第3話:お裾分けの口実
土曜日の陽光が西の空へと傾き、マンションの共用廊下に細長い茜色の影を落とし始める頃。
瀬戸文乃の部屋のキッチンは、朝から立ち込める出汁と醤油の芳醇な香りに満たされていた。換気扇が低く唸りを上げ、その排気口からは、通りかかる誰もが思わず足を止めて空腹を自覚してしまうような、甘やかでどこか懐かしい湯気が外へと送り出されている。
文乃は、濡れ布巾でまな板を丁寧に拭い、目の前に並んだ二つの耐熱ガラス容器――四角く無機質なはずの透明なタッパーを、値踏みするようにじっと見つめていた。
「よし……見た目は、悪くない」
小さく息を吐き出しながら、一人呟く。
一つ目の深型タッパーに収まっているのは、黄金色に輝く『カボチャのそぼろ煮』だ。
大人のための煮物なら、カボチャの深い緑の皮をあえて残し、ほろ苦さと歯ごたえを楽しむところだろう。だが、今朝のゴミ集積所で見たあの少女――すずの、乾いて粉を吹いていた小さな頬と、昨夜の「苦い、食べたくない」という切痛な泣き声が、文乃の手元に別の工夫を要求していた。
四歳児の舌は、大人が想像する以上に鋭敏だ。野菜の皮付近に含まれる苦味やえぐみ、筋っぽい繊維質は、幼い子どもにとって本能的な拒絶反応を引き起こす。
だからこそ、文乃は時間を惜しまなかった。
実家から届いたまるごとのカボチャを包丁で四つ割りにし、スプーンで種とワタを徹底的にこそぎ落とした後、皮を通常の倍以上の厚さで削ぎ落とした。外側にほんのわずかだけ黄緑色のグラデーションを残す程度にまで剥き、角という角を丁寧に削る「面取り」を施す。一口大に切り揃えた実は、水にさらして余分なデンプン質を落とし、アクを抜く。
煮汁のベースにしたのは、午前中に昆布と鰹節から引いた一番出汁だ。
まず小鍋に少量の油を熱し、鶏ひき肉――それも脂分の少ない胸肉ではなく、適度なコクと旨味が出るもも肉のひき肉を、菜箸四本を使ってポロポロの細かな粒になるまで炒める。酒とみりん、少量の砂糖を加えて下味をつけ、肉の生臭さを完全に飛ばしてから、黄金色の出汁を注ぎ入れる。
そこへカボチャを並べ、落とし蓋をして弱火でコトコトと煮含めること十五分。
竹串がすっと抵抗なく通るのを確認したところで、カボチャだけを一旦丁寧に取り出し、器へと移す。残った煮汁の味を薄口醤油で整え、火を止めて水溶き片栗粉を回し入れ、再び火にかけてしっかりと沸騰させて透明感のあるとろみをつけた。
最後に、その艶やかな鶏そぼろ餡を、カボチャの上からたっぷりと回しかける。
餡がカボチャの表面をぽってりとコーティングし、出汁の旨味と鶏肉の甘い脂が、野菜特有の青臭さを完全に閉じ込めていた。これなら、舌に触れた瞬間に広がるのは「お肉の甘い味」であり、パサつきがちなカボチャの果肉も、餡の水分と一緒にすんなりと喉を通るはずだった。
そして、もう一つの浅型タッパーに並んでいるのは、文乃の十八番である『甘めの出汁巻き卵』だ。
卵三個に対し、贅沢に大さじ四杯の合わせ出汁。焦げ付きやすいギリギリの水分量だが、文乃は年季の入った銅製の卵焼き器を使い、弱火で薄く、何層にも油を引いて巻き上げた。
普段の文乃なら、出汁と薄口醤油だけでキリリと仕上げる関西風を好む。しかし今回は、砂糖を小さじ二杯と、本みりんを多めに含ませてある。お弁当の定番のような、噛み締めた瞬間にじゅわっと甘い出汁が溢れ出す、子どもが本能的に好む黄金色の層。巻き簾で形を整え、冷ましてから八等分に切り分けた断面は、まるでスフレのように滑らかで気泡一つなかった。
「……完璧。料理としては、完璧なんだけど」
文乃は額に手を当て、台所の換気扇を見上げた。
問題は、これをどうやって隣の部屋に届けるか、だった。
時計の針は午後五時半を回っている。保育園児のいる家庭なら、そろそろ夕食の準備を始めるか、あるいは空腹でぐずり出す時間帯だ。
「なんて言って渡せばいいのよ、私……」
文乃はキッチンの作業台の前で、一人ブツブツとリハーサルを始めた。
『佐伯さん、昨日は大変そうでしたね。これ、よかったら食べてください』
「ダメ! 絶対ダメ! それじゃ完全に『壁越しに家庭の修羅場を聞いてました』って告白してるようなもんじゃない。あのお父さんのプライドが粉々に砕け散っちゃう」
文乃は激しく首を横に振った。
今朝のゴミ集積所での航平の姿が脳裏をよぎる。あの、濃い隈を張り付かせ、自分の背中に娘を隠すようにして「すみません」と怯えていた姿。彼は真面目で、責任感が強すぎるのだ。他人に弱みを見せることを極度に恐れ、迷惑をかけることに怯えている。そんな人に、憐れみや同情の色が透けて見える手料理を差し出せば、拒絶されるのは目に見えていた。
『あの、お隣さん同士ですし、困った時は助け合いですから!』
「……ううん、重い。独身の女が隣のシングルファザーに言うセリフじゃない。なんか下心があるみたいに思われたらどうするのよ……」
頭を抱える。
必要なのは、「施し」でも「同情」でもなく、相手が罪悪感を持たずに受け取れる、完璧で無害な『口実』だ。
「……これしかないわよね」
文乃は、洗面台の鏡の前に立ち、自分の表情を作った。
眉を八の字に下げ、いかにも「困り果てて途方に暮れている一人暮らしの女」の顔を作る。
『佐伯さん、すみません……! 実家からカボチャが丸ごと二個も送られてきちゃって……一人じゃ絶対に傷ませちゃうんです。煮物も張り切って作りすぎちゃって、冷蔵庫に入り切らなくて。捨てるのは農家の実家に申し訳ないので、もしよかったら、食べるのを手伝っていただけませんか?』
「……よし。これなら、『私が助けてもらう側』になれる」
文乃は深く頷いた。
施すのではない。余らせて困っている自分を、隣人に助けてもらうのだという構図。これならば、生真面目すぎる父親の自尊心を傷つけずに済むはずだった。
タッパーの蓋をしっかりと閉め、清潔なリネンのクロスで包む。それを、ブランドのロゴが入っていない、無地の生成りのエコバッグに入れた。タッパーをそのまま持ち歩くよりも、生活感や生々しさを隠すことができる。
スリッパを脱ぎ、玄関のドアを開ける。
三階の内廊下は、夕暮れの静寂に包まれていた。
三〇一号室から三〇二号室へ。その距離、わずか数メートル。
普段なら二秒で通り過ぎるその短い空間が、今の文乃にはまるで断崖絶壁に架けられた細い吊り橋のように感じられた。心臓がドクドクと早鐘を打ち、手元のバッグを握る指先にじんわりと汗が滲む。
三〇二号室のインターホンの前に立つ。
表札には、几帳面なフォントで『佐伯』とだけ印字されたプレートが差し込まれていた。
文乃は小さく深呼吸をし、人差し指を伸ばして、呼び出しボタンを押し込んだ。
ピン、ポーン――。
静かな廊下に、電子音がやけに甲高く響き渡る。
心臓が口から飛び出しそうだった。やっぱり引き返そうか、ドアノブに黙って掛けておくだけにしようか。そんな卑怯な迷いが頭をかすめた瞬間――。
ガチャリ。
内側から、複数の鍵が解錠される重い金属音がした。
続いて、ドアがわずかに――ほんの五センチほどだけ、チェーンがピンと張る限界まで開かれた。
「……はい」
隙間から覗いたのは、やはりあの濃い隈を刻んだ、佐伯航平の青白い顔だった。
室内着の黒いスウェット姿。昼間よりは少し髪が整えられているものの、その双眸には、突然の来訪者に対する明白な警戒と、今朝の気まずさがそのまま張り付いていた。
「あの……瀬戸、さん……?」
航平は文乃の顔を認識すると、一瞬だけ瞳を揺らし、それからサッと血の気を引かせた。
また謝罪の言葉を口にしようとするのか、喉仏が小さく上下する。朝のエレベーターでの「首を振る文乃」の意図を測りかねたまま、彼はずっと怯えていたのかもしれない。
文乃は、航平が口を開くよりも早く、先手を打つように口を開いた。
「佐伯さん、突然すみません! あの、今……少しだけお時間大丈夫でしょうか?」
「あ……はい。大丈夫ですが……何か、ご迷惑を……?」
どこまでも「自分が迷惑をかけたのではないか」という前提で話そうとする航平に、文乃は胸をチクリと痛めながら、あらかじめ練習していたセリフを一気に捲し立てた。
「いえ、違うんです! 実は……あの、これなんですけど」
文乃は手に持った生成りのエコバッグを、胸の高さに持ち上げて見せた。
「実家から、カボチャと野菜が大量に送られてきてしまいまして……。一人暮らしなのに、母が張り切って丸ごと何個も詰め込んできたんです。それで、傷む前にと思って急いで煮物にしたんですけど、目分量を完全に誤ってしまって……鍋いっぱいに作りすぎてしまったんです」
「は、あ……」
航平は、チェーンの隙間から文乃とバッグを交互に見つめ、目を白黒させている。
「私一人じゃ、どう頑張っても三日かかっても食べきれなくて……。せっかく実家から送ってもらった野菜を腐らせて捨てるのは、どうしても忍びなくて。もし……もしご迷惑でなければなんですが、今日の晩ごはんの足しにでも、貰っていただけないでしょうか?」
言い切った。
文乃は、できる限り自然な「困り顔」を浮かべながら、すがるような視線を航平に向けた。
だが、航平の反応は、文乃の予想通り――いや、それ以上に頑ななものだった。
航平は、困惑したように眉根を寄せ、それから深く頭を下げた。
「お気持ちは、本当に……本当にありがたいです。ですが、そんなものをいただくわけにはいきません。うちは……隣で騒がしくして、瀬戸さんに毎日ご迷惑をおかけしている身です。そんな僕たちが、瀬戸さんの貴重なお料理をいただくなんて、道理が通りません」
「そんな、迷惑だなんて思ってません!」
「いいえ、甘えるわけにはいかないんです」
航平の声は、静かだったが、鉄のように硬かった。
そこには、若いシングルファザーとして、決して他人に依存してはならない、施しを受けて娘を育てるような惨めな真似はしたくないという、悲痛なまでのプライドと自制心が滲み出ていた。
「お気遣い、心から感謝します。でも……受け取れません。本当に、すみません」
そう言って、航平がゆっくりとドアを閉めようとした、その時だった。
ドアの足元、航平の膝のあたりから、小さな小さな頭がひょっこりと隙間に割り込んできた。
「パパ……? だれ……?」
すずだった。
昼間と同じ、ピンクのフリースを着た小さな女の子。その大きな瞳が、チェーンの隙間から文乃の顔を捉え、それから文乃の手元にあるエコバッグへと注がれた。
ふわりと、バッグの隙間から廊下へと漏れ出していた、甘辛い醤油と昆布出汁の香り。
その瞬間だった。
――きゅ〜〜〜〜ぅ。
静まり返った夕暮れの廊下に、驚くほど澄んだ、けれど切実な音が響き渡った。
すずの小さなお腹の虫の音だった。
「っ……!」
航平の動きが、完全に停止した。
ドアを閉めようとしていた手が宙で凍りつき、その青白かった頬が、耳の付け根まで一瞬にして真っ赤に染め上げられていく。
「パパぁ……」
すずは、自分のお腹に両手を当て、情けなさそうに眉を下げて父親を見上げた。
「すず、おなか……すいた……。いいにおいする……」
「す、すず……っ!」
航平は恥ずかしさと情けなさのあまり、顔を手で覆いそうになりながら、言葉を失っていた。
昼間、コンビニのおにぎりを一口かじったきりで、あとはゼリー飲料を少し吸っただけだったのだろう。四歳の小さな身体は、正直すぎるほどに栄養と温もりを求めて悲鳴を上げていた。
文乃は、その千載一遇の隙を見逃さなかった。
今、引いては駄目だ。ここで遠慮して持ち帰れば、この真面目すぎる父親はまたコンビニに走り、冷たい弁当を娘に押し付け、互いに涙を流す夜を繰り返すことになる。
「佐伯さん!」
文乃は一歩踏み出し、チェーンの隙間から、エコバッグの持ち手を航平の胸元へと差し入れた。
「お願いです、受け取ってください! これ、出汁巻き卵も入っているんです。今日中に食べないと、本当に傷んでダメになっちゃうんです! 私の失敗を助けると思って、どうか!」
「瀬戸さん、しかし……!」
「いいから! すずちゃん、お腹空いたよね? パパと一緒に食べてね!」
文乃は、航平が抵抗する間も与えず、彼の細く強張った指先にエコバッグの持ち手を半ば強引に引っ掛けた。
航平の手のひらに、ずっしりとした二段重ねのガラス容器の重みと、リネン越しに伝わる出来立ての温もりが伝わる。航平は目を見張り、その温かさに気圧されたように、バッグを取り落とさないよう反射的に抱え込んでしまった。
「あ、あの……瀬戸さん……!」
「タッパーは洗って、そのうち返してくださればいつでもいいですから! じゃあ、失礼します!」
言いたいことだけを一気に言い切ると、文乃はくるりと背を向けた。
心臓が破裂しそうなほどの勢いで跳ね上がる中、小走りで三〇一号室へと戻り、玄関に滑り込んでドアを閉める。
カチャリと鍵をかけ、内側のドアスコープに額を押し当てるようにして、小さく息を整えた。
外からは、しばらくの間、何の物音も聞こえなかった。
けれど数秒後、カサリとエコバッグが擦れる微かな音と、小さな金属音が響き、三〇二号室のドアが、静かに、けれどしっかりと内側から閉じられる音が聞こえた。
「……ふぅぅぅぅぅぅ……っ」
文乃はその場にへたり込み、玄関のたたきに両手をついた。
全身から一気に汗が噴き出し、膝がガクガクと震えている。
「やっちゃった……。押し付けちゃった……」
強引すぎただろうか。非常識だと思われただろうか。
不安が津波のように押し寄せてくる。
けれど、その不安のすぐ足元で、あのすずちゃんの「いいにおいする」という小さな呟きと、温かいバッグを抱きしめた航平の手の感触が、確かに残っていた。
文乃は、まだ熱を帯びている自分の手のひらを見つめ、それから静かに立ち上がった。
あとは、あの二人の食卓に委ねるしかない。
祖母直伝の出汁と、丁寧に面取りしたカボチャの甘みが、どうかあの凍りついた部屋の空気を、少しだけでも解かしてくれますようにと、文乃は祈るような思いで、静まり返ったキッチンの明かりを見つめていた。




