第1話:壁一枚隔てた攻防戦
サブタイトル:金曜日の肉じゃがと、小さな泣き声
一週間というものは、月曜の朝には永遠のように長く感じられるくせに、金曜の夜を迎えた瞬間に、まるで最初から存在しなかった幻のように急速に薄れていく。
瀬戸文乃は、最寄り駅の改札を出た瞬間、首に巻いていた薄手のストールを少しだけ緩めて、肺いっぱいに夜の冷気を吸い込んだ。
時刻は午後七時を少し回ったところだった。中堅食品メーカーの営業事務として働く文乃の一週間は、お世辞にも優雅とは言えない。月末に向けた受発注データの照合、営業担当たちが急ぎで持ち込んでくる見積書の修正、取引先からの納期調整の電話対応。終日パソコンのモニターと睨み合い、キーボードを叩き続けた指先は微かに強張り、肩の奥にはずっしりとした鈍い重みが溜まっていた。
けれど、駅ビルの地下街へ降りるエスカレーターに足を乗せた途端、その全身の重だるさは、ふわりと心地よい期待感へと反転する。
「今夜は、何を作ろう」
それは文乃にとって、一週間の労働に対するもっとも贅沢で、もっとも確実な自分へのご褒美だった。
外食で済ませるのもいいし、デパ地下の華やかなデリを買い込んで帰るのも悪くはない。けれど、誰に気兼ねすることもなく、自分の部屋の小さなキッチンに立ち、自分の好みの塩加減で、自分のためだけに時間をかけて火を使うこと。まな板の上で包丁がリズミカルに刻む音を聞き、立ち上る出汁の湯気に顔を包まれること。その一連の儀式こそが、オフィスで擦り減らした自分自身の輪郭を、ゆっくりと元通りに戻してくれる唯一の時間だった。
地下の精肉店で、適度に脂の差した牛肩ロースの薄切り肉を二百グラム。八百屋の店先で、肌のきめが細かく重みのあるメークインを四つと、泥のついていない瑞々しい人参、そして甘みの強そうな玉ねぎを買い求める。
築八年、鉄筋コンクリート造の五階建てマンション『メゾン・ド・フルール』の三階。鍵を開けて「ただいま」と声に出して呟く。誰からの返事もない静かなワンルームだが、この静寂こそが、文乃にとっては愛おしい自分の城だった。
部屋着の柔らかいリネンワンピースに着替え、髪を後ろで無造作にお団子にまとめる。手を丁寧に洗い、麻のエプロンを身につけると、自然と背筋が伸びた。
文乃は冷蔵庫を開け、昨夜のうちから仕込んでおいたガラスボトルを取り出した。
水の中で、幅広の利尻昆布がゆったりと広がっている。前日の夜からじっくりと水出ししておいた昆布水だ。これを小鍋に移し、弱火にかける。沸騰直前の、鍋肌に小さな泡がふつふつと立ち始めた絶妙な瞬間を見極めて昆布を引き上げる。そこへ、ひとつかみ以上の厚削り鰹節を惜しみなく放り込んだ。
ぶわっと、部屋いっぱいに立ち上る濃密な出汁の香り。
鰹節が鍋の底へ静かに沈んでいくのを待ち、目の細かいざるに敷いた晒しで静かに濾す。澄んだ琥珀色の合わせ出汁は、祖母がかつて教えてくれた通りの、芯のある豊かな香りを放っていた。山梨の兼業農家だった実家で、小さな頃から祖母の台所仕事を見つめて育った文乃にとって、出汁を引く行為は心を整える呼吸のようなものだった。
次に野菜の下ごしらえに取り掛かる。
メークインの皮を剥き、やや大きめの乱切りにする。角を包丁の刃先で削ぎ落とす「面取り」の手間を惜しまない。こうすることで、煮崩れを防ぎながら芯までしっかりと味を含ませることができる。人参も同様に乱切りにし、玉ねぎは繊維に沿って広めのくし形に切る。
深めの平鍋に少量の米油を熱し、まずは玉ねぎを炒める。油が回り、透明感を帯びて甘い香りが立ってきたところで、主役の牛肉を投入する。じゅう、と心地よい音が弾け、肉の表面の色が変わり始めたら、酒とみりんを回し入れる。アルコールを飛ばしながら、砂糖を少々。そこに先ほど引いたばかりの黄金色の合わせ出汁を、ひたひたになるまで注ぎ入れた。
灰汁を丁寧にお玉ですくい取り、メークインと人参を加える。醤油を二回に分けて加えるのが文乃の流儀だ。最初の一回で下味を含ませ、仕上げの直前にもう一回加えて香りを立たせる。
木の落とし蓋を落とし、火を極々弱火に落とす。
コトコト、コトコト。
小気味よい一定のリズムで、煮汁が落とし蓋の下で踊る音が響く。醤油とみりん、そして昆布と鰹が織りなす、どこか懐かしく甘やかな香りが、換気扇の吸い込み口を抜けて、部屋の隅々まで行き渡っていく。
煮物は、火を止めて冷めていく時に味が染み込む。だからこそ、じっくりと煮含めた後、火を止めて十五分ほど休ませる時間が欠かせない。
その間に、文乃は信楽焼の少し深みのある器を用意し、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。グラスは冷凍庫でキンキンに冷やしてある。
「完璧」
思わず小さく声が漏れた。時計の針は、ちょうど午後八時を回ったところだった。
火を止め、蓋を外す。艶やかに照りを帯びたメークインは、出汁の琥珀色をたっぷりと吸い込み、箸を入れれば抵抗なくすっと割れそうなほど柔らかに仕上がっていた。人参の赤が鮮やかに映え、牛肉の旨味が全体を丸く包み込んでいる。
お気に入りの器に、崩さないよう丁寧に盛り付ける。仕上げに、彩りとしてさっと塩茹でしておいた絹さやを二筋添えた。
冷えたグラスにビールを注ぎ、黄金色の液体の上にきめ細やかな白い泡の層を作る。
テーブルに料理とグラスを並べ、手を合わせる。至福の金曜夜、誰にも邪魔されない極上の晩酌が、まさに始まろうとしたその時だった。
――コトッ。
薄い壁の向こうから、乾いた硬い音が響いた。
文乃の住むメゾン・ド・フルールは、一人暮らし向けのワンルームが中心の物件だが、三階の角部屋である文乃の部屋(三〇一号室)と、その隣の三〇二号室は、少しだけ広めの間取りになっている。そのためか、一ヶ月ほど前、隣の三〇二号室に若い男性と小さな女の子の二人暮らしが引っ越してきた。
挨拶回りの時に顔を合わせたきりだが、父親らしき男性は長身で、常に疲弊したように青白い顔をしていたのを覚えている。確か、佐伯という名前だったはずだ。
そして今、その壁一枚を隔てた向こう側から、切迫した声が聞こえてきた。
「これ嫌だ! 黒いの入ってる! お野菜入ってるもん!」
幼く、甲高い少女の声。
続いて、それを宥めるような、低く焦りを滲ませた男の声が重なる。
「すず、お願いだから一口だけでいいから食べよう? ほら、ニンジンも細かく切ったし、ハンバーグと一緒に食べれば分からないから。ね?」
「やだ! これ苦いもん! ペッてする! 食べたくない!」
「すず、ペッてしちゃダメだろ! ……ああっ、服にソースが……!」
ガタッと椅子が引かれるような音。そして、バシャンと何かが床に落ちる鈍い音が響いた。
「いらない! すず、これ嫌い! パパきらい!!」
火がついたような、烈火のごとき大泣き声が壁を震わせた。息を吸い込む間もないほど激しい癇癪の泣き声。
「すず……っ、なんで、なんでそんなこと言うんだよ……。パパ、仕事帰りに急いでこれ買ってきたんだぞ……。お前がハンバーグ好きだって言うから……」
男の声は、次第に怒気を含み、けれどすぐにそれを通り越して、泣き出しそうなほど深い疲労へと沈んでいった。
「頼むから、一口だけでも食べてくれよ……。もう夜の八時半なんだぞ……お風呂も入ってないし、パパ明日も朝から仕事なんだ……。なんで食べてくれないんだよ……ああ、もう……どうすりゃいいんだ……」
壁越しに伝わってくるのは、単なる親子の口論ではなかった。
限界まで張り詰めた糸が、今まさにぷつりと音を立てて切れかけているような、救いようのない絶望と疲弊の気配だった。
男の言葉の端々に滲む、どうしようもない無力感。一人で抱え込み、逃げ場を失い、幼い我が子の拒絶に打ちのめされている父親の、掠れたため息が、まるで同じ部屋の中にいるかのように生々しく文乃の耳朶を打つ。
「うぇぇぇん! パパこわいー! ごはんいらないー!」
「……泣くなよ。怒ってない、怒ってないから……すず、ごめんな……パパが悪かった、怒鳴ってごめん……」
すすり泣く子どもの声と、自分を責めるように繰り返される父親の消え入るような謝罪。
文乃は、手に持っていた割り箸を、そっと箸置きに戻した。
目の前には、湯気を立てる出来立ての肉じゃががある。
利尻昆布と鰹節の豊かな出汁の香り。甘辛い醤油の照り。丁寧に面取りされたじゃがいもは、口に入れればきっと、ほろりとほどけて優しい甘みを広げてくれるはずだった。
グラスの表面には、細かな水滴がびっしりとつき、冷たさを主張している。
けれど、文乃の喉の奥は、砂を噛んだようにカラカラに乾いていた。
「……都会のマンションなんだから」
文乃は自分に言い聞かせるように、小さく唇を動かした。
他人の家庭の事情に首を突っ込んではいけない。隣の部屋でどんなドラマが繰り広げられていようと、干渉せず、見て見ぬ振りをするのが集合住宅における暗黙のルールであり、大人のマナーだ。ましてや、向こうは若いシングルファザーで、こちらは独身の女。下手に声をかければ、不審がられるか、あるいは余計な気を遣わせるだけに決まっている。
分かっている。頭では、痛いほど分かっていた。
文乃は再び箸を取り、じゃがいもを一口、口へと運んだ。
舌の上に広がるのは、計算通りに染み渡った完璧な出汁の旨味と、じゃがいも本来の素朴な甘さ。いつもなら「最高」と一人で笑みをこぼしてしまうような、文句のつけようのない出来栄えだった。
なのに。
壁の向こうから途切れ途切れに聞こえてくる、幼い少女のしゃくりあげるような泣き声と、父親の重たい沈黙が、喉を通る料理の味を奇妙なほど無機質なものに変えていく。
おいしいはずの肉じゃがが、少しも喉を通らない。
ビールの炭酸ばかりが胃の腑を冷たく刺激して、せっかくの至福の金曜日が、灰色に霞んでいくようだった。
「……黒いお野菜、って」
文乃は天井を見上げ、ポツリと呟いた。
子どもの泣き叫んでいた言葉が耳に残っている。黒い野菜。おそらく、ひじきか、あるいはハンバーグに入っていた細かな椎茸か何かだろうか。大人が「健康的だから」と良かれと思って混ぜ込んだものが、舌の過敏な子どもにとっては耐え難い異物に感じられたのかもしれない。
文乃の脳裏に、かつて実家の祖母が言っていた言葉が蘇る。
『文乃、子どもが野菜を嫌がるのは当たり前なんだよ。あの子たちの舌は、大人の何倍も敏感だからね。苦味や青臭さは毒の味に思えちゃうんだ。だからね、野菜を食べさせたい時は、出汁の甘みで優しく包んで、魔法をかけてあげるんだよ』
祖母の温かい笑顔と、湯気が立ち上る田舎の台所。
そして今、壁一枚隔てた隣の部屋では、コンビニの惣菜かスーパーの弁当を前にして、疲れ切った若い父親と、泣き腫らした顔の幼い女の子が、互いに傷つけ合っている。
壁の向こうの泣き声は、やがて疲れて眠ってしまったのか、小さくぐずるような息遣いに変わり、やがて完全な静寂へと吸い込まれていった。
けれど、その静けさが、かえって痛々しかった。
残された父親は今、冷めきったハンバーグを前にして、どんな顔で座っているのだろうか。床に散らばったソースを雑巾で拭きながら、どれほど深い自己嫌悪に沈んでいるのだろうか。
文乃は、残りの肉じゃがをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
丁寧に引いた出汁の温もりは、文乃の胃の奥に届いてもなお、どこか寂しげな熱を帯びたまま、静かに燻り続けていた。




