第49話:帰り道の夕暮れ
西の地平線に沈みかけた太陽が、初夏の空を圧倒的な茜色と濃密な琥珀色のグラデーションで染め上げていた。
郊外の動物園から都心へと戻る特急列車の車窓を流れていた景色は、いつの間にか見慣れた私鉄沿線の住宅街へと変わり、最寄り駅の改札を抜けた頃には、街全体が長い夕暮れの影に包まれていた。
駅前ロータリーの喧騒を離れ、マンション『メゾン・ド・フルール』へと続く、緩やかな上り坂のケヤキ並木道。
初夏の乾いた風が、青々と茂るケヤキの葉をサワサワと揺らし、アスファルトの上に木漏れ日の影絵を揺らめかせている。道行く人々はまばらで、夕食の買い出しを終えた近隣の住人たちが、穏やかな足取りですれ違っていくだけの、静かで心地よい黄昏時だった。
その並木道を、三人は、一歩、また一歩と、ゆっくりとした歩調で歩いていた。
佐伯航平の背中には、すっかり眠りこけた四歳の娘――すずが、おんぶされていた。
迷子センターの救護室であれほど激しく泣きじゃくり、航平と文乃の胸の中で涙を枯れ果てるまで零したすずは、動物園の南門を出る頃には、もう自分の足で歩く体力を完全に失っていた。
航平が背を屈めて「おいで」と腕を広げると、すずはウサギの耳がついたピンクのリュックを背負ったまま、小さな両腕を父親の首筋に巻きつけ、背中にぺたりと身を預けたのだ。
特急列車のシートでも一度も目を覚まさず、駅からここまでの道のりも、すずはずっと航平の広い背中に額を預け、規則正しい穏やかな寝息を立て続けていた。
「すー……、すー……」
小さな、温かい吐息が、航平のサマーニットの首元をくすぐるように漏れている。
すずの小さな両手は、今朝家を出る時から片時も手放さなかった灰色のトトロのぬいぐるみを、眠りの中でもぎゅうぎゅうと胸元に抱きしめたままだった。
泣き腫らして真っ赤になっていた瞼は、夕暮れの柔らかな光を浴びて静かに閉じられ、小さな唇が「ん……」と微かに動く。
その重みは、四歳児の確かな生命の重みであり、航平が自らの命を削ってでも守り抜かなければならない、かけがえのない魂の質量だった。
航平のすぐ隣を、瀬戸文乃が並んで歩いていた。
空になった二段重ねの大きなお弁当箱が入った麻のトートバッグを肩にかけ、初夏の風にアイボリーのサマーカーディガンの裾をふわりと揺らしている。
足元のアスファルトの上。
夕陽が背後から長く斜めに差し込むため、二人の影が、驚くほど細長く伸びて、並木道の前方へと寄り添うように寄り添っていた。
長身の航平の影の肩口に、すずの小さな頭の丸い影が重なり、そのすぐ隣に、文乃の華奢なシルエットが並んでいる。
影と影の肩先は、風が吹くたびに微かに触れ合い、まるで一本の太い筆で描かれたかのように、ひとつに溶け合っていた。
「…………」
沈黙が、二人の間を穏やかに満たしていた。
それは、気まずい沈黙では決してなかった。
昼下がりのあの凄まじい混乱と恐怖――キリン舎の人混みの中で娘を見失い、心臓が凍りつき、血相を変えて広大な園内を疾走したあの極限の十五分間。
そして、南門の迷子センターで無事な娘の姿を見つけ、床に膝から崩れ落ちて号泣し、三人が折り重なるように抱き合って体温を確かめ合った、あの決定的な瞬間。
張り詰めていた神経のすべてを使い果たし、感情の波を極限まで押し流したあとの、心身を包み込む心地よい疲労感と、深い深い安堵の静寂だった。
ふと、文乃の足取りが、わずかに乱れた。
「っ……」
ほんの一瞬、眉根をキュッと寄せ、右足の重心を庇うようにして歩幅を小さくした。
すずを探してアスファルトの坂道を全力疾走した際、普段履きのフラットサンダルのストラップが皮膚に激しく擦れ、かかとと小指の皮が破れてしまっていたのだ。靴擦れの鋭い痛みが、アドレナリンの切れた足元に、ジンジンと熱い脈動を伴って蘇りつつあった。
航平に心配をかけまいと、痛みを表情に出さずに歩いていた文乃だったが――。
サッ……。
隣を歩く航平の歩調が、すっと緩められた。
航平は文乃の歩幅に合わせて自らの歩幅を半分ほどに狭め、坂道の傾斜が緩やかな歩道の内側へと、自然な体の向きで文乃を誘導した。
「文乃さん」
低く、暖炉の火のように柔らかな航平の声。
「足……痛みますか?」
「え……?」
文乃が小さく目を瞬かせると、航平は立ち止まることなく、けれど申し訳なさそうに視線を文乃の足元へと落とした。
「さっきの駅の階段を降りる時から、右足を少し庇うように歩かれていたので。……あの時、僕を探して、園内を全速力で走ってくださったからですよね」
「あ……いえ、たいしたことないんです。ちょっと靴擦れができちゃっただけで……」
「無理をしないでください。……もっと早く気づくべきでした。本当に、気が利かなくてすみません」
「そんなことありません! 航平さんこそ、ずっとすずちゃんをおんぶしていて……腕や腰、痛くありませんか?」
「大丈夫です。男ですから、これくらいの重みは何ともありません」
航平は背中のすずをキュッと持ち上げ、抱え直した。
その横顔には、疲労の色こそ濃く滲んでいたものの、どこか憑き物が落ちたような、清々しい穏やかさが漂っていた。
ケヤキの並木道が、夕暮れの茜色から、さらに深い紫紺のグラデーションへと色を変えていく。
街灯がポツポツとオレンジ色の明かりを灯し始め、初夏の夕暮れの匂いが、二人の間を吹き抜けていく。
航平は、ふと足を止めた。
マンションの敷地へと続く最後の横断歩道の手前。並木道の木陰が途切れ、夕陽の残光が真っ直ぐに二人の足元を照らし出す場所だった。
航平は背中のすずが目を覚まさないよう、静かに身体の向きを変え、文乃の方へと向き直った。
「文乃さん」
その声音は、先ほどまでの穏やかな調子から、改まった深い響きを帯びていた。
航平は背筋を真っ直ぐに伸ばし、文乃の瞳を、真正面からじっと見つめ据えた。
そして――。
深く、腰を折るようにして、頭を下げた。
「……瀬戸さん」
「え……?」
急に呼び名が、あの改まった「瀬戸さん」へと戻されたことに、文乃の心臓がトクンと小さく跳ねた。
航平は頭を下げたまま、一言一言を魂から絞り出すように、重々しく言葉を紡ぎ出した。
「瀬戸さん。……今日は、本当に……すずを見つけてくださって、ありがとうございました」
「航平さん……」
「そして……僕たちの身勝手なわがままに、一日中付き合わせてしまって……本当に、申し訳ありませんでした」
その謝罪の言葉の奥底には、単なる社交辞令などではない、底知れぬ自責と、痛切なまでの感謝が込められていた。
「ジュースを買う、ほんの十秒の隙でした。僕が……僕が父親でありながら、油断してすずの手を離してしまった。もし、あのままあの子が遠くへ行ってしまっていたら……もし、事故に遭っていたらと思うと、今でも心臓が凍りつきそうになります」
航平の喉が、苦しげに痙攣した。
「パニックになって、周りが見えなくなっていた僕を、瀬戸さんが叱咤して、正気に戻してくれた。的確に迷子放送の手配をして、痛む足で園内中を走り回ってくれた……。瀬戸さんがいてくださらなければ、僕は……僕は今日、すずを取り戻すことができなかったかもしれません」
「…………」
「それだけじゃありません」
航平はゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の切れ長な瞳には、夕陽を反射した切ない光とともに、熱い涙の膜が張っていた。
「早起きして、あんなに素晴らしいお弁当を作ってくださって……すずの大好きなものを全部詰め込んで、偏食のあの子が笑顔で野菜を完食できるように、あんなに心を砕いてくださって。……なのに、僕の不注意で、瀬戸さんにどれほどの恐怖と負担を背負わせてしまったか……。感謝してもしきれませんし、同時に、申し訳なさで胸が張り裂けそうです」
航平の言葉は、どこまでも誠実で、どこまでも愚直だった。
この男は、いつでもそうだ。
どんな時も、自分の苦労や疲労は二の次にして、他人の時間と労力を尊重し、自分の至らなさを責めて頭を下げ続けてきた。
そんな航平の姿を見つめながら、文乃の胸の奥底に、熱い熱い感情の塊が込み上げてきた。
文乃は一歩、航平の前へと踏み出した。
そして、首を大きく、強く横に振った。
「謝らないでください、佐伯さん」
文乃の声は、低く、けれど澄み切った力強さを持って響いた。
航平がハッとして目を見張る。
「謝るなんて、絶対にやめてください」
文乃は潤んだ瞳で、航平の目をまっすぐに見つめ返した。
「私も……すずちゃんがいなくなった時、自分の心臓が止まるかと思いました」
「瀬戸さん……」
「怖かったんです。あんなに美味しくお弁当を食べて、笑ってくれていたすずちゃんが、もし……もし二度と戻ってこなかったらどうしようって……。足の痛みなんて、本当に気づかないくらい、喉が千切れるくらい名前を叫んで……」
文乃の目から、夕陽に照らされた大粒の雫が、ポロリと頬を伝って零れ落ちた。
「迷子センターで見つけた時、すずちゃんを抱きしめた時……私、生きててよかったって、心の底から思いました。……だから、迷惑だなんて一ミリも思っていません。付き合わされたなんて、これっぽっちも思っていません」
文乃は胸元をぎゅっと手で押さえ、自らの心の最深部にある本音を、逃げずに航平へと差し出した。
「すずちゃんが無事でいてくれたこと。……それだけで、私の今日のすべてが、何物にも代えがたい宝物なんです。だから……もう二度と、自分を責めて謝ったりしないでください、佐伯さん」
「…………っっっ」
航平の喉仏が、激しく上下した。
言葉が出なかった。
他人の独身女性に背負わせてしまった重たい十字架。それを、この女性は「宝物だ」と言って、全身全霊で肯定し、抱きとめてくれたのだ。
夕暮れの風が、ケヤキの葉をサワサワと揺らし、二人の間を通り抜けていく。
航平は背中のすずを、そっと、落とさないように少しだけ持ち上げた。
すずは背中で「ん……」と微かに身じろぎをし、トトロを抱いたまま、さらに深く航平の首元へと顔を埋めた。
航平は並木道の向こう、夕暮れに染まる街並みを見つめながら、ぽつりと、噛み締めるように呟いた。
「……僕」
「え……?」
「僕、今日……本当に、楽しかったんです」
その声の響きに、文乃の息が止まった。
航平は街を見つめたまま、少年のように不器用な、けれどあまりにも純粋な笑みを口元に浮かべていた。
「朝、電車に乗って……向かい合わせの席ですずが楽しそうに歌って、隣に瀬戸さんがいて。……広場の芝生の上にシートを広げて、瀬戸さんの作ってくださったあのお弁当を三人で囲んで」
航平の瞳が、夕陽の残光を浴びて、キラキラと眩しそうに細められる。
「すずが、星型の人参を誇らしげに見せてくれて……唐揚げを食べて『美味しい!』って跳び跳ねて。瀬戸さんが、すずの口元の米粒を優しく拭ってくれて……三人で笑い合って」
航平の喉が、熱く詰まった。
そして、自らの魂の奥底から溢れ出してきた言葉を、祈るように口にした。
「すずが笑って……瀬戸さんが、笑ってくれて」
「航平さん……」
「……まるで、夢の中にいるみたいでした」
「…………っ!」
文乃の胸の奥底が、ぎゅっと、引きちぎれるほどに締め付けられた。
夢の中にいるみたいでした。
その言葉を口にした航平の横顔。
茜色に染まる夕陽を浴びて、影を落としたその彫りの深い端正な顔立ち。
それは――息を呑むほどに美しく、どこか今にも夕暮れの光の中に溶けて消えてしまいそうなほどに儚く。
けれど同時に――。
二年間、一人で孤独に耐え抜いてきた父親の仮面を完全に脱ぎ捨てた、佐伯航平という一人の生身の男としての、激しく、切実な熱を、確かに帯びていたのだ。
この人は、ずっと望んでいたのだ。
誰かと食卓を囲み、誰かと笑い合い、愛する娘の成長を共に喜び合える、温かな日常を。
けれど、自分の過去の失敗と、過度な責任感ゆえに、「自分にはそんな幸せを望む資格はない」と、自らに冷酷な呪いをかけ続けていたのだ。
だからこそ、今日のこの眩いばかりの時間が、まるで触れれば消えてしまう幻の『夢』のように思えて仕方がなかったのだ。
――そんなこと、絶対にさせない。
文乃の胸の奥底で、熱い熱い感情が爆発した。
幻になど、させるものか。
夢のまま、終わらせてたまるものか。
文乃は一歩、航平の隣へと寄り添った。
触れ合えば吐息がかかるほどの距離。
文乃は立ち止まったままの航平の顔を、下から真っ直ぐに見上げた。
その瞳には、夕陽の輝きをすべて集めたかのような、揺るぎない、圧倒的な慈愛と覚悟の光が満ちていた。
文乃は、唇を柔らかく綻ばせた。
世界で一番優しく、世界で一番力強い、満開の笑顔。
そして、静かに、けれど二度と消えない確信を込めて、告げた。
「……夢なんかじゃ、ありませんよ」
「…………っ」
航平の瞳が、大きく見開かれた。
「すずちゃんが食べた唐揚げの味も、三人で歩いた動物園の道も……今、こうして並んで歩いているこの夕暮れの風も」
文乃は自らの胸に手を当て、航平の目を逃げずに見つめ続けた。
「全部、本当のことです。……私たちが、三人で一緒に過ごした、確かな現実です」
文乃の声は、どこまでも澄み渡っていた。
「だから……夢なんかじゃありません。……これからも、ずっと」
「瀬戸、さん……」
航平の唇が、震えた。
夕暮れの風が、二人の髪をふわりと撫で上げていく。
航平の背中で、すずが「ん……パパ……あやのちゃん……」と、幸せそうに小さな寝言を呟いた。
その無垢な子どもの声に、二人は同時にふっと顔を見合わせ、照れくさそうに、けれど心からの温かな笑みを交わし合った。
並木道の向こう側。
夕闇が迫る街の中に、二つの部屋が待つマンション『メゾン・ド・フルール』の白い外壁が、夕暮れの街灯の光に照らされて、静かに見え始めていた。
茜色の空が、ゆっくりと深い藍色へと沈みゆく中。
寄り添って歩く二つの長い影と、背中に背負われた小さな命の温もりは、解けることのない確かな絆となって、静かな帰り道をどこまでも優しく照らし続けていた。




