第43話:文乃の自問自答
正午を告げる電子チャイムの澄んだメロディが、ヒノデフーズ本社ビルのオフィスフロア全体に鳴り響いた。
カタカタと忙しなく鳴り続けていたキーボードの打鍵音が潮が引くように止まり、デスクの引き出しが開閉する音や、財布やポーチを手にした社員たちのリラックスした話し声がフロアを満たしていく。
「文乃ちゃん、行くわよ。屋上」
パーテーション越しに声をかけてきたのは、先輩社員の倉田佳奈だった。
綺麗に切り揃えられた前下がりボブに、シャープなシルバーフレームの眼鏡。ベージュのジャケットの袖を小気味よく捲り上げ、片手にはコンビニのサンドイッチの包みとテイクアウトの紙カップを提げている。
「あ……はい、先輩。今行きます」
瀬戸文乃は、パソコンの画面をロックスクリーンに切り替えると、デスクの引き出しから愛用の保冷ランチバッグを取り出した。
社員用のエレベーターで最上階まで上がり、重たい鉄扉を押して外へと出る。
そこには、遮るもののない初夏の眩い青空と、地上十階の高さを吹き抜ける心地よい風に満ちた、社員専用の屋上庭園が広がっていた。ウッドデッキの通路の両脇には手入れの行き届いたオリーブの鉢植えやラベンダーが揺れ、遠くには初夏の陽光を浴びて白く霞む高層ビル群がパノラマのように広がっている。
二人は、庭園の隅にある木製の屋上ベンチへと腰を下ろした。
強い日差しを遮るように白い布製のオーニングが張られており、木漏れ日のような柔らかな光が二人の膝元を優しく照らしている。
文乃は膝の上に清潔なリネンのナプキンを広げ、保冷バッグから秋田杉の曲げわっぱのお弁当箱を取り出した。
杉の白木が美しくカーブを描く二段重ねの弁当箱。
蓋を開けると、ふわりと、手作りの優しい出汁の香りが初夏の風に乗って広がった。
下段には、先週実家から弟の晴臣が担いできてくれた新米をふっくらと炊き上げた白米。その中央には、文乃が祖母直伝の塩分濃度で漬け込んだ鮮やかな赤紫蘇の自家製梅干しが鎮座している。
上段には、彩り豊かなおかずが隙間なく美しく詰められていた。
出汁をたっぷりと抱き込んで黄金色に焼き上げられた甘口のだし巻き卵。
すずが大好きな、星型に型抜きした春人参のグラッセ。
鰹節と出汁醤油で苦味を完全に消し去ったブロッコリーのおかか和え。
そして、鶏ひき肉に細かく刻んだ蓮根を練り込み、甘辛い照り焼きタレで絡めたミニサイズのつくね。
料理のプロが見ても息を呑むような、丁寧で、滋味深く、見る者の食欲を無条件に刺激する完璧な曲げわっぱ弁当。
けれど――。
「…………」
文乃の手は、白木の箸を割ったまま、ぴたりと空中で止まっていた。
一口目の卵焼きをつまみ上げようとした箸先が、迷うように微かに震え、そのまま再び弁当箱の縁へと静かに戻される。
文乃は小さく息を吐き出すと、膝の上でお弁当を見つめたまま、ぼんやりと屋上の手すりの向こう、どこまでも高く広がる青空へと視線を彷徨わせた。
食欲が、湧かなかった。
喉の奥が、何かに塞がれているかのように狭く、重たかった。
今朝出社してから、ずっとそうだった。
先週の金曜日に急遽取得した有給休暇。
その前夜――木曜日の深夜一時半に壁の向こうから響き渡った、すずの熱性痙攣と、狂乱する佐伯航平の絶叫。
深夜の救急搬送、病院の硬いベンチ、そして金曜日の朝、航平の部屋の台所に立ち、本葛を練ってリンゴをすりおろし、出汁を引いておかゆを炊いた、あの数時間。
土曜日には弟の晴臣がやってきて、四人で新米のおにぎりを頬張り、航平の誠実な人柄に触れて、笑い合ったはずだった。
日曜日にはすずの熱も完全に下がり、平和な日常が戻ってきたはずだった。
それなのに。
日常の業務へと引き戻された月曜日の今日、文乃の胸の奥底には、冷たい霧のような、得体の知れない「恐怖」と「自己嫌悪」が、じわじわと澱のように溜まり始めていたのだ。
「……ため息つくなら、一口食べてからにしなさいよ」
隣から、ピシャリと小気味よい声が飛んできた。
文乃がハッとして横を向くと、佳奈がサンドイッチの三角の端をリスのように器用に咀嚼しながら、眼鏡の奥の鋭いジト目で文乃の横顔を凝視していた。
「倉田、先輩……」
「金曜日の朝、始業前の八時半に『急な身内の看病のため有休をいただきます』って震える手で申請出してきた時から、あんたの様子が変なことくらい、お見通しよ」
佳奈はテイクアウトのカフェラテのストローをチュッと吸い上げ、脚を組み替えた。
「伝票の処理も、取引先への納期回答も、全部私が完璧に片付けておいたから、仕事の穴のことは一ミリも心配しなくていいわ。飯島課長だって『瀬戸さんは普段から有休も取らずに真面目にやってるんだから、こういう時こそ助け合うのが組織だ』ってニコニコ送り出してくれたんだから」
「先輩……本当に、金曜日はご迷惑をおかけして、ありがとうございました……」
「お礼なんていいのよ。同僚なんだから」
佳奈はフンと鼻を鳴らすと、手にしたサンドイッチを置き、文乃の顔を真正面から覗き込んできた。
「で? 何があったのよ。身内の看病ってのは方便で、本当は『あのお隣さん』でしょ?」
「っ……!」
文乃の肩が、ビクリと小さく跳ねた。
佳奈の洞察力は、相変わらず寸分の狂いもなく的確だった。文乃が山梨の実家に帰省した形跡がないこと、そしてここ数週間の文乃の挙動から、相手が隣室の佐伯親子であることなど、佳奈にとっては自明の理だったのだ。
佳奈はアイスラテのカップを手の中で転がしながら、淡々と続けた。
「有休取って、男の部屋に朝から駆け込んで、看病してあげたんでしょ? ……それ自体は、まあ、あんたのお人好し全開の行動力だとして理解できるわよ。すずちゃんって子、小さくて可愛いんでしょ。放っておけなかったのも分かる」
佳奈の視線が、すっと細められる。
「でも、今のあんたのその顔は何? 大好きな男を助けてあげて、子どもを救って、感謝されて、ホッとして満たされてる顔じゃないわよね。まるで……自分が何か取り返しのつかない大罪でも犯しちゃったみたいに、青ざめて怯えてるじゃないの」
「…………っ」
文乃の喉が、熱く詰まった。
痛いところを、素手で抉り出されるような感覚。
誰にも言えなかった。
実家の両親にも、弟の晴臣にも、そして何より、佐伯航平本人にすら絶対に吐露することのできない、自らの心の奥底に巣食う醜い不安の塊。
文乃は膝の上で曲げわっぱのお弁当箱をぎゅっと抱きしめ、視線を落とした。
初夏の風が吹き抜け、屋上庭園のラベンダーをざわざわと揺らしていく。
数秒の沈黙の後。
文乃の唇から、震えるような、掠れた告白が零れ落ちた。
「……先輩」
「うん」
「私……有休まで取って、すずちゃんの看病をして、あの人の部屋の台所に立って……」
文乃は指先を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
「……ふと、怖くなったんです」
「怖くなった?」
「はい」
文乃は唾を飲み込み、胸の中の澱を、一滴残らず絞り出すように言葉を紡いだ。
「私……あの親子にとって、一体、何なんだろうって」
「…………」
「佐伯さんは、いつも私に深々と頭を下げて、『申し訳ない』『感謝してもしきれない』って言います。すずちゃんも、『あやのちゃん大好き』って、私の手を握って笑ってくれます。……それは、本当に心からの言葉で、嘘じゃないって分かっています」
文乃の瞳に、じわりと涙の膜が張っていく。
「でも……私、ただのお隣さんなんですよ? 親戚でもない、血も繋がってない、恋人でもない……ただの、隣の部屋に住んでいるだけの、二十八歳の独身女性なんです」
声が、微かに震える。
「それなのに、合鍵もない他人の部屋に上がり込んで、エプロンを着けてご飯を作って、有休まで取って子どもの看病をして……。周りから見たら、これって……ただの『都合のいいお隣さん』じゃないですか?」
「…………」
「佐伯さんが求めているのは、私の愛情じゃなくて……ただ、困った時に助けてくれる、無料の家政婦やベビーシッター代わりの手札なんじゃないか。……私自身が、あの二人の温もりに縋り付きたいがために、自分から進んで『都合のいい女』になりにいってるだけなんじゃないかって……そう思ったら、急に足元が真っ暗になって、怖くてたまらなくなっちゃったんです……っ!」
吐き出された、魂の叫び。
それは、文乃がここ数日間、誰にも言えずに一人きりの部屋で抱え込み続けていた、もっとも深く、もっとも根源的な恐怖だった。
自分は、必要とされているのか。
それとも、ただ「便利に使われている」だけなのか。
もし、自分が差し出しているものが、相手にとって単なる「好都合な援助」に過ぎないのだとしたら――この先、自分はどうなってしまうのだろう。
尽くして、尽くして、最後には「お隣さん、今までありがとう」と笑顔で手を振られて、空っぽの部屋に一人取り残されるのではないか。
そんな惨めな結末を迎えるくらいなら、最初から踏み込むべきではなかったのではないか――。
文乃は顔を覆い、肩を小さく震わせた。
大人の女としての自制心と、恋情の狭間で引き裂かれそうになっている文乃の姿を、佳奈は黙って見つめていた。
屋上の空気を、沈黙が支配する。
やがて――。
ズズッ、とストローが底を擦る音が響いた。
佳奈は手元のアイスラテを最後の一滴まで豪快に飲み干すと、プラスチックのカップをベンチの脇へと置いた。
そして、身体の向きを完全に文乃の方へと向け、首をコキリと鳴らした。
次の瞬間。
――トンッ!
「いった……っ!?」
文乃の額に、硬い衝撃が走った。
文乃が両手で額を押さえて顔を上げると、そこには、人差し指をピシッと立てた佳奈が、呆れ返ったような眼差しで文乃を見下ろしていた。
「先輩……? 今、デコピン……」
「あんたねぇ」
佳奈は深く、盛大なため息をひとつ吐き出した。
そして、眼鏡の位置を中指でクイッと押し上げながら、容赦のないピリ辛な声を叩きつけた。
「あんたのその被害妄想、いい加減にしなさいよ。聞いてて頭痛がしてきたわ」
「ひ、被害妄想……?」
「そうよ、ド直球の被害妄想よ!」
佳奈は腕を組み、ベンチの背もたれにドカッと体重を預けた。
「いい? 文乃ちゃん。『都合のいい女』っていうのはね、相手の男から『今から飯作りに来て』って深夜に都合よく呼び出されたり、『金貸して』って言われて貢がされたりして、相手にいいように利用されてボロボロに擦り切れる女のことを言うのよ!」
佳奈の人差し指が、文乃の鼻先を突くように向けられる。
「その佐伯さんって人、あんたを利用してる? あんたに甘えて、ふんぞり返って、タダ飯を要求してきたことがあるわけ!?」
「そ、それは……ありません。一度も……」
「ないでしょ! むしろ逆じゃない! 換気扇の油汚れを新品同様に磨き上げたり、雨漏りのベランダで泥だらけになって排水溝を直したり、電球を付け替えたりして……あんたに甘えまいと、必死でお返しをしてきてるんでしょ!?」
「は、はい……」
「先週だってそうよ! あんたがハンバーグ持って行ったら、『これ以上甘えるのは人として間違っている』って、冷酷な営業スマイル作って頑なにドア閉ざしたって言ってたじゃない! それ、都合よく利用しようとしてる男の態度なわけ!? むしろ真逆! あんたに迷惑をかけることを死ぬほど恐れて、必死で自分を律して、バカみたいに一線引こうとしてる男の態度そのものじゃないの!!」
「っ…………!!」
佳奈の痛烈な正論が、文乃の胸の霧をバッサバッサと切り裂いていく。
ぐうの音も出なかった。
佳奈の言う通りだったのだ。
航平は、一度たりとも文乃の善意に無神経に寄りかかったことなどなかった。
むしろ、甘えてしまう自分を恥じ、文乃の未来を縛ることを極度に恐れ、自分自身を傷つけるようにして距離を置こうとしていたのだ。
「相手の男が、そこまで誠実に、不器用に、あんたに対して境界線を守ろうと必死になってるのにさ」
佳奈の声が、少しだけ落ち着きを取り戻し、けれど芯のある温度を帯びた。
「それを『都合のいいお隣さんにされてるんじゃないか』なんて疑うのはね、文乃ちゃん。相手の佐伯さんに対しても、失礼極まりないわよ」
「佐伯さんに、失礼……」
「そうよ。あの男の不器用な誠実さを、あんた自身の臆病さで侮辱してるのと一緒よ」
佳奈の言葉が、文乃の胸に深く、重たく突き刺さった。
文乃は俯き、自分の膝の上の曲げわっぱを見つめた。
航平の顔が浮かぶ。
あの、深夜の救急外来で、娘の無事を知ってベンチにへたり込み、子供のように泣きじゃくっていた姿。
白湯を渡された時、重なり合った手のひらの温もりに、熱い涙を零していた姿。
あの男が、自分を利用しようとしていただなんて、そんなはずがなかったのだ。
自分が「傷つきたくない」という保身のために、相手の誠実さに勝手に疑心暗鬼の仮面を被せていただけだったのだ。
佳奈は、そんな文乃の項垂れた頭を、今度は優しく、掌でポンポンと撫でてくれた。
姉貴分の温かな手。
「……でね、文乃ちゃん」
「はい……」
「ここからが、一番大事な本質よ」
佳奈は身を乗り出し、文乃の瞳を、真正面からじっと見つめ据えた。
その瞳には、からかいの色は微塵もなかった。
一人の大人の女性としての、人生の先輩としての、真剣な光が宿っていた。
「あんた自身は、どうなのよ?」
「え……?」
「『あの親子にとって私は何なのか』じゃないのよ。主語を相手にするんじゃないわよ」
佳奈の言葉は、鋭利なメスのように、文乃の心の最深部を切り開いていく。
「あんた自身は、どうしたいの? 便利な隣人のお姉さんで、このまま満足なわけ?」
「っ……」
「違うでしょ」
佳奈は静かに、けれど逃げ場のない確信を込めて言い放った。
「あんた、あの男の隣にいたいでしょ。あの親子の真ん中に、胸を張って立っていたいでしょ」
「…………っっっ」
文乃の心臓が、跳ね上がった。
呼吸が、止まりそうになった。
佳奈の放った言葉は、文乃自身がずっと心の奥底に押し込め、名前をつけることを恐れ続けていた、絶対的な真実だった。
「ただのお隣さんで終わりたくないから、有休まで取ってあの部屋に駆け込んだんでしょ。すずちゃんの手を握りしめて、あの子の笑顔を守りたいって思ったんでしょ。佐伯さんの背中を押して、あの人の支えになりたいって願ったんでしょ」
佳奈は文乃の肩を、両手で力強く掴んだ。
「だったら――相手が踏み込んでこないなら、あんたから踏み込みなさいよ!」
「私から……!?」
「当たり前じゃない! 大人の女が覚悟決めなくてどうすんのよ!」
佳奈の檄が、初夏の屋上の青空に響き渡った。
「あの男はね、子持ちで、バツイチで、真面目すぎるのよ! 自分の立場を弁えすぎて、自分からあんたの領域に踏み込む勇気なんて、逆立ちしたって持てないわよ! 『彼女の未来を奪っちゃいけない』って、自分で自分を縛り付けてるに決まってんじゃない!」
佳奈の言葉は、まるで航平の心の声をそのまま代弁しているかのようだった。
「そんな不器用な男を待ってたって、一生進展しないわよ! あんたが本当にあの男を愛してるなら、あの男の隣にいたいなら……外堀から眺めてウジウジ悩んでないで、あんたの方からその分厚い壁をぶち破りに行きなさいよ!」
「壁を……ぶち破る……」
「そうよ! 『私はあなたの都合のいいお隣さんじゃなくて、あなたたちと一緒に生きていきたい一人の女です』って、全身全霊で突きつけてやりなさい! 相手に覚悟がないなら、あんたの覚悟で男を引っ張り上げんのよ! それが、恋をするってことじゃないの!!」
「っ…………!!!!」
全身に、電流が駆け抜けたようだった。
目から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
けれど、それは先ほどまでの怯えや自己嫌悪の涙ではなかった。
胸の中に澱のように溜まっていたすべての迷いが、佳奈の放った熱いエールによって、一瞬にして蒸発し、吹き飛んでいったのだ。
そうだ。
自分は、何を怯えていたのだろう。
都合のいいお隣さんになるのが怖い?
利用されるのが怖い?
そんなものは、すべて自分が傷つくのを恐れていただけの、みっともない逃げ腰だった。
あの人は、命を削ってすずちゃんを守っている。
あの人は、自分を傷つけまいと、必死で自制の鎖に縛られている。
ならば――。
自分がその鎖を断ち切ってあげればいいのだ。
誰に何と言われようと、世間体がどうであろうと、自分があの男を愛し、あの少女を愛しているという事実は、何物にも揺るがないのだから。
「……先輩」
文乃は涙を手の甲で力強く拭い去った。
そして、顔を上げた。
その瞳の奥には、先ほどまでの弱々しい曇りは、もう欠片も残っていなかった。
初夏の強い日差しを跳ね返すような、凛とした、どこまでも真っ直ぐで力強い、大人の女性の『覚悟の光』が、宿っていた。
「……ありがとうございます」
澄み切った、確かな文乃の声。
「私……覚悟、決めます。逃げません」
「ふん、最初からそう言いなさいよ」
佳奈はフッと満足そうに口角を上げると、自分のバッグからティッシュを取り出して、文乃の鼻先へと押し付けた。
「ほら、鼻かみなさい。せっかくの美味そうなお弁当が冷めちゃうでしょ」
「ふふ……はい!」
文乃はティッシュで目元を拭うと、膝の上の曲げわっぱのお弁当箱へと向き直った。
白木の箸を取り、黄金色のだし巻き卵を一口、口へと運ぶ。
噛み締めた瞬間、じゅわりと溢れ出す、昆布と鰹節の豊かな出汁の旨味。
甘くて、温かくて、身体の芯に力が満ちていく。
――美味しい。
食べることは、生きること。
そして、誰かと分かち合うことは、愛すること。
今週の金曜日の夜。
すずちゃんの完全復活を祝う『快気祝い』のディナーを、三〇一号室で開く約束をしてある。
すずちゃんが大好きな、特製デミグラスソースの煮込みハンバーグと、昔ながらの固めの手作りカスタードプリン。
その食卓で。
自分は、もう二度と目を逸らさない。
ただの親切なお隣さんという仮面を脱ぎ捨てて、一人の女として、あの不器用な男の瞳を、真正面から見つめ返そう。
屋上の向こうに広がる、どこまでも高く青い空。
吹き抜ける初夏の風を全身に浴びながら、文乃の胸の中には、愛する人たちのもとへと踏み出すための、揺るぎない勇気の火が、赤々と燃え盛っていた。




