第52話:航平の決意
静まり返った深夜のオフィスに、カタカタと乾いたキーストロークの音だけが、不規則に響いていた。
月曜日の午後十一時半。
渋谷・道玄坂の雑居ビル四階にオフィスを構えるWeb開発会社『ネクスト・ロジック』の執務フロアは、すでに大半の社員が帰途につき、フロアの奥にある開発ブースの数区画だけが、ディスプレイの青白いバックライトによって冷ややかに照らし出されていた。
大型の曲面ワイドモニターを三台並べたデスクの前に、佐伯航平は一人、凍りついたように座っていた。
画面に映し出されているのは、先週見事に受注を勝ち取った大規模決済プラットフォームの、コアエンジンとなるTypeScriptのソースコードだった。普段の航平であれば、息をするように洗練された論理構造を組み立て、ミリ秒単位のパフォーマンスを追求した無駄のないコードを、驚異的な速度でキーボードから吐き出していくはずだった。
けれど、今夜の画面は――惨憺たる有様だった。
エディタの画面の至るところに、赤い波線――構文エラー(シンタックスエラー)を警告する無情なアンダーラインが、まるで血痕のように無数に引かれていた。
変数の命名規則は滅茶苦茶で、閉じ括弧の位置はズレまくり、数行に一度は意味をなさないキーの連打によるタイピングミスがそのまま放置されている。
「…………っ」
航平は指を止め、奥歯をギリリと噛み締めた。
頭が、一ミリも働いていなかった。
いくら視線をディスプレイに押し付けようとも、網膜を滑り落ちていく英数字の向こう側から、あの情景が、あの声が、鮮烈な熱と冷え切った恐怖を伴って、何度も何度もフラッシュバックしてくるのだ。
――土曜日の夕暮れ。
マンションの三階、エレベーターホールの白い光の下。
背中から降りたすずが、トトロのぬいぐるみを抱きしめ、無垢で透き通った瞳で放った、あの超弩級の一言。
『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』
『パパとすずと、ずーっと一緒にいればいいのに』
そして――その言葉を聞いた瞬間の、瀬戸文乃の表情。
息を呑み、血の気を失い、凍りついたように見開かれたあの大きな瞳。
「っ……あぁ……」
航平は両手で顔を覆い、喉の奥から苦悶の呻きを漏らした。
あの日から、四十八時間が過ぎていた。
土曜日の夜、パニックのあまりすずを怒鳴り散らし、文乃の前から逃げるように扉を閉ざして以来、航平は自室のリビングで頭を抱え、夜明けまで一睡もできなかった。
そして、明けた日曜日。
三〇一号室から微かに聞こえてくる生活の気配に、一日中怯え続けていた。
タッパーを返しに行くこともできず、インターホンを押す勇気など欠片も湧かず、スマートフォンのトーク画面を開いては、謝罪の文章を打っては消し、打っては消しを繰り返した。
結局、日曜日の一日中、航平は一言のメッセージすら送ることができなかったのだ。
文乃からも、何の連絡もなかった。
いつもなら、日曜日の夕方には「作りすぎちゃったので」と、温かいお裾分けを持ってきてくれていたはずのドアベルは、昨夜、一度たりとも鳴ることはなかった。
拒絶されたのだ。
当然だった。
若い独身女性に対して、子持ちの男が、あろうことか愛娘の無邪気な口を使って『ママになってほしい』と要求したのだ。
どれほど自分が「あれは子どもの戯言だ」と言い繕おうと、文乃の目には、娘を人質にして母親役を押し付けようとする、醜悪で無神経な男として映ったに違いない。
――俺は、最低だ。
守りたかった。
あの人の笑顔を、あの人の優しい手を、誰よりも大切に守り抜きたかったはずなのに。
結局、自分たちの存在そのものが、彼女の平穏な生活を土足で踏み荒らし、恐怖と負担を背負わせるだけの呪いになってしまっていた。
キーボードの上に両肘をつき、指先を髪に深く突っ込んで頭を抱える航平。
その時だった。
――ガツンッッ!!
「ぐえっ!?」
背後から容赦なく蹴り上げられたオフィスチェアのキャスターが、デスクの角に向かって派手に滑り、航平は危うくモニターに額を激突させそうになった。
「な……っ!?」
驚愕して振り返った航平の視界に飛び込んできたのは、アイスコーヒーの紙カップを指に引っ掛け、心底から呆れ果てたようなジト目を向けて立つ、神谷陸の姿だった。
腕まくりしたワイシャツの袖、緩められたネクタイ。
会社の共同創業者であり、航平の大学時代からの悪友。
「おい、天才フロントエンドエンジニア」
陸は紙カップを航平のデスクの端にダンッと音を立てて置くと、腕を組んでディスプレイを顎で指した。
「さっきから後ろで見てりゃ、なんだその呪いみたいなコードは。インデントはズレまくり、セミコロンは抜け落ち、挙句の果てにループの終了条件で無限ループ起こしてブラウザ落としてんぞ。お前、新卒のインターンでももう少しマシなコード書くぞ」
「神谷……」
「仕事熱心なのは結構だがな、そんな死相が出たツラで社運を賭けたプロジェクトの基盤ロジック書かれたら、バグの温床になって会社が破産するわ。……来い」
陸は航平の椅子の背もたれを強引に掴み、引き倒すようにして航平を立ち上がらせた。
「え、ちょ……待てよ、神谷!」
「いいから来いって言ってんだよ。お前をこのままキーボードの前に放置しといたら、今夜中にオフィスで首吊りかねねえツラしてんだよ!」
有無を言わさぬ力強さで腕を引かれ、航平は引きずられるようにしてフロアの奥――リフレッシュルームへと連行された。
自動販売機と、クッションソファ、小さなローテーブルが置かれた六畳ほどの休憩スペース。
窓の外には、深夜になっても煌々とネオンを輝かせる渋谷の街が、ビル風に揺れるガラス越しに広がっている。
陸は航平をソファへと乱暴に押し倒すように座らせると、自販機で買ったホットの缶コーヒーを、航平の胸元へと放り投げた。
「ほらよ、カフェイン補給しろ。……で?」
陸は向かいのパイプ椅子を逆向きにして跨ぎ、背もたれに腕を乗せて航平を正面から見据えた。
その瞳は、いつもの飄々とした軽薄さを完全に脱ぎ捨て、鋭いメスのように航平の表情を切り開いていた。
「何があった。……先週の金曜、あんなに最高のプレゼンやりきって、土曜日は娘と憧れのお隣さんと三人で動物園デートだっつって、ウキウキで出て行ったじゃねえか。なんで月曜の深夜に、今にも過労死しそうな能面に戻ってんだよ」
「それは……」
航平は缶コーヒーの両手で包み込んだ。温かい熱が冷え切った指先に染み渡っていくが、心の奥底の氷を溶かすことはできない。
航平は俯き、視線をカーペットの毛足へと落とした。
「……進展したんじゃなかったのかよ」
陸の静かな問い。
「お前、先週の月曜に俺が非常階段で胸ぐら掴んでハッパかけた時、『男として腹を括る』って顔してただろ。動物園でちゃんと気持ちを伝えて、恋人同士になって帰ってくるんじゃなかったのか?」
「…………」
航平の喉が、熱く詰まった。
言えるはずがなかった。
あんな、あまりにも無様で、あまりにも残酷で、最悪な結末を、誰かに告白することなど。
けれど、親友の逃げ場を塞ぐような真剣な眼差しを前にして、航平の心の中に張り詰めていたダムの決壊は、もはや止めることができなかった。
「……終わったんだよ」
絞り出されたのは、掠れた、絶望に塗れた一言だった。
「終わった……?」
「ああ。全部、終わったんだ……」
航平は缶コーヒーをテーブルの上に置き、両手で顔を覆った。
指の隙間から、途切れ途切れに、土曜日の出来事が溢れ出していく。
朝、文乃が三人分の素晴らしいお弁当を作ってくれたこと。
芝生の上で、三人で笑い合ってお弁当を食べたこと。
すずが迷子になって血相を変えて探し回り、迷子センターで抱きしめ合って涙を流したこと。
そして――帰り道。
「すずを背負って、夕暮れの道を歩いて……文乃さんが、隣を歩いてくれていて……本当に、夢みたいだったんだ」
航平の声が、震える。
「俺は……今夜こそ、すずが寝た後に、文乃さんに想いを伝えようと思ってた。すずの父親としてじゃなく、一人の男として、あなたが好きだって……陸の言う通り、男として腹を括って伝えるつもりだったんだ」
「おう。それで? 何がどうなったら『終わった』になるんだよ」
「……マンションのエレベーターの前で、すずが目を覚ましたんだ」
航平の呼吸が、苦しげに乱れる。
「すずが……文乃さんに向かって、言ったんだよ。『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』って……『パパとすずと、ずーっと一緒にいればいいのに』って……」
「…………」
陸の眉が、ピクリと動いた。
「俺……頭の中が、真っ白になって……」
航平は自らの頭を両手で抱え込み、床に向かって呻いた。
「すずを怒鳴って……文乃さんに平謝りして、逃げるように部屋に駆け込んでドアを閉めた。……最悪だろ? 一番言っちゃいけないことを、よりによって、俺は愛する娘の口から言わせてしまったんだよ!」
「航平……」
「子持ちの男がさ……若い独身女性にタダ飯食わせてもらって、有休まで取らせて看病させて……最後には子どもの無邪気さを盾にして、『母親になってくれ』って迫るなんて……そんなの、最低のクズのやることじゃないか!!」
航平の魂の叫びが、深夜の休憩室に木霊した。
「文乃さん、凍りついてたよ……息を呑んで、真っ青になって、声も出せないくらい怯えてた! 当たり前だよ……親切にしてあげてただけの男から、そんな重たい十字架を突然押し付けられたんだから! 『やっぱりこの親子は、私を都合のいい母親役として利用しようとしてたのか』って……そう思われたに決まってるんだ!」
「…………」
「俺……昨日から、一言も連絡できてないんだよ」
航平の瞳から、ボロボロと熱い涙が零れ落ち、ジーンズの膝を濡らしていく。
「スマホの画面を開いても……どんな言葉も言い訳にしかならない。『すずの言ったことは忘れてください』なんて送ったら、すずの純粋な気持ちを踏みにじることになる。かといって、『俺が一人の男として好きなんです』なんて今さら伝えたところで、『娘に言わせた後に慌てて取り繕ってる卑怯者』にしか見えないだろ!?」
航平は拳を握りしめ、自らの額をソファの肘掛けに打ち付けた。
「瀬戸さんに……『母親役を押し付けようとしてる』と思われたくなくて……連絡できないんだよ……! これ以上、あの人の優しい人生を汚したくない……! 俺みたいな男が、あの人の隣に立とうとしたこと自体が……最初から、間違ってたんだ……っ!」
自責と、羞恥と、絶望。
二年間、一人で娘を守り続けてきた男のプライドと倫理観が、自らを八つ裂きにするように苛み続けていた。
静寂が、リフレッシュルームを包み込んだ。
窓の外を流れる車のヘッドライトの光が、項垂れる航平の背中を、青白く照らし出している。
そんな航平の姿を、陸は――。
腕を組み、パイプ椅子に座ったまま、じっと見つめていた。
怒るでもなく、慰めるでもなく。
ただ、深く、深く、肺の中の空気をすべて吐き出すように、大きな溜息をひとつ落とした。
「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
その溜息の長さに、航平が涙に濡れた顔を力なく上げた。
陸は、頭をガリガリと掻きむしると、心底から呆れ果てたような声で口を開いた。
「お前さ」
「……え?」
「さっきから聞いてりゃよ」
陸の眼光が、ギロリと航平の顔を射抜いた。
「主語が、全部『すず』だな」
「っ……!?」
航平の息が止まった。
陸はパイプ椅子から立ち上がると、航平の目の前へと一歩踏み出し、冷徹なまでに容赦のない言葉を叩きつけた。
「すずが言った。すずの母親役。すずをダシにしてると思われたくない……お前の口から出てくる言葉、全部『すず、すず、すず』ばっかりじゃねえかよ」
「それは……すずが、俺の娘だから……」
「娘だから何なんだよ!」
陸の声が、鋭く空間を切り裂いた。
「娘が言ったから何だってんだよ! お前は父親である前に、一人の大人の男だろうが!!」
陸は航平の胸元を、人差し指で強く突いた。
「お前自身はどうなんだよ?」
「…………っ」
「すずの母親役とか、世間体とか、倫理観とか、そんな外側の皮を全部剥ぎ取った時――佐伯航平っていう一人の生身の男は、瀬戸文乃っていう一人の女を、どう思ってんだ!?」
心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃。
陸の問いは、航平が一番恐れ、一番直視することを避けてきた、己の魂の最深部を抉り抜いていた。
「すずが母親を欲しがってるから、彼女に近づいたのか? 違うだろ。すずの偏食を治してくれたから、感謝の延長で情が移っただけなのか? 違うだろ!」
陸は身を乗り出し、航平の目を逃げ場のない距離から見据えた。
「お前自身が、あの女性の手料理を食って、あの女性の笑顔を見て、あの女性の温もりに触れて……男として、惚れたんじゃないのかよ!?」
「っ…………!!!!」
「『母親役を押し付けようとしてると思われたくない』? そんなの、お前が自分を綺麗に見せたいだけの言い訳だろ! 娘の言葉を言い訳にして逃げてんのは、他でもないお前自身じゃねえかよ!!」
雷鳴のような一喝。
親友の痛烈なビンタのような正論が、航平の胸の中で渦巻いていた欺瞞と保身の壁を、粉々に叩き割っていく。
そうだ。
自分は、逃げていたのだ。
すずが言ったから。
すずの母親役に見えるから。
そうやって「娘」を主語にすることで、自分が傷つくことから、拒絶される恐怖から、必死で逃げ回っていただけだったのだ。
文乃が怯えていた?
違う。
怯えていたのは、他でもない、佐伯航平自身だったのだ。
「……航平」
陸の声が、低く、穏やかな温度を取り戻した。
「もう一度聞くぞ」
陸は航平の目をまっすぐに見つめ、静かに問いかけた。
「お前は……瀬戸文乃という女性を、どう思ってる?」
沈黙。
深夜のオフィス。
エアコンの微かな送風音だけが流れる空間で、航平の心臓が、ドクン、ドクンと激しい鼓動を打ち鳴らしていた。
脳裏に、数々の光景が駆け巡る。
初めてカボチャのそぼろ煮を届けてくれた時の、あのぎこちない笑顔。
泥だらけになって換気扇を掃除した時、お茶を淹れて「見惚れてしまいました」と真っ赤になっていた横顔。
深夜の救急外来で、冷え切った自分の手に、温かな両手を重ねてくれたあの手のひらの熱。
有休を取って看病に駆けつけ、自分の曲がったネクタイを整えて「プレゼンだけに集中してきてください」と背中を押してくれた、あの凛とした瞳。
そして――土曜日の夕暮れ。
並木道で、「夢なんかじゃありませんよ」と、世界で一番優しく微笑んでくれた、あの満開の笑顔。
胸の奥底で、熱い、熱い炎が爆発した。
父親という仮面が、粉々に砕け散る。
境界線も、世間体も、保身も、すべてが燃え盛る情熱の前に焼き尽くされていく。
航平は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、迷いの影は素粒子レベルで消え失せていた。
涙を拭い去ったその双眸の奥に宿っていたのは、深海のように静謐で、けれど触れれば骨まで灰にするほどに純粋で激しい――一人の男としての、揺るぎない覚悟の光だった。
航平の目が、据わった。
そして――。
自らの魂の底から、喉を引き裂くようにして、その言葉を紡ぎ出した。
「……好きです」
低く、地を這うような、けれど一切の揺らぎのない声。
「すずの母親が欲しいんじゃない」
航平は立ち上がった。
百八十センチを超える長身が、まっすぐに背筋を伸ばし、陸の視線を真正面から受け止める。
「家事をしてくれる人が欲しいんでもない。育児を助けてくれる便利な隣人が欲しいんでもない。……俺が、佐伯航平という一人の男として、彼女を愛してるんだ」
拳を、白くなるほど強く握りしめる。
「あの人の作るご飯が食べたい。あの人の笑顔を、一番近くで見守りたい。あの人が泣きそうになったら、俺の腕で抱きしめて守り抜きたい。……俺の人生のすべてを賭けて、瀬戸文乃という女性の隣にいたいんだ」
吐き出された、男の魂の告白。
そこには、もう一片の言い訳も、娘を盾にするような卑怯な打算も存在しなかった。
ただ、一人の生身の人間が、生涯をかけて愛し抜きたいと願う、純度百パーセントの恋情の叫びだった。
「…………」
その言葉を真っ向から受け止めた陸は、数秒間、航平の据わった目をじっと見つめ続けた。
そして――。
ニッ……と。
陸の口角が、悪戯っぽく、けれど親友としての最高の誇りを湛えて、吊り上がった。
「よし」
陸は力強く頷き、航平の胸元を、今度は手のひらでバチンと景気よく叩いた。
「合格だ、バカ野郎」
「神谷……」
「言えるじゃねえかよ。最初からそう言やいいんだよ」
陸はポケットに手を突っ込み、肩をすくめて笑った。
「だったら、今夜だ」
「今夜……?」
「当たり前だろ! 四十八時間も放置して、相手の女性がどれだけ不安になってると思ってんだ! 今すぐ帰って、男として腹括って伝えろ!」
陸はオフィスの出口へと親指を向けた。
「娘を盾にするなよ。『すずがママになってほしいって言ったから』なんて口が裂けても言うんじゃねえぞ。『俺がお前を愛してるから、俺の女になってくれ』って、お前の言葉で伝えろ!」
「……ああ」
「振られたら、潔く引っ越す準備しろよ! 俺が保証人になって次の物件探してやるからよ!」
「振られるつもりは……ない」
航平の唇から、静かな、けれど鋼のように硬い言葉が返ってきた。
その言葉を聞いた瞬間、陸は吹き出すように笑った。
「へっ……言うようになったじゃねえか。よし、今日の残りのタスクは全部俺が巻き取ってやる。さっさと帰れ、佐伯航平!」
「神谷……本当に、ありがとう」
航平は親友に向かって深々と一礼すると、振り返ることもなく、デスクへと駆け戻った。
パソコンをシャットダウンし、バッグを掴み取る。
オフィスを飛び出す航平の足取りには、先ほどまでの重たい迷いは、もう何ひとつ残っていなかった。
深夜の道玄坂を駆け下りる。
夜風が、熱を帯びた頬を冷ややかに撫で上げていく。
頭上を見上げれば、初夏の夜空の彼方から、重たく湿った雷雲の気配が、静かに、けれど確実に街へと忍び寄っていた。
逃げない。
もう二度と、自分の心から逃げたりはしない。
愛する人のもとへ。
壁一枚の向こう側で待つ、かけがえのない女性のもとへと、航平は夜の街を疾走していった。




