第53話:突然の豪雨と停電
重苦しく湿った大気が、窓ガラスの向こう側に広がる東京の夜空を、ねっとりと覆い尽くしていた。
火曜日の、午後七時四十五分。
日中の猛烈な蒸し暑さから一転、夕暮れを過ぎた頃から急速に大気の状態が不安定になり、西の空の彼方では、巨大な積乱雲が黒々とした城壁のように鎌首をもたげていた。時折、雲の奥底で鈍い紫色の光が不規則に明滅し、遠くの地鳴りのような重低音が、窓枠をかすかに震わせている。
マンション『メゾン・ド・フルール』の三〇一号室。
瀬戸文乃は、淡いベージュのリネンエプロンを身につけ、静まり返ったキッチンの前に立ち尽くしていた。
コンロの上に置かれた小さな片手鍋の中では、利尻昆布と煮干しで引いた澄んだ出汁が、弱火でことことと小さな泡を立てていた。具材は、実家から届いた泥つきの新牛蒡のささがきと、薄切りにした大根、油抜きした油揚げがほんの少し。
まな板の上には、一人分の小さな長方形の焼き網と、塩を振って水気を拭き取ったばかりのアジの開きが一枚。
一人分の、夕食。
それは、一人暮らしを始めてからの六年間、文乃が当たり前のように繰り返してきたはずの、極めて日常的な光景だった。
けれど今、文乃の手は、長ネギを刻む小包丁を握ったまま、ぴたりと止まっていた。
「…………」
まな板の端に寄せられた、小口切りの青ネギを見つめる。
ほんの少し前まで、このキッチンには、もっとたくさんの食材が溢れていた。
すずが苦手な青臭さを消すために極限まで細かく刻んだ人参やピーマン、ふっくらと出汁を吸わせるための大きなフライパン、そして、綺麗に煮含めたおかずを三人分に切り分けるための、色とりどりの清潔なタッパーたち。
『あやのちゃん、きょうのごはん、なあに?』
スリッパをパタパタと鳴らして駆け寄ってくる小さな足音と、エプロンの裾をぎゅっと引っ張る愛らしい手のひらの感触。
『文乃さん、今日も本当に……美味しくて、身体の底から温まります』
長身を小さく折り曲げるようにして食卓につき、一口食べるごとに深い感嘆と敬意を込めて手を合わせてくれた、あの誠実な男の横顔。
そのすべてが、たった数日前まで、この部屋の日常だったはずなのだ。
けれど今、部屋を満たしているのは、換気扇が静かに空気を吸い込む無機質なモーター音と、遠雷の地鳴りだけだった。
「…………はぁ」
文乃の唇から、重たく冷たい吐息が零れ落ちた。
土曜日の夕暮れ。あの動物園の帰り道、エレベーターホールの前で落とされた、すずの無垢な爆弾発言。
『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』
あの一言を聞いた瞬間、血相を変えて激しく取り乱し、逃げるように自室へと駆け込んで扉を閉ざしてしまった佐伯航平の姿が、今も鮮烈な棘となって文乃の胸の奥底を刺し続けていた。
あの日以来、三日間。
日曜日の丸一日、そして月曜日から今日の火曜日に至るまで、壁一枚隔てた隣室との間には、完全なる断絶の沈黙が横たわっていた。
メッセージアプリを開いては、文章を打っては消し、送ることのできない画面を睨み続けた夜。
日曜日には、いつもなら届くはずの「ごちそうさまでした」のタッパーの返却すらなく、廊下ですれ違うことすら一度もなかった。
避けられている。
その冷酷な現実に、文乃の胸は張り裂けそうだった。
――佐伯さんにとって、私は何だったのだろう。
月曜日の昼休みに先輩の佳奈から背中を叩かれ、「あんたから踏み込みなさい」と叱咤されたはずだった。自分でも、あの人の不器用な誠実さを信じようと、覚悟を決めたはずだった。
けれど、いざこうして何日も顔を合わせず、何の連絡も途絶えてしまうと、心の奥底に巣食った疑念の泥水が、じわじわと理性を侵食していくのを止められなかった。
すずちゃんに「ママになって」と言われて、あそこまで青ざめて逃げ出したのは――母親役を押し付けようとしていた下心を娘に見透かされて居心地が悪くなったからなのか。
それとも、そもそも私のような女に、母親の座に入り込まれること自体が、耐え難いほど迷惑で、不快だったからなのか。
もし、後者なのだとしたら。
自分が良かれと思って届けていた「余り物」のお裾分けも、深夜の救急搬送に付き添ったことも、有休を取って看病したことも、すべては独り善がりな押し付けで、あの親子の平穏な聖域を土足で荒らし回っていただけだったのではないか――。
「……ダメ、考えちゃダメ」
文乃は強く頭を振り、溢れそうになる涙を瞼の裏へと押し戻した。
包丁を置き、小鍋の味噌汁をお玉で軽くかき混ぜる。
その時だった。
――ビシッ、バシバシバシッッッ!!
突如として、何かが激突するような荒々しい音が、リビングの大きな掃き出し窓を叩きつけた。
「っ……!?」
文乃が息を呑んで振り返る。
レースのカーテンの向こう側、ベランダの外の景色は、わずか数分の間に地獄のような漆黒へと塗り潰されていた。
ゲリラ豪雨。
生ぬるい突風がマンションの外壁を激しく揺らし、バケツをひっくり返したような猛烈な雨粒が、斜めからガラス窓を乱打している。サッシの隙間から、ヒューヒューと耳障りな風切り音が鳴り響き、街の灯りは分厚い雨のカーテンの向こうに掻き消されていた。
ゴロゴロ……ゴロゴロゴロ……ッ!!
大気を引き裂くような地響きが、足元のフローリングを通してダイレクトに伝わってくる。
雷雲が、完全にこのマンションの真上へと到達していた。
「すごい雨……ベランダの排水、大丈夫かな……」
以前のゲリラ豪雨の夜、排水溝が詰まって部屋が水浸しになりかけた記憶がよぎる。あの時は、航平が泥だらけになりながら駆けつけて、工具で金具をこじ開けて助けてくれたのだ。
あの泥に塗れた逞しい腕と、ずぶ濡れになりながら「怪我はありませんか」と気遣ってくれた、あの真剣な瞳。
――こんな時まで、あの人のことばかり思い出してしまう。
文乃は苦く自嘲し、火を止めようとコンロへ向き直った。
まさに――その刹那だった。
――ピカァァァァァァァッッッッッッッッ!!!!
世界中のすべての色彩を消し去るほどの、暴力的なまでの白銀の閃光が、窓の隙間から部屋中を焼き尽くすように突き抜けた。
影が消え、網膜が真っ白に灼けつく。
コンマ一秒の遅れすらなく。
――ドォォォォォォォォォンッッッッッッッッッッ!!!!
ズドオオオオオオオンッッッッッッッッ!!!!!
「きゃああああああああっっっっっっ!!!!」
鼓膜を直接ハンマーで叩き割られたかのような、凄まじい衝撃波。
至近距離――おそらく、このマンションの屋上にある避雷針か、すぐ目の前の電柱に直撃した落雷だった。
建物全体がギシギシと音を立てて激しく横揺れし、壁にかかっていた時計がガタガタと跳ねる。
そして。
バチチチッ! という鋭い放電音とともに。
パッ――。
天井のシーリングライトが、キッチンの手元灯が、換気扇の緑のランプが、冷蔵庫の作動音が。
すべての光と音が、一瞬にして、完全に消滅した。
突発的な、全棟停電。
「っ……、あ……っ!」
文乃の視界は、完全なる漆黒の闇に飲み込まれていた。
目をいくら見開いても、自分の指先すら見えない。
家電の駆動音が一切途絶えた部屋の中に、響き渡るのは、窓を狂ったように叩き続ける豪雨の轟音と、地鳴りのように腹の底を揺さぶり続ける連続した雷鳴だけだった。
ゴロゴロ、ドカァァァンッ!!
「ひっ……!」
文乃はキッチンの床にペタンとしゃがみ込み、両手で耳を強く塞いで、膝を抱えて小さく丸まった。
全身が、ガタガタと激しく震えて止まらない。
暗闇と、雷。
幼い頃から、文乃は何よりも雷の音が苦手だった。山梨の実家にいた頃は、激しい夕立が来るたびに祖母や母の布団に潜り込み、耳を塞いで嵐が過ぎ去るのを待っていたのだ。
けれど今、この暗闇の部屋には、誰もいない。
一人きり。
手探りでスマートフォンを探そうにも、どこに置いたのかすら思い出せない。リビングのテーブルの上だったか、それとも寝室のベッドの上だったか。
立ち上がろうとすると足がすくみ、膝に力が入らない。
暗闇の中で、雷光が閃くたびに、部屋の家具のシルエットが不気味な怪物のように青白く浮かび上がっては消える。
「怖い……っ、誰か……」
喉の奥から、情けない掠れた声が零れ落ちる。
助けを呼びたくても、呼べる相手などどこにもいない。
自分は一人なのだ。
隣の部屋には、もう自分を助けてくれるはずのない、あの人がいる。
あの人に迷惑をかけてはならない。もうこれ以上、甘えてはならないと自分に言い聞かせてきたはずなのに、極限の恐怖の中で脳裏に浮かぶのは、ただ一人、佐伯航平の姿だけだった。
――航平さん……。
――助けて、航平さん……っ!
心の中で、届くはずのない名前を叫びながら、文乃が床に額を擦り付けるようにして震えていた、まさにその瞬間だった。
――ドタドタドタドタドタッッッッ!!!!
「え……?」
豪雨の轟音の向こう側から。
薄い玄関ドアを隔てた共用廊下を、狂ったように、必死の勢いで疾走してくる、激しい足音が響いてきた。
それは、間違いなく大人の男が、靴も履かずに靴下か裸足のまま、床を蹴り飛ばして走ってくるような、なりふり構わぬ足音だった。
足音は、三〇一号室のドアの前でピタリと止まり――。
次の瞬間。
――ドンドンッ! ドンドンッ! ドンドンッッ!!
鉄の扉が壊れんばかりの勢いで、拳で激しく叩かれた。
「瀬戸さんッッ!!」
「っ……!?」
文乃の全身の毛穴が、一瞬にして逆立った。
その声。
低く、切迫し、息を引き裂かんばかりに叫ばれた、あの愛おしい男の声。
「瀬戸さん! 瀬戸さん、大丈夫ですかッ!? 中にいますかッ!?」
激しいノックの音が、闇を破って響き渡る。
「航平……です! 落雷で停電しました! 怪我はありませんか!? 返事をしてください、瀬戸さんッッ!!」
「こ……航平、さん……!?」
文乃の喉から、掠れた叫びが飛び出した。
幻ではない。
ドアの向こうに、あの人がいる。
三日間、一言の言葉も交わせず、もう二度と会えないのではないかと怯え続けていたあの人が、この嵐の暗闇の中、自分の名を叫んでドアを叩いているのだ。
文乃は床に手をつき、もつれる足に力を込めて這い上がった。
暗闇の中、キッチンのカウンターに腰をぶつけそうになりながら、遮二無二玄関ホールへと疾走する。
「航平さん! います! 私、ここにいますッ!!」
震える手で玄関のドアノブを掴む。
サムターンを回し、チェーンロックを外す指先が、焦りと歓喜で激しく震えた。
カチャリ、と金属音が響き、文乃は力いっぱいにドアを手前へと引き引いた。
バァンッッ!!
「瀬戸さんッッ!!」
開け放たれた扉の向こう側。
真っ暗闇の共用廊下に、スマートフォンの白いライトの眩い光条が、真っ直ぐに文乃の姿を射抜いていた。
そこに立っていたのは――。
「…………っ!」
息を呑む文乃の視界に、佐伯航平の姿が鮮烈に焼き付いた。
黒のスウェットに、乱れた髪。
足元は靴すら履いておらず、グレーの靴下のまま冷たいコンクリートの廊下に立っている。
肩で激しく息を切り、額には汗と、吹き込んできた雨の飛沫がびっしりと光っていた。
そして――。
その航平の逞しい左腕の中に、折れそうなほど強く抱きかかえられていたのは。
「うわああぁぁぁぁぁんっっ!! あやのちゃぁぁぁんっっ!!」
パジャマ姿のまま、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、トトロのぬいぐるみを抱きしめながら泣き叫ぶ、すずの姿だった。
雷の轟音と突然の暗闇にパニックを起こし、小さな身体をカタカタと激しく震わせている。
「すずちゃん……っ!」
文乃の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
航平は右手に持ったスマートフォンのライトで文乃の足元を照らしながら、文乃の顔を見るなり、張り詰めていた表情を一気に崩した。
その瞳には、恐怖と焦燥、そして――文乃が無事であることに対する、心の底からの深い安堵が満ち溢れていた。
「よかった……っ。怪我は、ありませんか……?」
航平の声は、かすかに震えていた。
「すごい雷だったから……瀬戸さん、一人で部屋にいて、怖がっているんじゃないかって……っ」
「航平、さん……」
航平は泣きじゃくるすずの背中を左手で優しくポンポンとあやしながら、一歩、上がり框へと踏み出した。
そして――。
暗闇の中で、文乃の潤んだ瞳を、真正面からじっと見つめ据えた。
その眼差しには、土曜日のような動揺も、迷いも、逃げ腰の気配も、何ひとつ存在しなかった。
航平の喉仏が、ごくりと動く。
そして、低く、深く、どこまでも逞しい、大人の男の声で、静かに告げた。
「……怖かったですよね」
「…………っ」
「すずも……雷がダメで、泣き叫んでしまって。……瀬戸さんさえよければ」
航平はすずを抱き直すと、迷いのない眼差しで言った。
「一緒に……いていいですか?」
「…………っっっ!!!!」
その瞬間。
文乃の胸の奥底を冷たく支配していた、すべての恐怖が。
この三日間の間、心を苛み続けていたすべての孤独と疑念が。
まるで春の陽射しを浴びた残雪のように、一瞬にして、跡形もなく、温かな涙となって溶け去っていった。
暗闇の中で差し伸べられた、光。
一人きりで震えていた自分の世界に、土足で、なりふり構わずに飛び込んできてくれた、この人の温もり。
文乃は口元を両手で覆い、ポロポロと涙を零しながら、強く、何度も首を縦に振った。
「……はいッ!」
掠れた、けれど魂の底から絞り出された確かな返答。
「一緒に……いてください! 入ってください、航平さん……すずちゃんッ!」
外の空を、再び激しい雷鳴が引き裂いた。
けれど、もう怖くはなかった。
開かれた三〇一号室のドアから、男と幼子の温かな体温が、静かに、力強く、部屋の中へと迎え入れられていった。




