第41話:仕事部屋から見えた光景
――カチリ。
ワイヤレスマウスの左ボタンを押した人差し指が、わずかに震えていた。
三〇二号室の一角、四畳半の防音ワークスペース。遮光カーテンが半分下ろされ、薄暗い部屋の中で青白く発光する三枚の大型液晶モニターの中央に、『Web会議を終了しました』という淡泊なシステムメッセージがポップアップした。
午前十一時三十五分。
予定時間を五分オーバーして幕を閉じたオンラインプレゼンテーションは、大成功だった。
画面の向こう側に並んでいたクライアント企業の役員陣や外部システム監査チームの重々しい顔つきは、航平が淀みなく紡ぎ出した障害リカバリの数理モデルと、堅牢極まりない新プラットフォームのセキュリティアーキテクチャの解説が進むにつれて、驚嘆と納得の色へと塗り替えられていった。
質疑応答で飛び交った意地の悪い技術的ツッコミに対しても、航平の頭脳は信じられないほどの冴えを見せ、寸分の隙もない完璧なロジックで論破してみせた。
最後の最後、通話を切る直前に共同創業者の神谷陸が画面の隅で拳を突き上げ、声を出さずに『完璧だ、航平! 大勝利だ!』と口パクで叫んでいた姿が、網膜の奥に焼き付いている。
会社の命運を賭けた、数千万円規模の基幹システム刷新コンペ。
先週の障害というどん底から、信頼を完全に取り戻し、未来の道を自らの手で切り拓いた瞬間だった。
だが――。
「…………っ、はぁ……」
ヘッドセットを両手で外した瞬間、航平の喉から絞り出されたのは、勝利の歓喜の声などではなかった。
それは、張り詰めていたすべての神経と筋肉が一度に解き放たれ、骨の髄まで軋むような、重たい、長い呼気だった。
デスクの上に両肘をつき、顔を覆う。
徹夜の救急搬送と、四十度近い娘の高熱の恐怖。
それらの極限の疲労を、プレゼンの間中、航平は『冷徹なエンジニア』という鋼の仮面を被ることで無理やりに押し殺していたのだ。アドレナリンが急速に引いていくにつれて、全身の関節が鉛を流し込まれたように重く軋み、視界の端がチカチカと明滅していた。
けれど、肉体の疲弊など、今の航平にとってはどうでもよかった。
画面が暗転した瞬間から、航平の胸の真ん中を支配していたのは、たったひとつの祈りだけだった。
――すず。
――そして、文乃さん。
九時過ぎ、出社前の貴重な時間を割いて、有給休暇まで取ってこの部屋へ駆けつけてくれた、あの女性。
『すずちゃんのことは、私に全部任せてください』
『佐伯さんは、仕事部屋に籠もって、プレゼンだけに全身全霊を集中させてきてください』
そう言って、自分の曲がったネクタイを優しく整え、背中を力強く押し出してくれたあの凛とした瞳。
あの言葉があったからこそ、自分は背水の陣のプレゼンを、一秒の動揺もなく完遂することができたのだ。
すずは、どうなっただろうか。
また熱がぶり返してはいないだろうか。
喉の痛みに泣き叫び、文乃を困らせてはいなかっただろうか。
航平はオフィスチェアから弾かれたように立ち上がった。
膝がガクガクと笑い、デスクの角に腰をぶつけそうになりながらも、覚束ない足取りで防音扉へと詰め寄る。
重厚な防音パッキンが施された金属製のドアノブに手をかける。
カチャリ。
静かな金属音が響き、航平は息を殺しながら、数ミリだけドアを引いた。
隙間から漏れ出てきたのは、リビングの静寂だった。
子どもの泣き叫ぶ声も、慌ただしい足音も、何ひとつ聞こえてこない。
航平の心臓が、恐怖でトクンと小さく跳ねた。静かすぎる。何かが起きたのか――。
焦燥に駆られ、航平は靴下履きの足音を極限まで殺しながら、防音扉をそっと押し開けて廊下へと足を踏み出した。
薄暗い仕事部屋から一歩外へ出た瞬間、航平の五感を包み込んだのは、予想もしなかった柔らかな空気だった。
リビングには、初夏の澄み渡るような午前中の陽光が、レースのカーテンを通して部屋いっぱいに注ぎ込んでいた。
そして――鼻腔をくすぐったのは、微かな、けれど胸の奥底をじんわりと温めるような、甘やかで滋味深い匂いだった。
昆布と鰹節の上品な一番出汁の香り。
すりおろしたばかりの新鮮なリンゴの甘酸っぱさと、本葛のまろやかな湯気の残り香。
病院の無機質な消毒液の匂いとも、深夜の絶望的な冷気とも違う、完璧な『生活』と『慈愛』の匂いが、リビング全体を満たしていた。
航平の視線が、リビングの奥――薄く開け放たれた寝室のドアへと向かった。
ドアは、十センチほど隙間を開けて止められていた。
中の様子を伺えるように、けれど外の光が直接ベッドの枕元を射さないように配慮された、絶妙な角度。
航平は呼吸を止め、忍び足でその隙間へと近づいた。
床板を踏み鳴らさないよう、爪先に重心を置き、寝室のドアの隙間からそっと中を覗き込む。
そして――。
「…………っ」
航平の息が、喉の奥で完全に止まった。
寝室の窓からは、初夏の柔らかな風がレースのカーテンを静かに揺らしながら吹き込んでいた。
加湿器の微細なミストが、朝の光を浴びてキラキラとダイヤモンドダストのように空中を漂っている。
ベッドの上。
清潔なタオルケットを胸元まで掛けられ、ふかふかの枕に頭を預けて横たわっていたのは、すずだった。
赤黒く鬱血していた頬は、透き通るような白さと、健康的な桜色の赤みを取り戻していた。
苦しげに歪んでいた眉間のシワは跡形もなく消え去り、小さな唇をわずかに開けて、「すー……、すー……」と、驚くほど深く、安らかな寝息を立てている。
サイドテーブルの上には、空っぽになった小さな陶器のカップと、半分ほど減った金色のおかゆの小鉢が、木製のトレイの上に整然と片付けられていた。
すずが、自分の口で、ご飯を食べたのだ。
喉の痛みに泣き叫ぶこともなく、この部屋で、穏やかに温かい栄養を身体に受け入れ、眠りについたのだということが、その空の器を見るだけで痛いほどに伝わってきた。
だが――。
航平の視線を釘付けにし、その魂を根底から震わせたのは、すずの姿そのものだけではなかった。
ベッドサイドのフローリングの上。
硬い床の上に、リビングの大きなクッションを二枚重ねて敷き、そこにちょこんと腰を下ろしていた人物。
瀬戸文乃だった。
「…………あ」
航平の喉仏が、音を立てずに上下した。
文乃は、淡い若草色のリネンエプロンを身につけたままだった。
ベッドの縁に上半身をそっと預け、両腕をシーツの上に伸ばしている。
そして――その文乃の両手は。
シーツの上に投げ出されたすずの小さな、小さな左手を、壊れやすい宝物を包み込むようにして、自らの両手で優しく、大切そうに包み込んでいた。
すずの小さな指先が、文乃の指をキュッと握りしめている。
そして文乃もまた、眠りの中でもその小さな手を決して離すまいとするかのように、指と指を絡め合わせ、温かな体温を分け与え続けていた。
文乃の顔は、すずの枕元に向けられていた。
長い睫毛が静かに伏せられ、艶やかな瞼が閉じられている。
徹夜で救急外来に付き添い、朝一番で有休の手続きを取り、出汁を引いておかゆを炊き、小さな命を懸命に抱きとめてくれた彼女の身体は、すずが安心しきって眠りに落ちたのを見届けた瞬間、極度の安堵とともに、深い微睡みの底へと誘われたようだった。
すー……、すー……。
すずの小さな呼吸に合わせて。
文乃の肩が、小さく、リズミカルに上下していた。
窓から吹き抜ける初夏のそよ風が、文乃の額にかかる柔らかな前髪を、ふわり、ふわりと優しく揺らしている。
その隙間から覗く、透き通るような白い肌。
少しだけ開いた桜色の唇から漏れ出る、微かで、無防備な寝息。
世界からすべての争いと苦痛を消し去ったかのような、あまりにも静かで、あまりにも尊く、神聖なまでの光景が、そこには広がっていた。
「…………っっっ」
航平の胸の奥底で、何かが音を立てて決壊した。
激しい熱の奔流が、心臓の壁を突き破り、全身の血管へと濁流となって雪崩れ込んでいく。
息が、苦しかった。
胸が張り裂けそうなほどの質量を持った感情が、喉の奥を熱く塞ぎ、視界が滲んでいくのを止められなかった。
――なんだ、これは。
航平はドアの枠を掴み、崩れ落ちそうになる身体を辛うじて支えた。
二年間。
元妻が出ていき、一人ですずを引き取ったあの日から。
この三〇二号室は、航平にとって戦場でしかなかった。
毎朝の壮絶なぐずりと偏食との戦い。
深夜までの残業と、保育園のお迎え時間に追われる恐怖。
冷え切ったコンビニ弁当のプラスチック容器が散らかるテーブルで、泣き叫ぶ娘を前にして途方に暮れ、自分の無力さに苛まれ続けた、出口のない暗黒のトンネル。
誰の手も借りてはならない。
弱音を吐いてはならない。
他人の善意に甘えてはならない――。
そうやって自分自身を厳しく縛り付け、頑丈な鉄の鎧を着込んで、血を流しながら耐え忍んできた、孤独な城だったはずなのだ。
それなのに。
今、目の前に広がっているこの光景は、一体何なのだろう。
柔らかな陽光。
出汁とリンゴの優しい香り。
そして、自分の愛する娘の手を握りしめ、同じ夢を見るかのように寄り添って微睡む、美しい女性の姿。
こんなにも温かいものが、この世に存在するのか。
こんなにも尊く、涙が出るほど愛おしい時間が、自分のこの殺風景な部屋の中に、奇跡のように満ち溢れている。
もし、神様がいるのだとしたら。
自分のこれまでの人生のすべての苦痛と孤独は、ただこの一瞬の光景に出会うためだけに用意されていたのではないかとすら思えるほどに、胸が激しく震えていた。
――感謝、なのか?
航平の理性が、震える声で自問した。
娘の命を救ってくれたことへの、深い感謝なのか?
仕事を助けてくれたことへの、隣人としての恩義なのか?
――違う。
航平の魂の底から、雷鳴のような否定が響き渡った。
そんな生ぬるい言葉で、この胸の痛みを誤魔化すことなど、もう絶対に不可能だった。
感謝などという、安全で無難な記号の枠組みには、到底収まりきらない。
すずの手を包み込む、あの小さく華奢な手のひら。
寝息に合わせて揺れる、あの柔らかな前髪。
無防備に晒された、あの白い首筋のライン。
そのすべてが、あまりにも眩しく、あまりにも愛おしく、そして狂おしいほどに航平の心を捉えて離さなかった。
抱きしめたい。
今すぐ、あのベッドサイドへ歩み寄り、床に膝をついて、あの華奢な肩を自分の両腕の中に力いっぱいに引き寄せたい。
徹夜で冷え切っていたあの指先を、自分の手で包み込んで温めたい。
その柔らかな髪に顔を埋め、溢れ出る涙を吸い取ってもらい、そして――生涯をかけて、この女性のすべてを守り抜きたい。
誰にも渡したくない。
他のどんな男にも、この笑顔を見せたくない。
自分の隣で、ずっと、ずっと笑っていてほしい。
すずの父親としてではない。
子持ちの、限界を迎えたシングルファザーという免罪符を脱ぎ捨てた――佐伯航平という、一人の生身の男としての、剥き出しの独占欲と、情熱。
――俺は、この人を愛している。
すとん、と。
その言葉が、航平の胸の真ん中に落ちた。
あまりにも静かに、けれど決定的な重力を持って。
逃げ道は、もうどこにもなかった。
今まで、自分はどれほど卑怯な言い訳を並べ立ててきただろう。
『娘を利用して女性に近づくような真似はしたくない』
『彼女の未来を縛り付けてはならない』
『等価交換のご近所付き合いでいなければならない』
そんなものは、すべて自分の保身だったのだ。
親友の陸が言っていた通りだ。
傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、「父親としての分別」というもっともらしい盾の後ろに隠れて、彼女の温もりにタダ乗りしながら、自分の本当の気持ちから逃げ回っていただけだったのだ。
すずの母親を探しているのではない。
家事や育児を手伝ってくれる、都合のいい隣人が欲しいのでもない。
瀬戸文乃という、一人の女性が。
その穏やかで、芯が強くて、誰よりも温かな心を持った彼女そのものが、たまらなく愛おしくて、愛おしくて、喉から血が出るほどに恋焦がれていたのだ。
火曜日の夕暮れ、彼女を冷酷に突き放した瞬間の、あの胸の引きちぎれるような激痛。
一人で和風ハンバーグを食べたと言っていた彼女の姿を想像した時に走った、あの狂おしいほどの後悔。
そして今朝、彼女が玄関に現れた瞬間に、世界全体が鮮やかな色彩を取り戻したかのような、あの圧倒的な救済感。
すべては、恋だった。
二年前の離婚以来、固く氷漬けにして封印してきたはずの、一人の男としての恋情が。
瀬戸文乃という太陽の光を浴びて、完全に、跡形もなく決壊していた。
「…………っ」
航平は、ドアの枠に額を押し当て、静かに目を閉じた。
熱い涙が、一筋、頬を伝って零れ落ちる。
もう、嘘はつけない。
自分を欺くことも、彼女の優しさをただの親切として受け流すことも、二度とできない。
この想いは、いずれ伝えなければならない。
娘を盾にするのではなく、父親という仮面を脱ぎ捨てて、一人の男として、彼女の前に真っ直ぐに立ち、自分の心を曝け出さなければならないのだ。
たとえ、その結果として拒絶され、この温かな日常を失うことになったとしても。
それこそが、この尊い女性に対して尽くすべき、男としての唯一の誠実さなのだから。
ふと、目を開ける。
寝室の中では、文乃が微睡みの中で、ふにゃりと愛らしく眉を動かした。
握りしめられたすずの小さな手を、もう片方の手で包み直すようにして、胸元に引き寄せる。
その無防備で、優しい寝顔。
揺れる前髪。
航平は、足音を立てずに、静かに寝室のドアを手前に引いた。
彼女の眠りを妨げないように。
この奇跡のように美しい時間を、一秒でも長く守り続けるために。
薄開きのドアの隙間から差し込む光を見つめながら、航平は自らの胸の奥底で、静かに、けれど鋼のように硬い誓いを打ち立てていた。
初夏の風が、カーテンをふわりと持ち上げる。
部屋の中に満ちる、穏やかな寝息と、一番出汁の温かな残り香。
境界線を越えて溢れ出した男の恋情が、静かな部屋の空気を、どこまでも熱く、深く、染め上げていた。




