第48話:はぐれたすず
緑の芝生の上で広げた特製のお弁当箱が空っぽになり、ピクニックの幸福な余韻に包まれたまま、三人は初夏の木漏れ日が揺れるサバンナ園の遊歩道へと足を進めていた。
時刻は午後二時を少し回ったところ。
正午を過ぎてからの多摩丘陵は、抜けるような青空から降り注ぐ陽光が一段と熱を帯び、吹き抜けるそよ風が木々の葉をサワサワと涼やかに揺らしていた。
すずの足取りは、美味しいお弁当でお腹が満たされたこともあり、驚くほど軽やかだった。ウサギの耳がついたピンクのリュックサックを背負い、右手にはしっかりとトトロのぬいぐるみを抱きしめ、文乃と航平の間で小さくスキップするように歩道を進んでいる。
「あやのちゃん、みて! 看板にキリンさん描いてある!」
「本当だねぇ。もうすぐキリンさんの大きなおうちだよ」
「すず、キリンさんに『こんにちは』するの! 首が長ーいって、お写真撮るの!」
「ああ、たくさん見ような。すずがずっと楽しみにしていたもんな」
航平が柔らかく目を細め、すずの小さな頭に優しく手を置いた。
けれど、広大な丘陵の尾根を回り込み、アフリカ園の中央に位置する巨大な放飼場――『キリン舎』のウッドデッキが見えてきた瞬間、三人の前に立ちはだかったのは、予想を遥かに超える巨大な人の波だった。
――ガヤガヤ、ザワザワ……!
週末の午後、ちょうど二時半から始まる恒例の『キリンのキーパートーク&もぐもぐタイム(給餌見学)』の開始時刻が迫っていたのだ。
展望デッキの周囲には、ベビーカーを押した無数の家族連れや、望遠レンズを抱えた観光客が幾重にも押し寄せ、立錐の余地もないほどの大混雑を作り出していた。デッキの手すり沿いはすでに三重、四重の人垣で完全に埋め尽くされ、係員がハンドマイクで「立ち止まらずに前へお進みください!」「小さなお子様の手を離さないようにお願いします!」と声を張り上げている。
「うわ……すごい人だね」
文乃が人混みの熱気に圧倒され、足を止めた。
「人気イベントの時間と重なってしまったみたいですね……。すず、これじゃ前が見えないかもしれないな。もう少し落ち着いてからにするか?」
航平がすずを見下ろして尋ねると、すずは人垣の向こうからチラリと見えた黄色いキリンの長い首に目を輝かせ、唇を尖らせて首を横に振った。
「やだ! キリンさん見る! すず、キリンさんにごはんあげるとこ見たいもん!」
「困ったな……。よし、じゃあパパが肩車してあげるから、もう少しだけ待ってような」
航平が苦笑交じりに言ったところで、文乃が周囲を見回しながら、申し訳なさそうに航平へと声をかけた。
「あの……航平さん。少しだけ、お手洗いに立ち寄ってもいいですか? あそこのレストハウスの地下にあるみたいなので、すぐに戻ります」
「あ、はい! もちろんですよ。すずと一緒に、あそこの木陰のベンチの近くで待っていますから、ごゆっくりどうぞ」
「すみません、すぐに戻りますね。すずちゃん、パパのお手てギュッてして待っててね」
「はーい!」
すずが元気に返事をし、航平のズボンの裾をぎゅっと握り直した。
文乃はトートバッグを肩にかけ、足早にレストハウスの階段へと向かっていった。
文乃の後ろ姿を見送った後、航平はすずの手を握り直し、人混みの動線から少しだけ外れた、大きなクスノキの木陰へと移動した。
初夏の日差しは強く、日向にいるだけでじっとりと汗が滲んでくる。
「すず、喉渇かないか? さっきの麦茶、もう飲み干しちゃっただろ」
「うん……ちょっとだけ、のど乾いた」
すずが首元をパタパタと手で仰いだ。
見ると、木陰のすぐ脇、わずか五メートルほどの場所に、テイクアウト専用のドリンクスタンドがあった。冷えた紙パックのフルーツジュースやミネラルウォーターが並ぶショーケースの前には、二、三人ほどの客が並んでいるだけだった。
「すず、あそこで冷たいリンゴジュース買ってこようか」
「リンゴジュース! のむ!」
「よし。じゃあ、ここでパパの足元にいてな。すぐに買えるから」
航平はそう言って、すずを自分の足元――木陰のベンチの脇に立たせた。
距離にして、ほんの数歩。
手を伸ばせばいつでも届く距離であり、視界の隅にすずのピンクのリュックの端が確かに見えていた。
航平はレジの前へ進み、背負っていたデイパックから財布を取り出した。
「すみません、冷えたリンゴジュースをひとつください」
「はい、リンゴジュースおひとつですね。百八十円になります」
店員に千円札を手渡し、トレイにお釣りの小銭がチャリンと落ちる。
時間にすれば、ほんの十秒。
財布を仕舞い、ストローの刺さった冷たいパックジュースを受け取るまでの、誰にでも日常の中で幾度となく訪れる、何の変哲もない十秒の隙間だった。
けれど――その、わずか十秒の間に。
事件は、あまりにも静かに、あまりにも無慈悲に発生していた。
――パァンッ!
すぐ近くの売店の前で、何かが破裂するような乾いた音が響いた。
続いて、小さな男の子の「あぁっ!」という泣き叫ぶ声。
手元から離れてしまった、ヘリウムガスの入った真っ赤なハート型の風船が、ふわふわと、初夏の青空に向かって高く、高く舞い上がっていったのだ。
クスノキの木陰で大人しく待っていたすずの視線が、その赤い風船に、吸い寄せられるように奪われた。
「あ……風船……」
青空を登っていく赤い風船は、折からの初夏の突風に煽られ、キリン舎の展望デッキの方向――巨大な人混みの頭上を越えて、遊歩道の下り坂の先へと流れていった。
「あ……まてまて〜……」
すずはトトロのぬいぐるみを抱えたまま、無意識に小さな足を一歩、前へと踏み出した。
パパの言いつけは、幼い頭の中から一瞬にして吹き飛んでいた。
ふわふわと揺れながら遠ざかっていく赤い風船が、まるで絵本の中の生き物のように見えて、すずは人混みの脚と脚の隙間を縫うように、トタトタと無邪気に歩き出してしまったのだ。
ベビーカーの車輪の脇をすり抜け、大人のスカートの裾をくぐり抜ける。
ほんの三秒で、小さな四歳の身体は、何百人もの観光客がひしめき合う雑踏の波の底へと、完全に飲み込まれてしまっていた。
そして――。
「すず、お待たせ。リンゴジュース買えたぞ――」
航平がジュースを手に、満面の笑顔で振り返った、まさにその瞬間だった。
「…………え?」
航平の口元から、言葉が消えた。
クスノキの木陰。
ベンチの脇。
そこには、誰もいなかった。
木漏れ日が揺れるアスファルトの上に、赤いスニーカーの姿も、ピンク色のウサギのリュックも、影も形も存在しなかった。
「……すず?」
航平はジュースを持ったまま、呆然と周囲を見回した。
ベンチの後ろ。クスノキの幹の裏。自販機の陰。
どこにもいない。
航平の心臓が、トクンと、嫌な音を立てて跳ねた。
「すず……? すず、どこだ? ……すずッ!?」
声を張り上げる。
けれど、返ってくるのは、キリンのキーパートークを知らせる園内スピーカーの大音量と、周囲の観客たちのざわめきだけだった。
すずの返事はない。
十秒前まで、自分の手の届く場所にいたはずの娘が。
この巨大な人混みの中に、まるで煙のように、忽然と消え失せていた。
「…………っっっ!!!!」
その瞬間。
航平の全身の毛穴から、サーッと血の気が引いていった。
手にした冷たいリンゴジュースのパックが、ガタガタと激しく震え、指から滑り落ちてアスファルトの上に転がった。
「すず……ッ!? すずぅぅぅぅっっ!!!!」
狂ったような叫びが、航平の喉から引き裂かれるように飛び出した。
周囲の観光客が何事かと驚いて振り返るが、航平の視界には何も映っていなかった。
視界が、真っ白に明滅する。
心臓を冷たい氷の爪で直接握り潰されたような、耐え難い激痛と恐怖。
――僕が、目を離した。
――ジュースを買う、ほんの十秒の隙に。
――僕が、すずの手を離してしまったからだ。
二年前の離婚の際、「自分が一人で完璧に育て上げる」と誓ったあの日。
誰の手も借りず、命を賭けて守り抜くと誓ったはずの娘を、自分自身の不注意によって、見知らぬ広大な山の中へ見失ってしまった。
もし、池に落ちたら?
もし、急な崖から転落したら?
もし、悪意ある何者かに連れ去られてしまったら――!?
「嘘だ……嘘だろ……すずッ!! すずぅぅぅぅぅっっ!!」
航平は頭を抱え、半狂乱になって人混みのデッキへと突進しかけた。
その時だった。
「航平さんッッ!!」
背後から、息を切らした文乃の声が響いた。
お手洗いから戻ってきた文乃が、蒼白になって取り乱す航平の異変に気づき、人混みをかき分けて駆け寄ってきたのだ。
「文乃、さん……っ!」
航平は振り返り、涙と脂汗でぐしゃぐしゃになった顔で、文乃の両肩にすがるように掴みかかった。
「すずが……すずが、いなくなってしまった……! ジュースを買おうとして、ほんの数秒目を離した隙に……どこにもいないんだ……! 僕が……僕のせいで……すずが……っ!」
「…………っ!」
文乃の息が止まった。
一瞬、目の前が真っ暗になり、膝の力が抜けそうになった。
すずちゃんが、迷子に。
この、何千人もの人間がひしめき合う、山の斜面に広がる広大な動物園で。
けれど――文乃は崩れ落ちなかった。
航平の激しく震える両腕。
恐怖のあまり過呼吸を起こしかけている男の姿を見た瞬間、先週の深夜の熱性痙攣の夜と同じく、文乃の心の奥底で、カチリと鋼のスイッチが入った。
「航平さんッ!! しっかりしてください!!」
文乃は航平の両手を強く握り締め、その乱れた胸元を叩くようにして正気を取り戻させた。
「自分を責めてる時間はありません! まだいなくなってから一分も経っていません! すずちゃんの小さな足なら、まだ遠くへは行けないはずです!」
「文乃さん……」
「二手に分かれましょう! 航平さんは、すずちゃんが興味を持ちそうなキリン舎の奥や、サバンナの下り坂を探してください! 私はレストハウスの総合案内所へ走って、園内迷子放送を依頼して、上り坂の広場を探します!」
文乃の指示は、矢のように的確だった。
「すずちゃんは、ピンクのウサギのリュックに、ラベンダー色のワンピース、赤いスニーカーです! トトロのぬいぐるみを持っています! 迷子放送でその特徴を流してもらえば、園内のスタッフ全員が探してくれますから!」
「は、はい……っ! 分かりました!」
「絶対に、見つけましょう! すずちゃんは無事です、絶対に無事ですから!!」
「はいッッ!!」
航平の瞳に、父親としての光が再び灯った。
二人は弾かれたように、別々の方向へと駆け出した。
「すずぅぅぅぅっ!!」
航平は人混みを力任せにかき分け、サバンナ園の急な下り坂を疾走した。
喉が張り裂けんばかりに娘の名を叫び続ける。
すれ違う親子の足元を、狂ったように凝視する。ピンク色のリュックはないか。赤いスニーカーはないか。
坂道を駆け下りる足がもつれ、膝を擦りむきそうになりながらも、航平は止まらなかった。
汗が目に入り、視界が滲む。
肺が引きちぎれるように痛い。
けれど、そんな痛みなど、娘を失うかもしれない恐怖に比べれば微塵も感じられなかった。
「すず! どこだ、すず! パパだ! パパの声が聞こえたら返事をしてくれぇぇぇっ!!」
一方の文乃もまた、命を削るように走っていた。
舗装された坂道を、普段履きのフラットサンダルで全速力で駆け上がる。
薄いソールの靴底を通して、アスファルトの硬い衝撃が足首や膝へと容赦なく突き刺さる。靴擦れの皮が破れ、鋭い激痛が走ったが、文乃は足を止めなかった。
脱ぎ捨てて裸足で走りたい衝動を必死で抑え込みながら、レストハウスの総合案内所のカウンターへと飛び込んだ。
「すみません!! 迷子です!!」
カウンターの係員に、息を切らしながら矢継ぎ早に情報を叩き込む。
「四歳の女の子、佐伯すずちゃんです! ラベンダー色のワンピースに、ピンクのウサギのリュック、赤いスニーカー! トトロのぬいぐるみを抱えています! キリン舎の木陰で二分前にはぐれました! 至急、全園に緊急迷子放送をお願いします!!」
「わ、分かりました! 直ちに手配します!」
案内所のスピーカーから、ピンポンパンポンと緊急チャイムが鳴り響くのを確認した文乃は、踵を返して再び外の強い日差しの中へと飛び出した。
足の痛みを忘れ、広場の周囲を、茂みの奥を、トイレの裏を、狂ったように探し回る。
「すずちゃんッ!! すずちゃぁぁぁんっっ!!」
喉がヒリヒリと焼け付くように痛む。
文乃の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちていた。
怖い。
死ぬほど、怖かった。
あんなに美味しそうにお弁当を食べてくれた、あの愛らしい笑顔が。
昨夜、眠たそうに自分のエプロンの裾を掴んでくれた、あの柔らかな温もりが。
もし、永遠に失われてしまったら。
あの子がいなくなってしまったら、自分はもう、息をすることすらできない。
――私は、あの子を愛している。
隣人の子どもだからではない。
お弁当を食べてくれる相手だからでもない。
佐伯すずという、かけがえのないひとつの尊い命を、自分の人生のすべてを賭けて愛してしまっていたのだと、文乃はこの疾走の中で、骨の髄まで思い知らされていた。
時間は、すでに十五分が経過していた。
園内のスピーカーからは、すずの特徴を告げる迷子放送が繰り返し流れている。
合流地点であるキリン舎の木陰へと駆け戻った文乃の視界に、同じく全身汗だくになり、肩で息を切りながら駆け戻ってきた航平の姿が映った。
「航平さん……っ!」
「文乃さん……っ! 下には……下には、いませんでした……っ!」
航平は両膝に手をつき、今にも倒れそうになりながら首を横に振った。
絶望の色が、男の顔を塗り潰しかけていた。
その時だった。
案内所のスタッフが、無線機を片手に、遠くから血相を変えて走ってくるのが見えた。
「お父さん! お母さんッ!!」
「え……!?」
スタッフが息を切らしながら、二人に向かって叫んだ。
「見つかりました!! 南門の迷子センターです! 赤い風船を追いかけて歩いていたところを、巡回中のパトロールスタッフが保護しました! 怪我はありません!!」
「…………っっっっ!!!!」
その瞬間。
航平の喉から、声にならない絶叫が漏れた。
二人は顔を見合わせる暇もなく、スタッフの案内のもと、南門の迷子センターへと向かって遮二無二走り出した。
南門の木造のサービスステーション。
開け放たれた救護室のドアの向こう、エアコンの効いた部屋のベンチの上に。
その姿は、あった。
ラベンダー色のワンピース。
ピンク色のウサギの耳がついたリュックサック。
そして――両腕で、トトロのぬいぐるみを押し潰さんばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめ、スタッフから渡された麦茶の紙コップを握りしめながら、顔を真っ赤にして泣きじゃくっている、佐伯すずの姿が。
「うわああぁぁぁぁぁんっっ!! パパぁぁぁっ! あやのちゃぁぁぁんっっ!!」
「すずッッッ!!!!」
航平は部屋に飛び込むなり、床に両膝から滑り込むように崩れ落ちた。
そして、ベンチの上のすずを、折れそうなほど、骨が軋むほどの力で、両腕の中に力いっぱいに抱きしめた。
「すず……っ! すず、すず、すず……っ!!」
「パパぁぁぁぁっ!! ごめんなさい、ごめんなさいぃぃぃっっ!!」
すずは航平の首筋に小さな顔を埋め、しゃくりあげながら泣き叫んだ。
「風船……赤い風船が飛んでいっちゃって……すず、パパに見せてあげようと思って……そしたら、パパがいなくなっちゃって……っ! すず、怖かったよぉぉぉっ!!」
「いいんだ……いいんだ、すず……! パパが悪かった……! パパが目を離したのが悪かったんだ……! 怪我はないか? どこも痛くないか……!?」
航平はすずの小さな身体を抱きしめたまま、大の男が、人目も憚らずに声を上げて号泣していた。
すずの背中を、頭を、何度も何度も自らの大きな手で確かめるように撫で回す。
温かい。
息をしている。
自分の命よりも尊い我が子が、今、自分の腕の中に、確かに生きている。
「よかった……っ。神様……本当によかった……っ!!」
床に額を擦り付けるようにして泣く航平の姿に、迷子センターのスタッフたちも涙ぐみ、そっと部屋の扉を引いて外へと出ていってくれた。
そして――。
入り口の敷居のところで立ち尽くしていた文乃もまた、その場に両膝から崩れ落ちた。
「すずちゃん……っ」
床に手をつき、全身の力が完全に抜け落ちる。
安堵のあまり、堰を切ったように涙が溢れ出し、止まらなかった。
すずが泣き腫らした顔を航平の肩から上げ、床に座り込む文乃に気づいた。
「あやの……ちゃん……っ」
すずは航平の腕から小さな身体をもぞもぞと抜け出させると、文乃の膝元へと飛び込んできた。
文乃はすずの小さな身体を、壊れやすい宝物を抱きとめるように、両手で力いっぱいに胸元へと抱きしめた。
すずの甘いシャンプーの匂い。
汗ばんだ小さな肌の温もり。
「すずちゃん……よかった……っ、本当によかった……!」
「あやのちゃん、ごめんなさい……! すず、迷子になっちゃった……!」
「いいの、いいのよ……! 無事でいてくれて、ありがとう……! お姉ちゃんのところに戻ってきてくれて、本当にありがとう……っ!」
文乃はすずの背中を抱きしめたまま、頬をすずの柔らかな髪に押し当てて、泣きじゃくった。
航平が、床に膝をついたまま、二人の傍らへと寄り添ってきた。
航平の大きな手が、すずの小さな背中へと重ねられる。
そして――文乃は、自らの左手をそっと伸ばした。
航平の、震える逞しい背中へと。
その背中に、そっと、温かな手のひらを添えたのだ。
「…………っ」
航平の肩が、ビクッと跳ねた。
文乃の手のひらから伝わってくる、確かな熱。
航平は顔を上げ、涙で濡れた瞳で文乃を見つめた。
文乃もまた、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、航平の目を真正面から見つめ返した。
静かな救護室の中。
すずを真ん中に抱き合い、重なり合う、三人の体温。
言葉は、何ひとつ必要なかった。
ただの隣人?
都合のいいお姉さん?
そんなくだらない境界線や、大人の理屈など、この圧倒的な愛の奔流の前では、塵埃のように吹き飛んでいた。
この子を守るためなら、自分は命だって差し出せる。
この人と共に、この小さな命を抱きしめて生きていきたい。
三人の魂が、理屈を完全に超越して、もはや二度と引き裂くことのできない『ひとつの絆』となって、深く、決定的に結び合わされた瞬間だった。
午後の柔らかな光が、救護室の窓から差し込み、抱き合う三人の影を、ひとつの大きな温かな輪となって包み込んでいた。




