↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/60

第54話:蝋燭の火を囲んで

重たい玄関の扉が閉ざされ、二重の鍵とチェーンが掛けられた瞬間、外で荒れ狂う暴風雨の咆哮は、一段階くぐもった重低音へと退いた。


けれど、室内の漆黒は微塵も揺らいでいなかった。


足元を頼りなく照らし出しているのは、佐伯航平が左手で握りしめたスマートフォンの背面ライトだけだった。青白く細い光条が、三〇一号室のフローリングを細長く切り取り、壁際に置かれた家具の輪郭を不気味な巨大な影となって天井へと引き伸ばしている。


「う……っ、うわぁぁぁん……! パパぁ……あやのちゃん……くらいよぉ……!」


航平の逞しい右腕にしがみついたまま、四歳の少女――すずは、トトロのぬいぐるみを胸に押し潰さんばかりに抱きしめ、しゃくりあげながら泣き叫んでいた。


幼い子どもの心臓は、小鳥の羽ばたきのように激しく、速く、胸元を突き破らんばかりに脈打っている。突然の落雷の爆音、激しい地響き、そして一瞬にして奪い去られた視界。そのすべてが、四歳の柔らかな神経を恐怖で苛み、小さな手足を小刻みに震わせ続けていた。


「大丈夫、大丈夫だぞ、すず。パパがいる。あやのちゃんのおうちの中にいるからな」


航平はすずの小さな背中を大きな手のひらで何度も優しくさすりながら、低く落ち着いた声音を送り続けた。けれど、その航平自身もまた、雨と汗で濡れた前髪を額に張り付かせ、荒い呼吸を整えるのに必死だった。


「航平さん、すずちゃん、靴を脱いで上がってください。……ちょっと待っていてくださいね、今、明かりを点けますから」


文乃は震える手先でキッチンの奥の棚へと手を伸ばした。


暗闇の中、指先の記憶だけを頼りに引き出しを開ける。


カサリと音がして、防災用の非常持ち出し袋の横にストックしてあった小さな箱を取り出した。中に入っていたのは、ガラスの器に入った直径五センチほどのアロマキャンドルが二つと、長い軸のマッチ箱。


シュッ……。


闇の中で擦られたマッチの頭が、小さな火花を散らしてパッと橙色に爆ぜた。


硫黄の微かな匂いとともに立ち上がった細い炎を、文乃はキャンドルの芯へとそっと移す。


ポッと、丸く柔らかな光が生まれた。


芯を伝って蝋がじんわりと溶け出し、二つの小さな灯火が、ダイニングテーブルの中央に据えられた。


青白いスマートフォンの無機質な光が消され、部屋の中に広がったのは、息を呑むほどに温かな、山吹色の薄明かりだった。


ゆらゆらと、かすかな空気の流れに合わせて揺らめく蝋燭の炎。


壁の白木を優しく染め上げ、二人の大人と一人の幼子の輪郭を、柔らかな陰影の中に浮かび上がらせていく。キャンドルから立ち上る、ほんのりとした白檀(サンダルウッド)とカモミールの天然精油の香りが、雨の湿気で重たくなっていたリビングの空気を、ふわりと穏やかな安らぎで包み込んでいった。


「……あ」


すずが、涙に濡れた長い睫毛をパチパチと瞬かせた。


眩しすぎない、小さな炎のゆらめき。


その温かな光を視界に捉えた瞬間、火がついたように泣き叫んでいたすずの口元から、ヒック、ヒックと小さなしゃくり声だけが漏れるようになり、張り詰めていた強張りがわずかに緩んだ。


「ほら、すずちゃん。お星さまみたいな明かりがついたよ。もう真っ暗じゃないからね」


文乃はダイニングのローテーブルの前に膝をつき、すずの目線に合わせて両手を広げた。


「おいで、すずちゃん。寒かったでしょう」


「あやの……ちゃん……っ」


すずは航平の腕からするりと抜け出すと、文乃の膝元へ向かって小さな足をトタトタと走らせ、その胸元へと飛び込んできた。


ぎゅううっ、と文乃の腰に腕を回し、顔をリネンエプロンに擦り付ける。


文乃はすずの小さな背中を、自らの両腕でそっと包み込んだ。


パジャマ越しに伝わってくる、冷え切った小さな身体の震え。


雨風の冷気と極度の恐怖によって、すずの指先や頬は、氷のように冷たくなっていた。


「……身体が冷え切ってる。佐伯さんも、ずぶ濡れじゃないですか」


文乃が見上げると、テーブルの反対側に腰を下ろした航平は、肩から袖口にかけて豪雨の飛沫でぐっしょりと色を変えたスウェットを着ていた。足元は靴下すら濡れており、床に冷たい水滴を落としている。


「すみません……傘を差す余裕もなくて、すずを抱えてそのまま飛び出してきてしまって……お部屋を汚してしまって申し訳ありません」


「謝らないでください! 靴下、脱いでくださいね。今、乾いたバスタオルを持ってきますから」


文乃は洗面所のチェストから大判の吸水バスタオルを二枚取り出し、一枚をすずの小さな肩からポンチョのように羽織らせ、もう一枚を航平へと手渡した。


「頭と首筋をよく拭いてください。風邪を引いてしまいます」


「ありがとうございます……助かります」


航平はタオルを受け取り、濡れた髪を拭いながら、小さく息を吐いた。


ゴロゴロ……ドォォォンッ!


遠くで再び雷鳴が轟いたが、すずは文乃の胸に顔を埋めたまま、ビクッと身体を竦ませるだけで、もう悲鳴を上げることはなかった。


大好きな人の胸の温もりと、規則正しい心音。


それが、何よりの防壁となって少女を守っていた。


「すずちゃん、ちょっとだけお腹を温めようか。お腹の中から温かくなったら、雷さんなんてちっとも怖くなくなるよ」


「……おなか……あったかいの……?」


すずが濡れた瞳を上げて、文乃の顔をじっと見つめる。


「うん。お姉ちゃんがね、とびきり甘くてポカポカする魔法のお汁を作ってあげる」


文乃はすずの頭を優しく撫でると、キッチンの作業台へと向かった。


停電のため、IHクッキングヒーターや電子レンジなどの家電は一切使えない。


けれど、文乃は少しも慌てていなかった。


流しの下の収納スペースから、防災備蓄品として常備してあったカセットコンロと、新品のガスボンベを取り出す。カチリと小気味よい音を立ててボンベを装填し、五徳の上に小さなミルクパンを載せた。


つまみを回すと、バチッと火花が散り、青いリング状の炎が静かに立ち上がる。


停電の闇の中で、文明の炎が力強く灯った。


文乃は冷蔵庫を開けた。


庫内灯は点かないが、手探りで野菜室の引き出しを開け、あらかじめペーパータオルに包んでおいた高知県産の立派な『大生姜(おおしょうが)』を取り出す。


今夜、この極度の緊張と寒気に晒された二人に必要なのは、内臓の毛細血管を速やかに拡張し、深部体温をじんわりと押し上げて副交感神経を優位に導く、滋養の飲み物だった。


文乃はセラミックの包丁を取り、生姜の皮をスプーンの縁で薄くこそげ落とした。


生姜の皮のすぐ内側には、香り成分であるシネオールやジンギベレンが最も豊富に含まれている。包丁で厚く剥いてしまっては、せっかくの爽快なアロマが失われてしまうのだ。


薄くスライスした生姜を三枚。


そして、すず用には刺激が強すぎないよう、ほんのひとかけらすりおろして、繊維を断ち切った絞り汁だけを用意する。


ミルクパンに水二〇〇ミリリットルと、薄切りの生姜を入れて火にかける。


コトコトと小さな泡が立ち始めると、狭いキッチンの空間に、ツンとした清涼感と、どこか大地を思わせる温かな生姜の香りが漂い始めた。


生姜に含まれる辛味成分『ジンゲロール』は、加熱されることによって『ショウガオール』へと化学変化を遂げる。


生のジンゲロールが手足の末梢血管を広げて一時的に熱を発散させるのに対し、じっくり加熱されたショウガオールは、胃腸の壁を直接刺激して血流を促し、身体の芯――深部体温そのものをじわじわと燃焼させて熱を作り出す性質を持っている。


嵐の夜、冷え切った身体にこれ以上の特効薬はない。


三分ほど弱火で煮出したところで、火を極々弱火にする。


文乃は吊り戸棚から、山梨の実家の近くにある養蜂場から送ってもらった、琥珀色に透き通る『アカシア純粋蜂蜜』の瓶を取り出した。


木製のハニーディッパーを差し入れ、とろりと黄金色の蜜をすくい上げる。


ミルクパンの中に、惜しみなく大さじ二杯分の蜂蜜を垂らし込んだ。


――フワァァァッ……。


熱い蒸気とともに立ち上ったのは、生姜のキリッとした辛味を包み込むような、圧倒的に優しく甘やかな花の香りだった。


アカシア蜂蜜は果糖の割合が高く、結晶化しにくい上に、クセのない上品な甘みが特徴だ。ブドウ糖が脳へ素早くエネルギーを補給し、過度のパニックで血糖値が乱高下していたすずの自律神経を、穏やかに落ち着かせてくれる。


仕上げに、ほんの一振り、自然塩を指先でつまんで落とす。


極微量のナトリウムが加わることで、蜂蜜の濃厚な輪郭がキリリと際立ち、舌の上にベタつかない極上の後味が生まれるのだ。


「……できた」


文乃は二つの陶器のマグカップと、すず用のプラスチックの小さなマグカップを取り出した。


すずのカップには、生姜汁をほんの数滴にとどめ、蜂蜜の甘さを際立たせた優しい温度のものを注ぐ。


航平と文乃のカップには、生姜の薄切りを一枚ずつ浮かべ、熱々の湯気立つ生姜湯を注ぎ分けた。


木製のトレイに乗せ、揺れる蝋燭の灯りが待つリビングテーブルへと運ぶ。


「お待たせしました。……特製の『蜂蜜生姜湯』です。熱いから気をつけて飲んでね」


「わあぁ……いいにおい……」


すずがマグカップから立ち上る甘い湯気に、小さな鼻を近づけた。


航平もまた、差し出されたマグカップを両手で包み込み、深く息を吸い込んだ。


「生姜と……蜂蜜の、すごくいい香りですね。手足の先まで、香りを嗅いだだけで温まるようです」


「すずちゃん、ふーふーして飲んでごらん」


すずは両手でしっかりとカップの取っ手を握りしめ、唇を尖らせて「ふー……ふー……」と息を吹きかけた。


そして、恐る恐る、小さな舌先を液面に浸す。


ペロリ。


「…………っ!」


すずの丸い瞳が、パッと明るく見開かれた。


「あま〜い! パパ、これ、すっごく甘くておいしい!」


「そうか、辛くないか?」


「ぜんぜん辛くない! お口のなかが、ぽかぽかする!」


すずは嬉しそうに、コク、コク、と小さな喉を鳴らしながら、蜂蜜生姜湯を飲み進めていった。


甘い蜜のヴェールに包まれた微かな生姜の温もりが、高熱の記憶と今夜の恐怖で強張っていたすずの小さな胃の腑を、優しく解きほぐしていく。


航平もまた、カップに口をつけた。


ズズッ……。


一口啜った瞬間、航平の喉仏が大きく動いた。


「…………っ、染み渡る……」


航平の口から、深い吐息が漏れた。


「生姜のピリッとした刺激の奥に、蜂蜜の濃厚なコクがあって……喉を通った瞬間から、胃のあたりがカッと熱くなってきます。……雨で冷え切っていた身体が、生き返るようです」


「よかった。航平さん、ずっと肩に力が入っていましたから」


文乃も自らのカップを口に運び、ほっと胸を撫で下ろした。


テーブルの中央で、二つのキャンドルの炎が静かに揺らめいている。


窓の外では、依然として激しい豪雨がサッシを叩きつけていたが、時折光る稲妻の閃光も、遠ざかる重低音も、もうこの部屋の温もりを脅かすことはできなかった。


すずはマグカップを両手で持ったまま、航平の太ももに背中を預け、文乃の膝の上に自らの足を投げ出すようにして座っていた。


右側には、世界で一番頼りになるパパの逞しい腕。


左側には、世界で一番優しくて甘いご飯を作ってくれる文乃の柔らかい手のひら。


二人の大人の体温に挟まれ、お腹の中から蜂蜜生姜湯の熱が全身を巡るにつれて、すずの小さな身体から、急速に緊張が抜け落ちていった。


「ふあぁぁ……」


すずの口から、小さくて可愛らしいあくびがこぼれた。


カップの中身を飲み干したすずは、空になったカップをテーブルの上にコトッと置くと、トトロのぬいぐるみを胸元に引き寄せた。


そして、とろんと重たそうに落ちてくる瞼を擦りながら、文乃の顔を見上げた。


「あやのちゃん……」


「なあに、すずちゃん?」


「……おひざ、ごろんしていい……?」


消え入りそうな、甘えた声。


文乃の胸の奥底で、トクンと愛おしさが跳ね上がった。


「いいよ、おいで」


文乃がリネンエプロンのスカートを整えると、すずは迷うことなく、文乃の太ももの上にコトンと小さな頭を乗せた。


文乃の膝枕。


すずは文乃の膝の上に丸まり、トトロを抱きしめながら、ふかふかの太ももの感触に頬をすり寄せた。


航平が立ち上がり、自分の濡れたスウェットのポケットからハンカチを出し、すずの額の汗を拭った後、ソファの上に畳んであった柔らかなフリースブランケットを手に取った。


そして、文乃の膝の上に横たわるすずの小さな身体の上へと、そっと、羽毛のように優しく掛けてやった。


「すず……もう大丈夫だからな。ゆっくりおやすみ」


航平の囁くような声。


「……ん……パパ……あやのちゃん……」


すずの小さな唇が、微睡みの底で幸せそうに呟いた。


文乃が、すずの背中を、一定のリズムでトントンと優しく叩く。


トントン、トントン……。


その優しい揺らぎに包まれて、すずの呼吸は、みるみるうちに深く、穏やかなリズムへと変わっていった。


すー……、すー……。


規則正しい、天使のような寝息。


長くて濡れた睫毛が静かに頬に影を落とし、小さな手のひらが、文乃のエプロンの裾をキュッと握りしめたまま、完全に脱力していった。


就寝。


嵐の夜の恐怖を完全に忘れ去った、あまりにも安らかな眠り。


そして――。


すずの寝息が部屋の中に満ちた瞬間。


三〇一号室のリビングに、かつてないほどの濃密で、特別な『静寂』が降りてきた。


パチッ……。


キャンドルの芯が、微かな音を立てて爆ぜる。


橙色の炎がふわりと揺れ、向かい合って座る二人の大人の横顔を、陰影深く照らし出していた。


外の豪雨の音は、いつの間にかザーザーという単調な雨音へと変わり、雷鳴は遥か遠くの空へと去りつつあった。


世界に存在するのは、窓を濡らす雨の音と、すずの小さな寝息。


そして――航平と文乃、二人の呼吸の音だけだった。


「…………」


「…………」


二人の間に、言葉はなかった。


土曜日の夕暮れ。


あの日、エレベーターホールの前で落とされたすずの爆弾発言以来、二人の間を支配し続けていた、あの冷たく重たい断絶。


四十八時間以上の空白の沈黙。


その間、互いにどれほどの葛藤を抱え、どれほど自分を責め、どれほどの不安と恐怖の中で夜を明かしてきたか。


言葉にしなくとも、テーブルを挟んで向かい合う互いの顔を見れば、痛いほどに伝わってきた。


航平の目の下に濃く落ちた隈。


文乃の目元に残る、張り詰めた疲労の跡。


二人は、逃げていたのだ。


傷つくのが怖くて、相手の人生を壊してしまうのが怖くて、互いの胸の中にある本当の感情から目を背け、安全地帯に引きこもろうとしていたのだ。


けれど――今夜、落雷の暗闇の中で、その偽りの境界線は完全に打ち砕かれた。


航平は、靴も履かずに廊下を疾走してドアを叩いた。


文乃は、震える手でドアを開け、その温もりを心から受け入れた。


もう、後戻りはできない。


この静寂の後に訪れるべき対話から、逃げ出すことなど、絶対に許されない。


文乃は、自らの膝の上で眠るすずの背中を、そっと撫で続けた。


すずの温かい体温が、手のひらを通して伝わってくる。


この愛らしい少女を守りたい。


そして――目の前に座る、この不器用で、誰よりも誠実な男の隣にいたい。


月曜日の昼休み、屋上で倉田佳奈に言われた言葉が、文乃の胸の奥底で力強く蘇る。


『あんた自身はどうなのよ? あの男の隣にいたいでしょ。……だったら、相手が踏み込んでこないなら、あんたから踏み込みなさいよ!』


そうだ。


待っているだけではダメだ。


あの日、エレベーターの前で航平さんが怯えて逃げ出してしまったのなら、今度は自分の方から、その恐怖の壁を越えて言葉を差し出さなければならない。


私は、都合のいい母親役を押し付けられたと思って怯えていたんじゃない。


あなたが、私をただの母親代わりとして見ているんじゃないかと思って……一人の女として愛されていないんじゃないかと思って、怖かったんだと。


その本音を、すべて曝け出そう。


文乃は膝の上のすずを見つめ、深く、静かに息を吸い込んだ。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


キャンドルの炎の向こう側で、俯き加減に座っていた航平の目を、真っ直ぐに見据えた。


「佐伯さん」


文乃の口から、澄んだ、けれど微かに震える声が零れ落ちた。


航平の肩が、ピクリと跳ねる。


「……動物園の日のこと、私――」


あの日、すずちゃんが言った言葉のこと。


あの後、私が一人で部屋で泣いていたこと。


そして、私があなたのことを、どう思っているのか――。


文乃がその核心へと足を踏み出そうと、言葉を紡ぎかけた、まさにその瞬間だった。


――スッ……。


テーブルの上で、航平の大きな右手が、静かに持ち上げられた。


「…………っ」


文乃の言葉が、喉の奥で止まった。


航平は、手のひらを文乃の方へと向け、静止の合図を送りながら、文乃の言葉を優しく、けれど絶対に譲らない力強さで制したのだ。


そして――。


航平は、ゆっくりと顔を上げた。


その顔を見た瞬間、文乃の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。


キャンドルの橙色の炎を瞳の奥に宿した、佐伯航平の顔。


そこには、土曜日のような動揺も、怯えも、逃げ腰の迷いも、微塵も存在しなかった。


目の下の隈を忘れさせるほどに、澄み切った、研ぎ澄まされた光。


父親という仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の生身の男としての、剥き出しの覚悟の光が、文乃の瞳を寸分の狂いもなく射抜いていた。


航平の喉仏が、ごくりと大きく動いた。


そして――静まり返った薄暗いリビングの中に、低く、深く、どこまでも芯の通った声が、真っ直ぐに響き渡った。


「瀬戸さん」


「……はい」


「僕から……話させてください」


航平の眼差しが、さらに熱く、文乃の心の最深部へと踏み込んでくる。


「ずっと逃げて……自分のプライドや保身で誤魔化してきたことを」


航平は拳をぎゅっと握りしめ、逃げ場のない真剣な光を湛えて告げた。


「今夜……ちゃんと、話さなければいけないんです」


窓の外の雨音が、遠のいていくようだった。


揺れる蝋燭の炎の下で、二人の視線が、もはや誰にも引き裂くことのできない熱を帯びて、重なり合っていた。


長かった「余り物」の日常に、本当の決着をつけるための、たった一つの真実の言葉が、今、静かに紡ぎ出されようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。