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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第38話:すずの突然の高熱

静寂というものは、時に耳の奥を圧迫するほどの重みを持って人の意識を包み込む。


木曜日の深夜一時半。


街の灯りはあらかた消え失せ、遠くの幹線道路を走る深夜トラックの微かな重低音すら途絶えた時刻、マンション『メゾン・ド・フルール』の三〇一号室は、完全な深い闇の中に沈んでいた。


瀬戸文乃は、吸湿性の良いコットンのシーツにくるまり、規則正しい呼吸とともに浅い眠りの中にいた。


火曜日の夕暮れ、職場の後輩である矢野からの告白を真っ直ぐに断り、自らの胸の中にある感情――佐伯航平という不器用な男と、その愛娘であるすずへの揺るぎない想いを自覚したあの日から、文乃の心は不思議なほど凪いでいた。


お互いに引いたはずの境界線。


けれど、土曜日の昼下がりに弟の晴臣が突風のように乱入し、新米のおにぎりと豚汁を四人で囲んだあの日以来、二つの部屋の間を隔てていた頑なな氷壁は、跡形もなく消え去っていた。


月曜日の夕方には、ピカピカに洗われたタッパーとともに、すずがクレヨンで描いた拙いウサギの絵と『あやのちゃん、おいしかったよ』という平仮名のメッセージカードがドアノブにかけられていた。航平からも、几帳面な字で『先日は失礼な態度を取り、本当に申し訳ありませんでした。いただいたおにぎりの味、一生忘れません』という誠実極まりない感謝の付箋が添えられていた。


無理に距離を詰めようと焦る必要はない。


相手の歩幅を尊重しながら、困った時には自然に手を差し伸べ合える、そんな温かな日常をゆっくりと紡いでいけばいい――そう信じて、文乃は心地よい微睡みの底へと意識を委ねていたのだ。


――ガタッッッッ!!!!


「っ……!?」


突然、鼓膜を激しく叩き割るような衝撃音が、静寂を切り裂いた。


文乃の身体が、ベッドの上でビクッと跳ね起きる。


心臓が早鐘のように乱打を打ち始め、視界のピントが合わないまま、薄暗い部屋の天井を見上げた。


「……何……今の音……?」


地震ではない。窓の外の突風でもない。


その異様な音は、文乃の頭部が面している壁――三〇二号室との間を隔てる、十数センチのコンクリート壁のすぐ向こう側から響いてきたものだった。


耳を澄ませる。


部屋着の胸元をぎゅっと握りしめ、呼吸を止める。


次の瞬間、壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは、文乃の全身の血液を急速に凍りつかせるような音だった。


――ヒィッ……ヒィッ……ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!


「…………っ!」


幼児の、引き裂かれるような絶叫。


ただの夜泣きではない。


眠たさや不機嫌からぐずるような声ではなく、まるで身体の芯を焼け火箸で刺されたかのような、極度の苦痛と恐怖に満ちた、甲高く掠れた金切声だった。


続いて、ドスン、と何かが床に激突する鈍い音。


陶器かガラスのコップがフローリングの上で砕け散るような、硬質で不吉な破砕音。


そして――。


『すずッ!? すず、しっかりしろ! すずッッ!!』


壁を突き抜けて、文乃の部屋の空気を震わせたのは、佐伯航平の絶叫だった。


それは、先週のシステム障害の夜に見せた取り乱し方すら遥かに超えていた。


完全に理性を失い、恐怖で喉を引き裂かんばかりに叫ぶ、父親の悲痛極まりない狂乱の声。


『おい、すず! 目を開けろ! パパだ、パパがここにいるぞ! 息を……息をしろ、すずぅぅぅぅっっ!!』


「…………っっっ!!!!」


尋常ではない。


間違いなく、命に関わる何かが起きている。


思考よりも先に、文乃の身体が弾かれたように動いていた。


ベッドからシーツを跳ね除けて飛び降り、足元に脱ぎ捨ててあったグレーの厚手ニットカーディガンをパジャマの上から力任せに羽織る。


髪を束ねる暇も、靴下を履く暇もない。


スマートフォンだけを鷲掴みにし、裸足のまま玄関へと駆け抜けた。


ガチャリ、と鍵を開け、ドアガードを跳ね上げて外へと飛び出す。


深夜一時半の共用廊下は、初夏の冷たい夜風が吹き抜け、蛍光灯の青白い光が寒々しく床を照らしていた。


文乃はサンダルに爪先を突っ込むと、わずか三歩の距離を疾走し、三〇二号室の鉄の扉の前へと張り付いた。


ドンドンッ! ピンポーン、ピンポーン、ピンポーンッ!!


インターホンのボタンを力いっぱいに押し込み、手のひらで硬い鉄扉を激しく叩く。


「佐伯さんッ!! 佐伯さん、文乃です!! どうしたんですか!? 開けてくださいッ!!」


ドアの向こう側から、狂ったような足音と、激しい嗚咽が近づいてくる。


ガチャガチャガチャッ!!


鍵穴に鍵がうまく刺さらないのか、激しい金属の擦れる音が響いた後、内側から力任せにドアが開け放たれた。


バァンッッ!!


「せ……瀬戸、さ……っ!!」


開かれた扉の隙間から現れた航平の姿を視界に捉えた瞬間、文乃は息を呑み、胸元を鋭い氷の刃で突かれたような戦慄を覚えた。


そこに立っていたのは、いつもの知性的で穏やかな航平の面影など、微塵も残っていない男の姿だった。


黒のスウェットの襟元は激しく引っ張られてよれ、胸元には冷や汗と、何かの水分が大量に飛び散っている。


髪は鳥の巣のように乱れ、顔面は血の気が完全に引いて土気色を通り越し、陶器のように真っ白に硬直していた。


見開かれた両目は血走り、涙と脂汗でぐしゃぐしゃに濡れ、唇は紫色に変色してガチガチと激しく痙攣している。


そして――その航平の腕の中に、抱きかかえられていたのは。


「すずちゃん……ッ!?」


文乃の喉から、悲鳴が漏れた。


航平の逞しい両腕の中で、四歳の少女――すずは、異常な状態に陥っていた。


顔全体が真っ赤を通り越して、赤黒く鬱血している。


首筋や手足の筋肉が弓のようにピンと突っ張り、全身が小刻みに、ピクッ、ピクッと不規則な痙攣を繰り返していた。


両手は硬く握りしめられ、親指を内側に巻き込んだまま強張っている。


そして何より――その瞳だった。


すずの大きな黒目は、焦点が完全に合っておらず、上を向いて白目を剥きそうになりながら、虚空を彷徨っていた。


唇からは泡混じりの涎が垂れ、喉の奥から「ヒュー……ヒュー……」と、気道が狭まったような乾いた苦しげな喘鳴が漏れ出している。


「あ……あ……っ、瀬戸さん……っ!」


航平は床に膝をつきそうになりながら、震える左手でスマートフォンを文乃の前へと突き出した。


画面には、夜間の子どもの救急電話相談窓口である『#8000』の番号が表示されていた。


だが、航平の指先は恐怖と混乱のあまりガタガタと激しく痙攣しており、画面の通話ボタンを押そうとするたびに指が滑り、別の数字をタップしては『発信できませんでした』のエラー画面を繰り返していた。


「繋がらないんだ……っ! 指が、指が動かなくて……っ! 夜中に突然、泣き叫んで……触ったら火の玉みたいに熱くて、そしたら急に手足を突っ張って、白目を剥いて……っ! 僕を、僕を見ないんだ……呼んでも、返事をしてくれないんだ……っ!!」


男の喉から絞り出されたのは、魂が引きちぎれるような絶望の叫びだった。


「すずが……すずが死んじゃう……っ! 僕のせいで、僕がちゃんと見てなかったから……すずが息をしてない……っ! どうしよう、どうすればいい……誰か、誰か助けてくれぇぇぇっっ!!」


パニックの極致。


愛する一人娘が、目の前で痙攣を起こし、意識を失いかけているという極限の恐怖の前に、航平の強靭な理性は完全に粉々に打ち砕かれ、錯乱状態に陥っていた。


もし、ここに誰の助けもなければ、航平はこのまま娘を抱きしめたまま立ち往生し、貴重な数分を無駄に浪費してしまっていたかもしれない。


けれど――。


文乃は、怯まなかった。


一瞬、心臓が凍りつきそうなほどの恐怖が全身を駆け抜けたのは事実だ。


だが、目の前で崩壊しかけている父親と、苦しげに喘ぐ小さな命を目にした瞬間、文乃の腹の底で、カチリと冷徹なまでの覚悟のスイッチが入った。


――私が取り乱したら、この子たちは助からない。


実家の兼業農家で、祖母や母から叩き込まれてきた無数の手仕事と生活の知恵。


幼い弟の晴臣が高熱を出して夜中に引きつけを起こした時、母がどのように対処していたか。


救急救命講習で学んだ知識。


それらの記憶が、濁流のように文乃の脳内を駆け巡り、パニックを押し流して一本の澄み切った行動の道筋を照らし出した。


「佐伯さんッ!!」


文乃は玄関のたたきに素足のまま踏み込むと、航平の両肩を、痛いほどの力で力いっぱいに鷲掴みにした。


バシッ、と鈍い音が響く。


「っ……!?」


航平の身体が大きく揺れる。


文乃は航平の顔を真正面から引き寄せ、その血走った瞳を、逃げ場のない強い眼光で見据えつけた。


「落ち着いてくださいッ!! 私の目を見て!!」


凛とした、濁りのない文乃の強い声。


その声の響きに、航平の焦点の合っていなかった瞳が、ハッと文乃を捉えた。


「瀬戸、さん……」


「大丈夫です! すずちゃんは死にません! 絶対に死なせませんから、私の言うことを聞いてください!」


文乃は素早く手を伸ばし、すずの身体へと触れた。


服の上からでも、肌を刺すような強烈な熱気が立ち上っているのが分かる。


すずの首元に指を滑り込ませ、前開きパジャマのボタンを上から二つ、素早く引き外した。


気道を確保する。


そして、すずの小さな額に、文乃の冷たい手のひらをそっと押し当てた。


「…………っ!!」


熱い。


尋常ではない熱さだった。


まるで、沸騰したヤカンの表面に触れたかのような、激しい熱感。


三十八度台の生ぬるい熱ではない。間違いなく、三十九度五分――あるいは四十度近くまで一気に跳ね上がっている。


急激な体温の上昇に伴って発生する、小児特有の神経症状。


「……熱性痙攣(けいれん)です」


文乃は素早く診断を下した。


手足の突っ張りは左右対称。発作が始まってからの時間は、おそらくまだ一分から二分程度。


口元から泡が出ているが、チアノーゼで唇が完全に真っ青になっているわけではない。


「佐伯さん、すずちゃんを仰向けにしちゃダメです! 吐いたものが喉に詰まったら窒息します! 身体を横向きにして、顔を少し下に向けて抱いてください!」


「よ、横向き……っ!」


文乃の指示に弾かれたように、航平はすずの小さな身体を横向きに抱き直した。


文乃はすずの口元の涎を、自分のカーディガンの袖口で躊躇なく拭い去った。


「揺さぶっちゃダメです。名前を大声で叫んで刺激するのもやめてください。静かに、呼吸が通るように支えてあげて」


「は、はい……っ、すず……大丈夫だぞ、パパがいるからな……」


航平は文乃の言葉通り、すずの背中を優しく、震える手で支えた。


文乃の毅然とした指示と、温かな手のひらが介在したことで、航平の呼吸がようやく深さを取り戻し、瞳の奥に父親としての理性の光が戻り始めていた。


文乃は自分のスマートフォンを取り出し、画面を開いた。


時刻は午前一時三十四分。


熱性痙攣の持続時間を頭の中でカウントする。五分以上続く重積状態であれば即座に119番通報で救急車を呼ぶ必要がある。


けれど――。


横向きにして衣服を緩めてから三十秒ほどが経過した頃、すずの小さな身体から、ガクンと力が抜けた。


ピクピクと痙攣していた手足の突っ張りが緩み、強張っていた指先がふわりと開く。


白目を剥きかけていた瞳が閉じられ、荒かった呼吸が、「すー……すー……」という、弱々しいけれど規則正しい寝息のようなリズムへと落ち着いていった。


「あ……っ、痙攣が、止まった……?」


航平が信じられない面持ちで息を呑む。


「発作は治まりました。でも、熱が下がったわけじゃありません」


文乃は額の汗を拭い、一切の油断なく告げた。


「急激な高熱による単純型の熱性痙攣だと思います。でも、熱の原因が何なのか分からないし、この後もう一度発作が起きる可能性もあります。朝まで待つのは絶対に危険です。今すぐ、夜間小児救急外来へ連れて行きます」


「救急車を……呼んだ方がいいでしょうか?」


「痙攣が二〜三分で治まって、呼吸が落ち着いているなら、救急車を待つよりも、タクシーで夜間救急指定病院へ直行した方が早いです。駅前の総合医療センターに、深夜の小児科当直医がいるはずです」


文乃は迷うことなく、スマートフォンのタクシー配車アプリを起動した。


深夜の時間帯、迎車料金を上乗せした最優先手配モードを選択し、現在地を指定する。


ピロン、と小気味よい電子音が鳴り、『五分で到着します』の表示が点滅した。


「タクシー、手配しました! 五分でマンションのエントランス前に来ます!」


「五分……っ!」


「佐伯さん! ここからが時間との勝負です! 指示するものを今すぐまとめてください!」


文乃は立ち上がり、キッチンの作業台へと視線を走らせながら、矢継ぎ早に具体的な指示を叩き込んだ。


「第一に、すずちゃんの健康保険証、乳幼児医療証、そして母子手帳! 小児科の受診には絶対に必要です!」


「は、はい! リビングの引き出しにまとめてあります!」


「第二に、汗をかいた時の着替え一式と、おむつ二枚、おしりふき! 点滴やお薬で熱が引いた時に大量の汗をかきます!」


「着替えとおむつ……すぐ取ってきます!」


「第三に、熱を下げるための保冷剤か、氷枕! 冷凍庫にありますか!?」


「あ……っ、保冷剤、いくつか入っていたはずです!」


「よし、動いてください! あと三分しかありません!」


「はいッッ!!」


航平は弾丸のようにリビングへと駆け出した。


先ほどまでの絶望的な迷いとパニックは、文乃の完璧な統率によって、明確な行動目標へと変換されていた。


引き出しを素早く開け、青い母子手帳ケースと保険証を掴み取る。


寝室のチェストから、すずの柔らかな肌着とスウェットの着替え、おむつをトートバッグへと詰め込む。


キッチンへ疾走し、冷凍庫から取り出したケーキ用の保冷剤を、清潔なハンドタオルで手際よく包み込む。


一方、文乃はすずの小さな身体を抱き上げ、冷たい床からリビングのソファへと移動させていた。


すずは意識が朦朧としたまま、文乃のカーディガンの胸元に小さな顔を擦り寄せ、「う……あついの……あやのちゃん……」と、弱々しい寝言のような声を漏らした。


「大丈夫だよ、すずちゃん」


文乃はタオルで包んだ保冷剤を受け取ると、すずの首の両脇と、太ももの付け根――太い動脈が通っている箇所へと、優しく当てて熱を逃がしてやった。


「お姉ちゃんも、パパも、ずっとそばにいるからね。痛いの、すぐお医者さんに治してもらおうね」


「……ん……」


すずは文乃の指先を、小さな、熱い手のひらで、ぎゅっと力なく握り返してきた。


時計の針が、午前一時三十九分を指した。


文乃のスマートフォンが震え、タクシーの到着を知らせるバイブレーションが響く。


「佐伯さん、車が来ました!」


「準備、完了しました!」


航平は必要なものを詰め込んだトートバッグを肩にかけ、すずの黄色いキルティングバッグを抱えて戻ってきた。


そして、ソファの上に横たわるすずを、大きなブランケットごと、包み込むようにして力強く抱き上げた。


その腕は、先ほどのように恐怖で震えてはいなかった。


父親としての誇りと、娘を守り抜くという絶対の決意を宿した、逞しく、揺るぎない腕だった。


「瀬戸さん……僕、行ってきます。本当に、助けていただいて――」


航平が玄関へ向かおうとした、その瞬間。


文乃は自分の部屋の鍵をポケットに突っ込み、躊躇なく航平の隣へと並んだ。


「何を言ってるんですか。私も行きます」


「え……!? でも、深夜ですし、瀬戸さんにこれ以上の負担を――」


「佐伯さん」


文乃はサンダルを履き直し、航平の目をまっすぐに見据えて微笑んだ。


「タクシーの中で、すずちゃんの身体を冷やし続ける手がもう一つ必要です。病院の受付で書類を書いている間、すずちゃんを抱っこしておく手も必要です。……私、一人で行かせるつもりなんて、最初からありませんよ」


「瀬戸、さん……」


「行きましょう。すずちゃんのために」


航平の喉が、熱く詰まった。


言葉にならない感謝が、男の胸の奥底を満たしていく。


航平は深く頷き、ドアを大きく開け放った。


「……はい! 行きましょう!」


深夜のマンションの廊下を、三人の足音が駆け抜けていく。


エレベーターの扉が開き、夜の闇が待つ一階のエントランスへと向かって下降を始める。


初夏の深夜の冷たい空気の中。


高熱に喘ぐ小さな命を真ん中に抱き、大人の男女二人の手が、ひとつの確かな連携となって、夜間救急の戦いへと力強く踏み出していた。

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