第39話:看病の連携プレイ
深夜の都市を貫く幹線道路は、昼間の激しい渋滞が嘘のように人気を失い、青白い街灯の光だけが一定の間隔でフロントガラスを滑り去っていった。
午前一時四十五分。
迎車で駆けつけた黒塗りのタクシーの後部座席には、息が詰まるほどの濃密な緊張感が張り詰めていた。
「運転手さん、すみません……急ぎ目で、総合医療センターまでお願いします」
助手席のヘッドレストに向かって掠れた声で告げた佐伯航平は、後部座席の中央に深く腰掛け、両腕の中に四歳の娘――すずを折れそうなほど強く抱きかかえていた。
すずの小さな身体は、大判のバスタオルに何重にも包まれている。
先ほど玄関先で起こした熱性痙攣の激しい発作こそ収まっていたものの、高熱はいまだ一向に引く気配を見せていなかった。額に触れるまでもなく、抱いている航平の胸板を通して、まるで灼熱のレンガを押し付けられているかのような凄まじい熱気が伝わってくる。
すずは視線を閉じたまま、荒く短い呼吸を繰り返していた。喉の奥が狭まっているのか、「ヒュー……ヒュー……」と小さく乾いた笛のような音が、タクシーの静かな車内に痛々しく響いている。
「…………っ」
航平の両手が、ガタガタと小刻みに震えていた。
すずの背中を支える指先が白くなるほど強張り、奥歯をギリギリと噛み締めている。もしまた発作が起きたらどうしよう。もし息が止まってしまったらどうしよう。病院に着くまでに手遅れになったら――。
父親としての恐怖が、黒い毒のように航平の全身の血管を駆け巡り、呼吸を浅く乱れさせていた。
「佐伯さん」
その時、すずの反対側――後部座席の窓際に座っていた瀬戸文乃の、穏やかで澄んだ声が落ちた。
「大丈夫です。すずちゃん、呼吸はしっかり保たれています。唇の色も紫色じゃありません。私の声、聞こえますか?」
文乃の手が、すずの首元へと迷いなく滑り込んだ。
文乃は持参した保冷バッグから、濡れタオルで包んだ冷たい保冷剤を取り出し、すずの小さな首の両脇――太い頸動脈が通る箇所へと、優しく、けれど確実に押し当てていた。
「子どもが高熱を出した時は、太い血管が集まっている場所を冷やすのが一番効果的です。首の横、脇の下、そして足の付け根。表面の皮膚を冷やすんじゃなくて、全身を巡る血液の温度を物理的に下げてあげるんです」
文乃の手際は、驚くほど冷静だった。
タクシーがカーブを曲がるたびに身体が揺れるが、文乃はすずの小さな頭が揺れないよう自らの左手でそっと支え、右手で保冷剤の当たる位置をミリ単位で調整し続けていた。
「……瀬戸さん、手……冷たくないですか?」
航平が掠れた声で尋ねる。
文乃の指先は、氷のように冷え切った濡れタオルを素手で握りしめ続けているせいで、すでに赤く悴み始めていた。
だが、文乃は首を横に振った。
「私の手なんて、どうでもいいです。それより、佐伯さん。すずちゃんの足元を触ってみてください」
「足元……?」
航平がおずおずとタオルの裾からすずの小さな素足に手を触れる。
「あ……熱い。さっきまで氷みたいに冷たかったのに……」
「熱が上がりきった証拠です」
文乃はすずの額の汗を、持参した乾いたガーゼで手早く拭い去りながら言った。
「悪寒がして手足が冷え切っている間は、まだ体温が上昇している最中だから温めなきゃいけない。でも、手足までカーッと熱くなったら、体温が上がりきった合図です。ここからは、熱がこもらないように風通しを良くして、冷やしてあげなきゃいけないんです。……だから、もう痙攣が起きる可能性はぐっと下がりました。峠は越えつつありますよ」
「峠を……」
「ええ。佐伯さんがすぐに異変に気づいて、抱き起こしてくれたおかげです。だから、自分を責めないでください」
文乃の声音には、嘘偽りのない確信と、深い慈愛が満ちていた。
その言葉の温もりに触れた瞬間、航平の張り詰めていた肩の筋肉から、微かに強張りが抜けていく。
一人ではなかった。
暗闇の中で娘の命が脅かされた極限の夜、自分一人ではパニックになって立ち往生していたはずのこの時間を、この女性が、当たり前のような顔をして隣で支えてくれている。
その事実が、凍てつきかけていた航平の心を、どれほど力強く温めてくれたことか。
「……病院、見えましたぜ」
運転手の低い声とともに、タクシーが減速した。
街灯の向こうにそびえ立つ、巨大なコンクリートの要塞――都立総合医療センター。
深夜の時間帯、一般外来のシャッターはすべて固く閉ざされていたが、救急車両の進入スロープの奥にだけ、赤く輝く『救急救命センター』の電飾看板が灯っていた。
タクシーが車寄せに滑り込み、停車する。
「佐伯さん、すずちゃんを抱いて先に中へ! 私はお会計をしてからすぐに追いつきます!」
「はいッ!」
航平はすずを抱きかかえ、開いたドアから夜の冷気の中へと飛び出した。
救急専用の自動ドアをくぐると、独特の消毒液の匂いと、空調の効いた乾燥した空気が鼻腔を突いた。
薄暗い待合室の正面にあるトリアージ受付へ、航平は滑り込むように駆け寄った。
「すみません! 四歳の娘が高熱を出して……一時半頃に熱性痙攣を起こしました! 息が苦しそうで……!」
「お父さん、落ち着いて。こちらへどうぞ!」
受付の看護師が素早くストレッチャーを寄せ、すずの状態を視診する。
そこへ、背後から激しい足音が響き、息を切らした文乃が駆け込んできた。
「看護師さん! すずちゃんの保険証と医療証、母子手帳です!」
文乃は手袋を外した手で、青い母子手帳ケースから必要な書類を一瞬で抜き出し、受付のトレイの上にピシッと並べて見せた。
「発熱に気づいたのは深夜一時二十分頃。熱性痙攣の発作持続時間は約二分間でした。左右対称の硬直で、チアノーゼはありませんでした。既往歴に熱性痙攣はなく、今回が初めてです。平熱は三十六度六分、アレルギーはありません!」
「……っ、ありがとうございます! 完璧な情報です、助かります!」
看護師が目を見張りながら書類を受け取り、即座に奥の内線へと指示を飛ばした。
横で見ていた航平は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
自分ですら頭から抜け落ちていた娘の平熱や発作の正確な経過時間を、文乃はあの短い混乱の中で、すべて冷静に記録し、把握してくれていたのだ。
「佐伯さん、診察室へ! すずちゃんの手を握ってあげてください!」
「あ……はいッ!」
ストレッチャーが小児科の処置室へと滑り込んでいく。
処置室の中央、煌々と照らされた診察ベッドの上に、すずの小さな身体が横たえられた。
白衣を羽織った若い男性の当直小児科医が、聴診器を首にかけながら素早く歩み寄ってきた。
「佐伯すずちゃんですね。お父さん、ちょっとお口の中を見せてもらいますよ」
医師は金属の舌圧子を手に取り、ペンライトですずの喉の奥を照らし出した。
すずが「うぅ……」と顔を歪めて弱々しく抵抗するが、航平が「大丈夫だぞ、すず。すぐ終わるからな」と小さな手を両手で包み込んで宥めた。
「……ああ、これは酷いな」
医師が眉をひそめ、舌圧子を引いた。
「急性扁桃炎ですね。両側の口蓋扁桃がピンポン球のように赤く腫れ上がって、白い膿(白苔)がびっしり付着しています。急激な細菌感染による炎症です。喉の猛烈な痛みと、四十度近い急激な熱の上昇で、未発達な脳の神経が過剰放電を起こして熱性痙攣を引き起こしたのでしょう」
「扁桃炎……っ」
航平の喉が鳴った。
「先生、脳に後遺症などは……!?」
「発作が二分程度で自然に収まり、現在手足の麻痺もなく呼吸も安定していますから、典型的な単純型熱性痙攣です。脳へのダメージや後遺症の心配はありませんよ。安心してください」
「あ……ああ……っ」
航平はその場に頽れそうになり、診察ベッドのパイプを掴んで辛うじて身体を支えた。
後遺症はない。
娘の脳は、無事だった。
その一言を聞いた瞬間、胸を締め付けていた鉄の万力が、ようやくギリギリと緩んでいくのを感じた。
「ただ、体温が三十九度八分あります。喉が痛くて水分が全く取れていない状態なので、軽度の脱水症状を起こしていますね。まずは解熱剤の座薬を入れて熱を下げ、抗生剤と電解質の補液を点滴で一本入れましょう」
処置は迅速だった。
看護師の手によって、解熱鎮痛剤の小さな座薬がお尻へと手早く挿入される。
続いて、すずの細い左前腕に駆血帯が巻かれた。
「チクッとするよ、すずちゃん。頑張ろうね」
細い注射針が、赤く火照った皮膚を貫く。
「……痛い……やぁだぁ……っ」
すずの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
航平はすずの右手を握りしめ、自らの額をすずの小さな手の甲に押し当てた。
「ごめんな、すず。痛いよな。でも、これでお熱が下がるからな。パパがずっとここにいるからな……」
点滴のチューブが接続され、透明な薬液がポタ、ポタと一定のリズムで管を通って落ち始める。
針が抜けないよう、すずの小さな腕には添え木が当てられ、白い包帯が丁寧に巻きつけられた。
「点滴が終わるまで、約一時間半ほどかかります。処置室の奥のベッドでお休みになっていてください。熱が下がって水分が取れるようになれば、今夜はおうちに帰れますからね」
医師の優しい言葉に見送られ、すずのベッドは処置室のカーテンで仕切られた一角へと移動された。
静かな処置室の隅。
枕元で点滴の滴下が続く中、解熱剤と抗生剤の効果は、驚くほど速やかに現れ始めた。
三十分が経過した頃。
すずの額やうなじから、じっとりと大量の汗が噴き出し始めたのだ。
「あ、汗が……!」
航平が狼狽える。
「佐伯さん、着替えさせましょう。熱が下がり始めた証拠です。汗をそのままにしておくと身体が冷えて逆効果ですから」
文乃は持参したトートバッグから、乾いたフェイスタオルと、すずの清潔な着替えを取り出した。
点滴の管が邪魔にならないよう、袖口の広い前開きのシャツを器用に通す。
文乃の温かい蒸しタオルが、すずの汗ばんだ首筋や胸元、背中を、まるで壊れ物を慈しむように優しく拭い去っていく。
サラサラになった肌に、柔らかなコットンが触れる。
「……ん……」
すずの表情から、あの苦痛に満ちた険しさが消え去っていた。
赤黒く鬱血していた頬は、健康的な薄桃色へと落ち着き、荒かった呼吸は、深く、穏やかな寝息へと変わっていった。
握りしめられていた小さな手のひらが、ふわりと脱力し、シーツの上に投げ出される。
「すー……、すー……」
規則正しい、天使のような寝息。
体温計の液晶画面は、三十七度五分を示していた。
午前三時半。
点滴のボトルが空になり、看護師が静かに針を抜いて絆創膏を貼ってくれた。
診察室で医師から最終的な説明を受ける。
「インフルエンザとアデノウイルスの迅速抗原検査はともに陰性でした。抗生剤の効き目が良いので、明日一日安静にしていれば熱は完全に落ち着くでしょう。抗生剤と解熱剤の粉薬を三日分出しておきます。明日の朝、水分がしっかり取れておしっこが出ているかだけ確認してください。もし朝になってもぐったりしているようなら、日中の外来を再診してくださいね」
「ありがとうございました……! 本当に、ありがとうございました……!」
航平は何度も、何度も深く頭を下げた。
診察室を出て、救急外来の待合室の廊下へと戻った、その瞬間だった。
ドサッ……。
重たい音を立てて、航平の長身が、プラスチックの長いベンチの上へと崩れ落ちた。
「佐伯さん!?」
文乃が慌てて駆け寄る。
航平はベンチに座り込んだまま、両手で顔を覆い、膝の間に深く頭を沈めこませていた。
指先が、激しく震えている。
全身の関節から、骨から、筋肉から、すべての力が完全に抜け落ちていた。
「……よかった」
掠れた、震える声が、指の隙間から漏れ出た。
「よかった……っ。すずが……すずが、助かった……っ!」
張り詰めていた神経のワイヤーが、完全に切れたのだ。
深夜に愛娘が痙攣を起こし、意識を失いかけたあの地獄のような恐怖。
もしこのまま娘が死んでしまったら、自分の人生など今すぐここで終わってしまえばいいとすら思った、あの底知れぬ暗黒。
そのすべての重圧から解放された瞬間、二十九歳の男の身体は、立っていることすら不可能なほどに疲弊しきっていた。
文乃はベンチの隣にそっと腰を下ろした。
そして、抱きかかえていたすずの頭をそっと撫でながら、航平の背中に優しく声をかけた。
「佐伯さん。……本当に、よく頑張りましたね」
「瀬戸さん……」
航平が顔を上げる。
その瞳は真っ赤に充血し、涙で濡れていた。
「僕……僕一人だったら、絶対にダメでした。パニックになって、救急車も呼べず、すずを抱いてオロオロするだけで……。瀬戸さんが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
「そんなことありません。佐伯さんが必死ですずちゃんを守ろうとしたから、すずちゃんも頑張れたんです」
文乃は柔らかく目を細め、微笑んだ。
「さあ、帰りましょう。おうちのベッドで、ゆっくり休ませてあげなきゃ」
「……はい」
会計を済ませ、夜間調剤薬局で薬を受け取り、再びタクシーを拾った。
東の空の地平線が、わずかに群青色から薄い白みへと変わり始めていた。
午前四時十分。
夜明け前の冷たい静寂が支配するマンション『メゾン・ド・フルール』の三階。
エレベーターを降りた三人は、吸い込まれるように三〇二号室の玄関へと入った。
文乃は、躊躇することなど微塵もなかった。
「他人の独身女性の部屋に」「境界線を引かなければ」などという、昼間のくだらない分別など、この極限の状況の前では何の価値も持たなかった。
文乃はサンダルを脱ぎ捨てると、迷わず航平の部屋へと上がり込んだ。
「佐伯さん、すずちゃんをベッドへ!」
「はい!」
航平が寝室のベッドにすずをそっと横たえる。
そこからの文乃の動きは、神業のように無駄がなかった。
キッチンへ向かい、冷凍庫から取り出した柔らかいタイプの保冷枕を清潔なタオルで二重に包み、すずの後頭部へと差し入れる。
すずの額に触れ、冷えすぎていないかを確認。
すずの寝息に合わせて、羽毛布団を胸元まで掛け直す。
そして、先ほど薬局で買ってきた幼児用の経口補水液のペットボトルを開け、曲がるストローを挿して、枕元のチェストの上に倒れないようセットした。
「よし……これで、大丈夫」
文乃は額の汗を拭い、小さく息を吐いた。
ベッドの上のすずは、涼しい枕と乾いたシーツの心地よさに包まれ、一度も目を覚ますことなく、深い、安らかな眠りの中へと沈んでいた。
文乃が寝室を出て、薄暗いリビングへと戻ると――。
そこには、リビングの中央に立ち尽くしたまま、微動だにできない航平の姿があった。
ジャケットは脱ぎ捨てられ、スウェットの袖を捲り上げた腕は力なく垂れ下がっている。
激しい疲労と睡眠不足、そして感情の乱高下の果てに、航平の身体はまるでバッテリーが完全にゼロになった精密機械のように、その場から一歩も動けなくなっていたのだ。
「佐伯さん……」
文乃はキッチンのコンロへと足を進めた。
電気ケトルのスイッチを押し、湯を沸かす。
マグカップに熱湯を注ぎ、少しの冷水を加えて、飲みやすい温度の『白湯』を一杯仕立てた。
リビングの中央へと歩み寄り、立ち尽くす航平の目の前へと立つ。
そして、航平の両手を取り、温かい陶器のマグカップを、その大きな手のひらの中へとそっと握らせた。
「…………っ」
航平の手は、氷のように冷え切っていた。
マグカップのじんわりとした温もりが、航平の皮膚を通して伝わっていく。
「飲んでください」
文乃は至近距離で、航平の疲れ果てた瞳を見上げた。
「冷たい夜風を浴びて、佐伯さんの身体も冷え切ってます。……少しだけでも、胃の中を温めてください」
航平は震える両手でカップを持ち上げ、ゆっくりと白湯を口に含んだ。
何の味もしない、ただの温かい水。
けれど、その温もりが食道を通って冷え切った胃の腑へと届いた瞬間、航平の全身の強張っていた筋肉が、じわりと溶け出していくのが分かった。
「……佐伯さん」
文乃の優しい、澄んだ声。
「すずちゃんは、もう大丈夫です。お熱も下がって、ぐっすり眠っています」
文乃は、マグカップを持つ航平の大きな手の上に――。
そっと、自らの両手を重ねた。
「…………っ!」
航平の息が、喉の奥で止まった。
重なる、手のひら。
文乃の手は小さく、華奢だった。
けれど、その手のひらから伝わってくる体温は、信じられないほど力強く、柔らかく、そして温かかった。
「だから……佐伯さんも、少しだけ目を閉じてください。もう、一人で戦わなくていいんですから」
「文乃、さん……」
男の喉が、激しく詰まった。
自分の冷え切った手を包み込む、彼女の手の熱。
見上げる彼女の瞳に宿る、どこまでも深く、純粋な慈愛。
二年間。
誰の手も借りず、誰にも甘えず、一人で娘を守り抜かなければならないと、頑なな鉄の鎧で自らを縛り続けてきた男の魂が。
この重なり合った手のひらの温もりの前で、完全に、音を立てて崩壊していった。
ありがとう、と言いたかった。
すずを助けてくれてありがとうと、僕の命を救ってくれてありがとうと、声にして伝えたかった。
けれど、喉の奥が熱く熱く塞がれて、どんな言葉も形を成さなかった。
ただ、マグカップを握りしめたまま、航平の目から、大粒の熱い涙がポロポロと零れ落ち、重なり合った二人の手の甲を、静かに濡らしていった。
窓の外。
街の東の空が、ゆっくりと白み始め、夜明けの柔らかな光が、二人の足元へと差し込んでいた。
過酷な夜間救急の戦いを終えた部屋の中に。
言葉を超えて結びついた二人の手のひらの熱だけが、いつまでも、静かに息づいていた。




