第50話:すずの爆弾発言
自動ドアをくぐった瞬間、マンション『メゾン・ド・フルール』のエントランスホールには、昼間の熱気とは対照的な、ひんやりとした静寂が満ちていた。
大理石調のタイル貼りの床に、三人の足音が静かに吸い込まれていく。
正面のガラス壁の向こう側、中庭の植え込みは夜の帳に包まれ、初夏の夜風に揺れる笹の葉が、街灯の光を浴びて淡い銀色の影を落としていた。管理人室の小窓はすでにカーテンが引かれており、掲示板の電球だけが、エントランスホールの奥を控えめな琥珀色で照らし出している。
午後七時。
都心から電車に揺られ、夕暮れの並木道を歩いて辿り着いた、いつものマンション。
けれど、朝にここを出発した時とは、三人の心に流れる空気の質は、まるで違うものになっていた。
佐伯航平の背中には、依然としてすずが預けられたままだった。
ウサギの耳がついたピンクのリュックサックを背負い、右手にはしっかりとトトロのぬいぐるみを抱え込んだまま、四歳の少女は父親の広い背中に小さな顎をちょこんと乗せ、規則正しい浅い呼吸を繰り返している。
迷子センターで泣きじゃくったあとの深い眠りは、駅から歩いてくる間も一度として途切れることはなかった。
航平は、すずの太ももを支える両腕の位置をわずかに持ち上げ、背中の重みをしっかりと確かめた。
その隣を、瀬戸文乃が静かに歩く。
空になった二段重ねのお弁当箱が入った麻のトートバッグを肩にかけ、靴擦れがジンジンと熱を帯びる右足を庇いながら、航平の歩幅に合わせてゆっくりと並んで進む。
エレベーターホールの前に立ち、航平が上りボタンを指先で押した。
――ピロン。
澄んだ電子音が静まり返ったホールに響き、ステンレス製の扉が静かに左右へと開いた。
三人は、吸い込まれるように箱の中へと足を踏み入れた。
鏡と手すりがしつらえられた、狭い密閉空間。
航平が『3』のボタンを押し、扉が重たい音を立てて閉ざされた瞬間、外の世界の気配は完全に遮断され、エレベーターの中には、モーターの微かな唸り音と、三人の呼吸の音だけが満ちた。
「…………」
「…………」
並んで立つ二人の距離は、わずか数十センチ。
航平のサマーニットの袖と、文乃のカーディガンの裾が、エレベーターが上昇を始めた微かな揺れの拍子に、カサリと小さく触れ合う。
触れ合った布地越しに、互いの確かな体温の残熱が、静かに伝わってくる。
文乃は、正面の扉のステンレスにぼんやりと映り込む二人の姿を見つめていた。
背中に娘を背負い、静かに前を見据える長身の男。
そして、そのすぐ隣に寄り添うように立つ、自分自身の姿。
夕暮れの並木道で、あの人が口にした言葉が、今も耳の奥で熱いエコーとなって木霊していた。
『すずが笑って……瀬戸さんが、笑ってくれて。……まるで、夢の中にいるみたいでした』
そして、自分が返した言葉。
『夢なんかじゃ、ありませんよ。……これからも、ずっと』
あの一言を口にした瞬間、二人の間に横たわっていた最後の防壁は、音を立てて崩れ去ったはずだった。
今夜、すずが寝た後、二人で話す。
昨夜の玄関口で交わしたあの約束の刻限が、エレベーターのインジケーターが『1』から『2』へと切り替わるたびに、一秒、また一秒と、決定的な速度で近づいてきている。
文乃の胸の奥底で、心臓がトクン、トクンと、痛いほどの重たい鼓動を打ち鳴らし続けていた。
――ピン、ポーン。
短い到着音とともに、エレベーターが三階フロアへと滑り込み、減速した。
ガチャン、と左右に扉が開く。
外の共用廊下は、住人の気配のない静寂に包まれていた。
三人がエレベーターホールから一歩外へと踏み出した、その瞬間だった。
パッ――。
人感センサーが反応し、三階の内廊下の天井に埋め込まれたダウンライトが一斉に点灯した。
白く清潔なLEDの光が、フロア全体をパッと明るく照らし出す。
その光の刺激が、航平の背中で深く微睡んでいた少女の薄い瞼へと、容赦なく届いた。
「…………ん……」
航平の首筋に埋められていた小さな頭が、もぞりと動いた。
「すず……?」
航平が足を止め、肩越しに背中へと声をかける。
すずは、ふかふかの枕から引き剥がされた子猫のように、小さな顔を航平のサマーニットの背中に擦り付けた。
そして、小さな左手で、ぎゅっと自分の右目を擦りながら、長くて湿り気を帯びた睫毛を、パチパチとゆっくり瞬かせ始めた。
「……んぅ……パパぁ……?」
掠れた、舌足らずな寝起きの声。
すずの焦点の定まらない丸い瞳が、白く照らされた廊下の壁と、見慣れた非常口の緑色のプレートを、ぼんやりと見つめている。
文乃は痛む足を忘れ、すずの顔の横へとそっと回り込み、目線を合わせるように優しく微笑みかけた。
「すずちゃん、おはよう。よく眠れたね」
「……あやの、ちゃん……?」
すずはトトロのぬいぐるみを抱き直すと、少しずつ覚醒していく頭の中で、周囲の情景を認識し始めた。
電車のシートでも、動物園の芝生でもない。
自分が今いる場所が、見慣れたマンションの三階の廊下であること。
そして――目の前に、三〇一号室と三〇二号室の、二つの頑丈な鉄の扉が並んでいることに、少女の意識が完全に追いついた。
「おうち……?」
「そうだよ、すず。おうちに着いたんだぞ」
航平が優しく背中を揺すり、穏やかな父親の声で告げた。
「今日は一日中、いっぱい歩いて、いっぱい走ったからな。すず、よく頑張ったな」
「うん……すず、おっきいキリンさん、みたの。お弁当も、いっぱい食べたの……」
「ふふ、美味しかったねぇ。タコさんウインナーも、唐揚げも、ぜーんぶ綺麗に食べてくれて、お姉ちゃんすっごく嬉しかったよ」
文乃は愛おしそうに目を細め、すずの汗ばんだ額にかかる柔らかな前髪を、指先でそっと払ってあげた。
すずの肌はサラサラとしていて、先週のあの恐ろしい熱の面影はどこにもない。
無事に帰ってこられた。
迷子になって心臓が止まるかと思ったけれど、こうして三人で、何ひとつ欠けることなく、笑顔でこの三階まで戻ってくることができたのだ。
文乃は胸を撫で下ろし、今夜の約束を胸に秘めながら、まずはこの愛らしい少女との、いつもの別れの挨拶を口にした。
「すずちゃん、今日はいっぱい遊んで疲れたでしょう? パパとお風呂に入って、温かいお布団でゆっくりねんねしてね」
「……あやのちゃん?」
「うん?」
「あやのちゃん、ばいばいなの……?」
すずの丸い瞳が、不安そうに揺れた。
文乃は柔らかく口元を緩め、すずの小さな頬を優しく撫でた。
「うん。お姉ちゃんはお隣のお部屋に帰るから、ばいばいね。……また明日、会おうね」
いつもの、日常のフレーズ。
毎日、玄関先でタッパーを受け渡した後に交わしてきた、何気ない隣人同士の別れの言葉。
すずもいつもなら、「うん、またあしたね!」と元気に小さな手を振り返し、パパの手を引っ張って三〇二号室のドアへと向かっていたはずだった。
けれど――。
今夜のすずは、違っていた。
「…………」
すずは手を振らなかった。
航平の背中から降りようともせず、文乃の顔と、三〇一号室のドアとを、じっと見比べた。
その小さな胸の中に、今日一日を通して蓄積されてきた、無数の感情が渦巻いていた。
朝、あやのちゃんと並んで乗った特急列車の、あの温かな空気。
芝生の上で、あやのちゃんが作ってくれた世界一美味しいお弁当を、三人で囲んで笑い合った、あの陽だまりのような時間。
キリン舎ではぐれて、赤い風船を見失い、見知らぬ人混みの中で「パパ、あやのちゃん」と泣き叫び、暗闇に飲み込まれそうになった、あの底知れぬ恐怖。
そして――迷子センターの冷たい部屋に、血相を変えて飛び込んできて、自分を壊れそうなほど強く抱きしめて泣いてくれた、パパとあやのちゃんの温もり。
あの時、三人は確かに一つだったのだ。
パパがあやのちゃんの手を握り、あやのちゃんがパパの背中に手を添えて、自分を真ん中に抱きしめてくれた。
世界で一番大好きなパパと、世界で一番大好きなあやのちゃんが、ずっと一緒にいてくれた。
それなのに。
どうして――。
「…………」
すずの眉が、きゅっと寄せられた。
航平の首筋に回されていた小さな両腕に、ぎゅううっと、強い力が込められた。
航平の首を抱きしめたまま、すずは首をかしげ、純粋で、一片の濁りもない透き通った瞳で、父親の横顔をじっと見つめた。
そして。
静まり返った三階の共用廊下に、鈴を転がすような、無邪気で透き通った声が、ポツリと落ちた。
「……パパ」
「ん? どうした、すず?」
航平が優しく首を傾げ、娘の顔を覗き込んだ。
すずは、迷いのない小さな唇を開いた。
「……どうして、あやのちゃんは、別のお部屋に行くの?」
「え……?」
航平の足が、ピクリと止まった。
航平は困惑したように眉尻を下げ、苦笑いを浮かべた。
「どうしてって……瀬戸さんのお部屋は、お隣の三〇一号室だからだよ。瀬戸さんにも、自分の生活があるんだから――」
「やだ」
すずの声が、ピシャリと父親の言葉を遮った。
ぐずるような声ではない。
駄々をこねるような金切声でもない。
ただ、心の底から湧き上がってきた絶対の疑問を、そのまま口にしたような、澄み切った確信の響き。
すずは航平の首筋を抱きしめたまま、小さな顔をぐっと父親の頬へと近づけた。
そして――。
大人二人が、ここ数ヶ月間、どれほど心を砕き、どれほど悩み抜き、どれほど血を流しながら守り続けてきた境界線のすべてを。
木っ端微塵に粉砕する、超弩級の『爆弾』を、あまりにも無防備に、無邪気に、投下した。
「パパ」
「……え?」
「あやのちゃん、すずのママになってくれないの?」
「っ…………!?!?!?」
時間が。
大気そのものが。
世界中のすべての音が、一瞬にして、完全に消滅した。
息を吸い込むことすら許されない、完全なる絶対零度の真空。
だが、すずの無垢な言葉は、そこで止まりはしなかった。
すずは航平の首にしがみついたまま、今度は視線を文乃の方へと向け、愛らしく小首を傾げながら、天使のように残酷な純粋さで、自らの願いを重ねたのだ。
「すずね、パパとあやのちゃんと、ずーっと一緒にいたい」
「…………っ」
「どうして、お隣のお部屋に行っちゃうの? あやのちゃんがすずのママになったら、パパとすずと、ずーっとずーっと、同じお部屋にいられるのに」
「…………っっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!」
言葉が、廊下の白い壁に反響した。
ママ。
すずのママになってくれないの?
ずーっと一緒にいればいいのに。
幼児の、何の打算も悪意もない、ただ純粋に「大好きな人と一緒にいたい」というだけの、本能の叫び。
その一言が落ちた瞬間。
佐伯航平という男の肉体は、文字通り、足の爪先から頭の天辺に至るまで、完全に石化した。
「…………っ、あ……」
航平の喉から、掠れた、空気の抜けるような呼気だけが漏れた。
見開かれた切れ長な瞳の瞳孔が、極限まで収縮し、呼吸が完全に停止している。
抱きかかえているすずの足を支える腕の筋肉が、鉄のように硬直したまま、ピクリとも動かない。
顔面からは、潮が引くように一瞬で血の気が失せ、陶器のように真っ白に凍りついたかと思えば、次の瞬間には、首筋から耳の付け根、そして顔全体へと、沸騰したマグマのような猛烈な赤みが一気に噴き上がっていた。
脳が、完全に思考を拒絶していた。
神谷陸から非常階段で胸ぐらを掴まれ、『娘を盾にするな、男として腹を括れ』と最後通告を叩きつけられたばかりだった。
すずの父親としてではなく、一人の男として、今夜、文乃に想いを告げようと心に誓っていたはずだった。
娘の母親役を探しているのではない。
自分という男が、瀬戸文乃という女性を愛しているのだと、自分の言葉で伝える覚悟を決めていたはずだった。
それなのに。
そのすべての覚悟と段取りを、最愛の娘が、一番無邪気で、一番無防備な形で、白日の下に引きずり出してしまったのだ。
――子どもに、言わせてしまった。
――よりによって、娘の口から、『ママになって』と言わせてしまった……!
その罪悪感と、羞恥と、絶望的なパニックが、航平の理性を木っ端微塵に粉砕していた。
そして――。
航平の目の前で、立ち尽くしていた瀬戸文乃もまた。
「っ…………!!!!」
全身の血液が、心臓に向かって逆流するかのような、凄まじい衝撃に貫かれていた。
ドクンッッッッ!!
心臓が、肋骨を内側から突き破るのではないかというほどの激痛を伴って跳ね上がった。
視界が、真っ白にスパークする。
呼吸ができない。
肺の中の空気がすべて奪われ、膝の関節がガクガクと音を立てて震えそうになる。
ママ。
すずちゃんが、私に。
ママになってくれないの、と。
その言葉の破壊力は、文乃の人生の中で経験したどんな言葉よりも、遥かに重たく、鋭く、そして甘美で残酷だった。
嬉しい、と思った。
胸が張り裂けそうなほどに、その無邪気な言葉が、文乃の心の最深部に突き刺さって、涙が出そうになるほど愛おしかった。
けれど同時に――。
月曜日の昼休み、屋上のベンチで倉田佳奈に吐露した、あの冷たい恐怖が、フラッシュバックのように脳裏をかすめた。
――私は、あの親子にとって、何なんだろう。
――母親代わりとして、都合のいいお隣さんとして、求められているだけなのだろうか。
すずちゃんは、母親が欲しいのだ。
美味しいご飯を作ってくれて、頭を撫でてくれて、一緒にいてくれる「ママ」という記号を、目の前にいる文乃に重ね合わせているだけなのではないか。
そして、航平さんは――?
航平さんは今、どんな思いでこの言葉を聞いているのだろう。
文乃の震える視線が、石のように硬直したままの航平の顔へと向けられた。
航平の瞳は、激しい苦悶と、動揺と、そして恐怖の色に染まりきっていた。
目が合わない。
いつもなら、至近距離で見つめ合っていたはずのあの熱い瞳が、すずの言葉の重圧に押し潰され、絶望的な色を宿して彷徨っている。
沈黙。
三階の内廊下に、冷たい初夏の風が吹き抜けていく。
大人の男女二人が、顔を真っ赤に染め上げ、息を詰まらせて硬直したまま、一言も言葉を発することができない。
ただ、父親の背中で首を傾げるすずの、無垢で純粋な丸い瞳だけが。
大人たちが築き上げてきた、あの不器用で誠実で、脆く美しい境界線の残骸を、静かに見つめ続けていた。
逃げ道は、完全に断たれた。
誤魔化すことも、笑って受け流すことも、もはや誰にも許されない。
ひとつの無垢な問いかけが、二つの部屋の間に横たわっていた『お隣さん』という名の最後の防壁を、跡形もなく、粉々に打ち砕いてしまったのだった。




