第57話:恋人としての日々
遮光カーテンの隙間から滑り込んできた初夏の朝の光が、三〇一号室のフローリングを淡い金色に染め上げていた。
日曜日の、午前七時。
どこまでも高く澄み渡った五月の青空から降り注ぐ陽光は、先週の荒れ狂った雷雨と停電の夜が嘘のように穏やかで、ベランダの格子を抜けてくる風には、初夏特有の乾いた若葉の香りが混ざり合っていた。
その清々しい朝の静寂の中で、瀬戸文乃のキッチンのダイニングテーブルの上には、これまでの三〇一号室では決して見られることのなかった、真新しい光景が広がっていた。
テーブルの上に、整然と並べられた三枚のランチョンマット。
文乃が愛用している生成りのリネンマットがひとつ。
その隣に、新調された落ち着いたインディゴブルーの大判マットがひとつ。
そして――その二枚の間に挟まれるようにして置かれた、淡いパステルイエローの、小さな布製マットがひとつ。
それぞれのマットの上には、白磁の平皿と、漆塗りの汁椀、そして大きさの異なる三つのご飯茶碗が、すでに綺麗にセットされていた。
タッパーは、どこにもなかった。
キッチンの吊り戸棚の中、いつもなら出番を待って積み重ねられていたはずの四角い耐熱ガラス容器たちは、今朝は棚の奥で静かに息を潜めている。
もう、おかずを一人分ずつ取り分ける必要はなかった。
冷めないようにと蓋をぎゅっと押し込み、「余り物ですから」という下手な言い訳を頭の中で何度も反芻しながら、隣室のインターホンを押す必要もなかった。
最初から、このテーブルで、三人で温かいご飯を食べるために。
最初から、三人分の朝食として調理を始める――。
その当たり前の、けれど二人が三ヶ月もの間、必死に手を伸ばしながらも触れることのできなかった奇跡のような温もりが、今、形となってこの部屋を満たしていた。
「…………」
文乃は、キッチンの作業台の前で、思わず胸に手を当てて小さく息を吐いた。
胸の奥底が、じんわりと温かい熱で満たされていく。
恋人同士になってから、数日。
火曜日の夜、落雷による停電の暗闇の中で、蝋燭の炎を囲みながら交わしたあの告白の記憶は、今も肌の表面に鮮烈な体温となって息づいていた。
――そして、昨夜のことだ。
土曜日の夕暮れ、すずを連れて文乃の部屋へやってきた航平とともに、二人はすずに対して、大切な話を打ち明けたのだ。
大人の都合で誤魔化したり、子どもの無邪気さに甘えたりするのではなく。
一人の人間として、四歳のすずの心に真っ直ぐに向き合うために。
『すずちゃん』
文乃はすずの小さな両手を握り、目線を合わせて優しく語りかけた。
『先週、すずちゃんが「ママになってくれないの?」って言ってくれたでしょう? お姉ちゃんね、すっごく、すっごく嬉しかったんだよ』
『うん……でも、パパが怒ったから、すず、悪いこと言っちゃったのかなって……』
しょんぼりと眉を下げたすずの頭を、航平が自らの大きな手のひらで、壊れ物を包むように優しく撫でた。
『すずは、何も悪くない。パパがびっくりして、大きな声を出してごめんな。……すず、パパのお話をちゃんと聞いてくれるか?』
『うん……』
『パパね、文乃さんのことが、大好きなんだ』
航平は誤魔化すことなく、四歳の娘の瞳を真っ直ぐに見据えて告げた。
『すずのママを探していたんじゃない。パパが、一人の男の人として……文乃さんの優しい笑顔や、温かい心が、世界で一番大切になったんだ。だからパパは、文乃さんに「僕のとてもとても大切な人になってください」ってお願いしたんだよ』
すずは丸い瞳をパチパチと瞬かせ、それから文乃の顔をじっと見つめた。
『あやのちゃんも……パパのこと、すき?』
『うん。お姉ちゃんも、パパのことが大好きだよ。そしてね、すずちゃんのことも、世界で一番大好き』
文乃が涙を堪えながら微笑むと、すずの小さな顔に、ポッと、春の光のような輝きが広がっていった。
『じゃあ……あやのちゃんは、パパのたいせつな人?』
『そうだよ』
『じゃあ……じゃあね! あやのちゃんは、ずっと、ずーっとパパとすずと、一緒……?』
すずの純粋な、魂からの問いかけ。
その問いに対して、航平は一片の躊躇もなく、力強く頷いてみせたのだ。
『ああ。ずっと一緒だ。パパが、文乃さんとすずを、一生守るからな』
その言葉を聞いた瞬間、すずの感情は爆発した。
『やったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ!!!!』
リビング中を小鳥のようにパタパタと走り回り、ソファの上で飛び跳ね、トトロのぬいぐるみを放り投げて抱きつき、文乃と航平の首筋に何度も何度も抱きついて歓喜の声を上げ続けたのだ。
子どもながらに感じ取っていた、大好きな二人の間の張り詰めた空気。
それが完全に解け、二人が互いを大切に思い合っているという確信を得た少女の喜びは、見ている大人たちの涙腺を崩壊させるほどに無邪気で、美しかった。
そして、迎えた今朝――。
「文乃さん、おはようございます」
背後から、低く、穏やかな声音が落ちてきた。
文乃が振り返ると、三〇二号室からやってきた佐伯航平が、玄関で靴を揃え、リビングへと足を踏み入れたところだった。
グレーのスウェットパンツに、清潔な白い長袖Tシャツ。
まだ少しだけ寝癖の残る柔らかな黒髪と、眼鏡の奥の切れ長な瞳には、かつて彼を縛り付けていたあの「限界の隈」はどこにもなく、透き通るような朝の光を浴びて、穏やかな優しさを湛えていた。
そして――その航平の腰には。
文乃が昨夜手渡しておいた、ネイビーの綿麻のエプロンが、きっちりと前でリボン結びにされていた。
「航平さん、おはようございます」
文乃が口元を綻ばせると、航平は少しだけ照れくさそうに首筋を掻きながら、キッチンの作業台へと歩み寄ってきた。
「瀬戸さん」「佐伯さん」から、「文乃さん」「航平さん」へ。
まだ呼び慣れないその響きを口にするたび、二人の耳たぶはほんのりと赤く染まり、くすぐったいような甘い熱が空気を揺らす。
「すずは……?」
「まだぐっすり眠っています。昨夜、嬉しくて部屋中を飛び跳ねていたから、体力を全部使い果たしたみたいで……ベッドの中でトトロを抱えて大の字になってますよ」
「ふふ、可愛いですね。起こさないように、ゆっくり朝ごはんの準備をしましょうか」
「はい。僕にできることなら、何でも命じてください。……エプロンも、気合を入れて締めてきましたから」
航平が自らのエプロンの胸元をトントンと叩いてみせる。
長身の男が、狭いワンルームのキッチンにエプロン姿で並んで立つ。
それだけで、台所の空間は驚くほど狭くなり、二人の肩と肩は、振り返るたびに触れ合いそうなほどの距離感になった。
けれど、そこに気まずさは微塵もなかった。
並んで立つことの心地よさと、大人の男の確かな体温がすぐ隣にある安心感が、文乃の心をどこまでも満たしていく。
「じゃあ、航平さん。お魚、お願いしてもいいですか?」
「任せてください。アジの開きですね」
文乃が冷蔵庫から取り出したのは、昨夜のうちに仕込んでおいた、沼津産の新鮮なマアジの天日干しの開きが三枚。大ぶりなものが二枚と、すず用の小ぶりなものが一枚。
航平はグリルの引き出しを開け、網に薄く油を引いてから、魚を丁寧に並べた。
「身の方から先に弱火でじっくり、ですね。文乃さんに教わった通り、皮目を焦がさないように火加減を調整します」
「さすが航平さん、完璧です。点火をお願いしますね」
「はい」
カチリ、ボッ、と青いガスの炎がグリルの奥で灯る。
しばらくすると、ジュウジュウと心地よい脂の爆ぜる音とともに、アジの干物特有の香ばしい磯の香りが、換気扇を通ってキッチンいっぱいに立ち上り始めた。
その隣で、文乃は味噌汁の仕上げに取り掛かる。
小鍋の中で静かに温められていたのは、前夜から水出ししておいた真昆布の出汁に、丁寧に砂抜きをした千葉県産の殻付き浅利をたっぷりと投入した汁物だった。
弱火でゆっくりと温度を上げていくと、浅利の貝殻がパカッ、パカッと音を立てて花開くように開いていく。
身が縮んで硬くならないよう、口が開いた瞬間に極弱火へと落とす。
浅利のコハク酸が溶け出した白濁した極上の出汁に、文乃の実家から届いた田舎味噌と、信州の白味噌を七対三の黄金比率でブレンドして、味噌漉しで静かに溶き入れていく。
具材には、すずが喉に引っ掛けることなくツルリと食べられるよう、極薄に切った絹ごし豆腐と、初夏の香りを添える刻んだ三つ葉。
「……航平さん、ちょっと味見をお願いできますか?」
「え……僕がですか?」
「はい。航平さんの舌を、一番信頼していますから」
文乃は木製の小吸い椀に、澄んだ琥珀色の味噌汁をひと匙取り分け、航平の前へと差し出した。
「どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。いただきます」
航平は椀を受け取ると、ふーふーと優しく息を吹きかけてから、ゆっくりと口をつけた。
ズズッ……。
一口啜った瞬間、航平の切れ長な瞳が、ハッとしたように見開かれた。
「…………っ、これは……!」
航平は思わず息を呑み、椀の中の琥珀色の液体を見つめた。
「浅利の旨味が……もの凄く濃厚なのに、昆布出汁のまろやかさと味噌の香りが完璧に調和しています。浅利の身もふっくらとしていて、全く縮んでいませんね。……朝の胃袋に、染み渡るような深い味です」
「ふふ、合格ですか?」
「合格どころか、百点満点です。……本当に、文乃さんのお味噌汁は、飲むだけで身体中の細胞が生き返るような気がします」
航平が心底から感嘆するように目を細める。
その飾らない賞賛に、文乃の頬がポッと赤く染まる。
「よかったです。航平さんが美味しいって言ってくれるのが、私の一番のエネルギーですから」
「文乃さん……」
視線が、至近距離で絡み合う。
グリルの魚の焼ける音と、窓の外の静かな朝の風。
お互いに見つめ合う瞳の奥に、言葉にはならない深い愛おしさが満ち溢れ、二人の距離が、無意識のうちにほんの数センチ、吸い寄せられるように近づいた――その時だった。
――ガチャリ。
三〇一号室の玄関のドアが、内側から静かに押し開かれた。
「…………ん……?」
二人がハッとして振り返る。
廊下の向こう、リビングの入り口のフローリングの上に。
ピンク色のパジャマの裾を引きずり、右手にはしっかりとトトロのぬいぐるみを抱きしめ、左手で目を擦りながら、よちよちとした足取りで歩いてくる小さな影があった。
「すず……!」
「すずちゃん、おはよう!」
すずはパチパチと瞬きをしながら、キッチンで並んで立つ二人を見つめた。
エプロン姿のパパ。
その隣で、お玉を持ったエプロン姿の文乃。
そして――部屋いっぱいに漂う、香ばしいお魚と、優しいお味噌汁の香り。
すずの鼻が、クンクンと小さく動いた。
「……あやのちゃんのおうち……おさかなの、いいにおいする……」
掠れた、舌足らずな寝起きの声。
航平がすぐに屈み込み、両手を広げると、すずはトタトタと駆け寄って、父親の首筋にぽすんと顔を埋めた。
「パパぁ……おはよう……」
「おはよう、すず。よく眠れたか?」
「うん……すずね、夢みたの。あやのちゃんと、パパと、おっきなハンバーグ食べる夢」
「ふふ、起きてすぐにご飯の夢だなんて、すずちゃんらしいね」
文乃が目尻を下げて近寄り、すずの小さな額にそっと触れた。
寝汗を拭ってあげると、すずは文乃の腰元へ小さな手を伸ばし、エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、甘えるように顔を擦り寄せた。
「あやのちゃん、おはよう……」
「おはよう、すずちゃん。お腹空いたでしょう?」
「うん! すず、お腹ぺこぺこ!」
「よし、じゃあパパと一緒にお顔を洗って、お口をブクブクしてこよう。席に着く頃には、一番美味しい卵焼きが焼き上がるからな」
「たまごやき! すず、あまい卵焼きだいすき!」
すずは航平に手を引かれ、パタパタと洗面所へと駆けていった。
水音が響き、すずの楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「よし……!」
文乃は気合を入れ直すように、エプロンの紐をキュッと締め直した。
今朝の定食の、メインディッシュ。
三ヶ月前、偏食で泣き叫んでいたすずの心を最初に開いた、あの思い出の『甘口だし巻き卵』を、今朝は初めて、三人分の大きな一本として巻き上げるのだ。
文乃は角型の銅製玉子焼き器をコンロの火にかけた。
熱伝導率に優れた銅の鍋肌に、油を染み込ませたキッチンペーパーで薄く、均一に油を馴染ませる。
ボウルの中には、実家から届いた新鮮な産みたて卵が四個。
そこに、昆布と鰹節の一番出汁を八十ミリリットル、みりん、きび砂糖、そして薄口醤油をほんの数滴。泡立て器ではなく、菜箸をボウルの底につけたまま、白身のコシを断ち切るように静かに溶きほぐしてある。
出汁の水分量が極限まで多いため、油断すればすぐに崩れてしまう難易度の高い配合。
けれど、文乃の指先に迷いはなかった。
――ジュワァァァッ!
お玉一杯分の卵液を流し込んだ瞬間、心地よい蒸気とともに、出汁と甘い砂糖の芳醇なアロマが立ち上った。
大きな気泡を菜箸の先で素早く突いて潰し、半熟になった表面を、奥から手前へと手際よく巻き込んでいく。
トントン、と手首のスナップを利かせ、卵を奥へと滑らせる。
空いた手前に再び油を引き、第二陣の卵液を流し込む。巻いた卵を持ち上げ、その下にも卵液を行き渡らせる。
ジュウジュウと歌うようなリズム。
三度、四度と繰り返すうちに、卵焼き器の中で、ふっくらと見事に膨らんだ黄金色の枕のような、極厚のだし巻き卵が姿を現した。
巻き簾に取り、形を優しく整えて、余熱で中まで均一に火を通す。
包丁を入れれば、フルフルと波打つような弾力。
断面からは、閉じ込められていた出汁の雫が、ジュワリと零れ落ちていた。
「文乃さん、お待たせしました。テーブルのセッティング、手伝います」
顔を洗ってさっぱりとした航平が、すずを連れて戻ってきた。
「ありがとうございます。航平さん、ご飯を三人分、よそっていただけますか? すずちゃんのは、小さめのお茶碗に半分くらいで」
「了解です。……うわ、土鍋の蓋を開けたら、もの凄くいい香りがしますね」
「今朝は、晴臣が担いできてくれた新米を、少し硬めに炊き上げたんです」
「最高ですね」
航平は手際よくしゃもじを操り、ふっくらと湯気立つ白米を三つの茶碗へとよそっていく。
すずは自分の黄色いランチョンマットの前にちょこんと座り、小さな両手を膝の上に揃えて、目をキラキラと輝かせながら待っていた。
テーブルの上に、次々と運ばれる朝の馳走。
艶やかに焼き上がった、香ばしいアジの開き。
湯気を立てる、浅利と豆腐の具だくさん味噌汁。
黄金色に輝く、大ぶりなふっくら甘口だし巻き卵。
そして、炊きたての新米と、箸休めの自家製ぬか漬け。
どこにでもある、日本の伝統的な朝の焼き魚定食。
けれど、その食卓に満ちている光の密度は、世界中のどんな星付きレストランの豪勢なディナーよりも、遥かに尊く、温かかった。
「わあぁぁぁ……! すごい、すごい! あやのちゃんの朝ごはん、パパとすずのとおんなじだ!」
すずが歓声を上げる。
航平がすずの隣の席――インディゴブルーのマットの前に腰を下ろし、文乃がその向かい側、生成りのマットの前に腰を下ろした。
視線が交差する。
かつて、壁一枚を隔てて、孤独と疲労の中で冷たい食事を喉に流し込んでいた二人が。
今、愛する子どもの笑顔を真ん中に挟んで、同じ食卓を囲んでいる。
「……じゃあ、みんなで手を合わせようか」
航平の優しい声に、すずが胸の前で小さな両手をパチンと合わせた。
文乃も、航平も、静かに両手を合わせる。
「せーの――」
「「「いただきます!」」」
三つの声が、初夏の朝の光の中に重なり合った。
すずの箸が、迷うことなく真っ先に伸びたのは、もちろん、あの黄金色のだし巻き卵だった。
箸で切り取った一口を、小さな口の中へと放り込む。
モグ、モグ……。
「…………っ!」
すずの顔全体に、とろけるような満面の笑みが広がった。
「あま〜い! お口のなかで、お出汁がじゅわ〜ってして、すっごくふわふわ! あやのちゃんの卵焼き、やっぱり世界一すき!」
「ふふ、よかった。いっぱい食べてね、すずちゃん」
航平もまた、箸でアジの身をほぐし、炊きたての白米に乗せて口へと運んだ。
噛み締めた瞬間、航平の喉仏が大きく動く。
「……美味い」
航平の口から、深い吐息のような言葉が零れ落ちた。
「アジの塩気と旨味が、新米の甘みを極限まで引き立てています。そして、この浅利のお味噌汁を啜ると……本当に、胸の奥底から温かい力が満ちてくるのが分かります」
「航平さん、卵焼きもどうぞ。今朝は出汁を少し多めにしてあるんです」
「いただきます」
航平がだし巻き卵を一口口に入れると、その端正な顔立ちが、少年のように無防備な幸福感に染め上げられた。
「……優しい味ですね。甘みの中に、出汁の深みがあって……毎日、この味で朝を迎えられたら、どんな仕事の激務だって乗り越えられる気がします」
「もう、激務はほどほどにしてくださいね。倒れられたら困りますから」
「あはは、善処します。……でも、本当に」
航平は箸を置き、テーブルを囲む文乃とすずの顔を、愛おしそうに見つめた。
「こうして三人で……同じテーブルで、温かいご飯を『美味しい』と言って笑い合える朝が来るなんて。……三ヶ月前の僕には、想像もできませんでした」
「航平さん……」
「僕たちの冷え切っていた生活に、光を灯してくれて……本当に、ありがとうございます、文乃さん」
航平の真っ直ぐな瞳。
その瞳に見つめられ、文乃は胸がいっぱいになり、優しく首を横に振った。
「私の方こそです。……私の一人きりだった部屋を、こんなにも温かい笑顔で満たしてくれて……本当に、ありがとうございます、航平さん」
「パパ! あやのちゃん! すず、お魚も食べられたよ! みてみて!」
すずが空になった小皿を誇らしげに掲げて見せる。
その無邪気な姿に、大人二人は顔を見合わせ、声を出して笑い合った。
窓の外から吹き抜ける初夏のそよ風が、レースのカーテンをふわりと持ち上げる。
立ち上る温かな湯気。
重なり合う笑い声。
壁一枚の「余り物」から始まった物語は、今、確かな愛の絆に結ばれた、世界で一番温かい『三人分の日常』となって、眩い光の中を歩み始めていた。




