第56話:文乃の涙と本音
静寂が、部屋の隅々にまで満ちていた。
窓の外を濡らす初夏の雨音は、いつの間にか穏やかな子守歌のように低く単調な調べへと変わり、遠く去った雷鳴の気配は、もう夜空のどこにも残っていなかった。
三〇一号室のリビングの中央。
テーブルの上に置かれた二つのアロマキャンドルの芯から、山吹色の柔らかい炎が、ゆらゆらと小さく揺らめいている。白檀とカモミールの微かな香りが、蜂蜜生姜湯の甘い残り香と混ざり合い、停電の闇に沈んだ部屋の中に、外界から切り離された小さな温もりの聖域を作り出していた。
その光の真ん中で、佐伯航平の手が、真っ直ぐに差し出されていた。
骨張った、大きな、けれど決して揺らぐことのない男の掌。
『すずの父親としてではなく、佐伯航平という一人の男として、あなたのこれからの人生のすべてを、僕の手で幸せにしたいんです』
『文乃さん……僕と、お付き合いしていただけませんか』
耳の奥底に、航平の低く深く芯の通った声音が、いつまでも、いつまでも温かな残響となって木霊していた。
母親役を求めるための要請ではない。
便利な隣人を繋ぎ止めるための妥協でもない。
一人の男が、己の人生と魂のすべてを懸けて、目の前にいる女性そのものを愛し、欲しているという、純度百パーセントの告白。
「…………っ」
瀬戸文乃の唇が、小さく震えた。
胸の中央に、熱い熱いマグマのような塊が、音を立てて込み上げてくる。
視界が、一瞬にして歪んだ。
瞬きをする暇すらなく、文乃の大きな瞳から、大粒の涙が、ポロポロと、堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って零れ落ちていった。
ポタ、ポタ……。
膝の上に掛けていたリネンのエプロンに、濃い灰色の染みが点々と広がっていく。
息が、苦しかった。
心臓が肋骨を激しく叩き、喉の奥が熱く熱く痙攣して、どんな言葉も形を成さない。
文乃は堪えきれなくなり、両手を顔に当て、自らの顔を覆った。
そして――。
「う……っ、うあぁ……っ、ひっく……っ」
子どものように、声を上げて、泣きじゃくった。
膝の上で眠るすずを起こさないよう、必死に嗚咽を噛み殺そうとするものの、肩が激しく上下し、指の隙間から熱い涙がとめどなく溢れ出し、顎を伝ってフローリングへと落ちていく。
長かった。
あまりにも、長かった。
壁一枚隔てた隣室から聞こえていた、あの切迫した泣き声に胸を痛めた、あの金曜日の夜から。
下心だと思われないように「余り物ですから」と言い訳を重ねてタッパーを届けたあの日々。
近づいては離れ、踏み込んでは引き、お互いに傷つけまいと、迷惑をかけまいと、自分たちを縛り続けてきた、あのもどかしく切ない境界線。
そして、土曜日の動物園の帰り道から今日までの、あの心臓が引きちぎれるような孤独と不安の夜。
そのすべての記憶が、濁流となって文乃の胸を突き破り、涙となって溢れ出していた。
けれど――。
文乃が突然顔を覆って激しく泣き崩れた姿を目にした瞬間、テーブルの向かい側にいた航平の表情が、一瞬にして凍りついた。
「っ……!」
航平は息を呑み、差し出していた右手をビクッと空中で強張らせた。
血の気が、男の顔からサーッと引いていく。
困らせてしまった。
逃げ場のない停電の部屋で、娘を膝枕させている状況で、逃げられない女性に対して、一方的な想いを押し付けてしまったのではないか。
自分の傲慢な告白が、彼女を極度の苦痛と重圧へと追い込んでしまったのではないか――。
航平の瞳に、激しい狼狽と絶望的な自責の色が噴き上がった。
「せ……瀬戸さん……っ!」
航平はテーブル越しに身を乗り出し、震える手を文乃の肩へと伸ばしかけた。
「すみません……っ! ごめんなさい、困らせてしまって……! 僕が……僕が勝手なことを言ったせいです! 忘れてください……今のは全部、僕の独り善がりで……っ!」
航平が自らの言葉を取り消そうと、必死に手を引こうとした、まさにその時だった。
「ちがっ……違います……っ!」
文乃は、濡れた両手を顔から力任せに引き剥がした。
そして、首を激しく、何度も何度も横に振った。
「違うんです、航平さん……! 困ってなんか、いません……っ!」
「え……?」
航平が動きを止め、目を見開いた。
キャンドルの橙色の光を浴びて、顔を上げた文乃の姿が、そこにあった。
両目の縁は真っ赤に腫れ上がり、鼻の頭を赤く染め、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
普段の、職場で誰もが見惚れるような穏やかで几帳面な文乃の面影はどこにもない、あまりにも無防備で、感情を剥き出しにした泣き顔だった。
けれど――その濡れた瞳の奥底には、航平の言葉を拒絶する色など、微塵も存在しなかった。
文乃は胸元をぎゅっと自らの手で掴み、嗚咽で途切れそうになる呼吸を必死で繋ぎ止めながら、魂の底から絞り出すように叫んだ。
「嬉しいんです……っ! 嬉しくて……胸が張り裂けそうなんです……っ!!」
「文乃、さん……」
「私も……っ、私も、航平さんが好きです……!」
「…………っっっ!!!!」
航平の息が、完全に止まった。
世界が静止したかのように、航平の切れ長な瞳孔が大きく見開かれる。
文乃は溢れ出る涙を拭うことすら忘れ、航平の目を、逃げずに真っ直ぐに見つめ続けた。
もう、隠すことなど何ひとつなかった。
大人の分別も、奥手なプライドも、何もかもをかなぐり捨てて、文乃は自らの心の最深部にある真実を、一言一言、血を吐くような純粋さで叩きつけた。
「すずちゃんも……すずちゃんのことも、大好きです! あの子が美味しくご飯を食べてくれるだけで、自分の命が救われたみたいに嬉しくて、抱きしめたくてたまらないくらい大好きです……!」
文乃の喉が、熱く震える。
「でも……それ以上に! すずちゃんのお父さんだから好きになったんじゃないんです……っ! 不器用で、真面目すぎて、いつも自分のことを後回しにして……すずちゃんのためにボロボロになって頑張っている、佐伯航平という一人の男の人が……私は、ずっと、ずっと好きだったんです……っ!!」
「っ…………ああ……」
航平の唇から、掠れた、魂の底からの呼気が漏れ出た。
文乃の言葉は、航平が心の奥底で一番欲し、一番信じることができずにいた、奇跡そのものだった。
娘の付録としてではない。
父親という役割の延長としてでもない。
佐伯航平という、泥臭く、欠点だらけで、不器用な一人の生身の男として、愛されていたのだという真実。
文乃はテーブルに身を乗り出すようにして、涙に濡れた声を震わせながら、この数日間の間、自らの胸を苛み続けていた『本当の恐怖』を、赤裸々に告白し始めた。
「でも……怖かったんです」
「怖かった……?」
「はい……っ」
文乃は膝の上で静かに眠るすずの背中に、そっと視線を落とした。
「私……有休まで取ってすずちゃんの看病をして、あの人の部屋の台所に立った時……ふと、足元が真っ暗になったんです」
ぽろぽろと、新たな涙が零れ落ちる。
「佐伯親子は、二人だけで……お互いを大切に思い合って、必死に、健気に生きてきました。そこに……何の血の繋がりもない、ただのお隣さんの私が、勝手に入り込んでいって……二人の大切で、平穏な生活を、私の我儘で壊してしまうんじゃないかって……それが、死ぬほど怖かったんです」
「文乃さんが……壊すだなんて、そんなこと――」
「それだけじゃ、ありません……っ!」
文乃は首を振った。
自分の心の奥底にあった、もっとも醜く、もっとも臆病だった疑念を、航平の前に曝け出すために。
「土曜日の夕暮れ……エレベーターの前で、すずちゃんが『ママになってくれないの?』って言った時……」
文乃の声が、微かに引き裂かれそうになる。
「一瞬……飛び上がるほど嬉しかった。でも、その直後に……冷たい氷水が頭から降ってきたみたいに、恐ろしい考えが胸を埋め尽くしたんです」
「…………」
「航平さんは……私のことを、どう思っているんだろうって」
文乃は自らの胸のブラウスを強く握りしめた。
「私は……航平さんにとって、ただの『都合のいい存在』なんじゃないかって……。料理が作れて、すずちゃんの偏食を治してくれて、お迎えや看病を手伝ってくれる……母親の代わりとして、手頃で便利な手札として、求められているだけなんじゃないかって……っ!」
「っ……!」
航平の喉が、苦痛に軋んだ。
「もし、そうだったら……もし、航平さんが私を一人の女性として見てくれていなくて、ただ『すずの母親役』としてしか見ていなかったら……私は、どうすればいいんだろうって」
文乃はボロボロと涙を零しながら、顔を歪めた。
「そんなの……耐えられないって思いました。私は、母親の代役になりたいんじゃない……。航平さんに、一人の女として愛されたい……! あの人の隣に、胸を張って立ちたい……! そう思ってしまう自分の強欲さが怖くて……日曜日も、月曜日も、ずっと部屋で一人で震えていたんです……っ!」
すべてが、吐き出された。
誰にも言えなかった本音。
倉田佳奈にすら完全に打ち明けることのできなかった、文乃自身の心の最深部にあった、恋する女としての、剥き出しの独占欲と、切ない恐怖のすべて。
それを聞き終えた航平は――。
「…………っ」
航平の目から、大粒の熱い涙が、ポロリと頬を伝って零れ落ちた。
胸が、張り裂けそうだった。
自分が「迷惑をかけてはいけない」「彼女の未来を奪ってはいけない」と、自分を綺麗に見せるための倫理観で逃げ回っていたその裏側で。
この女性は、これほどまでに深く自分を愛し、これほどまでに切ない孤独の中で、「都合のいい女なんじゃないか」という恐怖と戦い続けてくれていたのだ。
傷つけていたのは、自分だった。
自分の臆病さが、この尊い女性の心を、どれほど残酷に切り裂いていたことか。
航平は、もう一秒の躊躇も持ち合わせなかった。
――ガタッ……!
航平は椅子を蹴るようにして立ち上がると、テーブルを回り込み、文乃の座る床の傍らへと膝をついた。
「航平、さん……?」
文乃が涙に濡れた顔を見上げた、その瞬間だった。
――ギュッッ……。
「…………っ!」
文乃の息が、止まった。
航平の、熱く、大きな両手が。
エプロンの上で震えていた文乃の、冷え切った小さな両手を。
上から、下から、壊れやすい宝物を包み込むようにして、力強く、優しく、完璧に包み込んだのだ。
重なる、指の熱。
逃がさないとでも言うかのように、航平の長い指が、文乃の指の隙間へと深く滑り込み、十本の指が、固く、固く絡み合わされる。
そこから雪崩れ込んできたのは、航平の全身の血液の熱さそのものだった。
脈打つ鼓動。
大人の男の、逞しく、骨張った手のひらの、圧倒的な包容力。
航平は文乃の手を自らの胸元へと引き寄せ、至近距離で、文乃の濡れた瞳をじっと見つめ据えた。
その瞳には、かつてないほど澄み切った、鋼のような光が宿っていた。
「文乃さん」
低く、深く、耳の奥を震わせる航平の声。
「絶対に、壊させません」
「っ……」
「僕たちの生活を壊すだなんて……そんなこと、絶対にあり得ない。文乃さんがいてくれたから、僕たちの冷え切っていた生活に、温かい光が灯ったんです。僕たちの凍りついていた日常を救ってくれたのは、他でもない、文乃さんなんです」
航平は握りしめた文乃の手に、さらにギュッと力を込めた。
「都合のいい存在だなんて……二度と、そんな悲しいことを言わないでください」
航平の声が、かすかに震えた。
「僕が……佐伯航平という男が、あなたという女性に、魂の底から惚れ抜いているんです。母親役なんて関係ない。あなたが文乃さんだから、僕はあなたを愛しているんです」
航平は文乃の目を逃げずに見つめ、一言一言を魂に刻み込むように告げた。
「僕が……あなたを、一生かけて幸せにします」
「航平さん……っ」
「どんな困難があっても、世間から何を言われようと……僕が、この腕であなたを守り抜きます。だから――僕の隣に、いてください」
「…………っっっ!!!!」
その瞬間。
文乃の胸の奥底で、最後の防壁が、音を立てて完全に消滅した。
重なる手のひらから伝わってくる、確かな愛の熱。
目の前にある、自分だけを見つめてくれる男の真実の瞳。
文乃は、包み込まれた自分の指先から、航平の大きな手のひらを、力いっぱいに握り返した。
涙が、再び溢れ出してきた。
けれど、それはもう悲しみや恐怖の涙ではなかった。
世界で一番温かい、胸が張り裂けそうなほどの至福の涙だった。
「……はい」
文乃は泣き笑いのような、満開の笑顔を浮かべた。
「はい……航平さん。私を……あなたの隣に、いさせてください……っ!」
「文乃さん……!」
航平の顔に、言葉を失うほどの歓喜の光が広がった。
航平は文乃の手を自らの両手で包み込んだまま、額を文乃の重ねた手の甲へと押し当て、感極まったように熱い息を吐き出した。
二人の指先が、強く、強く結び合わされる。
キャンドルの山吹色の光が、寄り添う二人の影を、ひとつの大きな美しい輪となって床の上に描き出していた。
その、奇跡のような至福の瞬間だった。
――カチリッ。
部屋の壁の奥で、小さなブレーカーの作動音が響いた。
次の瞬間。
パッ――――!!!!
「あ……」
天井のシーリングライトが一斉に点灯し、眩いばかりの純白の光が、部屋中を隅々まで照らし出した。
換気扇が軽快なモーター音を立てて回り出し、冷蔵庫がブーンと静かに息を吹き返す。
停電の、完全な復旧。
突然の明るさに、二人は思わず目を細めた。
そして――。
互いの顔を、見つめ合った。
照明の光の下。
航平の顔は、涙と安堵で濡れそぼりながらも、少年のように誇らしげで、眩しいほどの笑顔に満ち溢れていた。
文乃の顔もまた、涙で赤く腫れた目元を輝かせ、世界で一番美しく、柔らかな恋する女の笑みを咲かせていた。
キャンドルの小さな炎が、明るい光の中に溶けていく。
けれど、二人の間に灯った愛の炎は、どんな光よりも力強く、赤々と燃え盛っていた。
「……んぅ……」
ふいに、文乃の膝の上で、小さな声がした。
突然の明かりの眩しさに、すずがブランケットの中で身じろぎをし、トトロを抱き直しながら、ふにゃりと愛らしく口元を緩めた。
「パパぁ……あやのちゃん……あったかいねぇ……」
無邪気な、幸せに満ちた寝言。
その愛らしい声に、航平と文乃は顔を見合わせ、声を出して、優しく笑い合った。
繋ぎ合わされた二人の手のひらは、光の中でも、決して離されることはなかった。
壁一枚の「余り物」から始まった、もどかしく切ない日々のすべてが。
今夜、この光の中で、本物の愛の物語へと、確かに生まれ変わったのだった。




