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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第51話:気まずい沈黙

世界からすべての音が消え去ったかのような、暴力的なまでの静寂だった。


マンション『メゾン・ド・フルール』の三階、エレベーターホールの白いLEDのダウンライトが、床のリノリウムを無機質に、残酷なほど鮮明に照らし出している。


「あやのちゃん、すずのママになってくれないの?」


その、あまりにも透き通った、何の打算も悪意も含まれていない四歳の少女の無垢な問いかけが、コンクリートの壁に反響し、今もなお空気の分子をチリチリと痺れさせていた。


佐伯航平の全身は、まるで氷点下の冷水に頭から突き落とされたかのように、完全に石化していた。


背負っていたすずの柔らかな太ももを支えていた両腕の指先が、白くなるほど強く強張っている。眼鏡の奥の切れ長な瞳は、信じられないものを見たかのように見開かれ、瞳孔が極限まで収縮していた。顔面から潮が引くように血の気が失せ、陶器のように青白く凍りついたかと思えば、次の瞬間には、首筋から耳の付け根、そして額に至るまで、沸騰したような赤みが一気に噴き上がっていく。


「っ……、す……」


航平の喉仏が、ギシギシと軋むように激しく上下した。


声が、出なかった。


呼吸が喉の奥で硬く結び目を作ってしまい、肺の中の空気がすべて凍結してしまったかのように、ただ掠れた呼気だけが唇の隙間から漏れ出る。


背中でおんぶされているすずは、父親の異様な硬直の理由が理解できないのか、首筋に小さな両手を回したまま、トトロのぬいぐるみを胸に押し当てて、きょとんとした丸い瞳で航平の横顔を覗き込んでいた。


「パパ……? あやのちゃんと、ずっと一緒にいれば――」


「す、すずッッ!!!」


突如として、静まり返っていた廊下に、雷鳴のような航平の叫びが轟いた。


それは、怒りというよりも、極度のパニックと底知れぬ恐怖に突き動かされた、悲鳴に近い絶叫だった。


ビクッと、すずの小さな肩が大きく跳ね上がった。


航平は背中のすずを半ば乱暴なほどの勢いで床へと降ろすと、激しく動揺した手つきですずの小さな肩を掴み、廊下の床に片膝をついて詰め寄った。その指先は、小刻みに、目に見えてガタガタと震えていた。


「な、何を……何を言ってるんだ、お前はッ!? 瀬戸さんに……瀬戸さんに、なんて失礼なことを言うんだ!!」


「パ……パ……?」


生まれて初めて目にする、父親の取り乱した形相。


鬼気迫るような航平の気迫に、すずの大きな瞳がみるみるうちに怯えで揺らぎ、小さな唇がへの字に歪んでいく。


だが、航平の錯乱は止まらなかった。


航平は弾かれたように立ち上がると、目の前で立ち尽くしていた文乃の顔を、直視することすらできなかった。視線を宙に激しく彷徨わせ、顔面を真っ赤に沸騰させたまま、まるで取り返しのつかない重罪を犯した罪人のように、直角に近い角度で何度も何度も頭を下げた。


「せ、瀬戸さん……っ! すみません……っ! 本当に……本当に申し訳ありませんッ!! 娘が……娘がとんでもない無礼な暴言を……っ! 子どもの……子どもの戯言ですから……忘れてください! 本当に、本当にすみませんでしたッ!!」


「あ、佐伯さん、待って――」


文乃が咄嗟に右手を伸ばしかけた。


その呼び止めを、航平は耳に入れることすらできなかった。


「ほら、すず! 入るぞッ!」


航平は泣き出しそうになっているすずの腕をほとんど抱き抱えるようにして引っ張り上げると、三〇二号室のドアノブを乱暴に押し下げた。


鍵穴に鍵をガチャガチャと覚束ない手つきで突き刺し、逃げるように自室の中へと滑り込む。


そして――。


バタンッッッ!!!


鼓膜を揺らす凄まじい重低音を立てて、三〇二号室の頑丈な鉄扉が閉ざされた。


ガチャリ。


内側から、鍵が二重に回される鋭い金属音。


続いて、チャリン、とチェーンロックがレールに掛けられる鈍い音が、廊下の静寂を断ち切るように響き渡った。


「…………」


三階の内廊下に、再び、完全なる静寂が降りてきた。


空になった二段重ねのお弁当箱が入った麻のトートバッグを肩にかけたまま、文乃は、閉ざされた三〇二号室のドアの前に、ぽつんと立ち尽くしていた。


伸ばしかけた右手は、宙を彷徨ったまま、力なく下ろされる。


心臓が、耳の奥でドクン、ドクンと激しい警鐘を打ち鳴らし続けていた。


手足の爪先から、急速に体温が奪われていくようだった。


夕暮れの並木道で感じていた、あの胸が張り裂けそうなほどの多幸感も、二つの影が寄り添って伸びていたあの優しい温もりも、すべてが幻だったかのように、冷たい現実が足元から這い上がってくる。


「……あ……」


文乃の唇から、掠れた吐息が漏れた。


すずちゃんの、あの無垢な声。


『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』


そして、その言葉を聞いた瞬間の、航平のあの凍りついた顔。


あれは、ただの照れや動揺などではなかった。


あれは――触れてはならないタブーを踏み抜かれた時の、逃げ場を失った人間が浮かべる、絶望的な拒絶の表情だった。


文乃は重たい足を引きずるようにして、三〇一号室の鍵を開けた。


部屋に入り、背後でドアを閉める。


カチャリと鍵を回した瞬間、一人分の静まり返ったワンルームが、冷え切った空気で文乃を迎え入れた。


明かりも点けず、靴も脱ぎ散らかしたまま、文乃はふらふらとキッチンのカウンターへと歩み寄った。


冷蔵庫を開け、水出しにしてあったガラスピッチャーを取り出す。


震える手でグラスに麦茶を注ぎ、カウンターの上に置いた。


けれど、それを口へと運ぶことはできなかった。


文乃は両手で、その冷たい麦茶のグラスをぎゅっと包み込んだまま、薄暗いキッチンの中に立ち尽くした。


グラスの表面に、細かな水滴がびっしりと浮き上がり、結露となった雫が、文乃の指の隙間を伝ってポタポタとカウンターの木目を濡らしていく。


時間が経つにつれて、手のひらの熱で麦茶の冷たさは失われ、生ぬるい温度へと変わっていく。


それでも、文乃はグラスを離すことができなかった。


「ママに……なってくれないの……」


声に出して呟いた瞬間、胸の奥底が、ぎゅっと握り潰されたように軋んだ。


すずの言葉を聞いた時、一瞬だけ、胸が飛び跳ねるほど嬉しかったのは事実だ。


あの子が自分をそこまで慕ってくれていること、母のない寂しさを抱えた幼い少女が、自分を「ママ」と呼びたいと思ってくれたこと。それは、文乃の女性としての本能を根底から揺さぶるほどに愛おしく、尊い響きだった。


――けれど。


その甘やかな喜びのすぐ背後から、氷のように冷たい疑念が、黒い霧となって文乃の心を覆い尽くしていった。


「佐伯さんは……どう思っているの……?」


文乃は俯き、グラスの麦茶の水面を見つめた。


月曜日の昼休み、会社の屋上で先輩の倉田佳奈に泣きついた時の記憶が、鮮烈に蘇る。


『私……あの親子にとって、何なんだろうって』


『都合のいいお隣さんに、自分からなりにいってるだけなんじゃないかって』


あの時、佳奈は「ド直球の被害妄想よ」と一喝してくれた。佐伯さんはあんたを利用するような男じゃない、あんたに甘えまいと必死で踏みとどまってるだけだと、背中を押してくれた。


文乃自身も、そう信じたかった。


金曜日の朝、有休を取って看病に駆けつけた時、自分のネクタイを整えられて涙を零していた航平の姿。


昨夜の玄関口で、タッパーを持つ文乃の手を力強く包み込み、至近距離で見つめてきた、あの男としての熱い眼差し。


あれは、嘘ではなかったはずだ。


あの人は確かに、一人の男として、文乃を見てくれていたはずだった。


――けれど、もし。


もし、それすらも、文乃の都合のいい思い込みだったとしたら?


「佐伯さんにとって、私は……」


喉の奥が、熱く引きちぎれそうだった。


佐伯航平という男は、限界だったのだ。


激務と育児の狭間で過労死寸前まで追い詰められ、娘の偏食に悩み、保育園のお迎えに怯え、精神の糸が千切れかけていた。


そんな時に、隣から都合よく現れたのが、料理が得意で、お人好しで、子どもの面倒を嫌な顔ひとつせず引き受けてくれる、瀬戸文乃という女だった。


美味しいご飯を作ってくれて、すずの偏食を治してくれて、深夜の救急搬送に付き添ってくれて、有休まで取って看病してくれる便利な隣人。


すずが懐き、家庭の温もりを補填してくれる、都合のいい存在。


もし、航平が文乃に向けていたあの感謝や熱い眼差しが、一人の女性に対する純粋な恋情などではなく――ただ「娘のために母親役を引き受けてほしい」という、父親としての切実な願望の現れに過ぎなかったのだとしたら?


『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』


すずのあの言葉に対して、航平があれほどまでに取り乱し、逃げるように扉を閉ざしてしまったのは――文乃に「母親役を押し付けようとしている魂胆」を、子どもの無邪気な口から見透かされてしまったことに、耐えられなくなったからではないのか。


「違う……そんな人じゃない……」


文乃は首を振った。


航平の誠実さを信じたい。あの不器用な優しさを、打算だと疑いたくない。


けれど、一度芽生えてしまった不安の棘は、毒のように文乃の胸の奥底をチクチクと苛み続ける。


もし、今夜、あの人が部屋に来てくれたとして。


もし、あの人が何かを伝えようとしてくれたとして。


その言葉の主語は、一体何なのだろう。


『すずのために』なのか。


それとも――『佐伯航平という男のために』なのか。


「私……ただの母親代わりになりたいわけじゃないよ……」


冷めきった麦茶のグラスを握りしめたまま、文乃の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。


すずちゃんは大好きだ。あの子のためなら、何だってしてあげたい。


けれど、それ以上に――文乃は、佐伯航平という一人の不器用な男に恋をしてしまったのだ。


母親としての役割を求められるのではなく、一人の女として、あの人に愛されたかった。


その本音が、暗いキッチンの中で、誰にも届かない悲鳴となって溶けていった。


*

壁一枚隔てた、三〇二号室。


玄関のドアを内側から乱暴に閉ざした佐伯航平は、薄暗いリビングの真ん中で、幽霊のように立ち尽くしていた。


寝室のドアは、細く開け放たれている。


ベッドの上では、すずが小さな背中を丸め、トトロのぬいぐるみを抱きしめたまま、微かな寝息を立てていた。


部屋へ飛び込んできた直後、すずは廊下でパパに怒鳴られたショックから、大粒の涙をポロポロと零してしゃくりあげていたのだ。


『すず、わるいこと言ったの……? あやのちゃんのこと、すきって言っちゃダメだったの……?』


泣きじゃくる娘の小さな身体を、航平はただ無言でパジャマに着替えさせ、涙を拭いてやり、ベッドへと横たえることしかできなかった。


『……すずは悪くない。パパが……パパが悪かったんだ。ごめんな、すず』


それだけを掠れた声で告げると、すずは一日中の疲れと泣き疲れた反動で、吸い込まれるように深い眠りの中へと落ちていった。


そして今。


航平は、明かりの点いていない真っ暗なリビングのソファの上に、崩れ落ちるように腰を沈めていた。


ドサリ。


重たい音を立てて身を投げ出し、両手で顔を覆う。


指先が、激しく痙攣していた。


「…………っ、最悪だ」


暗闇に落とされたその呟きは、呪詛のように重く、深い絶望に塗れていた。


「最悪だ……っ! 何やってるんだ、俺は……っ!!」


航平は指先を自らの髪に深く突っ込み、頭皮が引きちぎれるほど強く、ギリギリと掻きむしった。


脳裏に、先ほどのエレベーターホールの光景が、地獄の業火のように鮮烈に焼き付いて離れない。


『あやのちゃん、すずのママになってくれないの?』


あの無垢な、透き通ったすずの声。


そして――その言葉を聞いた瞬間の、瀬戸文乃の表情。


あの、息を呑み、血の気を失い、凍りついたように見開かれた大きな瞳。


「すずに……あんなことを、言わせてしまった……」


航平の喉から、血を吐くような呻きが漏れ出た。


子持ちの、バツイチの男が。


他人の若い独身女性に対して、もっとも言ってはならない、もっとも暴力的な要求。


それを、自分の愛する娘の口から、真正面から突きつけてしまったのだ。


航平は月曜日の朝、渋谷の非常階段で親友の神谷陸から胸ぐらを掴まれた時の言葉を、痛切に思い出していた。


『男なら、腹括れ』


『すずの父親としてじゃねえ。一人の男として、瀬戸文乃っていう女に、自分の気持ちを全部伝えろ』


『娘を盾にするな!』


そうだ。


自分は、腹を括ったはずだったのだ。


すずの母親を探しているのではない。家事や育児の負担を押し付けるための家政婦を探しているのでもない。


佐伯航平という一人の生身の男として、瀬戸文乃という女性を魂の底から愛してしまったのだと。


今夜、すずが寝た後、自分の言葉で、自分の責任で、その想いのすべてを告白する覚悟を決めていたはずだった。


それなのに。


結果はどうだ。


自分の口から想いを伝えるよりも前に、最愛の娘が、一番無邪気で無防備な形で、『ママになって』と言い放ってしまった。


これでは、あの最低の構図そのものではないか。


――娘を盾にして、若い女性に母親役を押し付けようとする、無神経な子持ち男。


――タダ飯を食わせてもらい、看病までさせておいて、最後には子どもの無邪気さを人質にして、女性の人生を自分たちの泥沼に縛り付けようとする寄生虫。


文乃が、どれほど怯えただろう。


どれほど失望し、どれほどの恐怖を感じただろう。


『やっぱりこの親子は、私を都合のいい母親役として見ていただけだったのか』


『親切にしてあげていたのに、私の人生を奪う気だったのか』


そう思われたに違いない。


あんなふうに絶句して立ち尽くしていた文乃の姿が、その証拠だった。


「……何が、今夜二人で話せますか、だ」


航平は自嘲するように唇を歪め、暗いリビングの天井を仰いだ。


合わせる顔など、あるはずがない。


今さら隣のチャイムを鳴らして、『さっきの娘の言葉は忘れてください、僕が一人の男としてあなたを好きなんです』などと告白したところで、誰が信じるというのか。


娘に言わせた後に慌てて取り繕っているだけの、見苦しい言い訳にしか聞こえないではないか。


「俺は……どこまで、あの人を傷つければ気が済むんだ……」


航平は拳を硬く握りしめ、自らの膝の上に強く叩きつけた。


守りたかった。


あの人の笑顔を、あの人の温かな手を、誰よりも大切に守り抜きたかったはずなのに。


結局、自分たちの存在そのものが、彼女の平穏な生活を脅かし、恐怖と負担を背負わせるだけの呪いになってしまっている。


暗闇の中、時計の秒針がチクタクと冷酷に時を刻んでいく。


壁一枚。


十数センチのコンクリートの向こう側に、今、彼女がいる。


あんなにも近くにいるのに、その距離は、宇宙の果てよりも遠く、冷たく感じられた。


*

夜の十時半を過ぎた頃。


三〇一号室の薄暗いベッドサイドで、文乃はスマートフォンの青白い光を見つめていた。


部屋の明かりは間接照明だけが点けられ、室内には重苦しい沈黙が淀んでいる。


画面に表示されているのは、メッセージアプリのトーク画面。


相手の名前は、『佐伯航平』。


テキスト入力欄には、すでに何度も打ち込んでは消したメッセージの残骸があった。


『航平さん、すずちゃんは大丈夫でしたか?』


『さっきのすずちゃんの言葉、私は全然気にしていませんから』


『もしよかったら、少しだけお話しできませんか?』


文字を打っては、指が止まる。


デリートキーを連打して、すべてを白紙に戻す。


――気にしていません、なんて嘘だ。


あんなに胸が張り裂けそうなほど動揺しておいて、平気な顔をしてそんなメッセージを送るなんて、あまりにも不誠実だ。


それに、『少しだけお話しできませんか』と送れば、まるで自分から「さっきのママ発言の返事をさせてください」と催促しているように見えてしまうのではないか。


「……送れないよ」


文乃はスマートフォンをシーツの上に伏せ、深く、苦しい息を吐き出した。


何ひとつ、文字にすることができない。


そして――。


壁の向こう側、三〇二号室の暗いリビングでも。


航平が、青白く光るスマートフォンの画面を、血走った目で見つめ続けていた。


トーク画面を開く。


入力欄に、震える指先で文字を打ち込む。


『瀬戸さん、先ほどは本当に申し訳ありませんでした』


『すずの言ったことは、僕の監督不行届です。瀬戸さんに母親役を押し付けるような意図は断じてありません』


『どうか、僕たちを嫌いにならないでください』


打ち込んだ文章を見つめ、航平は奥歯をギリリと噛み締めた。


違う。


こんな事務的な謝罪の言葉を送りたいわけじゃない。


こんな保身に満ちた言い訳を並べ立てて、一体何になるというのか。


けれど、『僕はあなたが好きです』という本音の言葉は、今のこの状況では、あまりにも卑劣で、あまりにも残酷な暴力にしかならない。娘の言葉を肯定し、都合よく利用しているようにしか受け取られないのだ。


航平は激しい自己嫌悪とともに、バックスペースキーを長押しして、すべての文字を消去した。


画面が、暗転する。


航平はスマートフォンをテーブルの上に放り投げ、暗闇の中で両手で頭を抱え込んだ。


壁一枚隔てた、二つの部屋。


スマートフォンの画面を開いては閉じ、文字を打っては消し、どちらからも最初の一言を踏み出すことができないまま。


昼間の動物園のあの眩い青空が、まるで遠い前世の記憶であったかのように。


重く、冷たく、息の詰まるような沈黙だけが、二人の大人の夜を、どこまでも果てしなく、残酷に飲み込んでいった。

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