第55話:航平の告白
パチッ、と微かな音を立てて、キャンドルの芯が小さく爆ぜた。
山吹色の柔らかい炎がふわりと揺らぎ、三〇一号室のフローリングの上に、二つの長く濃い影を落としている。
窓の外を乱打していたゲリラ豪雨は、いつの間にか規則正しい静かな雨音へと落ち着き、大気を引き裂いていた雷鳴は、遥か東の空の彼方へと消え去っていた。
家電の駆動音が一切途絶えた、全棟停電の静寂。
その薄暗い空間の中心で、文乃の膝枕の上に頭を預けた佐伯すずは、フリースブランケットに包まれながら、胸元にトトロのぬいぐるみを抱きしめ、深く、穏やかな寝息を立て続けていた。
「すー……、すー……」
小さな胸が一定のリズムで上下し、先ほどまでの怯えや涙の痕跡は、温かい蜂蜜生姜湯の熱とともに完全に溶け去っていた。
すずの寝息が空気を震わせるたび、テーブルを挟んで向かい合う二人の大人の間の静寂は、より一層、濃密で逃げ場のないものへと研ぎ澄まされていく。
瀬戸文乃は、自らの膝の上ですやすやと微睡むすずの背中に手を添えたまま、身じろぎひとつできずにいた。
息を吸い込むことすら躊躇われるほどの緊張感。
テーブルの向かい側。
キャンドルの灯火を真正面から浴びて座る佐伯航平の姿から、文乃は一秒たりとも視線を逸らすことができなかった。
そこに座っていたのは、文乃がこれまで幾度となく見てきた、どの航平とも決定的に異なっていた。
いつも目の下に濃い隈を貼り付け、育児と残業の激務に追われて「すみません」と背中を丸めていた、あの限界のシングルファザーの姿ではない。
独身女性に迷惑をかけることを極度に恐れ、丁寧すぎる敬語と営業スマイルの分厚い鎧を着込んで一線を引こうとしていた、あの小心で臆病な隣人の姿でもない。
ましてや、土曜日の夕暮れ、すずの無邪気な一言に血相を変えて取り乱し、逃げるように自室の扉を閉ざしてしまった、あの狼狽した父親の姿でもなかった。
父親という重たい免罪符を、完全に脱ぎ捨てた姿だった。
雨に濡れた黒髪を無造作に払った額の下、切れ長な涼しげな瞳の奥底に、深海のように静謐で、けれど触れれば骨まで灼き尽くすほどに純粋で激しい『青い炎』を宿した、佐伯航平という一人の生身の男の顔が、そこにあった。
「…………」
航平は、テーブルの上に置かれた自らの両手を、視線に捉えた。
そして、ゆっくりと指先を折り曲げ、爪が掌に食い込むほど強く、強く、拳を握りしめた。
白くなる関節。
その拳の震えは、恐怖から来るものではなかった。
己の中に渦巻くすべての欺瞞と保身を叩き潰し、自らの人生のすべてを賭けて、たったひとつの真実を紡ぎ出そうとする、男の魂の震えだった。
航平は顔を上げた。
そして、文乃の瞳を、真正面から真っ直ぐに見据えた。
「瀬戸さん」
低く、深く、どこまでも芯の通った声が、静まり返った暗闇の部屋に響いた。
「……はい」
文乃の唇から、掠れた返答が零れ落ちる。
航平は一度だけ、短く息を吸い込んだ。
そして――何日もの間、自らを苛み、文乃の心を冷たい不安の底に突き落とし続けていた、あの出来事の核心へと、迷うことなく切り込んだ。
「動物園の帰り……エレベーターホールの前で、すずが言ったこと」
航平の声に、痛切な苦悶の響きが混ざる。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「航平さん……」
「すずは、まだ四歳です。母の顔を知らず、家庭の温もりというものを知らずに育ちました。……そんな幼い子どもが、文乃さんの温かさに触れて、甘え、無邪気に願ってしまうこと自体は……あの子の罪ではありません」
航平の喉仏が、ギシギシと音を立てるように上下した。
「悪いのは……全部、僕です」
「え……?」
「あの日、すずがあの言葉を口にした瞬間……僕は、激しく取り乱してすずを怒鳴り、文乃さんから逃げるように部屋に駆け込み、扉を閉ざしてしまいました」
航平は自嘲するように目を伏せ、握りしめた拳を震わせた。
「表面上は、『娘が文乃さんに失礼なことを言ったから』『独身の女性に母親役を押し付けるような暴言を許せなかったから』……そんな、もっともらしい父親としての理由をつけて、自分を正当化しようとしていました。……でも、違ったんです」
航平は再び顔を上げた。
その瞳には、自らの醜さを一切隠さずに晒け出す、痛烈なまでの自責の光が宿っていた。
「僕が本当に取り乱したのは……あの時、すずの言葉を聞いて恐怖した本当の理由は」
「…………」
「すずの言葉を、その場ですぐに、完全に否定することができなかった……他でもない、僕自身の『ずるさ』のせいだったんです」
「っ……!」
文乃の心臓が、トクンと小さく跳ね上がった。
航平のずるさ。
その言葉の意味を理解しようと、文乃は息を詰めて航平を見つめ返した。
「僕は……あの瞬間、心底から怯えていたんです」
航平の声が、掠れながらも熱を帯びていく。
「子持ちの男が、年下の独身女性に親切にしてもらい、タダ飯を食べさせてもらい、看病までさせておいて……最後には娘を盾にして、『母親になってほしい』と都合のいい要求を突きつける……世の中で一番軽蔑されるべき、最低の卑劣な男の姿が、そこにありました」
航平は奥歯を強く噛み締めた。
「文乃さんに……『やっぱりこの男は、私を都合のいい母親役として利用しようとしていたのか』と思われるのが、死ぬほど怖かった。自分の薄汚い下心を、娘の無邪気な口から白日の下に晒されてしまったような気がして……逃げ出すことしかできなかったんです」
「下心……だなんて、そんな……」
「下心です。ずるくて、臆病で、卑怯な保身です」
航平は自らを切り捨てるように断言した。
そして、キャンドルの炎を見つめ、これまでの日々を振り返るように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……三ヶ月前。壁一枚隔てた向こう側から、文乃さんが初めてタッパーを持ってきてくださった、あの金曜日の夜のことを覚えています」
航平の表情が、ふっと懐かしむように緩んだ。
「カボチャのそぼろ煮と、甘い出汁巻き卵。……あの頃の僕は、本当に限界でした。毎晩の残業と育児に追われ、すずは偏食で泣き叫び、コンビニの冷たい弁当を前にして、自分には父親としての資格がないんじゃないかと……毎晩、一人で泣きそうになりながら耐えていました」
文乃は静かに、すずの柔らかな髪に指を添えながら、耳を傾けた。
「あの時、文乃さんの作ってくださったお料理を一口食べた瞬間……すずが、生まれて初めて『あまい、おいしい』と笑って完食してくれた。あの時の救われたような思い、文乃さんへの溢れるような感謝は……神仏に対する祈りと同じくらい、純粋なものでした」
航平の視線が、文乃の顔へと戻る。
「最初は……本当に、ただの感謝だったんです。僕たち親子を地獄の底から救い出してくれた、親切で優しいお隣さんへの、深い恩義でした。だからこそ、僕はタダで甘えてはいけないと、材料費を封筒で渡そうとしたり、換気扇の掃除や力仕事でお返しをしようと必死になっていました。等価交換のルールを守ることで、文乃さんの貴重な人生を搾取してはならないと……自分に言い聞かせていたんです」
航平の呼吸が、わずかに熱を帯びて乱れた。
「でも……いつの間にか、違っていたんです」
「…………っ」
「文乃さんが、楽しそうにお料理の話をしてくれる時の、あのキラキラした瞳を見るたびに」
航平の瞳が、切なげに細められる。
「すずのために、野菜を細かく刻んで、出汁の甘みで青臭さを消して……どうすればあの子が笑顔で食べてくれるかを、自分のことのように一生懸命に考えてくださる、その温かな後ろ姿を見るたびに」
航平の喉が、熱く詰まった。
「僕が深夜残業でボロボロになって帰ってきた時、温かい鍋焼きうどんを出してくれて……『冷え切ってますから食べてください』と背中を擦ってくださった、あの手のひらの優しさに触れるたびに」
航平の拳が、テーブルの上で白くなるほど強く握りしめ直された。
「僕は……佐伯航平という一人の男として、瀬戸文乃さん……あなたに、恋をしていました」
「っ…………!!!!」
文乃の胸の奥底で、鐘が激しく乱打された。
全身の血液が、沸騰したかのようにカッと熱くなり、指先が微かに痺れる。
恋をしていました。
その言葉の響き。
父親としての感謝でも、隣人としての親愛でもない。
一人の男が、一人の女に対して抱く、紛れもない『恋情』の告白。
「すずが熱を出した、あの木曜日の深夜」
航平の告白は、止まらなかった。
自らの魂の堤防を決壊させ、濁流のように溢れ出す想いを、一滴も余すことなく文乃へと届けるために、航平は言葉を紡ぎ続けた。
「パニックになって救急ダイヤルすら押せなかった僕の部屋に、文乃さんが飛び込んできてくれた時。的確にすずの身体を冷やし、深夜の病院まで付き添って、僕の冷え切った手に温かい白湯を握らせてくれた時」
航平の瞳に、熱い涙の膜が張っていく。
「そして……翌朝。大事なプレゼンを前にして途方に暮れていた僕の前に、有休を取ってエプロン姿で現れ、僕の曲がったネクタイを整えて……『すずちゃんのことは任せて、プレゼンだけに集中してきてください』と背中を押してくださった、あの朝」
航平の声が、かすかに震えた。
「プレゼンを終えて、仕事部屋のドアをそっと開けた時……僕が見た光景を、文乃さんは覚えていますか」
「え……?」
「文乃さんは……ベッドサイドの床にクッションを敷いて、すずの小さな手を両手で大切そうに包み込みながら……窓からの柔らかな光を浴びて、すやすやと微睡んでいました」
航平の口元に、息を呑むほどに美しく、愛おしさに満ちた笑みが零れ落ちた。
「すずの寝息に合わせて、文乃さんの前髪がふわりと揺れていて……。その姿を見た瞬間、僕の胸の中にあったすべての防壁が、音を立てて崩れ去ったんです」
航平は自らの左胸を、服の上から強く掴んだ。
「こんなにも尊い人がいるのかと。こんなにも温かく、愛おしい光景が、僕のこの殺風景な人生の中に存在するのかと……胸が張り裂けそうなほどの衝撃を受けました。……そして、自覚したんです。俺は、この人を愛しているんだと」
「航平、さん……」
文乃の目頭が、熱く、熱く滲んでいた。
あの朝、仕事部屋のドアの向こうで、この人はそんな思いで自分を見ていたのか。
ただの親切なお隣さんとしてではなく、一人の愛おしい女性として、その瞳に焼き付けてくれていたのか。
「でも……僕は、怖かった」
航平の声音に、大人の男としての苦渋が戻る。
「僕は、二年前に離婚したバツイチの男です。四歳の娘を抱え、毎晩の残業に追われ、一度は家庭を破綻させてしまった不甲斐ない人間です。……それに引き換え、文乃さんは、若くて、美しくて、誰からも愛される素晴らしい女性だ。自分のキャリアがあり、自由な未来があり、いくらでも何の後ろめたさもない素敵な男性と結ばれる権利がある」
航平は首を横に振った。
「そんなあなたに対して、僕のような男が好意を抱くこと自体が、おこがましい罪なんじゃないか。僕が踏み込むことで、あなたの輝かしい未来を奪い、子持ち男の泥沼に縛り付けてしまうんじゃないか……そう思うと、足がすくんで、どうしても踏み出すことができなかったんです」
「…………」
「土曜日の動物園の帰り道……すずが『ママになって』と言った時、僕が逃げ出してしまったのは、そのためでした」
航平はテーブル越しに、文乃の目を逃げ場のない真剣さで見つめ据えた。
「すずにあんなことを言わせてしまった自分が許せなかった。僕の心の奥底にあった『文乃さんの隣にいたい』という独占欲が、すずの無垢な口を借りて漏れ出てしまったような気がして……恥ずかしくて、情けなくて、文乃さんに合わせる顔がなかったんです」
航平の告白は、赤裸々だった。
自分の弱さも、醜い保身も、情けない躊躇も、何ひとつ取り繕うことなく、すべてを俎上に載せて、文乃の前に晒し出していた。
そして――。
航平は、一度深く息を吸い込んだ。
キャンドルの炎が、ふわりと大きく揺れる。
航平は姿勢を正し、背筋をピンと伸ばした。
その表情から、すべての苦渋と迷いが完全に消え失せていた。
月曜日の深夜、親友の神谷陸に胸ぐらを掴まれ、オフィスで自らの魂に誓ったあの宣誓。
『主語をすずにするな』
『一人の男として、腹を括って伝えろ』
その誓約のすべてが、今、航平の研ぎ澄まされた双眸の中に宿っていた。
「文乃さん」
航平の声は、静かだった。
けれど、その静けさの奥底には、どんな嵐の雷鳴よりも力強く、どんな誓いの言葉よりも重たい、絶対の決意が満ち満ちていた。
「すずの母親が欲しいからでは、ありません」
「っ……」
「僕たちの生活を助けてくれる、都合のいい母親役を探しているんでもありません」
航平は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
一文字一文字に、自らの命の重みをすべて注ぎ込むように。
「ただ……僕が、あなたを愛しているんです」
「…………っっっ!!!!」
文乃の喉が、息を呑んで止まった。
ただ、僕が。
あなたを愛している。
その言葉が、文乃がこの数日間、誰にも言えずに胸の奥底で抱え込み続けていた、すべての不安と孤独の氷塊を、跡形もなく、粉々に打ち砕いていった。
母親役としての需要ではない。
便利な隣人としての引き留めでもない。
佐伯航平という一人の生身の男が、瀬戸文乃という一人の女性そのものを、心から欲し、恋い焦がれ、愛しているという、純度百パーセントの真実。
「文乃さんの作るご飯を、これからもずっと、隣で『美味しい』と笑って食べたい」
航平の瞳が、熱く、熱く文乃を射抜く。
「文乃さんが疲れた時は、僕がこの腕であなたを支えたい。文乃さんが悲しい時は、僕があなたの涙を拭いたい。……すずの父親としてではなく、佐伯航平という一人の男として、あなたのこれからの人生のすべてを、僕の手で幸せにしたいんです」
航平は、テーブルの上に置かれた右手を、ゆっくりと、震えることなく前へと伸ばした。
キャンドルの山吹色の光の下。
文乃の膝の上で眠るすずの小さな身体を飛び越えて、文乃の手元へと真っ直ぐに差し出された、男の大きな、骨張った手のひら。
そして――。
静まり返った暗闇の部屋の中に、世界で一番温かく、世界で一番切実な、魂からの告白が響き渡った。
「文乃さん」
「……はい」
「僕と……お付き合いしていただけませんか」
「…………っっっ」
静寂。
窓を濡らす雨の音だけが、遠く、遠く、祝福の音楽のようにサラサラと鳴り響いていた。
揺れる蝋燭の炎の下。
差し出された男の掌と、それを見つめる女の濡れた瞳。
長かった「余り物」の日常に、本当の終わりを告げるための問いかけが、今、二人の間に、永遠の約束となって真っ直ぐに横たわっていた。




