ、すず……」
航平は慌てて両手で顔を覆った。
娘に情けない顔を見せてはいけない。父親として、泣き言を言ってはいけない。そう思えば思うほど、指の隙間から嗚咽が漏れ出してしまう。
「よかった……っ、本当に……よかった……」
肩が、ガクガクと激しく震えた。
美味しかったのだ。
この子は、ただ我が儘で食べなかったんじゃない。美味しくなかったから、怖かったから、喉を通らなかっただけなのだ。
自分が娘を追いつめていた。自分の無知と、焦りと、下手くそな料理が、この小さな身体を苦しめ続けていた。
そして、その呪縛を解いてくれたのは――。
あの、困ったような笑顔でタッパーを押し付けて去っていった、隣室の瀬戸文乃だった。
彼女がどんな思いでこのカボチャの皮を剥き、どれほどの時間をかけて出汁を引き、角を面取りしてくれたのか。その気の遠くなるような優しさと温もりが、空っぽになったピカピカの黒い皿から、航平の冷え切った心臓へと直接流れ込んでくるようだった。
「パパ、泣かないで? すず、いい子にするから……」
すずが椅子から降り、おずおずと航平の膝に小さな手を置いた。
航平は顔を覆っていた手を下ろし、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、すずの小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
「違うよ、すず……パパ、嬉しくて泣いてるんだ。すずが、たくさんご飯を食べてくれて……すごく、すごく嬉しいんだよ……」
「うれしいの……?」
「ああ……嬉しい。すず、いっぱい食べてくれて、ありがとうな……」
すずの柔らかな温もりと、微かに漂う出汁の甘い香り。
航平はすずの小さな背中をさすりながら、何度も、何度も涙を拭った。
テーブルの上には、空になった黒い皿と、もう一つ、航平のために残されたカボチャとだし巻き卵の乗った皿があった。
航平はすずを抱いたまま、震える手で箸を取り、冷めかけたカボチャを一口、自分の口へと運んだ。
舌の上に広がる、圧倒的なまでの優しさ。
出汁の深い旨味と、鶏そぼろのコク、そしてカボチャ本来の素朴な大地の甘みが、疲弊しきった航平の全身の細胞へと染み渡っていく。
「…………っ」
言葉にならなかった。
ただ、ただ、美味しかった。
誰かが自分のために、娘のために、心を込めて作ってくれた温かい料理。それがこれほどまでに人の心を救い、生きる力を与えてくれるものなのかと、航平は生まれて初めて知った気がした。
涙が止まらなかった。
泣きながら、航平は一口ずつ、噛み締めるようにその料理を胃の中へと収めていった。
静まり返った三〇二号室の夜。
半年ぶりに訪れた穏やかで満ち足りた食卓の片隅で、空になった四角い耐熱ガラスのタッパーが、キッチンの蛍光灯の光を浴びて、静かに、優しく輝いていた。




