第47話:文乃のお弁当箱
特急列車に揺られること約一時間。都心のコンクリートジャングルを抜け出した三人が降り立ったのは、青々とした武蔵野の雑木林を切り開いて造られた、緑豊かな広大な丘陵地帯――多摩丘陵自然動物公園だった。
改札を抜けた瞬間、初夏の薫風が心地よく鼻腔をくすぐり、木々の葉がサワサワと涼やかな音を立てて波打っていた。
午前中の園内は、すずの小さな足取りに合わせながら、ゆっくりと巡った。
アジア園の巨大なアジアゾウが大きな耳をパタパタと揺らしながら長い鼻で干し草を巻き上げる姿に、すずは「パパ、みて! お鼻が手みたいになってる!」と航平の膝にしがみつきながら大興奮で指差した。
続いて訪れたオオカミやユキヒョウの岩山では、文乃の手を両手でしっかりと握りしめながら、「ちょっとこわい……でもかっこいい!」とおっかなびっくり見上げていた。
すずを真ん中に挟み、左右から手をつないで歩く道すがら、文乃と航平の間には、電車の中のような張り詰めた緊張こそ和らいでいたものの、ふとした拍子に視線が交差するたび、互いの胸を甘やかに締め付ける熱い余韻が静かに息づいていた。
そして――時計の針が正午を回った頃。
アップダウンの多い園路を歩ききり、すずの小さな足取りが少しずつ覚束なくなってきたところで、三人は園内の中央に広がる広大な芝生エリア――『憩いの丘広場』へと辿り着いた。
視界いっぱいに広がる、手入れの行き届いた鮮やかな若草色の芝生。
頭上には、遮るもののない抜けるようなコバルトブルーの青空が広がり、ぽっかりと浮かんだ白い綿雲が、初夏の柔らかな日差しを時折優しく遮ってくれる。広場の周囲にはたくさんの家族連れが色とりどりのレジャーシートを広げ、子どもたちの弾む笑い声と、木陰を吹き抜ける涼風が満ちていた。
「ふあぁぁ……すず、いっぱい歩いたぁ!」
すずが芝生の上にぺたんと座り込み、小さな手で赤いスニーカーの爪先をトントンと叩いた。
「よく頑張ったな、すず。よし、ここでお昼にしよう」
航平は肩から下ろした大きなトートバッグから、真新しい大判のレジャーシートを取り出した。爽やかなフォレストグリーンのチェック柄。今朝、家を出る前にこのピクニックのために用意してくれたものだ。
航平は四隅をピンと張り、風でめくれないように手際よく芝生の上に敷き広げた。
「すず、靴を脱いで上がっていいぞ。文乃さんも、どうぞ座ってください。日差しが強いですから、日陰側へ」
「ありがとうございます、航平さん」
すずはスニーカーのマジックテープを器用にペリペリと剥がし、レジャーシートの真ん中へ靴下履きで飛び込むと、両手を広げて大の字になった。
「芝生、ふわふわ〜っ! お空がすっごく広ーい!」
「ふふ、気持ちいいね、すずちゃん」
文乃もサンダルを脱ぎ、シートの端に膝を折って腰を下ろした。
航平が「喉が渇いただろ」と、持参した保冷ボトルから冷たい麦茶を小さなコップに注いですずに手渡す。すずがゴクゴクと喉を鳴らして飲み干すのを見届けた後、航平は立ち上がり、周囲を見回した。
「文乃さん、広場の向こうに売店やカフェテリアがあるみたいです。名物の焼きそばやサンドイッチが売っているそうなので、僕が買い出しに行ってきますね。すずは何がいい? アメリカンドッグもあるみたいだぞ」
航平が財布を取り出し、立ち上がろうとしたその時だった。
「あ、航平さん、待ってください」
文乃がそっと手を伸ばし、航平のサマーニットの裾を軽く引いた。
「え……?」
「買い出しは……行かなくて大丈夫です」
文乃は少しだけ照れくさそうに頬を染めながら、自らが肩にかけていた、普段の通勤用とは違う大きめの麻のトートバッグを膝元へと引き寄せた。
「実は……今朝、すずちゃんが『動物園に行くの!』って呼びに来てくれた時、少しだけ待っててくださいってお待たせしたでしょう?」
「ええ……お出かけの準備をされているのだとばかり思っていましたが……」
「これ、作っていたんです」
文乃はトートバッグのファスナーを開け、中から銀色の厚手の保冷バッグを取り出した。
そして、その保冷バッグの中から、両手で大切そうに抱え出されたのは――。
上品な山吹色の風呂敷で、きっちりと美しく結ばれた、漆黒の二段重ねの大きなお重――特製の行楽お弁当箱だった。
「…………っ!」
航平の瞳が、驚愕に見開かれた。
「お弁当……!? 文乃さん、これをご自分で……? まさか、あの短い時間で!?」
「昨夜、航平さんが『明日、二人で話せますか』って仰ってくださった時から……もしかしたら、明日はどこかへお出かけできるのかもしれないって、少しだけ予感がしていたんです」
文乃は耳元まで赤く染めながら、視線を伏せて恥ずかしそうに打ち明けた。
「だから……昨日の夜のうちに、鶏肉の仕込みやお米の研ぎ出しだけは済ませておいたんです。今朝、急いで火を入れて、詰めてきたので……たいしたものは入っていませんけれど」
「たいしたことないわけないだろ……!」
航平の喉から、掠れた呻きが漏れた。
今朝の八時半、突然娘を連れてアポなしで部屋を急襲した自分たち。その突発的な事態にも動じることなく、文乃はあのわずかな身支度の時間の中で、三人分の行楽弁当を完璧に仕上げて持参してくれていたのだ。
「あやのちゃん、それ、なぁに……?」
シートの上に寝転がっていたすずが、風呂敷包みを見つめて、むくっと上半身を起こした。
文乃は優しく微笑むと、山吹色の風呂敷の結び目を、するりと解いた。
現れたのは、木目の美しい漆塗りの角重箱。
「すずちゃん、航平さん。……開けますね」
文乃の白い指先が、上段の重箱の蓋にかけられ、ゆっくりと持ち上げられた。
パカッ――。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ!!!!」
初夏の青空の下に、すずの今までに聞いたことがないほど突き抜けた、歓喜の絶叫が木霊した。
すずは両手を口元に当て、丸い瞳を零れ落ちそうなくらいに見開いて、シートの上でピョンピョンと膝立ちになって飛び跳ねた。
「すごい! すごいすごいすごい! パパ、みて! 宝石箱みたい!!」
「…………っ!」
横から覗き込んだ航平もまた、息を呑んだまま完全に言葉を失っていた。
重箱の中に広がっていたのは、まさに初夏の陽光と大地の恵みをぎっしりと閉じ込めたかのような、眩いばかりの色彩のパレードだった。
上段のお重の中央を占めていたのは、黄金色に輝く、大ぶりな『甘口だし巻き卵』。
文乃の実家から届いた産みたて卵を惜しみなく使い、利尻昆布と鰹節の一番出汁を限界まで抱き込ませてふっくらと巻き上げられたそれは、切り口からジュワリと出汁の雫が滲み出ている。
その隣には、カラリと香ばしい狐色に揚がった『冷めても柔らかい塩麹唐揚げ』が、ゴロゴロと山のように鎮座していた。
鶏もも肉を自家製の塩麹、すりおろした生姜、酒、少量の薄口醤油に一晩じっくり漬け込み、タンパク質を酵素の力でアミノ酸へと分解させて極限まで保水性を高めた逸品。片栗粉に少量の米粉をブレンドした二重衣は、揚げたてから時間が経っても油を吸ってべちゃつくことなく、驚くほどサクッとした軽やかな食感を維持している。
そして――すずの目を何よりも釘付けにしたのは、鮮やかな赤い彩りだった。
お重の隅に、行儀よく並べられた四匹の『タコさんウインナー』。
皮付きの赤いウインナーの裾を八等分に細かく切り込み、油でじっくり炒めることで足がパッと綺麗に外側へカールしている。頭のてっぺんには黒ごまで小さな目がちょんと付けられ、口元には小さな切り込みで愛らしい表情が刻まれていた。
さらに、隙間を埋めるように美しく敷き詰められているのは、鮮やかな緑とオレンジのコントラスト――『ブロッコリーと人参のおかか和え』。
幼児が本能的に拒絶するブロッコリー特有の青臭さと、蕾のモソモソとした舌触り。
それを消し去るため、文乃は小房に分けたブロッコリーを塩と少量の出汁を入れた熱湯で硬めに下茹でしてアクを完全に抜き、冷水で急速に色止めをした後、細かく刻んであった。
そこに、星型に型抜きして柔らかく煮含めた甘い春人参を合わせ、手で揉んで極限まで細かく粉状にした極上本枯節の『すりおろしおかか』と、出汁醤油をたっぷりと絡めてある。鰹節の力強いイノシン酸が野菜の繊維の隙間に絡みつくことで、苦味の受容体を完全にマスキングし、噛むたびに上品な旨味だけが口の中に広がるよう計算し尽くされた、プロ級の工夫が施されていた。
続いて、文乃は下段のお重の蓋を開けた。
現れたのは、竹の皮のシートの上に整然と並べられた、六つの『鮭とちりめんじゃこの俵おむすび』だった。
晴臣が運んできてくれたあの新米を、少し硬めの水加減でふっくらと炊き上げ、熱いうちに香ばしく焼き上げた紅鮭のほぐし身、天日干しのちりめんじゃこ、白ごま、そしてすずでも気付かないほど極細に刻んだ大葉を混ぜ込んである。
ころんとした小ぶりの俵型に優しく握られ、中央にはパリッとした有明産の焼き海苔の帯が、一本一本丁寧に巻かれていた。
「文乃さん……これ、全部……今朝、作ってくださったんですか……?」
航平の声が、かすかに震えていた。
「早起きして……こんなに手の込んだものを……」
「ふふ、そんなに手は込んでいませんよ。常備菜のアレンジですから」
文乃は柔らかく微笑むと、持参した清潔なお手拭きをすずの小さな両手に手渡した。
「さ、すずちゃん、おててをフキフキして。いっぱい歩いてお腹空いたでしょう?」
「うんっ! フキフキした! あやのちゃん、いただきますしていい!?」
「もちろんよ。三人で、せーの――」
「「「いただきます!」」」
三つの声が青空の下に重なり合い、待望のピクニックが始まった。
すずの小さな手が、迷うことなく一直線に伸びた。
狙い定めた先は――もちろん、あの愛らしいタコさんウインナーだった。
小さな指先でタコさんの頭をキュッと掴み上げると、芝生の上で掲げて見せた。
「パパ、みて! タコさん! 足がクルンってなってる! おめめもついてるよ!」
「本当だ、可愛いな。よかったな、すず」
「うん! あーん……パクッ!」
すずは大きな口を開け、タコさんの足をパクリと咥え込んだ。
パリッ! と心地よい皮の弾ける音が響く。
モグモグと咀嚼した瞬間、すずの顔全体に、とろけるような至福の笑顔がパーッと広がった。
「おいしぃぃぃっ! パリパリしてて、すっごくジューシー!」
すずはウインナーをあっという間に一口で平らげると、空になった手で自分の小さな膝をパシパシと叩いて叫んだ。
「パパ! あやのちゃんのお弁当、お店屋さんよりすごいよ! 世界でいっちばん美味しい!」
「ふふ、ありがとう、すずちゃん」
文乃が目尻を下げて嬉しそうに目を細める。
すずの食欲は、止まらなかった。
かつてあれほど頑なに拒絶していた緑色の野菜――ブロッコリーのおかか和えの前で、すずの指が一瞬だけピクリと止まった。
航平が思わず息を呑み、固唾を呑んで見守る。
すずは恐る恐る小さなプラスチックのフォークを伸ばし、星型の人参と一緒に、緑のブロッコリーをひと房刺した。
鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「……お魚の、いいにおいする」
「お出汁とおかかがたっぷり絡んでいるから、苦くないよ。人参さんと一緒に食べてごらん」
文乃の優しい声に促され、すずは意を決して、お口をあーんと開けて放り込んだ。
モグ、モグ、モグ……。
小さな口が動く。
航平は祈るように手を握りしめていた。もし吐き出してしまったらどうしよう、せっかくの文乃の好意を傷つけてしまったら――。
けれど、次の瞬間。
「…………っ、あまい!」
すずの瞳が、パッと春の光を宿したように輝いた。
「チクチクしない! 苦くない! お星さまの人参さんと一緒に食べたら、お出汁がじゅわ〜ってして、すっごくおいしい!」
「……っ!」
航平の喉から、感嘆の息が漏れた。
ブロッコリーを。
あの、繊維質と独特の苦味を極度に嫌がり、保育園の給食でも毎日のように最後まで皿の隅に残して泣いていたブロッコリーを、すずが何のためらいもなく、笑顔で飲み下したのだ。
「佐伯さんも、唐揚げ冷めないうちにどうぞ。塩麹に漬けてあるので、柔らかいですよ」
「あ……はい、いただきます」
航平はお箸を手に取り、大きめの唐揚げをひとつ摘み上げた。
手にしただけで、衣の軽やかな感触が指先に伝わってくる。
口へと運び、サクッと前歯を沈めた。
――サクゥッ……ジュワァァァッ!
その瞬間、航平の思考が完全に吹き飛んだ。
「…………っっっ!!!!」
航平の目が見開かれ、箸が止まる。
信じられなかった。
お弁当の唐揚げといえば、時間が経つと肉汁が抜け落ちてパサパサになり、衣が油を吸って重たくなるのが常識のはずだった。
それなのに、文乃の作ったこの唐揚げは、完全に粗熱が取れているにもかかわらず、驚くほど柔らかく、歯がすんなりと肉の繊維を断ち切っていく。そして、噛み締めた瞬間に、溢れんばかりのジューシーな肉汁が、塩麹の円やかな甘みと生姜の清涼な香りを伴って、口いっぱいに洪水のように溢れ出してきたのだ。
「な……なんですか、この柔らかさは……!」
航平は咀嚼しながら、思わず熱い吐息を漏らした。
「冷めているのに……信じられないくらい柔らかくて、ジューシーです……。お肉のパサつきが全くない。衣もサクサクしていて、油っこさが一ミリも感じられません……!」
「塩麹のおかげなんです」
文乃は嬉しそうに解説した。
「塩麹に含まれるプロテアーゼという酵素が、お肉の筋繊維を優しく分解して保水力を高めてくれるんです。それに、衣に少しだけ米粉を混ぜると、冷めても油を吸いにくくなって、サクサク感が長持ちするんですよ」
「素晴らしいです……。文乃さんのお料理は、いつだって食べる人の身体と、食べる瞬間のことまで完璧に計算されている……」
航平は続けて、俵おむすびを手に取った。
海苔の香ばしい磯の香りが鼻腔をくすぐる。
ガブリと頬張ると、新米の艶やかな甘みとともに、香ばしい鮭の塩気と、ちりめんじゃこの力強い旨味が口の中で見事に調和した。時折弾ける白ごまのプチプチとした食感と、微かに鼻を抜ける大葉の爽やかなアクセントが、後味をどこまでも上品に引き締めている。
「……美味い」
航平の口から、飾り気のない本音の言葉が零れ落ちた。
「本当に……美味いです。五臓六腑に、温かい力が染み渡っていくようです」
「ふふ、良かったです。いっぱい召し上がってくださいね。まだたくさんありますから」
文乃は水筒のキャップに冷たい麦茶を注ぎ、航平の前に差し出した。
すずは二個目のタコさんウインナーを美味しそうに頬張り、だし巻き卵を「たまご、ふわふわ〜!」とスプーンですくって夢中で食べている。
頭上には、初夏の澄み渡る青空。
芝生を渡る爽やかな風が、三人の髪を優しく撫で上げていく。
ふと、すずが俵おむすびにかぶりついた拍子に、小さな口の端に、白い米粒がひとつ、ちょこんとくっついた。
「あ、すず、お口についてるぞ」
航平が笑いながら、自然な手つきですずの頬に指を伸ばし、その米粒を優しく摘み取って自分の口へと運んだ。
文乃はすかさず、清潔なガーゼのハンカチを取り出し、すずの顎のあたりをトントンと丁寧に拭いてあげる。
「はい、綺麗になったよ、すずちゃん」
「えへへ、ありがとうあやのちゃん!」
「お茶も飲もうね」
「うん!」
流れるような、あまりにも自然な呼吸。
何ひとつ打ち合わせをしたわけでもないのに、航平が娘の世話をし、文乃がそれに寄り添って手を差し伸べる。
周囲の芝生広場には、何組もの家族連れがピクニックを楽しんでいた。
ボール遊びをする親子。木陰で赤ちゃんをあやす夫婦。
その光景の中に、今、自分たち三人は、完全に溶け込んでいた。
通り過ぎる人々の目に映るその姿は――。
休日に手作りのお弁当を囲み、顔を見合わせて笑い合う、どこからどう見ても絵に描いたような『仲睦まじい三人家族』そのものだった。
「…………」
ふと、航平の手が止まった。
麦茶のコップを握りしめたまま、航平の視線が、目の前の光景をじっと見つめた。
満面の笑顔でおむすびを頬張る、愛する娘。
その隣で、エプロンを外し、柔らかな私服姿で微笑みながらすずの背中を優しく撫でている、美しい女性――瀬戸文乃。
胸の奥底が、息が詰まるほどの温もりと多幸感で満たされていく。
二年間。
真っ暗な部屋で、冷たいコンビニ弁当のゴミを前にして、一人で泣きそうになりながら耐え忍んできた、あの地獄のような孤独が。
今、この陽だまりのような温かさの中で、完全に洗い流されていくのが分かった。
――けれど。
その圧倒的な幸福感の真ん中で。
航平の胸の奥を、チクリと、鋭利な棘のような痛みが刺し貫いた。
「…………っ」
航平の喉仏が、苦しげに動いた。
周囲を行き交う人々の、温かな眼差し。
自分たちを「仲の良い若い夫婦と、その可愛い娘」として見つめる視線。
その視線を受けるたびに、航平の心の奥底で、冷酷な罪悪感が首をもたげてくる。
――これは。
――一度家庭生活に失敗し、妻を引き留めることもできず、娘を偏食と孤独の淵に追い詰めてしまったような、不甲斐ない自分という男が。
――本当に、望んでいい幸せなのだろうか。
文乃は、二十八歳の、輝かしい未来を持つ独身女性だ。
料理の腕前も、人柄も、誰からも愛される素晴らしい美徳に満ち溢れている。
そんな彼女の貴重な休日を奪い、早起きしてお弁当まで作らせ、こうして「母親役」のような場所に座らせてしまっていること。
もし、自分がこの甘やかで眩しい温もりに甘えきってしまったら――彼女の未来の選択肢を、自分のような擦り切れたシングルファザーの泥沼に縛り付けてしまうのではないか。
昨夜、あの玄関口で、一人の男としての覚悟を固めたはずだった。
神谷陸から胸ぐらを掴まれ、『男なら腹を括れ、娘を盾にするな』と背中を蹴飛ばされ、文乃の手を力強く引き寄せたはずだった。
今夜、すずが寝た後、自分の想いのすべてを告白しようと心に誓っていたはずだった。
けれど。
こうして、あまりにも完璧で、あまりにも尊い「家族のような時間」を目の当たりにしてしまうと。
自分が彼女に求めようとしているものが、どれほど重たく、どれほど贅沢で、そしてどれほど彼女の人生を拘束してしまうものなのかという現実に、航平の胸は激しい躊躇と切なさで締め付けられてしまうのだった。
「……航平さん?」
ふいに、澄んだ声が降ってきた。
航平がハッとして顔を上げると、文乃が首を少し傾げ、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「どうかなさいましたか? お口に合いませんでしたか……?」
「あ……っ、いいえ!」
航平は慌てて首を横に振り、胸の奥の痛みを必死で押し殺して、温かな笑みを浮かべた。
「違います。あまりにも……美味しくて。そして……」
航平は芝生の上に広がる青空を見上げ、噛み締めるように呟いた。
「あまりにも……温かくて。なんだか、夢を見ているみたいで……」
「ふふ、夢なんかじゃありませんよ」
文乃は柔らかく目を細め、航平の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ほら、唐揚げ、もうひとつどうぞ。航平さん、今週はずっと頑張りっぱなしだったんですから、いっぱい食べて体力をつけてくださいね」
「……はい。いただきます」
差し出された唐揚げを受け取る航平の手。
初夏の風が、二人の間を優しく通り抜けていく。
切なさと、愛おしさと、そして消えることのない強い情熱が、交錯する午後の日差しの中で、静かに、けれど確実に熱を帯びていた。
けれど――三人はまだ知る由もなかった。
この幸せに満ちたピクニックの直後、人混みの中で訪れる、あの心臓の凍りつくような試練の瞬間を。
そしてその試練こそが、三人の絆を、もはや誰にも引き裂くことのできない絶対のものへと昇華させる引き金になるということを――。




