第37話:矢野の告白と文乃の答え
週が明けた火曜日の、午後六時半。
オフィス街を包み込む夕暮れの陽光は、高層ビルのガラス壁に乱反射しながら、退社を急ぐビジネスマンたちの足元へと長く細い影を落としていた。初夏の乾いた風がアスファルトの熱気をさらっていく時間帯、ヒノデフーズ本社ビルから二本ほど裏路地に入った場所にある、落ち着いた雰囲気のカフェテリア『カフェ・ド・レスポワール』の店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
木目を基調とした店内には、クラシックギターの爪弾く柔らかなBGMが微かに流れ、琥珀色のペンダントライトがテーブルの上を暖かく照らし出している。
奥まった半個室風のボックス席。
瀬戸文乃は、陶器の白いカップから立ち上るアールグレイのベルガモットの香りを静かに胸へと吸い込みながら、テーブルの向かい側に座る青年の手元へと視線を落としていた。
向かい合って座っているのは、営業二課の後輩社員――矢野俊樹だった。
普段のオフィスであれば、柔らかな癖毛を揺らしながら人懐っこい垂れ目を細め、給湯室で「瀬戸さん、水出しの出汁って本当に便利ですね!」と屈託のない笑顔を振りまいている爽やかな青年だ。
だが今、文乃の目の前にいる矢野の表情には、いつもの人当たりのいい気安さは微塵も存在しなかった。
アイロンのピシッと利いたサックスブルーのワイシャツ。ネクタイは喉元まで寸分の狂いもなく締め上げられ、膝の上に置かれた両手は、緊張のあまり微かに強張っている。
注文したアイスコーヒーのグラスの表面には、細かな水滴がびっしりと付き、コースターの上へとポタポタと輪を作って垂れていた。だが、矢野はストローに口をつけようともせず、ただ膝の上の拳を握りしめていた。
「……あの、瀬戸さん」
沈黙を破ったのは、矢野の少し掠れた声だった。
「はい」
文乃はカップの取っ手からそっと指を離し、背筋を伸ばして姿勢を正した。
夕方五時過ぎ、文乃の社内チャットツールに矢野から届いたダイレクトメッセージ。
『瀬戸さん、今日の終業後、少しだけお時間をいただけないでしょうか。業務の進め方について、どうしても瀬戸さんにだけご相談したいことがありまして』
仕事熱心な後輩からの真面目な相談だと、文乃は最初はそう思っていた。営業事務と営業担当の間で生じる細かな伝票処理の不都合や、新人ならではのクライアント対応の悩みだろうかと、メモ帳とペンまでバッグに忍ばせてこの店へとやってきたのだ。
けれど、席に着いてからの矢野のただならぬ緊張感と、一度も書類を取り出そうとしない手元を見れば、それが単なる「仕事の相談」ではないことくらい、鈍感な文乃であっても痛いほどに察知できていた。
矢野は一度深く息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
その瞳は、いつもの甘い垂れ目ではなく、大人の男としての揺るぎない熱と覚悟を帯びて、文乃の視線を真正面から射抜いていた。
「瀬戸さん……相談っていうのは、口実です。嘘をついて呼び出してしまって、すみませんでした」
「矢野くん……」
「僕、瀬戸さんのことが好きです」
静かなカフェの空気を切り裂くように、衒いのない真っ直ぐな言葉が落ちた。
言葉の後に続いたのは、心臓の鼓動が聞こえそうなほどの静寂だった。
矢野は視線を逸らさず、耳元をほんのりと赤く染めながらも、一言一言を魂から絞り出すように語り続けた。
「入社したばかりの頃、僕が営業の伝票処理で大きなミスをして、他部署から怒鳴られてパニックになっていた時……瀬戸さんは嫌な顔ひとつせず、残業して一緒にログを追って、書類の不備を全部直してくれましたよね。『大丈夫、誰だって最初は失敗するんだから』って、温かい緑茶を淹れてくださって」
矢野の口元に、微かな、けれど愛おしむような笑みが浮かぶ。
「その時からずっと……瀬戸さんのことが憧れでした。いつも周囲に細やかな気配りをして、誰に対しても分け隔てなく穏やかで……。給湯室で嬉しそうにマイボトルのブレンド茶の話をしたり、お弁当箱を開けて楽しそうに自炊のコツを教えてくれたりする時の、あのキラキラした笑顔を見るのが、僕の毎日の何よりの楽しみだったんです」
矢野はテーブルの上に両手を置き、上体をわずかに前へと乗り出した。
その眼差しには、打算も打算的な駆け引きも欠片もなかった。
ただ、一人の女性に対する、純粋で、清潔で、誠実極まりない好意のすべてが、そこに注ぎ込まれていた。
「先週、発酵調味料のお店に誘った時……瀬戸さんが困ったような顔をされたのを見て、僕、すごく反省したんです。遠回しな誘い方をして、瀬戸さんに気を遣わせてしまったって。だから……今日はちゃんと、自分の言葉で伝えたかったんです」
矢野は息を呑み、そして、世界で一番大切な約束を交わすかのように、告げた。
「瀬戸さん。僕と……付き合ってくれませんか。瀬戸さんのことを、大切にしたいです」
「…………っ」
文乃の胸の奥底で、トクン、と熱い波が打った。
嘘偽りのない、完璧な告白だった。
矢野俊樹、二十六歳。
社内でも屈指の有望株であり、清潔感があり、誠実で、誰からも愛される好青年。家庭的な価値観を共有でき、料理や自炊への理解もあり、年齢も近く、何の後ろめたさもない。
世間一般の基準から見れば、二十八歳の独身女性にとって、これ以上ないほど理想的で、手放しで喜んで受け入れるべき最高の巡り合わせのはずだった。
もし、この手を取れば。
周囲の同僚たちからも祝福され、休日に穏やかなデートを重ね、やがて何一つ波風の立たない、あたたかで平穏な「普通の幸せ」を手に入れることができるのだろう。
――けれど。
文乃の心臓は、激しく警鐘を鳴らしていた。
目の前で誠実に頭を下げる矢野の姿を見つめながら、文乃の胸の中を激流のように埋め尽くしたのは、甘やかなときめきでも、安心感でもなかった。
それは、どうしようもないほどの「痛覚」を伴った、全く別の情景の奔流だった。
――脳裏に浮かび上がったのは。
いつも目の下に濃い隈を張り付かせ、激務と育児の奔走でボロボロになりながら、それでも必死で娘の手を握りしめ続けていた、あの男の姿だった。
佐伯航平。
二十九歳の、不器用で、生真面目すぎるシングルファザー。
金曜日の夕暮れ、ゲリラ豪雨で水浸しになったベランダで、泥水に腕を突っ込んで排水溝の詰まりを必死に掻き出してくれた、あの泥だらけの腕。
休日の午後、黒いTシャツの袖を肘まで捲り上げ、逞しい前腕の筋を浮かび上がらせて、換気扇の頑固な油汚れを新品同様に磨き上げてくれた、あの真剣な横顔。
深夜のオフィスでシステム障害と戦い、青ざめて駆け戻ってきて、熱い鍋焼きうどんを啜りながら『死ぬほど怖かった』と子供のように声を上げて泣き崩れた、あの痛々しい脆さ。
そして――何より。
先週の土曜日、実家の新米の塩おにぎりと豚汁を前にして、自分の空腹を二の次にして娘のナプキンを整え、熱い具材を何度も何度もフーフーと冷まして口へ運んでいた、あの深い愛情に満ちた横顔。
困ったように眉を下げて、照れくさそうに笑う航平の笑顔が。
そして。
『あやのちゃん!』
小さな両手を広げ、弾丸のように文乃の腰へと飛び込んできてくれた、すずの柔らかな体温と、甘いシャンプーの香りが。
文乃の心の真ん中を、隙間なく、完全に、暴力的なまでの質量で満たし尽くしていたのだ。
「…………っ」
文乃は、膝の上で自分の指先をぎゅっと握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
比べようもなかった。
矢野がどれほど誠実で、どれほど好条件な男性であろうと。
文乃の心は、すでにあの擦り切れたシングルファザーと、偏食を乗り越えようと小さなスプーンを握りしめる愛らしい少女に、魂の底から奪い去られていたのだ。
あの一人分の広すぎた部屋で、三人分のグラスを眺めながら感じたあの耐え難い寂しさ。
拒絶された夜に、誰にも食べてもらえなかった和風ハンバーグを一人で飲み下した時の、あの胸の引きちぎれるような激痛。
そして、土曜日の昼下がりに、三人で新米のおにぎりを頬張り、『あやのちゃんのごはん、世界一すき!』と笑い合えた瞬間に全身を駆け巡った、あの涙が出るほどの幸福感。
自分の料理で、あの二人を笑顔にしたい。
あの不器用な男が、日々の重圧から解き放たれてほっと息を吐き出す瞬間を、すぐ隣で見守っていたい。
あの小さな命が、大地の恵みを美味しそうに噛み締めて成長していく姿を、ずっと、ずっと抱きしめ続けていたい――。
それはもう、単なる「親切なお隣さん」の同情などでは断じてなかった。
自分自身が生涯をかけて選び取りたいと願う、唯一無二の『愛』そのものだった。
曖昧にしてはならない。
相手が真剣であればあるほど、一片の期待も、一欠片の逃げ道も残してはならないのだ。
文乃はゆっくりと顔を上げた。
紅茶の湯気の向こう側で、緊張に息を詰めて返答を待つ矢野の瞳を、文乃は澄み切った、真っ直ぐな眼差しで見つめ返した。
そして――両手をテーブルの上に揃え、腰を深く折って、静かに頭を下げた。
「……ごめんなさい、矢野くん」
低く、澄んだ、けれど一片の揺らぎもない声。
矢野の肩が、ピクリと小さく跳ねた。
「矢野くんの気持ち……本当に、嬉しかったです。私のこと、そんなふうに見ていてくれたこと……すごく光栄だし、感謝しています」
文乃は頭を上げ、矢野の目を逃げずにしっかりと見据えた。
その瞳には、申し訳なさはあっても、迷いや躊躇の陰りは微塵も存在しなかった。
「でも……その気持ちには、お応えできません」
「瀬戸さん……」
矢野の喉が、かすかに震える。
矢野は唇を引き結び、縋るような光を瞳に宿しながら、掠れた声を絞り出した。
「あの……僕じゃ、頼りないですか? 年下だし、まだ仕事も半人前で……でも、僕、瀬戸さんのためなら何だって頑張ります。料理だって、瀬戸さんに教えてもらいながらもっと練習して――」
「ううん、違うの」
文乃は首を静かに、けれど明確に横に振った。
矢野の誠意を、これ以上無駄に消費させないために。文乃は自らの胸の奥底にある、もっとも深く、もっとも重たい真実を、静かに言葉にして紡ぎ出した。
「矢野くんが頼りないからじゃないの。矢野くんは、すごく優しくて、実直で、誰よりも素敵な人よ。……ただ」
文乃は自分の左手を、そっと胸の真ん中へと当てた。
薄いブラウス越しに伝わってくる、トクン、トクンと力強く脈打つ確かな熱。
「……私、今。どうしても、心から離れない人がいるの」
「っ…………」
矢野の息が、止まった。
文乃の口から零れ落ちたその言葉の響きに、矢野の瞳が見開かれる。
「その人のことを考えると、胸がぎゅっと痛くなって……どんなに疲れていても、その人のために温かいご飯を作ってあげたいって思うの。その人が笑ってくれるだけで、私、生きててよかったって思えるくらい……それくらい、大切な人がいるの」
文乃の声音は、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちていた。
誰の悪口でもなく、誰への言い訳でもない。
ただ、自らの心の中に根を張った、絶対的な恋情の告白。
その言葉を口にする文乃の横顔は、夕暮れのペンダントライトを浴びて、息を呑むほどに美しく、神聖なまでの光をまとっていた。
矢野は、何も言えなかった。
言葉のすべてを失い、ただ、目の前の女性の澄んだ瞳を見つめ続けていた。
もし、文乃が「今は仕事が忙しいから」とか「社内恋愛はちょっと」といった曖昧な理由で断っていたなら、矢野はまだ食い下がることができただろう。自分の努力で覆せる余地があると信じて、想いをぶつけ続けることができたはずだ。
けれど、文乃のあの表情。
あの、他の誰の立ち入りも許さない、完璧に満ち足りた、けれど切なさを孕んだ横顔を見せられてしまえば。
そこに、自分が入り込める隙間など一ミリたりとも存在しないことくらい、どれほど愚かな男であっても、一瞬で悟らざるを得なかった。
「……そっか」
長い沈黙の後。
矢野の口から、ふうと、魂のすべてが抜けたような深い溜息が漏れ出た。
矢野はグラスの前に両手を下ろし、俯いた。
その背中が、わずかに丸まり、落胆の色に染まる。
けれど――数秒後。
矢野は両手で自分の頬をパチンと軽く叩くと、ゆっくりと顔を上げた。
目元には、失恋の滲む切ない翳りが残っていた。
けれど、その唇の端には、いつもの爽やかな、後輩男子らしい屈託のない笑みが、無理やりに、けれど懸命に浮かべられていた。
「……敵わないなぁ」
掠れた、けれど温かい矢野の独白。
「え……?」
文乃が小さく瞬きをすると、矢野は首を小さく横に振って、苦笑いをこぼした。
「敵わないですよ、そんなの。……瀬戸さん、すごく綺麗な顔で断るんだもん」
「矢野くん……」
「僕、給湯室で瀬戸さんを見てて、ずっと不思議だったんです。瀬戸さん、最近お弁当の彩りが変わって、料理の話をする時の瞳が、前よりもずっとキラキラしてて……。何か良いことでもあったのかなって思ってたんですけど」
矢野はテーブルのアイスコーヒーのストローを指先で弄びながら、静かに目を細めた。
「その人のためだったんですね。その人に、美味しいご飯を届けるためだったんだ」
「…………」
文乃は静かに目を伏せ、小さく頷いた。
否定はしなかった。
矢野はふっと息を吐き出し、背もたれに体重を預けた。
「悔しいなぁ……。僕、結構本気だったんですよ? 調味料のお店も、何週間も前からリサーチして、瀬戸さんが喜んでくれそうな和食屋さんも探して……。でも、最初から勝負にすらなってなかったんだな」
自嘲混じりの言葉の中にも、文乃に対する恨みがましさは一片もなかった。
矢野は居住まいを正し、文乃に向かって、社内での後輩としての礼儀正しい笑みを向けた。
「瀬戸さん。ちゃんと話してくれて、ありがとうございました。曖昧に濁さないで、真っ直ぐに断ってくれて……嬉しかったです」
「私の方こそ……勝手なことばかり言って、本当にごめんなさい」
「謝らないでください! 振られた僕が言うのもなんですけど、瀬戸さんにそこまで想われてるその人、世界一の果報者ですよ。……僕、その人に嫉妬しちゃいます」
おどけたように言って笑う矢野の気遣いに、文乃の胸の奥底の強張りが、ふわりと解けていくのを感じた。
「明日からも……会社で、今まで通り話しかけてもいいですか? 出汁の取り方、まだ全然マスターできてないですし」
「もちろんよ! 何でも聞いて。水出し出汁のバリエーション、いくらでも教えるから」
「あはは、よろしくお願いします!」
矢野はそう言うと、残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
失恋の痛みを喉の奥へと押し流すように。
そして、二人は席を立ち、伝票を手にレジへと向かった。
カフェを出ると、外はすっかり深い藍色の夜の帳に包まれていた。
駅へと向かう街路樹の並木道。
矢野は「じゃあ瀬戸さん、僕こっちの地下鉄なんで! お疲れ様でした!」と、一度だけ大きく手を振ると、爽やかな足取りで改札の階段へと吸い込まれていった。
その背中を見送りながら、文乃は初夏の夜風を、胸いっぱいに深く吸い込んだ。
「…………ふぅ」
肺の奥に溜まっていた重たい熱が、澄んだ夜気とともに吐き出されていく。
胸の奥に、痛みはあった。
誠実な後輩の好意を断ってしまったことに対する、申し訳なさと切なさ。
けれど、それ以上に――。
文乃の胸の真ん中を満たしていたのは、かつてないほど透明で、揺るぎない「確信」だった。
もう、迷うことは何もない。
自分は、あの人を愛している。
佐伯航平という、不器用で、生真面目で、誰よりも優しくて脆い一人の男を。
そして、すずちゃんという、愛おしくてたまらない小さな命を。
隣人としての境界線や、世間体の遠慮などという薄っぺらい枠組みを越えて、自分自身の魂が、あの二人の隣に立つことを選び取っていたのだ。
文乃はトートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、前へと歩き出した。
向かう先は、あのマンション。
三階の、壁一枚隔てた、あの二つの部屋が待つ場所へ。
夜道を急ぐ文乃の足取りは、力強く、どこまでも真っ直ぐに、愛する人たちが待つ夕暮れの食卓へと向けられていた。




