第42話:神谷陸の最後通告
週が明けた月曜日の朝。
初夏の陽光は、五月の爽やかさを脱ぎ捨てて、初夏から盛夏へと向かう強い熱気を街路樹の濃い青葉に注ぎ込んでいた。
午前八時十五分、あおぞら保育園の玄関ホール。
「柏木せんせぇぇぇぇいっ!」
登園するなり、廊下の人工芝を弾むように駆け抜けていった佐伯すずの姿に、担任の柏木創は目を丸くし、それから破顔した。
「おっ、すずちゃん! もうすっかりお熱下がったんだね! おはよう!」
「うん! 金曜日、あやのちゃんのおかゆ食べたから、もう全然痛くないもん!」
すずは胸を張り、黄色いキルティングバッグのクマのワッペンを誇らしげに揺らしながら、何日ぶりかの登園を全身で喜んでいた。
木曜日の深夜、四十度近い熱性痙攣で救急搬送されたあの修羅場が嘘のように、すずの体温は土曜日には三十六度台の平熱へと完全に落ち着き、日曜日にはすっかり普段通りの食欲と元気を取り戻していたのだ。
すずの後ろで、航平は深々と柏木に頭を下げた。
「先生、先週はご心配をおかけしました。お薬もすべて飲みきり、今朝の検温も三十六度五分です。一日中元気に過ごせると思います」
「本当によかったですね、佐伯さん。一時はどうなることかと心配しましたが……瀬戸さんがいてくださって、本当に心強かったですね」
「はい……本当に、頭が上がりません」
すずを預け、園の門を出た航平の足取りは、先週までの鉛を引きずるような重さとはまるで違っていた。
睡眠不足による微かな疲労感は残っていたものの、胸の奥底にあった「一人で抱え込み、孤立無援で溺れかけていた恐怖」は、跡形もなく消え去っていた。
電車に揺られ、午前九時前に渋谷の道玄坂を登る。
雑居ビルの四階にあるWeb開発会社『ネクスト・ロジック』のオフィスドアを開けると、フロア全体がいつになく華やいだ熱気に包まれていた。
「あ、佐伯さん! おはようございます!」
「佐伯さん、先週金曜のプレゼン、最高でした!」
若手のエンジニアやデザイナーたちが、次々と航平に向かって満面の笑みで声をかけてくる。
金曜日の午前中、航平が自室の防音ワークスペースから挑んだオンラインプレゼンテーション――国内最大手FinTech企業の基幹システム刷新コンペは、週末の間にクライアントの役員会を通過し、今朝一番で『ネクスト・ロジック社への正式発注の内定』という特大の吉報が届いていたのだ。
先週のシステム障害の危機を乗り越え、数十人の社員を抱えるこのベンチャー企業の今後数年間の基盤を確固たるものにした、まさに大金星。
「みんな、ありがとう。僕一人の成果じゃないよ。神谷が前段の調整をしてくれて、みんながログ解析を支えてくれたおかげだ」
航平は穏やかに微笑みながら会釈を返し、自席へと向かった。
午前中は溜まっていたコードレビューと、正式契約に向けた要件定義書の骨子作成に没頭した。キーボードを叩く指先には迷いがなく、頭脳は極めてクリアだった。
けれど、ディスプレイに並ぶ英数字の奥で、航平の脳裏から一秒たりとも離れなかったのは、金曜日の朝、薄開きの寝室のドアの向こうで目撃した、あの奇跡のように美しい光景だった。
――すずの小さな手を包み込み、窓からの柔らかな光を浴びて微睡んでいた、瀬戸文乃の姿。
寝息に合わせて揺れていた、あの柔らかな前髪。
そして、胸の奥底で音を立てて決壊した、一人の男としての激しく、狂おしいほどの恋情――。
「…………」
航平が無意識のうちにタイピングを止め、小さく息を呑んだ、その時だった。
――トン。
デスクのパーテーションの隙間から、冷えた缶コーヒーが一本、無造作に目の前へと置かれた。
「おい、エースエンジニア。手が止まってんぞ」
見上げると、ネクタイを緩め、ワイシャツの腕を肘まで捲り上げた神谷陸が、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。
航平の大学時代からの親友であり、この会社を共に立ち上げた共同創業者。
「神谷……。缶コーヒー、ありがとう」
「礼なんていいよ。お前のおかげで、うちの会社はあと三年は飯が食えることになったんだからな。……で?」
陸は顎をくいっとフロアの奥――非常階段へと続く重い鉄の防火扉の方へと向けた。
「ちょっと付き合えよ。大事な話がある」
「大事な話……? 契約の条件面か?」
「いいから来いって。仕事の話じゃねえよ」
陸はそう言うと、カーゴパンツのポケットから煙草の箱とジッポライターを取り出し、踵を返した。
航平は首を傾げながらも、缶コーヒーを手に取り、陸の後を追って防火扉を押し開けた。
重たい鉄の扉がバタンと閉まり、オフィスのキーボードの打鍵音と電話のコール音が遮断される。
ビルの吹き抜けになった非常階段の踊り場。
頭上には渋谷の初夏の青空がぽっかりと四角く切り取られ、ビルの谷間を吹き抜ける生ぬるい風が、二人のシャツをバタバタと揺らしていた。
ここは、社内でも愛煙家の陸が、煮詰まった時にだけ使う隠れ家のようなスペースだった。
陸は踊り場のステンレス製の手すりに寄りかかり、煙草を一本咥えてジッポのホイールを擦った。
シュッ、ボッ。
小さな炎が紫煙を生み出し、初夏の風に乗ってふわりと灰色の煙が流れていく。
陸は煙を深く吸い込み、青空へ向かって紫煙を長く吐き出した。
そして、手すりに手を置いて街を見下ろしている航平の横顔を、じっと、値踏みするように見つめた。
「すずちゃん、熱は下がったのか?」
「ああ。完全に平熱に戻ったよ。今朝も元気に保育園へ行った。先生も驚いてたくらいだ」
「そうか。……本当によかったな」
陸は短く呟き、煙草の灰を携帯灰皿にトントンと落とした。
航平は缶コーヒーのプルタブを引き、一口喉に流し込んだ。微かな苦みが舌を刺激する。
「金曜日は……本当に助かったよ、神谷。僕がプレゼンに集中できるように、前後のフォローを全部引き受けてくれて」
「当たり前だろ。お前が書いた設計書なんだから、お前が喋らなきゃ勝てるわけがねえ。……だがな、航平」
陸の声音から、いつもの軽薄な響きがふっと消え去った。
陸は煙草を指に挟んだまま、目を細めて航平を見据えた。
「俺が聞いてえのは、そっちの話じゃねえんだよ」
「え……?」
「金曜の朝九時過ぎ。お前と電話で怒鳴り合ってた時……電話口にいきなり割り込んできた、あの女性のことだ」
「…………っ」
航平の喉が、音を立てて硬直した。
陸の鋭い眼光が、逃げ場を塞ぐように航平を射抜いている。
「『神谷さん、おはようございます。プレゼン、予定通り始めてください』って、あの澄んだ声で堂々と言い放ちやがった、あの人だよ。……あれ、お隣の瀬戸さんだろ?」
「あ……ああ。そう、だけど……」
「お前、あの時『すずを一人にできないからプレゼンを延期してくれ』って泣き言言ってたよな? それが、あの電話の直後にお前が仕事部屋に入ってきて、何食わぬ顔で完璧なプレゼンをやりきった。……裏で何があった? 瀬戸さんが、何をしたんだ?」
陸の追及は、容赦がなかった。
長年の親友であり、航平の限界っぷりと、その生真面目すぎる性格を誰よりも熟知している陸だからこそ、その異常な事態の裏にある「何か」を、正確に嗅ぎ取っていた。
航平は手すりの金属を握りしめ、視線を足元のコンクリートへと落とした。
隠すことなど、できなかった。
航平は初夏の風に吹かれながら、木曜日の深夜から金曜日の朝にかけて起きた出来事のすべてを、ぽつり、ぽつりと打ち明けた。
深夜一時半のすずの熱性痙攣。
恐怖とパニックで指が震え、救急相談ダイヤルすら押せずに錯乱していた自分。
壁一枚を隔てて異変に気づき、パジャマの上にカーディガンを羽織っただけで駆けつけてくれた文乃の姿。
的確な指示で痙攣を落ち着かせ、深夜のタクシーを手配し、病院の受付ですずの情報を完璧に伝えてくれたこと。
高熱に喘ぐすずの首元を冷たいタオルで冷やし続け、点滴が終わるまで何時間も病院の硬いベンチで一緒に付き添ってくれたこと。
そして――。
「翌朝……僕がプレゼンを諦めようとしていた時、文乃さんは、自分の会社の有給休暇を取って、僕の部屋に来てくれたんだ」
航平の声が、かすかに震える。
「すずのために、出汁を引いて、リンゴをすりおろして葛湯を作って、卵がゆを食べさせてくれた。僕に『仕事部屋に籠もって、プレゼンだけに集中してきてください』って言って……ネクタイを直して、背中を押してくれたんだ」
語り終えた航平は、深く息を吐き出した。
非常階段を、突風が吹き抜けていく。
陸は、黙っていた。
煙草を指に挟んだまま、一言も口を挟むことなく、ただ静かに航平の言葉を聞き届けていた。
灰が長く伸び、風に煽られてパラパラと足元に散る。
やがて――。
陸は咥えていた煙草を携帯灰皿に押し込むと、ジュッ、と火を消した。
蓋をカチリと閉め、ポケットに突っ込む。
その動作は、異様なほど静かだった。
けれど、次の瞬間。
――ガシッッッッ!!!!
「っ!?」
航平の視界が、激しく揺れた。
胸元に、凄まじい衝撃が走る。
気がついた時には、陸の逞しい右手が、航平のスーツの襟元――胸ぐらを、布地が引きちぎれんばかりの力で力いっぱいに鷲掴みにしていた。
航平の身体が、非常階段のコンクリート壁へとドスンと押し付けられる。
「か……神谷……!?」
航平は息を呑み、目を丸くした。
目の前にあったのは、大学時代からの付き合いの中で、一度たりとも見たことがないほどに険しく、怒りに満ちた陸の顔だった。
普段の飄々とした笑みは微塵もなく、眉根を激しく寄せ、奥歯をギリギリと鳴らしながら、血走った目で航平を至近距離から睨みつけている。
「おい、航平」
地獄の底から響くような、低く、ドスの利いた親友の声。
「てめえ……ふざけんのも、大概にしろよ」
「神谷……何を……」
「何が『有休を取って看病してくれた』だ」
陸は胸ぐらをさらに強く引き絞り、航平の顔を間近まで引き寄せた。
「有休まで取らせて、深夜から朝まで看病させて、飯まで作らせて……お前、そこまで踏み込んでおいて、まだ『親切なお隣さん』で済ませる気かッ!?」
「っ…………!!!!」
胸ぐらを掴まれた胸板に、言葉の刃が深く突き刺さる。
航平は息を詰まらせ、視線を泳がせた。
「ち、違う……! 僕は、そんなつもりじゃ……! 文乃さんには、本当に感謝していて、頭が上がらなくて……でも、僕たち親子がこれ以上甘えたら、文乃さんの未来を奪ってしまうから……だから、ちゃんと距離を――」
「綺麗事言ってんじゃねえよッッ!!!!」
陸の怒声が、非常階段の吹き抜けに雷鳴のように轟き渡った。
壁がビリビリと震え、下層階の鉄扉が微かに共鳴するほどの、凄まじい気迫。
陸は航平の胸ぐらを揺さぶり、唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。
「『娘のために近づいたと思われたくない』? 『彼女の未来を奪いたくない』? 笑わせんなバーカ! それ、全部お前の保身だろうがッッ!!」
「保身……!?」
「そうだろッ! 傷つくのが怖いんだろ! 振られるのが怖いんだろ! 『子持ちの男が若い女に手を出した』って後ろ指を指されるのが怖くて、父親の仮面を盾にして、安全地帯に引きこもってるだけじゃねえかよ!!」
「違うッ! 僕は――」
「何が違うんだよ!!」
陸の左手が、航平の胸元を強く突いた。
「相手の女性が、どんな覚悟でお前の部屋に飛び込んできたと思ってんだッ!!」
「っ…………っっっ」
航平の喉が、凍りついた。
陸の瞳には、怒りだけではなく、同じ男としての、そして親友としての、歯がゆさと悔しさが滲んでいた。
「二十八歳の独身女性がな、深夜一時半に男の部屋に飛び込んできて、他人の子どもを抱いて救急病院まで付き添って、徹夜で背中擦って、翌朝に自分の仕事休んでおかゆ作って看病して……そんなもん、ただの『親切なお隣さん』でやるわけねえだろ!! 世の中にそんな聖母がいるかッ!!」
陸は胸ぐらを掴む手に、さらに力を込めた。
「あの人はな、お前が好きだからやったんだよ! すずちゃんが愛おしくて、そして何より、佐伯航平っていう不器用なお前を助けたくて、自分の全部を投げ打って飛び込んできてくれたんだよ! それをお前……『迷惑をかけちゃいけないから距離を置きます』? ふざけんな! 相手の覚悟を何だと思ってんだ!!」
「…………っ」
航平の全身から、血の気が引いていった。
陸の言葉は、残酷なまでに真実を射抜いていた。
文乃の覚悟。
あの朝、エプロンを締めて現れ、ネクタイを直して『すずちゃんのことは私に任せてください』と告げてくれた、あの凛とした瞳。
有給休暇を使い、自分のキャリアや時間を差し出し、他人の部屋でエプロンを着けて台所に立ったあの女性の覚悟を。
自分は「申し訳ない」「甘えてはならない」という、自分を綺麗に見せるための薄っぺらい倫理観で押し戻そうとしていたのだ。
「いいか、航平」
陸は静かに、けれど逃げ場のない冷徹さで告げた。
「このままズルズル甘え続けるのが、相手の女性に対しても、一番不誠実なんだよ」
「不誠実……」
「そうだ。飯を作ってもらって、看病してもらって、ピンチの時だけ助けてもらって、そのくせ『僕たちはただの隣人ですから』って顔をして一線を引いて逃げ回る……そんなの、善意の搾取どころか、ただの卑劣な男のやり逃げと変わらねえぞ!」
「っっっ…………!!!!」
心臓を素手で鷲掴みにされたような激痛。
航平の喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れそうになる。
やり逃げ。
その言葉の重みに、航平の魂が激しく軋んだ。
自分は、傷つけまいとしていただけのつもりだった。
けれど、その実、相手の好意と覚悟に甘えきりながら、自分からは何も差し出さず、責任も取らず、安全な「お隣さん」のポジションに居座り続けていただけだったのだ。
陸は、ゆっくりと胸ぐらを掴んでいた右手を緩めた。
シワの寄った航平のワイシャツの襟元から、手が離れる。
陸は一歩下がり、手すりに背中を預けると、ポケットから再びライターを取り出し、カチリと音を立てて弄んだ。
そして――。
親友としての、最後通告を口にした。
「男なら、腹括れ」
「…………」
「すずの父親としてじゃねえ。一人の男として、瀬戸文乃っていう女に、自分の気持ちを全部伝えろ」
陸の眼差しは、どこまでも澄み切っていた。
「『好きだ』って言え。『お前のことが愛おしくてたまらない、隣にいてほしい』って、自分の言葉で伝えろ。娘を盾にするな。保身の言い訳を全部捨てて、真正面からぶつかれ」
「……もし、拒絶されたら……?」
航平の唇から、震える掠れ声が漏れた。
それが、ずっと航平の胸の奥底で渦巻き続けていた、最大の恐怖だった。
もし、想いを伝えて断られたら。
気持ち悪いと軽蔑されたら。
この温かな日常が、すずの笑顔が、三人で囲んだあの食卓のすべてが、永遠に失われてしまうのではないかという恐怖。
その問いに対し、陸は冷酷なまでに断ち切るように言い放った。
「断られたら、潔く引っ越せ」
「っ……!」
「当たり前だろ。一人の大人の女にそこまで踏み込んでおいて、振られた後も平気な顔して隣に住み続けられるわけねえだろ。気まずい思いをさせて、相手の生活を脅かすくらいなら、男のお前が全部背負って、頭下げて引っ越すくらいの覚悟を持てって言ってんだよ!」
陸は航平の胸元を、人差し指で強く突いた。
「それくらいの覚悟もねえなら、今すぐあの女性の手を完全に振りほどいて、二度と関わるな。……どっちにするか、自分で決めろ」
非常階段を、初夏の突風が吹き抜けていく。
陸はそう言い残すと、背を向け、非常扉のノブに手をかけた。
ガチャリ、と扉が開き、フロアの明かりが差し込む。
陸は振り返ることなく、最後にぽつりと吐き捨てた。
「……プレゼン、よくやったよ。お前は最高のエンジニアだ。だから――男としても、最高のお前を見せてみろ」
バタン。
重たい鉄の扉が閉まり、陸の足音がオフィスの中へと消え去っていった。
一人取り残された、非常階段の踊り場。
航平は、壁に背中を預けたまま、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
「…………っ、はぁ……」
両手で顔を覆う。
指先が、激しく震えていた。
胸ぐらを掴まれた胸元が、まだ熱く痛んでいた。
けれど、その痛みは、航平の身体を縛り続けていたすべての言い訳と迷いを、完全に粉々に砕き散らしていた。
――腹を括れ。
――断られたら、引っ越すくらいの覚悟を持て。
そうだ。
陸の言う通りだった。
自分は、傷つくことを恐れていただけだった。
娘のため、彼女のためと綺麗事を並べ立てながら、一番傷つきたくない自分のプライドを守るために、彼女の覚悟を踏みにじり、安全地帯から一歩も出ようとしなかったのだ。
文乃は、有休を取ってまで、自分の部屋に飛び込んできてくれた。
徹夜ですずの手を握りしめ、自分に「プレゼンだけに集中してきてください」と背中を押してくれた。
あの女性が差し出してくれた、命がけの愛情と覚悟に対して。
自分が差し出すべきものは、中途半端な遠慮でも、等価交換のルールでもない。
己の人生のすべてを賭けた、一人の男としての、真っ直ぐな告白だけなのだ。
「…………文乃、さん」
航平は顔を上げた。
見上げる渋谷の空は、吸い込まれそうなほど青く、高く澄み渡っていた。
風が、航平の乱れた前髪を激しく揺らしていく。
恐怖は、消えなかった。
断られるかもしれないという絶望の淵は、今も足元にぽっかりと口を開けている。
けれど、その恐怖の向こう側に――。
金曜日の朝、薄開きのドアの向こうで見た、あの奇跡のように美しい光景が、確かな道標となって輝いていた。
逃げない。
もう、二度と逃げない。
父親という仮面を脱ぎ捨てて、佐伯航平という一人の男として、あの女性の前に立ち、自分の魂のすべてを伝えよう。
航平はゆっくりと立ち上がり、スーツの襟元を力強く正した。
親友の痛烈な最後通告が、崖っぷちにいた男の背中を、決定的な未来へと力強く突き落としていた。




