第36話:男同士のベランダトーク
新米の土鍋ご飯と具だくさんの豚汁、そして出来立てのだし巻き卵を囲んだ賑やかな昼食の後、時間は穏やかに、けれど確実に流れていった。
空になった食器の数々は、文乃が制止するのを遮って航平と晴臣の二人の大男が手際よくシンクへと運び、航平が几帳面な手つきで洗い、晴臣が大きな手で拭き上げて食器棚へと戻した。男手二人が加わった台所仕事はあっという間に片付き、リビングには初夏の夕暮れが静かに忍び寄っていた。
すずは、久しぶりに心の底から安心してお腹いっぱいご飯を食べられた満腹感と、昨夜の寝不足とが重なり、すっかり機嫌を良くしていた。
リビングのローテーブルの脇、文乃の隣にぴったりと身体を寄せ、広げられた大型の動物図鑑や絵本を指差しながら、「あやのちゃん、これなあに?」「キリンさん、首ながいね!」と愛らしい声を弾ませている。文乃もまた、すずの小さな肩を優しく抱き寄せ、鈴を転がすような声で笑いながら、一ページずつ丁寧に読み聞かせていた。
オレンジ色から薄紫色へと移り変わる夕暮れの光が、レースのカーテンを通して二人の柔らかな横顔を照らしている。
その、あまりにも美しく平和な光景を、壁際の椅子から見つめていた晴臣が、ふうと短く息を吐いた。
そして、隣に立っていた航平の肩を、大きな手のひらで軽く小突いた。
「佐伯さん」
「え……? はい」
急に声をかけられ、航平が背筋を伸ばして居住まいを正す。
晴臣は顎をくいっと窓の方へ向け、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちょっと、外の空気吸いに行きません? 男同士でさ」
「あ……はい、喜んで」
航平は文乃かすずに声をかけようとしたが、晴臣は「シーッ」と人差し指を唇に当て、音を立てずにリビングのガラスサッシへと歩み寄った。
サッシを細くスライドさせ、二人は忍び足でベランダへと足を踏み出した。
ガララ……パタン。
サッシが静かに閉まり、ガラス戸を一枚隔てた瞬間、部屋の中の絵本の読み聞かせの声は遠のき、代わりに初夏の夕暮れが運んできた心地よい夜風が、二人のシャツの裾をふわりと撫で上げた。
午後六時過ぎ。
西の空の茜色は濃紺のグラデーションへと溶け込み始め、街の輪郭が薄闇の中に沈みつつあった。マンションの眼下に広がる住宅街には、家々の窓にポツポツとオレンジ色の明かりが灯り始め、遠くの幹線道路を行き交う車のヘッドライトが、光の帯となって流れている。
晴臣はベランダの手すりに両肘を預け、大きく伸びをして肩を鳴らした。
「ふあぁぁ……涼し。風通しいい部屋だな、ここ。うちの狭いアパートとは大違いだわ」
「そうですね。高台にあるマンションなので、夜風がよく通るんです」
航平も半歩引いた位置で手すりに手をかけ、並んで街の灯りを見下ろした。
二人の長身が並ぶと、ベランダの空間はやけに狭く感じられた。百八十センチを超える男が二人。夕暮れの薄闇の中で、沈黙が静かに二人の間を満たしていく。
晴臣はカーゴパンツのポケットに手を突っ込み、何かを探るように指を動かしていたが、やがて銀色の細身の金属の塊を取り出した。
ジッポライターだった。
カチッ、シャラン。
小気味よい金属音を立てて蓋を跳ね上げ、親指でフリントホイールを擦る。
シュッ、と小さな火花が散り、夕暮れの風の中で小さな橙色の炎が揺らめいた。
けれど、晴臣はタバコを取り出すわけではなかった。ただ、指先でその小さな炎を見つめ、風に揺れる火の粉を眺めているだけだった。
「タバコ……吸われるんですか?」
航平が遠慮がちに尋ねると、晴臣は「あー、いや」と苦笑交じりに首を横に振った。
「昔、ちょっと吸ってた時期もあったんすけどね。今のインテリアショップに就職してから、商品に匂いがつくのが嫌で完全にやめました。でも、なんか考え事する時に、手持ち無沙汰で火を弄る癖だけが抜けなくてさ」
パチン、と蓋を閉じ、炎を消す。
晴臣はライターを手のひらの中で弄びながら、手すり越しに広がる薄闇の街を見つめた。
「佐伯さん」
「はい」
「昼間は……いきなり怒鳴り散らして、本当に悪かったっす。隠し子だの彼氏だの、デカい声で騒ぎ立てちまって」
「いえ、とんでもないです」
航平は慌てて首を振った。
「当然の反応だと思います。独身の女性の部屋の隣から、男と子どもが現れて、部屋には大きなタッパーが並んでいたんですから……弟さんとして、不審に思われるのは当たり前です。むしろ、僕がもっと早く事情を説明すべきでした」
「いやぁ、俺の早合点ですよ。姉ちゃんのあのチョップの切れ味で、一瞬で目が覚めました」
晴臣は自分の後頭部を撫でて、カカッと声を立てて笑った。
けれど、その笑い声が風に溶けて消えると、晴臣の横顔から軽薄な色がすっと引いていった。
ライターをカチャカチャと弄ぶ指の動きが止まる。
晴臣は夜空を見上げ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……姉ちゃんさ」
「え?」
「昔から、根っからの『長女気質』なんですよ」
低い、どこか懐かしむような弟の声。
「俺の実家、山梨の兼業農家でさ。果樹園と畑をやってて、両親も朝から晩まで泥だらけで働いてたんです。祖母ちゃんも元気だったけど、やっぱり忙しくて。そんな中で、姉ちゃんは物心ついた時から、家の手伝いをするのが当たり前の環境で育ったんです」
航平は黙って、晴臣の言葉に耳を傾けた。
「野菜の泥を落としたり、梅干しを漬けたり、出汁の取り方を祖母ちゃんから教わったり……。普通の子がアニメ見たりゲームしたりしてる時間に、姉ちゃんはずっと台所に立ってました。で、俺が腹減ったって泣くとさ、不恰好なおにぎり握ってくれたり、甘い卵焼きを焼いてくれたりして」
晴臣の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「誰かのために飯を作って、誰かが『美味い』って笑ってくれるのが……あいつにとって、何よりの幸せだったんです。でもね、佐伯さん」
晴臣は視線を夜空から手すりへと落とし、少しだけ眉を寄せた。
「その代わりにあいつ……自分の幸せは、いつも全部後回しにする奴だったんです」
「後回し……」
「そう。高校の時もさ、俺、サッカー部で毎日腹ペコで部活やってて。そしたら姉ちゃん、自分の大学受験の勉強で寝不足のはずなのに、毎朝五時に起きて、俺のためにバカでかい二段の弁当作ってくれたんですよ。唐揚げとか、肉巻きとか、俺の好きなもんぎっしり詰めてさ。自分のことなんてそっちのけで、俺や家族のために自分の睡眠削って、時間使って……」
晴臣はぎゅっと手すりを握りしめた。
「弟の俺が言うのもなんですけど、あいつ、本当に損な生き方しかできない奴なんです。人に尽くすのが好きなくせに、いざ自分が助けてもらう段になると、途端に遠慮して引き下がっちゃう。『迷惑じゃないかな』『お邪魔じゃないかな』って、相手の顔色ばっかり伺って、自分の気持ちは胸の奥にギュッと押し込んじまう。……恋愛にしたってそうです。男に都合よく使われてボロボロになるんじゃないかって、俺、ずっと心配でさ」
夜風が、二人の間をサァッと通り抜けていく。
晴臣は身体の向きを変え、ベランダの手すりに背中を預けて、腕を組んだ。
そして――航平の目を、真正面から真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、先ほどの大型犬のような愛嬌は欠片もなかった。
姉を大切に想う、一人の男としての、鋭利で真剣な光が宿っていた。
「……さっきの昼飯、見てて分かりましたよ」
「え……?」
「佐伯さん」
晴臣の声が、低く響く。
「あんたが、姉ちゃんを『都合のいい家政婦』扱いしてないことくらい。男同士なら、見てりゃ一発で分かります」
「っ…………」
航平の喉が、息を呑んで小さく鳴った。
「飯を食う前に、真っ先に娘さんのナプキン整えて、豚汁を何回もフーフーして冷ましてから口に運んでた。娘さんの口元を拭く手つきも、すげえ丁寧で……自分の腹なんて二の次で、ずっと娘さんのことばっかり気にしてた」
晴臣は指を一本立てて、航平を指した。
「それだけじゃない。姉ちゃんの作った飯を食う時、あんた、一口ごとに手を合わせて、深々と頭下げてただろ。『いただきます』と『ごちそうさま』の言い方ひとつで、あんたがどれだけ育ちが良くて、どれだけ姉ちゃんの料理に敬意を払ってるか……痛いほど伝わってきましたよ」
「晴臣さん……」
「それにさ」
晴臣はふっと口角を上げ、少し意地の悪い、けれど核心を射抜くような眼差しを向けた。
「あんた、姉ちゃんに対して……必死で踏みとどまってるだろ」
「っっっ…………!!!!」
航平の心臓が、跳ね上がった。
全身の血液が逆流し、冷や汗が背筋を伝い落ちる。
見抜かれていた。
他人の善意に無神経に甘えるクズではないことだけでなく――自分が文乃に対して抱いている、あの激しい自制の重力と、その奥底にある感情までもが、この鋭い弟の眼光に完全に透かされていたのだ。
「甘えちゃいけない。これ以上踏み込んじゃいけない。若い独身の女性に迷惑をかけちゃいけないって……あんた、自分の中にめちゃくちゃ厳しい線を引いて、必死でブレーキ踏んでる顔してた」
晴臣はライターをカチリと鳴らし、静かに言った。
「真面目すぎるんだよ、佐伯さん。あんた、真面目すぎて、見てて息が詰まるくらいだ」
「…………」
航平は、何も言い返せなかった。
初夏の夜風が、火照る頬を撫でていく。
手すりを握る指先が、白くなるほど強く力んでいた。
晴臣の言う通りだった。
自分は真面目という名の鎧を着込んで、文乃の未来を守るためだと自分に言い聞かせながら、必死で一線を引こうとしていたのだ。
だが、晴臣の言葉は、そこで終わりではなかった。
晴臣は手すりから身体を起こし、航平の目の前へと一歩踏み出した。
そして、静かに、けれど逃げ場のない力強さで、航平の胸元を指差した。
「でもね、佐伯さん」
「……はい」
「姉ちゃん……ここ数日、すっげえ寂しそうでしたよ」
「…………っ!」
航平の息が、完全に止まった。
晴臣の眼差しが、静かに航平の心を貫く。
「今日、俺が昼過ぎに実家の荷物担いで飛び込んできた時さ……姉ちゃん、キッチンでまな板の前に突っ立って、魂が抜けたような顔してたんですよ。エプロン着けてるのに、包丁も握ってなくて、火も点けてなくてさ。部屋の中が、まるで誰も住んでないみたいに冷え切ってた」
「文乃さんが……」
「冷蔵庫開けたらさ、でっかいタッパーの中に、和風ハンバーグが手つかずで残ってました。星型に切った人参が乗っかっててさ。……一人暮らしの女が、平日の夜に星型の人参なんか切るわけねえだろ。誰のために作ったのか、誰に食べてもらえなかったのか……見りゃ全部分かりましたよ」
晴臣の声が、少しだけ熱を帯びる。
「姉ちゃん、泣いてたんじゃないですか? 誰にも食べてもらえなかったあのタッパーを一人で抱えて、真っ暗な部屋で、一人で食べたんだと思いますよ」
「っ…………!!!」
航平の胸の奥底で、激痛が走った。
火曜日の夕暮れ。
ドアの隙間から香っていた、あの和風おろしハンバーグの湯気。
冷酷な営業スマイルで拒絶を突きつけた自分に対して、涙を浮かべて立ち尽くしていた文乃の姿。
あのハンバーグを、彼女は一人で食べたのだ。
すずのために星型に型抜きした人参を、誰にも喜んでもらえないまま、一人で、喉を詰まらせながら飲み下したのだ。
自分のくだらない保身のせいで。
自分の頑なな意地のせいで。
「さっきも言いましたけどね」
晴臣は航平の目をまっすぐに見つめ、一言一言を噛み締めるように告げた。
「誰かのために心を込めて飯を作って、それを『美味い、美味い』って笑顔で食べてもらえるのが……あいつの、生きがいなんです。あいつの命のガソリンなんですよ」
「生きがい……」
「そう。一人暮らしで、自分のためだけに作る飯なんて、あいつにとってはただの作業なんです。誰かがお腹を空かせて待っていてくれて、それを一口食べて『あまい!』『美味しい!』って笑ってくれる……その瞬間のために、あいつは毎日一生懸命に出汁引いて、野菜刻んでるんです」
晴臣は航平の逞しく、けれど強張っていた肩に、ポンと大きな手のひらを置いた。
朝、エントランスで管理人・長谷川が置いてくれたのと同じ、温かく、力強い手のひら。
「あんたが誠実な人だってことは、もう嫌ってほど分かりました。姉ちゃんを利用するような薄っぺらい男じゃないことも、十分に伝わりましたよ。……だからさ」
晴臣はふっと笑った。
それは、弟として、そして同じ男として、航平の背中を力強く叩くような、最高の笑顔だった。
「妙な遠慮で、姉ちゃんを締め出すの……もう、やめてやってください」
「…………っっっ」
航平の喉仏が、激しく痙攣した。
視界が、じわりと熱いもので滲みそうになる。
「迷惑かけまいとして、頑なに壁作って、ドア閉ざして……そんなことされたら、姉ちゃん、余計に傷つくだけですから。困った時は『助けてくれ』って言ってやってください。美味い飯食ったら、遠慮せずに『美味しかった』って笑ってやってください。……あいつの差し出す手を、ちゃんと両手で受け止めてやってくださいよ」
晴臣はそう言うと、手にしたジッポライターをポケットへと滑り込ませた。
カシャン、と小気味よい音が響く。
「……それが、俺からあんたへの『姉をよろしく』の合図っすから」
「晴臣、さん……」
航平の声は、完全に掠れていた。
言葉が出なかった。
胸の奥底に溜まり続けていた、罪悪感という名の氷塊が。
朝の長谷川の言葉に続き、この真っ直ぐで不器用な弟の放った温かな言葉によって、完全に、跡形もなく粉砕されていた。
守ろうとしていたのではない。
自分はただ、拒絶することで彼女を傷つけ、その生きがいすらをも奪い去っていたのだ。
誠実であるということは、壁を作って逃げ出すことではない。
相手の差し出してくれた温かな手を、恐れずに握り返し、自分のできる限りの誠意を尽くして、共に食卓を囲み続けることなのだ。
航平は手すりから身体を離し、晴臣に向き直った。
そして、直角に近い角度で、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。晴臣さん」
震える、けれど芯の通った航平の声。
「僕の……僕の身勝手な意地で、文乃さんを傷つけてしまっていたこと……心から恥じています。もう二度と、あんな真似はしません。文乃さんの温かい手を、二度と拒絶したりしません」
「おう」
晴臣は満足そうに口角を上げ、航平の背中をバチンと叩いた。
「言ったな? 男に二言はねえぞ、佐伯さん」
「はい。誓います」
二人の大男の間で、確かな約束が結ばれた瞬間だった。
ふと、ガラスサッシの向こう側――リビングの温かな灯りへと視線を向ける。
部屋の中では、すずが文乃の膝の上にすっぽりと収まり、トトロのぬいぐるみを動かしながら、楽しそうに笑っていた。
文乃もまた、すずの頭を優しく撫でながら、満面の笑みを咲かせている。
その光景は、外の暗い夜の闇とは対照的に、まるで世界で一番安全で、温かな陽だまりのように輝いていた。
「さ」
晴臣が伸びをして、サッシの取っ手に手をかけた。
「戻りましょうか。あいつら、絵本に夢中で俺たちが消えたことにも気づいてねえや」
「はは……そうですね」
航平も笑みをこぼした。
サッシが開かれ、二人が再びリビングへと足を踏み入れる。
部屋の中に満ちていた、新米と出汁の微かな残り香。
そして、顔を上げた文乃の澄んだ瞳と、すずの無邪気な笑顔が、夜風に吹かれて戻ってきた男たちを、優しく出迎えてくれた。




