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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第44話:すずの快気祝い

金曜日の夕暮れ時。西の空を茜色と群青色のグラデーションが美しく染め上げる頃、マンション『メゾン・ド・フルール』の三〇一号室のキッチンには、一日中弱火で煮込まれてきた極上の香りが満ち満ちていた。


換気扇のファンが吸い込んでいく空気には、香味野菜の甘やかな匂いと、赤ワインの芳醇な酸味、そして丁寧に煮詰められた牛肉の力強いコクが溶け合っている。


瀬戸文乃は、黒いホーロー鍋の重たい蓋をそっと持ち上げた。


――ボワッ……!


立ち上る濃厚な蒸気。


深い艶を帯びた漆黒に近い褐色のソース――フォンドボーをベースに、玉ねぎ、人参、セロリのミルポワをバターでじっくり飴色になるまで炒め、トマトペーストと赤ワインを加えて酸味を飛ばし、隠し味に自家製の合わせ味噌と一番出汁をひと匙忍ばせた、文乃特製の『和風仕立てのデミグラスソース』だ。


その煮え立つソースの海の中で、ふっくらと見事に膨らんだ大きなハンバーグが二つと、小さなハンバーグがひとつ、プツプツと心地よい音を立てながら穏やかに煮含められていた。


牛と豚の合い挽き肉に、出汁を含ませた木綿豆腐と、すずが大好きな細かく刻んだ芽ひじきをたっぷりと練り込んだ肉だね。表面を強火でカリッと焼き固めてからこの特製ソースの中で極々弱火で三十分煮込むことで、肉汁は一滴も外へ逃げ出さず、ソースの重厚な旨味だけをスポンジのように吸い込んでいる。


「……うん、完璧」


味見用のスプーンでソースを一滴すくい、舌に乗せた文乃は、小さく満足そうに頷いた。


今夜は、特別な夜だった。


先週木曜日の深夜、四十度近い高熱と熱性痙攣に襲われた佐伯すずの、完全なる復活を祝う『快気祝い』のディナー。


月曜日に登園を再開して以降、すずの体調は一度も崩れることなく、保育園でも給食をおかわりするほど元気に跳ね回っているという。その健やかな回復を祝い、そして何より――あの壮絶な夜を共に戦い抜いた佐伯親子を、温かい手料理で労うための食卓だった。


文乃は火を止め、冷蔵庫のドアを開けた。


チルド室の奥から取り出したのは、ガラスの器に入れられ、しっかりと冷やし固められた三つの『手作りカスタードプリン』だった。


すずが以前から「あやのちゃんのプリンがたべたい!」と何度もねだっていた、昔ながらの固焼きプリン。


文乃の実家から届いたばかりの新鮮な産みたて卵の卵黄を贅沢に使い、濃厚な成分無調整牛乳と生クリーム、バニラビーンズのサヤから削り落とした黒い粒々を合わせ、低温のオーブンでじっくりと湯煎焼きにしたものだ。


器の底に沈んでいるのは、文乃がグラニュー糖とほんの少しの水を手鍋で極限まで熱し、煙が立ち上る寸前で熱湯を注いで仕上げた『焦がしカラメル』。


ただ甘いだけではない。ほのかな苦味と香ばしさが、濃厚なカスタードのコクをキリリと引き締める、大人の味覚と子どもの舌を両方満足させる絶妙な火加減のカラメルだった。


トントン、と玄関の方から小さなノックの音が響いたのは、ちょうどプリンの上に小さなミントの葉を飾り終えた、午後六時五十五分のことだった。


続いて、遠慮がちに鳴らされるインターホン。


ピン、ポーン――。


「あ……」


文乃のエプロンの胸元で、心臓がトクンと力強く跳ねた。


鏡の前で髪のほつれを整え、エプロンの紐をきつく締め直す。


月曜日の昼休み、会社の屋上で先輩の倉田佳奈から受けた、あの痛烈なピリ辛のエールが脳裏をよぎる。


『あんた自身はどうなのよ? 便利な隣人のお姉さんで満足なわけ? 違うでしょ。あの男の隣にいたいでしょ。……だったら、相手が踏み込んでこないなら、あんたから踏み込みなさいよ!』


――私は、逃げない。


文乃は胸に手を当て、深く息を吸い込んでから、玄関ホールへと向かった。


ガチャリ。


鍵を開け、ドアを引く。


「あやのちゃぁぁぁぁぁぁんっっ!!」


開かれた扉の向こうから、弾丸のような勢いで飛び込んできたのは、淡いピンクのフリルがついた新しいワンピースに身を包んだ、佐伯すずだった。


すずは文乃の腰元へ両手を回し、ぎゅううっと抱きついてきた。


「すずちゃん! いらっしゃい!」


「すずね、もうお熱ないの! 喉も痛くないの! 今日ね、保育園で柏木先生に『すずちゃん元気モリモリだね』って言われたんだよ!」


「ふふ、よかった! お顔の色もすごくいいね。ワンピース、とっても可愛いよ」


「えへへ、パパが選んでくれたの!」


満面の笑顔を咲かせるすずの頭を撫でながら、文乃が顔を上げると――。


玄関の外、初夏の薄暮の光を背負って立っていた佐伯航平の姿が、視界に飛び込んできた。


「…………っ」


文乃の息が、喉の奥で止まった。


そこに立っていた航平は、普段の「激務に追われて疲れ果てたシングルファザー」の姿ではなかった。


チャコールグレーの清潔なスラックスに、仕立てのいい淡いネイビーのスタンドカラーシャツ。髪は綺麗に整えられ、無精髭は跡形もなく剃り落とされている。


そして何より――その眼差しだった。


眼鏡の奥の切れ長な瞳には、かつて彼を縛り付けていたあの「恐縮しがちな遠慮」や「拒絶のための営業スマイル」など、微塵も存在しなかった。


深く、静かで、けれど火傷しそうなほどの熱量を宿した、一人の男としての真っ直ぐな視線が、文乃の瞳を真正面から射抜いていたのだ。


「……こんばんは、文乃さん」


低く、耳の奥に心地よく響く男声。


いつもの「瀬戸さん」ではなく、自然に口をついて出た「文乃さん」の響きに、文乃の耳たぶがカッと熱くなる。


「航平さん……こんばんは。どうぞ、上がってください。お料理、ちょうど出来上がったところです」


「ありがとうございます。……お邪魔します」


航平は靴を揃えて上がり框を跨ぐと、手に提げていた小さな手提げ袋を文乃へと差し出した。


「これ……すずと一緒に選んだんです。快気祝いのお礼には到底足りませんが、文乃さんが好きだと仰っていた、山梨の老舗のぶどうジュースです」


「まあ……! 私の実家の近くのワイナリーの果汁百パーセントジュースですね。嬉しいです、ありがとうございます!」


手提げ袋を受け取る瞬間、航平の指先が文乃の指に触れた。


ほんの一瞬の接触。


けれど、その皮膚を通して伝わってきた航平の体温の熱さに、文乃の背筋に心地よい戦慄が走った。


航平もまた、手を引くことなく、数秒間、文乃の顔をじっと見つめていた。


その瞳の奥にあるものは、月曜日に神谷陸から非常階段で胸ぐらを掴まれ、『男なら腹を括れ』と最後通告を突きつけられた男が抱く、揺るぎない覚悟そのものだった。


「……さ、冷めないうちに食べましょう! すずちゃん、お腹空いたでしょう?」


「うん! すず、お腹ぺこぺこ!」


文乃は照れ隠しのように声を弾ませ、二人をダイニングへと案内した。


テーブルの中央には、美しく磨かれた白い大皿が三つ並べられていた。


大皿の真ん中に鎮座するのは、艶やかな漆黒のデミグラスソースをたっぷりと纏った、ふっくらと分厚い煮込みハンバーグ。


ナイフを入れるまでもなく、箸でそっと押すだけでジュワッと透明な肉汁がソースの海へと溶け出していくのが見て取れる。


脇を固めるのは、すずのために型抜きした星型の春人参のグラッセ、鮮やかな緑のブロッコリー、そして皮ごとこんがりとローストされた新じゃがいも。


さらに、山梨の減農薬カボチャを裏ごしして牛乳と生クリームで伸ばした、黄金色の冷製ポタージュスープと、炊きたての新米が添えられている。


「わあぁぁぁぁぁっっ!!」


すずが子ども用の椅子の上で身を乗り出し、両手をパチパチと叩いて歓声を上げた。


「ハンバーグ! 黒いソースのハンバーグだ! お星さまもいる!」


「ふふ、すずちゃんが元気になったお祝いだからね。特別に、大好きなものばっかり集めたんだよ」


航平がすずのスモックの代わりに、持参した清潔な食事用エプロンを手際よく首に巻いてやる。その手つきは驚くほど優しく、慣れたものだった。


「文乃さん、本当に……何から何まで、ありがとうございます。いただきます」


「いただきます!」


三つの「いただきます」が重なり合い、食卓に賑やかなスプーンとフォークの音が響き始めた。


すずは小さなスプーンで、ハンバーグの端を小さく切り取った。


抵抗なくスッとスプーンが沈み込む。


ひじきと豆腐が練り込まれた断面から、肉汁が溢れ出す。


すずは大きく口を開け、それをパクリと放り込んだ。


モグ、モグ……。


小さな口が二度、三度と動いた、その瞬間。


「…………っっっ!!!」


すずの大きな黒目が、キラキラと零れ落ちんばかりに見開かれた。


「ふわっっ……ふわ!!」


すずは両手で自分の小さな頬を押さえ、椅子の上でお尻をピョンピョンと跳ねさせた。


「パパ! あやのちゃん! これ、すっごくふわふわ! お口のなかで、じゅわ〜ってとけちゃう!」


「本当か、すず」


航平も笑みをこぼしながら、自らの箸でハンバーグを一口大に割り、口へと運んだ。


咀嚼した瞬間、航平の喉仏が大きく動いた。


「…………っ、これは……!」


航平の瞳に、強烈な感動の色が走る。


「デミグラスソースのコクが信じられないくらい深いのに……全然重たくない。後味がすっきりと上品なのは、出汁とお味噌が入っているからですか?」


「さすが航平さん、大正解です」


文乃は嬉しそうに微笑んだ。


「赤ワインとフォンドボーだけだと、子どもの舌には少し酸味や苦味が強すぎちゃうんです。だから、昆布と鰹節の一番出汁で伸ばして、隠し味に白味噌を少しだけ加えてあるんです。味噌の酵母が、お肉の脂をまろやかに包み込んでくれるんですよ」


「素晴らしいです……。お肉も、豆腐が入っているとは思えないほどジューシーで、でも噛む力がいらないくらい柔らかい。……先週の木曜日、すずが喉を痛めて泣いていたのが嘘のようです。これなら、喉に何の負担もなく、いくらでも美味しく食べられます」


「パパ、お星さまもおいしいよ! あま〜い!」


すずは星型の人参をフォークで刺し、得意げに父親に見せびらかしてから口に放り込んだ。


かつて野菜を見ただけで泣き叫び、食卓から逃げ出していた偏食の少女の姿は、ここにはもう微塵も存在しなかった。


すずは自らの小さなスプーンを一度も止めることなく、ハンバーグを平らげ、カボチャの冷製スープを「あま〜い、お花ばたけの味がする!」と飲み干し、新米のご飯まで綺麗に完食してしまった。


「ふぅ……! お腹いっぱい!」


すずが満足そうに小さなぽっこりとしたお腹を両手で撫でた。


「すずちゃん、全部食べてくれてありがとう。……でもね、まだお楽しみがあるんだよ」


「おたのしみ……? あやのちゃん、なあに?」


文乃は悪戯っぽく微笑むと、席を立って冷蔵庫へと向かった。


そして、銀のトレイに乗せて運んできたのは――。


ガラスの器の中で、琥珀色のカラメルソースをたっぷりと湛えた、黄金色のカスタードプリンだった。


「わあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」


すずが今日一番の黄色い歓声を上げた。


「プリン! つるつるのプリンだぁぁぁっ!!」


「すずちゃんがずっと食べたがっていた、手作りのプリンだよ。スプーンで一口すくってごらん」


すずは小さなスプーンを握り直すと、プリンの表面へと慎重に刃先を入れた。


プルン、と心地よい弾力。


市販のゼラチンで固めた柔らかいプリンとは違う、卵の力だけでしっかりと蒸し焼きにされた、昔ながらの固焼きプリンの密度の高い感触。


すずはスプーンに乗った黄金色のカスタードと、とろりと垂れるカラメルソースを、大きく開けた口の中へと滑り込ませた。


「…………っ!」


すずの顔全体が、蕩けるような至福の表情へと染め上げられた。


「つるつる……! たまごの味がすっごく濃くて、あまくて……でも、ちょっとだけ、パパのコーヒーみたいないい匂いがする!」


「ふふ、カラメルを少しだけ焦がしてあるからね。香ばしいでしょう?」


「うん! 世界一おいしい! すず、あやのちゃんのプリン、まいにち食べたい!」


無邪気にスプーンを進め、器の底のカラメルソースまで綺麗にすくい取っていくすず。


食卓には、かつてないほどの多幸感と、温かな笑い声が満ち溢れていた。


――けれど。


その賑やかな子どもの声の裏側で。


テーブルを挟んで向かい合う、大人二人の間の空気は、次第に、別の熱を帯び始めていた。


「…………」


「…………」


ふと、文乃がすずの口元をナプキンで拭ってあげた後、顔を上げた時だった。


向かい側に座る佐伯航平の視線と、文乃の視線が、空中で真っ向から衝突した。


――逸らせない。


いつもであれば、どちらからともなく「あ、すみません」と照れくさそうに視線を外していたはずだった。


隣人としての節度。


大人の男女としての遠慮。


お互いに踏み込んではならないと自らに課していた、あの分厚い見えないガラスの壁。


けれど今夜、二人の瞳の間には、そんな壁は一枚たりとも存在しなかった。


航平は、グラスを置いた両手をテーブルの上にしっかりと揃え、身じろぎひとつせずに文乃を見つめていた。


その瞳は、深海のように静謐で、けれどマグマのような強烈な熱を宿していた。


――逃げない。


――もう、父親という仮面の後ろには隠れない。


航平の瞳が、無言のまま、雄弁にそう語りかけていた。


月曜日に親友の陸から浴びせられた言葉。


金曜日の朝、薄開きのドアの向こうで見た、娘の手を握りしめて微睡む文乃の美しい横顔。


あの瞬間に自覚した、佐伯航平という一人の男としての、剥き出しの恋情。


それらのすべてを、航平は一片も隠すことなく、その真っ直ぐな眼差しに乗せて、文乃の心の最深部へと撃ち込んでいた。


そして――。


文乃もまた、その視線から、コンマ一秒たりとも瞳を逸らさなかった。


文乃の大きな瞳の奥に宿っていたのは、月曜日に屋上で佳奈から叩き込まれた、大人の女性としての揺るぎない覚悟だった。


――私は、都合のいいお隣さんになんてならない。


――あなたたちの隣に、胸を張って立つ一人の女として、あなたを受け止める。


言葉は、何ひとつ交わされていなかった。


交わされているのは、ただの視線。


けれどそれは、互いの魂と魂が、一切の防御を捨てて真正面からぶつかり合う、無言のクロスカウンターだった。


空気が、ジリジリと熱く張り詰めていく。


テーブルを挟んだわずか一メートルの距離が、まるで磁場のように強く引き合い、互いの心臓の鼓動が、ドクン、ドクンと激しいリズムでシンクロしていくのが分かる。


すずが「ごちそうさまでした!」と元気に両手を合わせた瞬間すら、二人の視線は絡み合ったまま、解けることはなかった。


航平の喉仏が、ごくりと音を立てて動く。


文乃の白い喉元が、微かに上気して朱に染まる。


お互いに、確信していた。


もう、後戻りはできない。


「親切なお隣さん」と「限界のシングルファザー」という、安全で心地よかったあの仮初めの関係は、今夜、この食卓をもって、完全に終わりを告げるのだと。


今夜、何かが決定的に変わる。


静かな部屋の中に、焦がしカラメルのほろ苦く甘い香りと、大人二人の激しく高鳴る鼓動だけが、熱く、深く、響き渡っていた。

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