第46話:休日の動物園
カーテンの隙間から滑り込んできた朝の陽光が、ベッドのシーツの上に細長い黄金色の筋を描いていた。
土曜日の午前七時。
瀬戸文乃は、枕に顔を埋めたまま、ゆっくりと長い睫毛を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた三〇一号室の天井。けれど、その意識は完全に覚醒し、心臓はまるで朝のジョギングを終えた直後のように、トクン、トクンと力強く、速いリズムを刻み続けていた。
「……眠れなかった」
シーツを胸元まで引き上げ、文乃は小さく身悶えした。
一睡もできなかったわけではない。けれど、微睡みの底に落ちかけるたびに、あの感覚が鮮烈な熱を伴って全身の皮膚を跳ね上がらせ、文乃の意識を強制的に現実へと引き戻していたのだ。
――昨夜の、玄関口。
すずを腕の中に抱きしめたまま、文乃の差し出したタッパーを包み込んできた、佐伯航平の大きな手のひら。
触れ合った指先。
逃がすまいと絡められた長い指と、半歩引き寄せられた瞬間の、あの息が詰まるほどの至近距離。
そして――。
『明日……すずが寝た後、少しだけ二人で話せますか?』
掠れた、けれど熱く深く耳元を穿った、あの低音の囁き。
父親という分厚い鎧を完全に脱ぎ捨て、一人の生身の男として文乃を射抜いていた、あの青い炎のような瞳。
「っ……あぁ、もう……!」
文乃は枕に両手で顔を押し当て、足をバタつかせた。
思い出すだけで、耳たぶから首筋にかけて一気に熱湯をかけられたかのようにカッと熱くなる。
あの不器用で、真面目すぎて、自分を律することしか知らなかった男が、あそこまで真っ直ぐに、男としての熱を曝け出して踏み込んできてくれたのだ。
今夜、すずちゃんが眠った後。
あの人は、この部屋へやってくる。あるいは、文乃があの部屋へ行くことになるのか。
何を話すのか。どんな言葉を交わすのか。
ただの隣人という『余り物』の日常に、本当のピリオドを打つための決定的な瞬間が、今夜、訪れる。
文乃はベッドから跳ね起き、冷水で顔を洗った。鏡に映った自分の顔は、寝不足の割には頬がほんのりと上気し、瞳は驚くほど澄んでいた。
髪を梳かし、動きやすいコットンのロング丈フレアスカートと、柔らかなアイボリーのサマーニットに身を包む。
今夜に備えて、心の準備をしておかなければ。部屋の片付けをして、美味しいお茶を用意して、心を落ち着かせておこう――。
文乃がそう思い、キッチンのケトルに水を注ぎ入れた、まさにその瞬間だった。
――ピンポーンッ! ピンポーンッ!
「ひゃっ……!?」
けたたましいインターホンの電子音に、文乃は思わず小さな悲鳴を上げて飛び上がった。
手にしたケトルから水が数滴、シンクに跳ねる。
「えっ……!? な、何……!?」
時計を見る。午前八時三十分。
まさか。
心臓が喉から飛び出しそうになった。
まさか、昨夜の約束――『すずが寝た後』と言っていたはずなのに、待ちきれなくなった航平が、朝一番で飛び込んできたのではないか。
そんな破天荒な真似をする人ではないはずなのに、昨夜のあの瞳の熱さを思い出せば、どんな突発的な事態が起きてもおかしくない気がしてしまう。
文乃はエプロンもつけぬまま、慌てて玄関ホールへと小走りで向かった。
息を整え、胸元を手のひらで押さえながら、ドアスコープに目を寄せる。
けれど、魚眼レンズの向こう側に映っていたのは、長身の男の姿ではなかった。
レンズの下の端。
そこに、パステルピンク色の小さな塊が、ぴょこぴょこと跳ねるように揺れていた。
「……え?」
文乃はドアガードを外し、鍵を開けて、ドアをそっと手前に引いた。
ガチャリ。
朝の爽やかな光が差し込む廊下。
そこに立っていたのは――。
「あやのちゃぁぁぁぁぁぁんっっ!!」
弾けるような満開の笑顔を咲かせた、佐伯すずだった。
すずは、淡いラベンダー色のパフスリーブのワンピースを着て、足元にはしっかりと履き慣れた赤いスニーカー。
そして、その小さな背中には、パステルピンク色の、大きなウサギの耳がついた可愛らしいリュックサックが、誇らしげに背負われていた。
「す、すずちゃん……!?」
文乃が目を丸くして屈み込むと、すずは文乃の膝元へ両手で抱きつき、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、嬉しくてたまらないといった調子で黄色い声を張り上げた。
「あやのちゃん! きょうね、どうぶつえん行くの! おおっきいキリンさんと、ゾウさん見に行くの!」
「えっ……動物園?」
「うん! すずね、あやのちゃんと一緒に行くの! いっしょに行こうって、パパが言ったの!」
「ええっ……!?」
文乃の思考が、一瞬にしてショートした。
動物園? すずちゃんと、パパと、私で……?
パニックになりかけた文乃の視線が、すずの小さな頭越しに、廊下の向こうへと向けられた。
そこには。
「…………っ、あ、あの……文乃さん」
壁際に身を寄せ、両手に大きめのトートバッグを提げ、今にも消え入りそうなほど小さくなって立っている、佐伯航平の姿があった。
けれど、その姿を見た瞬間、文乃の口から思わず「ぷっ」と吹き出しそうな笑いが漏れかけた。
昨夜のあの男は、一体どこへ行ってしまったのか。
タッパーを持つ文乃の手を包み込み、至近距離からあの熱い眼差しで『二人で話せますか』と囁いていた、あの色気と気迫に満ちた男の姿は、影も形もなかった。
そこにいたのは、耳の付け根まで真っ赤に茹で上がり、視線をあちこちに泳がせながら、居心地悪そうに首筋をポリポリと掻いている、いつもの「恐縮しきりの父親」の顔に戻った航平だった。
ネイビーのサマーニットにチノパンというラフな私服姿の航平は、直立不動のまま、深々と頭を下げた。
「あ、朝早くから……本当に、申し訳ありません……!」
「こ、航平さん……? これって、一体……」
「昨夜……お話ししたかったのは、このことでもあったんです」
航平は顔を上げ、すずをちらりと見下ろしながら、少しだけ照れくさそうに、けれど真剣に言葉を継いだ。
「すずが……先週、熱を出す前からずっと、『あやのちゃんとキリンさんを見たい』と、毎日のように言っていまして……。あおぞら保育園の連絡帳にも、先生が『すずちゃんが、お隣のお姉さんと動物園に行きたいとずっとお話ししています』と書いてくださっていたんです」
航平の喉仏が、ごくりと動く。
「昨夜、すずの快気祝いをしていただいて……本当に元気になったのを見て、もし……もし文乃さんの土曜日のご予定が空いていれば、その……日頃の感謝とお礼を兼ねて、三人で郊外の動物園へお出かけできないだろうかと……昨夜、そのご相談をしようと思っていたんです」
「…………っ!」
文乃の胸の奥底で、トクンと温かいものが弾けた。
昨夜の約束。
『すずが寝た後、二人で話せますか』というあの言葉。
もちろん、それだけではない、男としての熱い想いも込められていたはずだ。けれど、この不器用で誠実な男は、娘の無邪気な願いを叶えるためにも、文乃の予定を伺おうとしてくれていたのだ。
そして何より――すずが寝てから夜に話すはずだったその誘いを、今朝、待ちきれなくなったすず自身がリュックを背負って突撃してきてしまったのだろう。何度もごめんなさい。この日の夜に、「土曜日」に動物園に誘おうと思っていたのに、すずちゃんがフライングして、朝に、この日に行けるか聞いてしまったということですか?この日が、土曜日なのに、その日の夜に誘おうとしているのはつじつまが合わない気がして。。それとも昨晩に誘い忘れたのかな?
航平の困り果てたような、恥ずかしそうな表情を見れば、その微笑ましい顛末は一目瞭然だった。
「急なお誘いなのは重々承知しています! もし先約があったり、お疲れでしたら、遠慮なく断ってください! すずには僕からちゃんと説明しますから……!」
航平が慌てて両手を振って弁明する。
文乃は、クスリと笑った。
昨夜の緊張が、ふわりと心地よい朝の風の中に溶けていく。
文乃はすずの小さな両手を優しく包み込み、目線を合わせて微笑みかけた。
「すずちゃん」
「なあに、あやのちゃん?」
「お姉ちゃんね、今日、なんにも予定ないの。すずちゃんと一緒に、キリンさん見に行きたいな」
「ほんとう……!?」
すずの顔に、今日一番の輝くような歓喜が広がった。
「やったぁぁぁぁぁっっ!! あやのちゃんと動物園だぁぁぁっっ!!」
すずはその場でくるくると回り、ウサギのリュックの耳をパタパタと揺らした。
その姿を見つめる航平の顔にも、張り詰めていた緊張が一気に解け、心からの安堵と、眩しいほどの笑顔が花開いた。
「文乃さん……ありがとうございます! 本当に……嬉しいです」
「ふふ、私の方こそ嬉しいです。ちょっとだけ待っててくださいね、すぐバッグ持ってきますから!」
文乃は自室に戻り、小さなショルダーバッグに日傘とハンカチ、スマートフォンを詰め込み、薄手のUVカットカーディガンを羽織って玄関へと戻った。
「お待たせしました!」
「よし、行こう、すず!」
「おーっ!」
三つの足音が、朝のマンションの廊下を軽やかに駆け抜けていく。
エレベーターを降り、エントランスを出ると、初夏の澄み切った青空がどこまでも高く広がっていた。
駅へと向かう街路樹の並木道。
すずは真ん中に立ち、右手を航平に、左手を文乃にしっかりと握らせていた。
左右から大人の手に包まれ、ぶんぶんと腕を振りながら、ご機嫌に歩道を進んでいく。
すずの小さな手のひらは、先週の熱っぽさなど微塵もなく、子ども特有のさらりとした、生命力に満ちた心地よい温もりを放っていた。
文乃がふと顔を上げると、すずの頭越しに、航平の視線とぶつかった。
「…………っ」
目が合った瞬間、航平の耳元がボッと赤く染まり、航平は慌てて前方の信号へと視線を逸らした。
文乃もまた、胸がトクンと跳ね、繋いでいない方の手でカーディガンの裾をぎゅっと握りしめた。
すずを挟んでいるからこそ、誤魔化せている。
けれど、昨夜のあの『触れ合った指先』の記憶が、並んで歩くわずかな距離感の中で、二人の意識を激しく揺さぶり続けていた。
駅の改札を抜け、向かったのは特急列車のホームだった。
目指すのは、都心から電車で一時間ほどの場所にある、広大な丘陵地帯に作られた自然豊かな郊外の動物園。
航平は事前にスマートフォンのアプリで、全席指定の特急列車の特急券を手配してくれていた。
ホームに滑り込んできたのは、流線型のスマートな車体を持つ、観光特急の車両。
「すず、電車が来たぞ。足元に気をつけてな」
「うん! かっこいい電車!」
自動ドアをくぐり、指定された号車の指定席へと向かう。
車内は休日の行楽客で適度に賑わっていたが、ゆったりとしたリクライニングシートが並ぶ空間は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。
航平が予約していたのは、進行方向の窓側を含む、二人掛けの座席が二列。
航平は網棚に大きなトートバッグを載せると、座席の足元にあるペダルを踏み込み、ガチャンと音を立てて手前の座席をぐるりと回転させた。
向かい合わせの、四人用のボックスシートの形。
「すず、窓側に座るか?」
航平が促すと、すずはウサギのリュックを下ろしてシートの上に置くと、進行方向と逆側の座席の真ん中に、ちょこんと一人で腰を下ろした。
「すず、ここ! 一人で座れるもん!」
「お、偉いな。じゃあ、パパと文乃さんは向かい側だな」
「あ……」
文乃の喉が、小さく鳴った。
向かい合わせの四人席。
すずが一人で反対側に座ったということは――。
必然的に、進行方向を向いた二人掛けの座席に、文乃と航平が、並んで腰掛けることになる。
「あ……文乃さん、どうぞ。窓側に座られますか?」
「あ、はい……ありがとうございます」
文乃は緊張で少しぎこちなくなった足取りでシートの奥へと滑り込み、窓際の席に腰を下ろした。
続いて、航平が通路側の席へと腰を下ろす。
ドサリ、と柔らかなクッションが沈み込んだ。
その瞬間。
「…………っ」
文乃の背筋が、ピシリと凍りついた。
近い。
想像していたよりも、遥かに近かった。
特急列車の座席は十分にゆったりとした作りであるはずなのに、航平の百八十センチを超える大柄な体躯が隣に座ると、二人の間の空間はあっという間に埋め尽くされてしまった。
肩と肩が。
そして、肘と肘が。
触れ合うか触れ合わないかの、わずか数ミリの隙間を残して、並んでいる。
航平が体勢を少し変えるたびに、ネイビーのサマーニットの布地と、文乃のアイボリーのカーディガンの袖が、カサリと音を立てて微かに擦れ合う。
そこから伝わってくる、大人の男の確かな体温と、微かな清潔な柔軟剤の香り。
文乃は膝の上で両手を揃え、指先をぎゅっと握りしめた。
心臓の音が、特急列車のモーター音よりも大きく響いているような気がして、呼吸が浅くなる。
昨夜の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を埋め尽くす。
――タッパーを包み込んできた、あの熱い手。
――至近距離で囁かれた、あの低い声。
今、隣にいるこの男は、昨夜、文乃の手を力強く引き寄せ、男としての瞳で文乃を射抜いた、あの人なのだ。
その事実を意識すればするほど、皮膚の表面がチリチリと痺れるように熱くなっていく。
一方の航平もまた、完全に石化していた。
膝の上に置かれた両手は硬く握りしめられ、背筋は定規を入れたようにピンと伸びて、シートのリクライニングに背中を預けることすらできずにいる。
通路側を向くこともできず、かといって文乃の方を見ることもできず、ただひたすらに、正面に座るすずの顔を凝視していた。
その耳の輪郭は、先ほどよりも一層赤みを増し、首筋の血管が微かにドクドクと脈打っているのが見て取れた。
ガタゴト、ガタゴト……。
特急列車が滑らかな加速を始め、プラットホームが後ろへと流れていく。
車内チャイムが鳴り、静かなアナウンスが流れる中、大人二人の間の空気は、まるで高電圧の電流が流れているかのようにジリジリと張り詰めていた。
ふと、カーブに差し掛かった瞬間、電車の車体がわずかに左へと傾いた。
「あっ……」
文乃の身体が、遠心力でほんの少しだけ右へと傾く。
――トン。
文乃の左肩と、航平の右肩が、完全に、しっかりと触れ合った。
「…………っ!」
「…………っ!」
二人の息が、同時に喉の奥で止まった。
触れ合った肩の布地を通して、互いの皮膚の熱が、ダイレクトに雪崩れ込んでくる。
航平の肩の筋肉が、ビクッと跳ねて硬直した。
けれど、航平は身体を引かなかった。
文乃もまた、姿勢を戻そうとしながらも、その肩の温もりから完全に離れることができず、触れ合ったままの境界線を、そっと保ち続けていた。
視線が、ふいに交錯した。
文乃が恐る恐る見上げると、航平もまた、耐えかねたように文乃へと視線を落としていた。
至近距離でぶつかり合う、瞳。
航平の瞳には、昨夜のあの熱い情熱と、少年のように無防備な戸惑いが、激しくせめぎ合っていた。
文乃の瞳にもまた、溢れ出しそうな恋情と、恥じらいの熱が満ち満ちていた。
言葉は出ない。
けれど、視線が絡み合ったコンマ数秒の間で、二人の体温は一気に沸点へと達し、互いに顔を真っ赤にして、弾かれたように同時に視線を逸らした。
「っ……」
航平は喉仏を上下させ、強引に咳払いをひとつ落とした。
文乃は窓の外へと顔を向け、流れていく初夏の緑の木々を見つめながら、熱を帯びた自分の頬を手で仰いだ。
大人二人が、まるで初恋の高校生のように甘酸っぱい熱気の中で悶絶している、その向かい側で――。
「きりーんさん、首ながーい♪ ぞうーさん、お鼻がながーい♪」
すずだけが。
シートの上で小さな足をパタパタと揺らしながら、自作の楽しげな動物の歌を、鈴を転がすような声で無邪気に歌い続けていた。
窓の外を指差し、「あやのちゃん、みて! 川だよ!」「パパ、お空が青いね!」と満面の笑顔を振りまいている。
すずの歌声が、張り詰めた大人二人の空気を、優しく、柔らかく解きほぐしていく。
文乃は窓の外の景色を見つめながら、そっと口元を緩めた。
隣から伝わってくる、確かな肩の熱。
正面で歌う、愛おしい少女の笑顔。
これから始まる、三人での初めての休日。
郊外へと疾走する特急列車の窓から差し込む初夏の光を浴びながら、文乃の胸の中には、言葉にならないほどの幸福感と、愛の予感が、どこまでも静かに、深く満ち渡っていた。




