第2話:廊下に落ちていたコンビニのレシート
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、冬の名残を含んだ薄い白金色をしていた。
瀬戸文乃は、午前七時半にアラームが鳴るよりも数分早く、自然と目を覚ました。
平日のようにけたたましい電子音に追われる朝ではない。土曜日の朝特有の、どこか街全体が深く眠り込んでいるような静けさが、薄い毛布越しに伝わってくる。いつもなら、このまま二度寝の微睡みに身を委ねるのが休日の小さな贅沢だった。
けれど今朝は、瞼を開けた瞬間に、昨夜の記憶が胸の奥で小さな棘のようにチクリと痛んだ。
「……あの子、ちゃんと眠れたのかな」
ベッドから身を起こし、静まり返ったワンルームを見渡す。
シンクの洗い桶には、昨夜きれいに洗った器とグラスが伏せられていた。冷蔵庫の中には、一晩寝かせてさらに味が染み込んだはずの肉じゃがの残りが、ガラスの耐熱容器に入っている。本来なら、今朝はあれを温め直して、ふっくら炊いたご飯と一緒に至福の朝食にするはずだった。
しかし、壁の向こうから聞こえていたあの泣き声――「苦い」「食べたくない」「パパきらい」という幼い悲鳴と、それに応える若い父親の、今にも泣き出しそうに擦り切れた声が、耳の奥から離れてくれない。
文乃は小さく息を吐き出し、パジャマの上から厚手のニットカーディガンを羽織った。
思い悩んだところで、自分はただの隣人にすぎない。他人の家庭の事情に足を踏み入れる権利もなければ、救いの手を差し伸べる大義名分もないのだ。冷たい水で顔を洗い、化粧水で肌を整える。いつものルーティンをこなすことで、ざわつく心を無理やり平熱へと戻そうとした。
キッチンの一角に置いてあった指定の可燃ゴミ袋を縛る。一人暮らしの一週間分とはいえ、自炊をしっかりする文乃のゴミ袋には、野菜の皮や出汁を取った後の鰹節、玉ねぎの薄皮などが新聞紙に几帳面に包まれて入っていた。それなりの重みがある。
「よし、とりあえずゴミを出してこよう」
時計の針は午前八時を指していた。サンダルを引っ掛け、ゴミ袋を片手に持って玄関のドアを開ける。
三階の内廊下は、まだ冷え冷えとしていた。共用部の換気窓から吹き込む風が、カーディガンの裾を静かに揺らす。静まり返った廊下を歩き、エレベーターのボタンを押して一階へと降りた。
メゾン・ド・フルールのゴミ集積所は、エントランスを出てすぐ脇、頑丈なステンレス製の防鳥ネット付き扉で囲まれた半屋外のスペースにある。
ガチャリ、と重いラッチを押し上げて扉を開けた瞬間、文乃は足を止めた。
先客がいた。
そこに立っていたのは、昨夜、壁の向こうで悪戦苦闘していた張本人――隣の三〇二号室に住む、佐伯航平だった。
「…………」
文乃は思わず息を呑んだ。
引っ越しの挨拶の時にも「痩せていて背の高い人だな」という印象はあった。だが、朝の容赦ない自然光の下で見る航平の姿は、痛々しいという表現すら生ぬるいほどに、極限の疲労を色濃く滲ませていた。
身長は百八十センチ近くあるはずなのに、その背中は酷く丸まり、全体として小さく縮こまって見えた。着古したグレーのスウェットの上下に、突っ掛けただけのサンダル。黒髪はあちこち跳ねてひどい寝癖がついたままで、肌は土気色に淀んでいる。何より、深く窪んだ両目の下には、まるで紫色の絵の具を刷毛で引いたかのような、濃く重たい隈が張り付いていた。
三十歳前後に見える端正な顔立ちの骨格が、肉の削ぎ落とされた頬のせいで痛々しく際立っている。
そして、その航平の右足のズボンの裾を、両手でぎゅっと握りしめていたのが、娘のすずだった。
すずは、淡いピンク色のフリースジャケットを着ていたが、ファスナーが途中で斜めに噛んでしまっているのか、胸元が中途半端に開いていた。足元は左右逆のアンパンマンのスリッパ。小さな肩をすくめ、父親の脚の影に隠れるようにして、じっと俯いている。
航平は、両手に大きな四十五リットルの半透明ゴミ袋を提げていた。
その袋の中身が、嫌でも文乃の視界に飛び込んでくる。
分別こそ辛うじて守られているものの、中に入っているのは生活の温もりを感じさせるものでは決してなかった。コンビニのパスタが入っていた透明なプラスチック容器が三つ、四つ。油でぎとぎとに汚れた底には、カピカピに乾いたトマトソースの残骸がへばりついている。コンビニの菓子パンの袋、潰されたアルミ缶、そして茶色いガラスの栄養ドリンクの空き瓶が、まるで何かの地層のように何本も重なり合って詰め込まれていた。
――昨夜の、ハンバーグの容器もある。
デミグラスソースが容器の隅で無残に濁り、一口か二口だけ齧られた跡のある小さなパンが、そのまま捨てられていた。昨夜の食卓の修羅場が、そのままゴミ袋の中に封じ込められているようだった。
「あ……」
航平がゴミ集積所のコンテナに袋を放り込もうとしたその時、バランスを崩したのか、手元から何かがひらりとこぼれ落ちた。
風に煽られ、乾いたコンクリートの上をカサカサと滑って、文乃の足元でぴたりと止まる。
細長い、レシートだった。
拾い上げようとして屈んだ文乃の目に、印字された文字が無情なほど鮮明に飛び込んできた。
『24時間営業 駅前店』
『購入日時:本日 07:12』
『紀州南高梅おにぎり ×1』
『からあげ棒 ×1』
『マルチビタミンゼリー飲料(ぶどう味) ×1』
『メガシャキ ×1』
『合計 ¥784』
――今朝の、午前七時過ぎ。
昨夜あんなに激しく泣き叫んで、夕食をほとんど口にできなかった四歳の子どものために、そして何日も碌に眠れていない自分のために、この父親が今朝買い揃えた精一杯の「朝食」の残骸だった。
からあげ棒と、冷たいおにぎり。そして、食欲のない子どもにせめて水分と糖分を摂らせるための、ぶどう味のパウチゼリー。
「あ、すみません……! 落としました、すみません!」
文乃が固まっていると、航平が弾かれたように腰を折り、慌てて手を伸ばしてきた。
その手が、小刻みに震えている。指先は荒れて赤くひび割れ、キーボードを叩きすぎているのか、関節が痛々しく腫れぼったい。
「あ、いえ……こちらこそ、踏んでしまいそうで」
文乃がレシートを拾い上げ、航平の手のひらに手渡そうとした時、背後から朗らかな、けれど心配の滲む声が響いた。
「おはようさん、佐伯さん。今日も朝から大変そうだねぇ」
集積所の入り口に立っていたのは、管理人の長谷川栄作だった。
作業着の上に薄手のジャンパーを羽織り、手には竹箒と塵取りを持っている。毎朝マンションの内外を掃除してくれている、住人たちから慕われる好々爺だ。
長谷川は航平の顔を見るなり、眉尻を八の字に下げて、深くため息をついた。
「佐伯さん……あんた、ちゃんと夜は寝られてるかい? 顔色が昨日より一段とひどいよ。クマなんてもんじゃない、まるで殴られたみたいに真っ黒じゃないか」
「あ……長谷川さん。おはようございます」
航平はレシートを慌ててスウェットのポケットにねじ込むと、背筋を無理やり伸ばそうとした。だが、その口元に浮かんだ笑みは、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しく、頼りないものだった。
「大丈夫です……ちょっと、仕事の納期が重なっていて、バタバタしているだけで。いつもご迷惑をおかけして、すみません」
「仕事も大事だろうがね、あんたが倒れたら、その小さなすずちゃんはどうなるんだい? 朝ごはんも、またそんなコンビニのものばかりじゃ、身体が持たんよ」
長谷川の言葉は、長年マンションを見守ってきた人間ならではの、純粋な善意と心配から出たものだった。
けれど、その言葉は、すでに限界を超えて立ち尽くしている航平の胸に、鋭利な刃物となって突き刺さったようだった。
「……はい。すみません。善処します……本当に、すみません」
航平はただひたすらに、機械のように頭を下げ続けた。
言い訳をしない。弱音を吐かない。「助けてほしい」とも言わない。ただ、自分が至らないせいで周囲に迷惑をかけているのだと、すべての責任を一人で引き受けて、これ以上踏み込まれないように心の殻を固く閉じている。その頑なな姿が、文乃には痛々しくてたまらなかった。
ふと、視線を足元に落とす。
航平のズボンの裾を握りしめたままの、すずの姿。
父親と長谷川のやり取りを、すずは息を潜めるようにして見上げていた。
薄いフリースから覗く手首は、四歳児にしてはあまりにも細く、骨の形が浮き出ている。長ズボンの裾から覗く足首も、白く頼りない。
そして、何より文乃の胸を抉ったのは、その顔立ちだった。
大きな瞳の周りは昨夜激しく泣いたせいで赤く腫れぼったく、その下にある頬は、朝の冷たい風に晒されてカサカサと乾燥し、粉を吹いていた。みずみずしいはずの幼児の肌が、栄養の偏りと水分不足、そして何より「食卓の緊張感」のせいで、生気を失っている。
すずは、長谷川と話す父親の顔を、怯えるように伺っていた。
怒られるのが怖いのではない。大好きなパパが、自分のせいで困っている、自分のせいで怒られている――子ども特有の過敏な察知能力で、そう思い詰めているような、痛ましいほどの健気さと罪悪感が、その小さな瞳の奥に揺れていた。
――違うよ、すずちゃん。
文乃の胸の中で、言葉にならない叫びが込み上げる。
あなたが悪いんじゃない。偏食なのも、野菜が嫌いなのも、あなたが我が儘だからじゃない。味覚が敏感で、体が受け付けないだけなのに。そして、このお父さんも、あなたを傷つけたくて苦しんでいるわけじゃないのに。
二人の間に横たわる、あまりにも不器用で、出口の見えない悪循環。
誰かが少しだけ手助けをしてあげれば、誰かがほんの少し出汁の効いた温かいスープを差し出してあげれば、解けるはずの結び目が、ギリギリと音を立てて固く締まり続けている。
「……じゃあ、長谷川さん。失礼します。すず、行くぞ」
「あ、佐伯さん、無理しちゃいかんよ……」
長谷川の制止を背中に受けながら、航平は逃げるように集積所の扉を出た。
文乃もまた、手に持っていた自分のゴミ袋をコンテナの手前へ置き、小走りで集積所を後にした。
エントランスホールの自動ドアをくぐると、前を歩く航平とすずの背中があった。
エレベーターの前で、航平が上りボタンを押し、壁に寄りかかるようにして立っている。その肩の落ち込みようは、まるで巨大な岩を背負わされているかのようだった。すずは父親の足元にぴたりと張り付いたまま、一言も喋らない。
文乃が近づくと、チーン、と澄んだ電子音が鳴り、エレベーターの扉が左右に開いた。
航平が中に入り、開延長のボタンを押す。
文乃と目が合った。
乗るべきか、それとも「先に行ってください」と見送るべきか。一瞬の逡巡が文乃の足を止めかけたが、航平が疲れ切った顔で、それでも礼儀正しく「どうぞ」と会釈したため、乗らないわけにはいかなくなってしまった。
「……失礼します」
文乃は小さく頭を下げ、エレベーターの隅へと乗り込んだ。
狭い密閉空間に、三人の気配が充満する。
扉が閉まり、かすかな浮遊感とともにエレベーターが上昇を始める。
文乃は壁際の前方に立ち、斜め後ろに航平とすずがいる。誰も口を開かない。モーターの唸る重低音と、カゴが揺れる細かな金属の軋みだけが耳につく。
ふと、文乃の鼻腔を掠めたのは、微かな匂いだった。
昨夜のコンビニの揚げ物の油の匂いと、冷たい湿布のような、あるいは栄養ドリンク特有の甘ったるい薬品のような匂い。そして、すずの着ている柔軟剤の、どこか寂しげな香り。
文乃は、自分のポケットの中で指を強く握りしめた。
何か言わなければ。
けれど、何を言えばいい?
『昨夜、泣き声が聞こえましたよ』なんて言えば、相手を追い詰めるだけだ。『大変ですね』なんて無責任な同情は、この限界まで張り詰めた父親のプライドを粉々に砕いてしまうかもしれない。
三階を示すインジケーターのランプが、ひとつずつ点灯していく。
一階、二階――あと数秒で、この息苦しい沈黙は終わる。
文乃は意を決して、後ろを振り返り、できる限り柔らかい声を作って口を開いた。
「佐伯さん、おはようございます」
ただの、日常の挨拶。それ以上でも、それ以下でもない言葉。
だが、その声を聞いた瞬間、航平はまるで電気ショックでも受けたかのように、ビクッと長身の肩を大きく跳ね上がらせた。
「っ……!」
見開かれた航平の瞳には、明らかな怯えと、罪悪感が走っていた。
航平は咄嗟に、自分の足元にいるすずの肩を抱き寄せ、自分の背中の後ろへと庇うようにして隠した。まるで、娘が他人に危害を加えられるのを防ぐためではなく、娘の存在そのものが他人に迷惑をかけているのだと、世間の目から隠蔽するかのような、痛ましい防御の姿勢だった。
そして、航平は直角に近い角度まで、深く、深く頭を下げた。
「……瀬戸さん。おはようございます」
消え入るような、掠れた声だった。
頭を下げたまま、航平は床のマットを見つめ、震える唇から言葉を絞り出した。
「あの……昨晩は、本当に……すみませんでした」
「え……?」
「娘が、夜遅くまで大声で泣き喚いてしまって……壁の向こうまで、丸聞こえだったと思います。瀬戸さんの、せっかくの休日前のお時間を台無しにしてしまって……本当に、申し訳ありませんでした」
その声は、恐怖に満ちていた。
苦情を言われるのではないか。
「うるさいから静かにさせてくれ」と冷たく突き放されるのではないか。
「子どもの躾も満足にできないのか」と責められるのではないか。
この若い父親は、これまでどれほど周囲から冷たい視線を浴びせられ、どれほど肩身の狭い思いをして、一人でこの子を育ててきたのだろうか。その怯えきった謝罪の言葉の裏側に透けて見える過酷な歳月に、文乃の胸は張り裂けそうなほどの痛みに締め付けられた。
「あ……」
違う。そうじゃない。
文乃は叫びたかった。
うるさいなんて思っていない。迷惑だなんて思っていない。ただ、あなたが倒れてしまいそうなのが心配で、あの子がお腹を空かせて泣いているのが可哀想で、胸が痛かっただけなのだと。
けれど、言葉が出なかった。
どんな言葉を選んでも、今の航平にとっては「施し」か「同情」か「皮肉」に聞こえてしまうのではないか。そう思うと、喉の奥がぎゅっと詰まって、声にならない。
チーン。
無情にも、エレベーターは三階に到着し、扉がスーッと開いてしまった。
航平は頭を下げたまま、すずの手を引いて足早に降りようとした。
「佐伯さん……!」
文乃は思わず、その背中に向かって手を伸ばしかけた。
航平が立ち止まり、恐る恐る振り返る。その瞳は、やはり怯えていた。
文乃は、伸ばしかけた手をそっと引っ込め、自分の胸の前で両手を重ねた。
そして、何も言えない代わりに、力いっぱいに首を横に振った。
違います。怒っていません。迷惑だなんて、これっぽっちも思っていません。
その思いの丈をすべて込めて、まっすぐに航平の目を見つめ、静かに、けれどしっかりと首を振った。
「…………」
航平は、文乃のその動作を見て、一瞬だけきょとんとしたように目を丸くした。
怒声でもなく、冷たい舌打ちでもなく、ただ必死に首を振る文乃の姿に、何を言われたのか理解できないといった表情を浮かべる。
だが、すぐに再び痛ましそうに眉を下げ、力なく口元を歪めた。
「……すみません」
結局、その一言だけを廊下に残して、航平はすずの手を引いて三〇二号室のドアへと向かった。
ガチャリと鍵が開き、重い防音ドアが開き、二人の姿が吸い込まれていく。
バタン。
静かに、けれど完全に外の世界を拒絶するように閉ざされたドアの音。
三階の廊下には、再び文乃一人だけが取り残された。
文乃は、三〇一号室の自分の部屋の前に立ち、鍵を取り出そうとしたが、指先が微かに震えていて、なかなかキーケースから鍵を引っ張り出せなかった。
「……ばか」
自分自身に向けて、小さく悪態をつく。
何を怯えていたのだろう。なぜ、気の利いた一言も言えなかったのだろう。「お互い様ですから気にしないでください」と、どうして笑って言ってあげられなかったのだろう。
自分の部屋に入り、ドアを閉める。
カチャリと鍵をかけ、チェーンを通す。
昨夜と同じ、静かで、整然とした自分の城。
けれど、部屋の隅のキッチンに目をやった瞬間、文乃の足が止まった。
昨夜、時間をかけて引いた昆布と鰹の合わせ出汁。冷蔵庫の中で冷えている肉じゃが。
そして、さっき足元に落ちていた、あのレシートの印字。
『からあげ棒』
『マルチビタミンゼリー飲料』
そして、あのカサカサに荒れていた、小さなすずちゃんの頬。
「…………」
文乃は、ゆっくりとキッチンへ歩み寄った。
冷蔵庫を開ける。中には、昨日の買い出しで手に入らなかった時のためにと、先週の実家からの仕送りで届いていた野菜たちが、野菜室の中で静かに眠っていた。
泥のついた立派なカボチャ。実家の畑で採れた、太陽の光をたっぷり浴びて育った甘みの強いカボチャが、まるごと一つ。
文乃は、その重たいカボチャを両手で抱え上げた。
ずっしりとした大地の重みが、手のひらを通して伝わってくる。
――祖母の声が、再び耳の奥で蘇る。
『子どもが野菜を食べられないのはね、苦味と青臭さがあるからだよ。だからね、出汁の甘みで優しく包んで、魔法をかけてあげるんだよ』
文乃は、ぎゅっと唇を噛み締めた。
他人の家庭に踏み込んではいけない。都会のルール。大人の節度。
そんなものは、百も承知だった。
けれど、あの限界まで張り詰めて今にも折れそうな父親の背中と、怯えたようにパパの足にしがみついていた小さな女の子の姿を、ただ「見て見ぬ振り」をしてやり過ごすことなんて、文乃にはどうしてもできなかった。
「……作りすぎちゃった、ことにすればいい」
文乃は、まな板の上にカボチャをことんと置いた。
包丁を握る手に、自然と力がこもる。
「一人暮らしなのに、実家から丸ごと届いちゃって、とても食べきれないから。……そう、ただの『余り物』のお裾分け。それなら、あの真面目すぎるお父さんだって、きっと受け取ってくれるはず」
文乃はエプロンの紐をきつく結び直した。
土曜日の静かな朝のキッチンに、トントントン、と力強い包丁の音が、決意のように響き始めた。




