↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/60

第58話:弟と先輩への報告

週が明けた月曜日の正午。


ヒノデフーズ本社ビルの屋上庭園は、先週まで吹いていた涼やかな春の名残をすっかり脱ぎ捨て、初夏から盛夏へと向かう強い日差しに照らし出されていた。


白いオーニングが張られた木製ベンチの上には、心地よい木漏れ日が揺れている。


「――で? 何よ、改まって呼び出したりして。『お昼休み、屋上でお話ししたいことがあります』なんて、あんたから改まってLINEしてくるなんて珍しいじゃない」


コンビニのハムレタスサンドイッチの包装をピリリと破りながら、倉田佳奈が眼鏡の奥の切れ長な目を向けた。


手元には、アイスカフェラテのカップ。先週と同じように、ベージュのジャケットの袖を軽快に捲り上げた姉御肌の先輩は、いつものように鋭い観察眼で文乃をじっと見つめている。


「倉田先輩……」


瀬戸文乃は、膝の上に置いた秋田杉の曲げわっぱのお弁当箱を両手で包み込んだまま、背筋をピンと伸ばして座っていた。


お弁当の蓋は、まだ開けられていない。


文乃の頬は、照りつける初夏の日差しのせいだけではなく、内側から湧き上がる熱気によってほんのりと桜色に染まっていた。


深呼吸をひとつ。


先週の月曜日、この同じベンチで「私、あの親子にとって何なんだろう」「都合のいいお隣さんになってるんじゃないか」とメソメソと泣き言を漏らし、佳奈から痛烈なデコピンと熱い叱咤激励を受けた、あの日の記憶が蘇る。


あの時、佳奈が背中を蹴飛ばしてくれたからこそ、自分は逃げずに踏みとどまることができたのだ。


だからこそ、誰よりも先に、この人に一番に伝えなければならなかった。


「先輩。……先週の金曜日から、土曜日、そして火曜日の夜にかけて……色々なことがありました」


「ええ、知ってるわよ。すずちゃんの熱性痙攣に、有休の看病に、動物園デートでしょ? あんたが金曜日に有休取ってあの部屋に突撃してから、毎日ハラハラしながら見守ってたんだから」


「はい……。そして、火曜日の夜の、あの落雷の停電の時に」


文乃は膝の上の指先をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。


その瞳には、先週のような怯えや迷いは一片もなかった。


真っ直ぐで、澄み切った、確かな大人の女性の光を宿した瞳で、佳奈の目を真正面から見つめ据えた。


「私……佐伯航平さんと、正式にお付き合いすることになりました」


「…………」


ピタリ。


佳奈の手が、空中で静止した。


口元に運ぼうとしていたサンドイッチの三角の端が、ピクリとも動かない。


数秒の、完全なる沈黙。


風が吹き抜け、屋上庭園のオリーブの鉢植えをサワサワと揺らす。


次の瞬間――。


「…………ぶふっ!?」


ボトッ……!


佳奈の手から零れ落ちそうになったサンドイッチが、間一髪、膝の上のラップの上に不恰好に着地した。


佳奈は眼鏡を片手でガタッと跳ね上げ、目を零れ落ちそうなくらいに見開いて、ベンチから身を乗り出した。


「ちょ……っ! ま、待ちなさい! 今、なんて言ったの!?」


「ですから……佐伯さんと、恋人同士になりました」


「う……う……」


佳奈の口元がワナワナと震え、それから――。


「やったじゃないのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっ!!!!」


ガバッッ!!


「きゃっ……!?」


凄まじい勢いで伸ばされた佳奈の両腕が、文乃の華奢な肩を力いっぱいに抱きすくめた。


オフィスの屋上に、佳奈の歓喜の絶叫が響き渡る。


「よくやったわよ文乃ちゃん!! あんた、本当にやりきったじゃないの!! あの超絶生真面目で壁の厚いシングルファザーを、力づくで陥落させたのね!?」


「せ、先輩、苦しいです……! ち、力づくじゃないです! 航平さんの方から……ちゃんと、想いを伝えてくださったんです!」


「なんですってぇぇぇぇ!?」


佳奈は文乃の肩を離すと、今度は文乃の両肩をガシッと掴んで激しく前後に揺さぶった。


「あの男から言ってきたの!? 『すずのために』とかじゃなくて!?」


「はい……『すずの母親役を探しているんじゃない、佐伯航平という一人の男として、文乃さんを愛している』って……そう、言ってくれました」


「…………っ!」


その言葉を聞いた瞬間、佳奈の瞳に、ジワリと熱い涙が滲んだ。


佳奈はフッと息を吐き出すと、眼鏡を外して目元を指の背で乱暴に拭い、それから心底から誇らしげに、満面の笑みを浮かべた。


「……あいつ、やるじゃないの。合格よ、大合格」


「先輩……」


「先週あんたが泣いてた時はどうなることかと思ったけど……ちゃんとした男だったわね。娘を言い訳にしないで、自分の責任で告白してきたなら、文句のつけようがないわ」


佳奈は再び眼鏡を掛け直すと、文乃の頭を優しく、姉貴分としての温かな手つきでポンポンと撫でてくれた。


「おめでとう、文乃ちゃん。本当に、よかったわね」


「はい……! 先輩が背中を押してくれたおかげです。本当に、ありがとうございました……!」


文乃が涙ぐみながら頭を下げると、佳奈は腕を組み、いつものキリッとした表情に戻って、釘を刺すように人差し指を立てた。


「でもね、文乃ちゃん。ここからが本番よ」


「え……?」


「あの誠実そうなパパさんなら、あんたを大事にしてくれることは間違いないでしょうけど……相手は子持ちなのよ。すずちゃんとの関係は、恋人同士になったからって急に『親子』になれるわけじゃないんだから」


佳奈の声音には、既婚者であり、人生の先輩としての現実的で深い慈愛が満ちていた。


「焦っちゃダメよ。ゆっくり、一歩ずつ、三人で『家族』になっていくの。すずちゃんにとっての『大好きなお姉ちゃん』から、自然と絆が深まるのを待つのよ。いいね?」


「はい……! 肝に銘じます」


文乃が力強く頷いた、その時だった。


「おや、瀬戸さん。倉田さんと屋上でランチかい?」


庭園の出入り口のガラス扉が開き、穏やかな笑顔を浮かべた中年男性が歩み寄ってきた。


文乃たちの直属の上司である、営業部の飯島誠課長だった。


「あ、飯島課長! お疲れ様です」


「お疲れ様。いやぁ、天気がいいから少し風に当たりに来たら、向こうまで楽しそうな声が聞こえてね」


飯島課長は手にした缶のお茶を掲げながら、二人のベンチの近くへと歩み寄ってきた。


そして、文乃の明るく晴れやかな表情をまじまじと見つめると、目を細めて頷いた。


「瀬戸さん、先週の金曜日は急な有休だったけれど、身内の看病はもう落ち着いたのかい?」


「あ……はい! おかげさまで、すっかり元気になりました。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」


「いやいや、いいんだよ。それよりね……最近の瀬戸さんを見ていると、一段と仕事の段取りがテキパキして、なんだか表情が内側からパッと輝いているように見えてね。さっきの倉田さんの大声といい……何か、良いことでもあったのかな?」


飯島課長の鋭くも温かい問いかけに、文乃は頬をカーッと赤く染めて口籠もった。


「え、あ……その、それは……」


横から佳奈がニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて口を挟む。


「課長、聞いて驚かないでくださいね。うちの文乃ちゃん、ついに春が来ました。もの凄く誠実で素敵なパートナーができたんです」


「おや! そうなのかい!」


飯島課長は驚いたように目を見張り、それから破顔した。


「それはおめでたい! 瀬戸さんはいつも周囲への気配りばかりで、自分のことを後回しにしがちだからね。大切にしてくれる人が見つかったなら、上司としても本当に嬉しいよ。仕事もプライベートも、しっかり充実させていきなさい。有休だって、必要な時はいつでも遠慮なく申請していいんだからね」


「課長……ありがとうございます!」


職場の温かい祝福に包まれ、文乃の胸の中は、抜けるような初夏の青空と同じくらい、どこまでも晴れ渡っていった。


*

そして――その日の夜。


仕事を終えて帰宅した文乃は、三〇一号室のリビングのソファに腰掛け、スマートフォンの通話画面を見つめていた。


時計の針は、午後八時半を回っている。


隣の三〇二号室からは、すずと航平がお風呂から上がったのか、ドライヤーの微かな駆動音が壁越しに優しく響いてきていた。


文乃は意を決して、画面の『発信』ボタンをタップした。


相手は――実家から新米を担いできてくれた、弟の瀬戸晴臣。


プルルル、プルルル……。


三度目のコール音の後、スピーカーの向こうから、ガサゴソとした物音とともに、賑やかな弟の声が飛び込んできた。


『おー、姉ちゃん! 珍しいじゃん、こんな時間に電話なんて。どうした? 米、もう食い尽くしたか?』


「そんなに早く食べきれるわけないでしょ。まだ半分も減ってないわよ」


『だろー? 三十キロあんだからな。で、何の用? まさかまた美味い常備菜作ったから取りに来いとか?』


「違うわよ。……晴臣、ちょっと大切な話があって」


文乃が改まったトーンで告げると、電話の向こうの晴臣の気配が、ふっと真面目なものへと切り替わった。


『……大切な話? なんだよ、改まって。実家の母ちゃんのことか?』


「違うの。……私自身のこと」


文乃はスマートフォンの受話口を両手で包み込み、深く息を吸った。


「晴臣……先週、うちに来た時に会ったでしょう。お隣の、佐伯さんと、すずちゃん」


『あー、あの佐伯さんか! 長身イケメンで、めちゃくちゃ礼儀正しくて、姉ちゃんの手料理を神様みたいにありがたがって食ってた人な。……あの人がどうかしたの?』


「私ね……佐伯さんと、お付き合いすることになったの」


静寂。


電話の向こう側が、ピタリと音を失った。


一秒、二秒、三秒――。


そして。


『うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!』


「きゃっ!?」


鼓膜が破れるかと思うほどの大音量の雄叫びが、スマートフォンのスピーカーを突き破らんばかりに響き渡った。


文乃は思わず耳からスマホを十センチほど離した。


『よっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!! マジかよ姉ちゃん!! ついに付き合ったのかよッ!!』


「ちょっと晴臣、声が大きすぎる! 近所迷惑でしょ!」


『近所迷惑もクソもあるかよ!! うわー、マジか! 佐伯さん、ちゃんと告白したんだな! 男見せたじゃん、あの人!!』


晴臣は自分の部屋でベッドの上を転がり回っているのか、ドタバタと激しい物音を立てながら興奮冷めやらぬ様子で叫び続けている。


『ていうかさ、姉ちゃん! あんないい男、絶対に逃しちゃダメだと思ってたんだよ俺! 見た目もいいし、性格も真面目すぎるくらい誠実だし、何より姉ちゃんの手料理を世界一美味しそうに食うじゃん! あの人を逃したら、姉ちゃん一生独身街道まっしぐらだったぞ!!』


「な、なによそれ! 失礼ね!」


『事実だろーが! 姉ちゃん、誰かに尽くすばっかりで自分のこと全然アピールできないんだからさ!』


晴臣の底抜けに明るい笑い声。


けれど、次の瞬間。


晴臣の声から、茶化すような調子がふっと消え、弟としての、どこまでも温かい真剣な温度が宿った。


『……でもさ、姉ちゃん』


「……うん?」


『本当によかったな』


静かな、晴臣の呟き。


『俺さ、先週ベランダで佐伯さんと話した時、確信したんだよ。あの人なら、絶対に姉ちゃんを泣かせないって。誰よりも姉ちゃんのことを大切にしてくれるって。……すずちゃんも、めちゃくちゃ可愛いしさ。姉ちゃんが笑って過ごせるなら、俺、家族として全力で応援するからさ』


「晴臣……」


文乃の目頭が、ツンと熱くなった。


普段は調子のいいことばかり言って姉をからかってくる弟が、こんなにも自分の幸せを心から喜んでくれている。


『今度の週末さ、また実家から美味いもん仕入れて、三人のお祝いに突撃していいか? 佐伯さんと男同士で祝杯あげたいんだけど!』


「もう……いきなり押しかけたら佐伯さんが緊張しちゃうでしょ。予定を聞いてからにするわよ」


『へいへい、分かってますよーだ。あ、母ちゃんたちには姉ちゃんから言う? それとも俺からジャブ打っとく?』


「私からちゃんと言うわよ。……近いうちに、電話してみる」


『了解! じゃあな姉ちゃん、本当におめでとう! 佐伯さんによろしくな!』


プツリ、と通話が切れた。


静まり返った部屋。


文乃はスマートフォンを胸元に抱きしめ、ソファの背もたれにゆっくりと身体を預けた。


倉田先輩の涙ながらの抱擁。


飯島課長の温かいエール。


そして、弟の晴臣の底抜けの歓喜と祝福。


周囲の人々が、こんなにも自分たちの結びつきを温かく肯定し、背中を押してくれている。


自分たちの選んだ道は、間違いではなかったのだ。


壁一枚の「余り物」から始まった、あの孤独で小さな物語が、今、たくさんの人々の温かな祝福の輪に包まれながら、確かな未来へと向かって力強く歩み出していた。


文乃は立ち上がり、キッチンの窓を開けた。


夜風が、初夏の心地よい香りを運んでくる。


隣の三〇二号室の明かりが、ベランダ越しに、優しく、柔らかく、文乃の部屋の足元を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。