第40話:翌朝の看病
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、夜の帳を切り裂いたあの冷酷な青白さから、初夏の柔らかな薄黄色へと移り変わっていた。
金曜日の午前七時三十分。
マンション『メゾン・ド・フルール』の三〇二号室の寝室には、加湿器から吹き出す微かな白いミストのシューという静かな駆動音だけが、途切れることなく響いていた。
ベッドのシーツの中。佐伯すずは、汗ばんで額に張り付いた柔らかな前髪を弱々しく揺らしながら、深い眠りの中に沈んでいた。
深夜に総合医療センターで打たれた抗生剤の点滴と座薬の効果により、四十度近くまで跳ね上がっていた体温は、三十七度四分まで下がっていた。手足の突っ張りや痙攣の兆候は完全に消え去り、寝息もあの激しい喘鳴から、静かなリズムを取り戻している。
けれど、急性扁桃炎による喉の猛烈な腫れと、一晩中高熱に晒され続けた体力の消耗は、四歳の小さな身体からすべての活力を奪い去っていた。
時折、唾液を飲み込むたびに喉の痛みが走るのか、眉間をきゅっと引き結び、苦しげに「ん……」と小さな呻き声を漏らす。起き上がるどころか、瞼を開けることすら叶わない状態だった。
そして――。
その寝室の扉をわずかに開けた廊下の先、薄暗いリビングの片隅で、佐伯航平は今、人生最大の窮地の中で凍りついていた。
「……はい、はい……重々承知しております……。ええ、本日午前九時半からの、最終システムアーキテクチャのプレゼンテーションですね……」
航平はスマートフォンを耳に押し当て、壁に額をもたれかけさせながら、掠れきった声で通話を続けていた。
その顔色は、深夜の救急外来から帰宅した時と同じく、血の気が完全に引いて土気色に染まっていた。
徹夜の疲労と精神的な限界により、目の下には黒々とした隈が落ち、唇は乾燥して血の滲んだ皮がめくれている。
スピーカーの向こうから響いてくるのは、共同創業者の神谷陸の、焦燥と苦渋に満ちた低い声だった。
『航平、すずちゃんの容態は分かった。熱が下がって本当によかった……。でもな、この案件だけは、どうしてもお前がオンラインで画面共有しながらプレゼンしなきゃダメなんだ。クライアントの取締役会とシステム監査チームが総出で待ってる。先週の障害対応のリカバリ計画と、新プラットフォームのセキュリティ設計を論理的に説明できるのは、設計書を書いたお前一人しかいない。俺が代わりに喋ろうにも、技術的な突っ込みに耐えきれねえんだよ……!』
「分かってる……分かってるんだ、神谷……」
航平は自らの前髪を力任せに掻きむしり、呻いた。
数千万円規模の基幹システム刷新案件。
このコンペを勝ち取れるかどうかに、彼らが命を削って立ち上げた会社の未来と、社員たちのこれからの生活がかかっていた。先週の障害を乗り越え、信頼を回復するための、絶対に落とすことのできない千載一遇の勝負所。
プレゼン自体の所要時間は、質疑応答を含めて約二時間。
リモートワークの設備は仕事部屋に整っている。オフィスへ出社せずとも、自宅の防音ワークスペースからオンラインで繋げば、プレゼンを完遂すること自体は可能だった。
だが――。
航平の視線が、寝室のベッドの上に横たわる愛娘の姿へと向けられる。
熱は下がったとはいえ、いつまた急変するか分からない。喉が腫れ上がり、脱水症状の危険が残る中、四歳の子どもを一人きりでベッドに残し、ヘッドセットをつけて仕事部屋に二時間以上も閉じこもるなど、親としてできるはずがなかった。
もし、プレゼンの最中にすずが吐瀉物を喉に詰まらせたら?
もし、再び意識を失って痙攣を起こしたら?
仕事部屋の防音扉の向こうで娘が命の危機に瀕しているかもしれないという恐怖を抱えたまま、平然とした顔でプレゼンテーションなどできるはずがない。
「神谷……すまない。僕の……僕の私情で、会社を潰すような真似をして……本当に申し訳ない。先方に電話して、プレゼンの延期を頼んでくれ……。どんなペナルティでも受けるから……すずを、一人にはできないんだ……」
航平は喉を詰まらせ、絞り出すように告げた。
自分のエンジニアとしてのキャリアも、会社の未来も、すべてをドブに捨てる覚悟の敗北宣言。
受話器の向こうで、陸が息を呑み、絶句する気配がした。
まさに――航平が通話を切ろうと、震える指を画面に伸ばした、その瞬間だった。
――ガチャリ。
三〇二号室の玄関のドアが、静かに、けれど迷いのない力強さで押し開かれた。
「…………っ!?」
航平が弾かれたように振り返る。
外の明るい初夏の光を背負って、玄関の上がり框に現れたのは――。
髪を後ろで清潔なシニヨンにまとめ、淡い若草色のリネンエプロンをピシッと身にまとった、瀬戸文乃の姿だった。
その両手には、文乃の部屋から持参したと思われる、木製のトレイが抱えられていた。
トレイの上には、新聞紙に包まれた大玉の青森産ふじリンゴがひとつ、本葛の入ったガラス瓶、文乃の実家から届いたばかりの新鮮な産みたて卵が二個、そして水出しの利尻昆布出汁が琥珀色に澄むガラスピッチャーが、整然と並べられていた。
「せ……瀬戸、さん……?」
航平がスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。
文乃はサンダルを脱いでスリッパへと足を入れると、迷うことなくリビングへと歩み寄ってきた。
その瞳には、徹夜の看病明けとは思えないほどの、澄み切った力強い光が宿っていた。
文乃は航平の目の前に立つと、航平が耳に当てていたスマートフォンの受話器に向かって、通話相手の陸にもはっきりと聞こえるような、凛とした、通る声で告げた。
「神谷さん、おはようございます。お隣の瀬戸です。……プレゼン、予定通り九時半から始めてください。佐伯さんは絶対に穴を開けさせませんから」
『えっ……!? あ、お隣の……!?』
スピーカーの向こうから、陸のひっくり返ったような驚愕の声が漏れる。
文乃は航平の手元からスマートフォンをそっと取り上げると、迷わず通話終了ボタンをタップした。
静寂が戻ったリビング。
航平は目を見張り、唇をワナワナと震わせながら、目の前の女性を見つめた。
「瀬戸さん……な、何を言ってるんですか……!? 今日は金曜日です! 瀬戸さんのお仕事は……会社は、どうするんですか!?」
文乃は柔らかく、けれど揺るぎない笑みを浮かべて、自らのスマートフォンの画面を航平の目の前にかざしてみせた。
画面に表示されていたのは、ヒノデフーズの勤怠管理システム――『有給休暇申請:承認済』の通知と、直属の上司である飯島課長からの温かい社内メールだった。
『瀬戸さん、有休の申請承認しました。急な身内の看病とのこと、遠慮はいりません。業務の引き継ぎは倉田さんが完璧に巻き取ってくれたので、心配せずにしっかり看病してあげてください。飯島』
「有休……取ったんですか……!?」
航平の喉から、掠れた叫びが漏れた。
「僕たちのために……瀬戸さんの大切な有給休暇を……!? ダメです、そんなこと! ただのお隣さんの僕たちのために、瀬戸さんの仕事に穴を開けさせるなんて、そんな恩着せがましいこと……僕のプライドが許しません!」
「佐伯さん」
文乃の声が、静かに、けれど逃げ場のない厳しさを持って響いた。
「プライドで、すずちゃんの命が守れますか?」
「っ…………!!!!」
航平の息が、喉の奥で止まった。
文乃は一歩踏み込み、航平の疲れ果てた瞳を、真正面から見つめ据えた。
「これは、恩着せがましい施しじゃありません。私が、私の意思で選んだことです」
文乃の声音は、どこまでも澄んでいた。
「先週の土曜日、私の弟の晴臣に言ってくれた言葉……覚えていますよね。『困った時は助けてと言ってほしい。文乃さんの差し出す手を、ちゃんと両手で受け止めたい』って。……佐伯さん、あの言葉は嘘だったんですか?」
「嘘じゃ……嘘じゃ、ありません……!」
「だったら、私を頼ってください」
文乃は持参した木製トレイをキッチンのカウンターへと静かに置くと、航平のスーツの襟元にそっと手を伸ばし、曲がっていたネクタイの結び目を、キュッと丁寧に整えてあげた。
至近距離で伝わってくる、文乃の温かな息遣いと、爽やかな石鹸の香り。
「佐伯さん。今、佐伯さんがやるべき仕事は、すずちゃんのために、胸を張ってあのプレゼンを成功させてくることです。会社を守って、すずちゃんの未来を守ることです」
文乃は航平の胸板に、そっと手のひらを添えた。
「すずちゃんのことは、私に全部任せてください。午前中、私がずっとベッドサイドで見守っています。熱を測って、水分を摂らせて、お薬を飲ませて……一秒たりとも目を離しません。だから――佐伯さんは、仕事部屋に籠もって、プレゼンだけに全身全霊を集中させてきてください」
「文乃、さん……」
航平の瞳から、ボロボロと熱い涙が零れ落ちた。
言葉にならなかった。
どんな感謝の言葉を重ねても、この女性が差し出してくれた覚悟の深さには到底及ばない。
航平は奥歯を強く噛み締め、涙を袖口で乱暴に拭うと、直角に近い角度で、深々と頭を下げた。
「……お願いします。すずを……僕の娘を、お願いします」
「はい。いってらっしゃい、佐伯さん」
文乃の力強い笑顔に見送られ、航平は背筋をピンと伸ばし、自室のワークスペースの防音扉の向こうへと、覚悟に満ちた足取りで入っていった。
カチャリ、と重たい防音扉が閉まる。
リビングには再び、静謐な朝の静けさが舞い戻ってきた。
「よし……」
文乃はエプロンの紐をキュッと締め直し、三〇二号室のキッチンの前に立った。
ここからが、文乃の腕の見せ所だった。
急性扁桃炎の高熱から一夜明けた、四歳の子どもの身体。
喉の奥の両側には、今もピンポン球のように赤く腫れ上がった扁桃と、白い膿の斑点がへばりついているはずだ。唾液を飲み込むだけで喉が焼けるように痛むため、固形物は絶対に受け付けない。酸味の強い果汁や、塩気の強いスープは、喉の粘膜を激しく刺激して激痛をもたらし、子どもを再び食事恐怖症へと追い込んでしまう。
さらに、胃腸の消化能力は高熱によって著しく低下している。
油分は厳禁。繊維質の多い野菜も消化器への負担になる。
必要なのは――。
一切の咀嚼を必要とせず、喉の粘膜を滑らかに滑り落ち、胃腸に負担をかけずに素早くエネルギーとアミノ酸に変換され、なおかつ、荒れ狂った粘膜を優しく保護して炎症を鎮めてくれる、究極の滋養食。
文乃はまず、持参した『本葛』の瓶を手に取った。
古来より、日本で重篤な病人の滋養強壮や風邪の初期治療に用いられてきた、奈良県吉野産の最高級の本葛粉だ。
葛の主成分は極めて消化吸収の良い良質なデンプンであり、微量に含まれるプエラリンやイソフラボン誘導体には、血流を促して首回りの筋肉の緊張をほぐし、炎症を和らげる薬理効果がある。そして何より、葛独特の滑らかで上品なトロミは、炎症を起こした喉の粘膜を薄いゼリーのヴェールのように包み込み、嚥下時の摩擦痛をほぼゼロにしてくれるのだ。
小鍋に、水で溶いた大さじ一杯の本葛粉を入れる。
そこに、すずのために用意した大玉のふじリンゴを取り出した。
文乃はリンゴの皮を丁寧に剥き、芯を取り除くと、セラミック製のおろし金を手に取った。
シャッ、シャッ、シャッ……。
リズミカルな擦過音が響く。
金属のおろし金を使うと、金属イオンとリンゴのポリフェノールが反応して茶色く変色(褐変)し、鉄臭い雑味が移ってしまう。熱に弱くビタミンCを破壊する酵素の働きを抑えるためにも、セラミックで極限まで細かく、シルクのペーストのようにすりおろしていく。
擦り下ろしたばかりの瑞々しいリンゴの果肉と果汁を、葛粉の入った小鍋へと投入。
極々弱火にかけ、小さな木べらでゆっくりと円を描きながら加熱していく。
白く濁っていた液体が、六十度を超えたあたりから、ふっと透明感を帯び始めた。
デンプンの糊化。
焦げ付かないよう、鍋底を撫でるように練り上げていくと、淡い黄金色の、まるでとろける蜂蜜のような、極上の艶やかなトロミが生まれた。
味付けは、ほんの数滴の絞りたて生姜汁と、微量の和三盆糖のみ。
リンゴ本来の自然な甘みと、葛のまろやかなコクが合わさった、温かい『特製すりおろしリンゴの葛湯』の完成だ。
文乃はそれを小さな陶器のカップに注ぎ、粗熱を取るためにトレイへと置いた。
そして休む間もなく、メインとなる『一番出汁の卵がゆ』の調理へと移る。
小ぶりの片手鍋に、水出ししておいた利尻昆布の出汁を二〇〇ミリリットル注ぎ、弱火にかける。沸騰直前に昆布を引き上げ、ごく薄削りの本枯節をひとつかみ投入。十秒で火を止め、目の細かい茶漉しで静かに漉す。
鍋の中に残ったのは、まるで黄金の雫のように透き通った、雑味ゼロの極上一番出汁。
そこに、昨夜のうちに文乃が水につけて柔らかくしておいた白米を、お玉に軽く一杯分だけ投入した。
コトコト、コトコト……。
弱火の下で、米粒が出汁の旨味をたっぷりと吸い込みながら、ゆっくりと花を開くように崩れていく。
文乃は鍋の前に立ち尽くし、片時も目を離さなかった。
米から溶け出した余分な粘りや、かすかに浮き上がってくる白いアクを、極細のあく取り網で、ミリ単位の精度で丹念にすくい取っていく。
アクを完全に抜き去ることで、出汁の香りはどこまでも澄み渡り、子どもの敏感な舌を不快にさせる雑味は完全に消失する。
二十分。
米粒の輪郭が完全に崩れ、出汁と米が渾然一体となったポタージュのような、極上のトロトロのおかゆが炊き上がった。
塩分は、舌の奥で微かにミネラルを感じる程度の、ひとつまみの自然塩のみ。出汁の濃厚なアミノ酸の旨味があるため、塩分が極限まで控えめであっても、信じられないほど深いコクがある。
仕上げに、ボウルに割り入れた新鮮な産みたて卵の黄身と白身を、菜箸で泡立てないように静かに溶きほぐす。
鍋の火を強火にし、出汁がフツフツと波打った瞬間――。
文乃は箸を伝わせるようにして、細い糸のように溶き卵を回し入れた。
サァッ……と、黄色い花が咲くように、卵が出汁の表面に広がる。
即座に、火を止めた。
余熱だけで、十秒。
卵は完全に固まらず、半熟のとろとろの状態で、金色のおかゆの表面をふんわりと覆い尽くした。
「……できた」
蓋を開けた瞬間、キッチンいっぱいに広がったのは、昆布と鰹節の芳醇な香りと、卵の甘やかな匂い。
それは、見ているだけで弱った胃の腑がじんわりと温まるような、黄金色に輝く優しい魔法の器だった。
文乃は小鉢におかゆを取り分け、トレイに乗せて寝室へと向かった。
時計の針は、午前八時五十分を指していた。
寝室のドアを静かに開けると、ベッドの上で、すずが小さく身じろぎをしていた。
長い睫毛がパチパチと瞬き、やがて、潤んだ黒目がゆっくりと開かれた。
「……ん……」
「すずちゃん」
文乃はトレイをサイドテーブルに置くと、ベッドサイドの床に膝をつき、すずの小さな額に優しく手を当てた。
熱は上がっていない。肌はサラリとしていて、汗も引いていた。
すずはぼんやりとした視線を彷徨わせていたが、目の前にいるのが大好きな文乃だと気づいた瞬間、その瞳にポッと小さな光が灯った。
「あやの……ちゃん……?」
掠れた、痛々しいほどか細い声。
「おはよう、すずちゃん。よく眠れたね」
文乃は優しく微笑みかけ、すずの小さな背中に手を差し入れて、ゆっくりと上体を起こしてあげた。
背中にふかふかの枕を二重に当てて、楽な姿勢を作ってあげる。
「パパは……? パパ、どこ……?」
不安そうに視線を泳がせるすずの頭を、文乃は慈しむように撫でた。
「パパね、お隣のお部屋でお仕事してるよ。すずちゃんのためのお仕事、一生懸命頑張ってるの。終わるまで、お姉ちゃんと一緒にお留守番しようね」
「……うん」
すずは小さく頷いたが、すぐに喉元に手を当てて、痛そうに顔を歪めた。
「のど……いたい……」
「痛いよね。赤くなって腫れてるんだもんね。……すずちゃん、ちょっとだけ、これ飲んでみようか」
文乃は小さなスプーンに、人肌の温度まで冷ました『すりおろしリンゴの葛湯』をすくい上げた。
透明感のある、淡い黄金色のトロミ。
「甘いリンゴのお汁だよ。痛いの痛いの飛んでいけーって、お姉ちゃんが作ったの。すずちゃんの喉をね、チュルンって優しく滑り台みたいに通ってくれるよ」
すずはおずおずと小さな口を細く開けた。
文乃はスプーンをすずの唇にそっと当て、葛湯を流し込む。
トロン……。
柔らかな葛のとろみが、すずの乾いた舌の上を包み込み、ゆっくりと喉の奥へと滑り落ちていった。
「…………っ」
すずの喉仏が、小さく動いた。
痛みに怯えていたすずの表情が、ふっと驚きに緩む。
「……痛く、ない……」
「本当? 痛くない?」
「うん……あまい。リンゴの、いいにおいする……」
「ふふ、よかった。葛湯がね、喉を優しく守ってくれてるんだよ」
すずは安心したように、二口、三口と、文乃の差し出すスプーンから葛湯を飲み干していった。
リンゴの優しいブドウ糖と果糖が、乾ききっていた少女の身体に、確かな生気を吹き込んでいく。
「お腹も、少し空いたかな? 今度は、温かいおかゆさん食べてみる?」
文乃は小鉢から、金色に輝く一番出汁の卵がゆを、スプーンにほんの一口すくい取った。
フーフーと息を吹きかけ、完全に熱を飛ばす。
米粒が出汁を吸って完全に崩れ、とろとろの半熟卵と一体化したそのおかゆは、まるで上質なポタージュのように滑らかだった。
「はい、あーん」
すずは素直に、小さな口をあーんと開けた。
スプーンが口の中に滑り込む。
咀嚼の必要すらない。
舌の上に乗った瞬間、昆布のまろやかな旨味と、卵の優しい甘みが、ふわぁっと口腔を満たし、何の引っかかりもなく、すんなりと喉を通っていった。
「…………っ」
すずの瞳が、トロンと柔らかく潤んだ。
そして――。
昨夜の高熱と激痛以来、一度も浮かぶことのなかった、小さな、けれど心底からの愛らしい微笑みが、すずの青白い唇の上にふわりと花開いた。
「……あやのちゃんのおかゆ……あったかい」
消え入りそうな、けれど確かな温もりを宿した少女の呟き。
「美味しい?」
「うん……すっごく、おいしい。……お腹のなかが、ぽかぽかするよ」
すずは文乃の手から、二口、三口、四口とおかゆを受け止めた。
出汁の染み込んだ黄金色のおかゆが、高熱で疲弊しきっていたすずの内臓の隅々にまで、染み渡っていく。
半分ほど食べたところで、すずの小さな瞼が、再びトロンと重たそうに落ちてきた。
お腹が温まり、喉の痛みが和らいだことで、身体が急速に回復のための休息を求め始めたのだ。
「もう、お腹いっぱい?」
「……ん……ねむくなっちゃった……」
「いいよ。いっぱいねんねして、お熱をバイバイしようね」
文乃は食器をトレイに戻し、すずの身体を優しく横たえて、羽毛布団を胸元まで掛け直してあげた。
すずはシーツに頬を擦り寄せ、小さな両手を布団から伸ばすと――。
文乃の、エプロンを整えていた右手の指先を、キュッと、小さな温かい両手で包み込むようにして握りしめた。
「あやのちゃん……」
「なあに、すずちゃん?」
すずは目を閉じたまま、微睡みの底から、小さく、小さな寝言を零した。
「……あやのちゃん……だいすき……」
「…………っ」
文乃の胸の奥底で、カッと熱い涙の塊が突き上げてきた。
すずの小さな指先から伝わってくる、確かな命の温もり。
文乃は溢れそうになる涙を堪えながら、すずの額にそっと顔を寄せ、その柔らかな髪に唇を触れさせた。
「お姉ちゃんも、すずちゃんのこと、大好きだよ……」
すずの呼吸は、再び深く、穏やかな寝息へと変わっていった。
握りしめられた文乃の指先は、眠りの中でも決して離されることはなかった。
ふと、耳を澄ませる。
リビングを隔てた向こう側――防音扉の奥から、低く、けれどかつてないほど力強く、自信に満ちた佐伯航平のプレゼンテーションの声が、微かな振動となって床を通して伝わってきていた。
愛する娘を守り、自らの会社の未来を掴み取るために、命を燃やして戦っている父親の声。
そして、その背中を信じて、ここで小さな命の手を握りしめ続ける、自分の手のひら。
初夏の柔らかな朝の陽光が、静まり返った寝室のフローリングの上に、黄金色の優しい光の絨毯を広げていた。
もう、境界線も、迷いも、そこには何ひとつなかった。
二つの部屋の間に紡がれた確かな愛の絆が、この困難な朝の時間を、世界で一番温かい、希望の光で満たしていた。




