第35話:弟の品定め
三〇一号室のリビングに、静かな湯気が立ち上っていた。
先ほどまでの共用廊下における阿鼻叫喚――「姉ちゃんの彼氏か」「隠し子か」「リアル叔父さんデビューか」と喚き散らした瀬戸晴臣と、耳まで真っ赤にして「断じて不埒な関係ではございません!」とパニックを起こした佐伯航平の衝突は、文乃の渾身の後頭部チョップと、すずの放った「おおきいワンワンみたいなお兄ちゃん」という無垢な一言によって、ようやく強制終了を迎えていた。
廊下に散らばった段ボールを回収し、平謝りを繰り返す文乃が「とにかく、誤解を解くためにも中で少し落ち着いてください」と二人を促したのだ。
航平は最初、今朝の出来事や火曜日の拒絶を思って酷く躊躇っていた。だが、昨夜からほとんど何も口にしていないすずの小さなお腹が「きゅうぅぅ……」と切ない音を立てて鳴り、文乃が「ちょうど実家から届いたばかりの新米が炊き上がるところなんです」と真剣な眼差しで食い下がったことで、最後には深く頭を下げて部屋へと上がることになったのだった。
「ふー……っ、マジで頭割れるかと思った……」
ダイニングテーブルの端、壁側の席に腰掛けた晴臣が、まだ痛むのか後頭部をさすりながら不満げに唇を尖らせていた。
その向かい側には、背筋を定規で引いたように真っ直ぐ伸ばし、膝の上に両手を揃えて直立不動に近い姿勢で腰掛ける佐伯航平の姿がある。
航平の表情は、先ほどまでの廊下での動揺から一転し、まるで重要な国家機密を扱う査問委員会にでも出席しているかのように、極限まで引き締まっていた。ワイシャツの襟元を正し、ネクタイを締め直し、わずかな姿勢の崩れすら己に許さないという、凄まじい緊張感。
その航平の隣では、すずが子ども用の椅子にちょこんと座り、テーブルの上に置かれた麦茶のグラスを両手で包み込みながら、目の前に座る巨大な男――晴臣の顔を、好奇心と微かな警戒心が入り混じった丸い瞳で見つめていた。
「…………」
「…………」
二人の大男の間で、視線が無言のまま激しく交錯する。
晴臣は腕を組み、顎を少し引きながら、鋭い猛禽のような目で航平の一挙手一投足を観察していた。
普段は人懐っこい大型犬のような弟だが、こと「姉」に関することとなると、長男気質ならぬ過保護な弟としての防衛本能が容赦なく作動する。
――佐伯航平、二十九歳。
隣室に住むシングルファザー。Webエンジニア。
姉の部屋の合鍵を持っているわけでも、やましい男女の関係があるわけでもないことは、先ほどの廊下での取り乱しぶりと、文乃の激怒のチョップを見れば明白だった。
だが、晴臣の疑念はそこで晴れたわけではなかった。
むしろ、別の懸念が晴臣の胸中を占めていた。
――この男、本当に姉ちゃんの善意にタダ乗りしているだけの、都合のいい寄生虫じゃないのか?
実家の兼業農家で、祖母や母から叩き込まれた料理の腕前を持ち、他人に尽くすのが好きで、自分のことはいつも後回しにしてしまう、お人好しすぎる姉。
そんな姉の優しさに目をつけ、育児の負担や食事の用意を無神経に押し付け、タダ飯を食わせてもらっているのだとしたら――相手がどれほど整った顔のイケメンであろうと、絶対に許すわけにはいかない。
晴臣の瞳の奥で、冷徹な「査定」の炎が静かに揺らめいていた。
そんな重苦しい沈黙を切り裂くように、キッチンから小気味よい音が響いた。
――コトッ、パチパチパチ……。
「よし……蒸らし、完了」
文乃の声とともに、コンロの上にあった伊賀焼の黒い炊飯土鍋の蓋が、両手で持ち上げられた。
パカッ。
――フワァァァッッッ……!!
一瞬にして、ダイニングの空気が、息を呑むほどに甘やかで芳醇な蒸気によって塗り替えられた。
立ち上る、真っ白な湯気。
それは、スーパーの特売米や、電気炊飯器の保温ご飯からは決して漂ってこない、生命の息吹そのもののような穀物の力強い香りだった。
土鍋の中に現れたのは、一粒一粒が完璧に立ち上がり、天日干しの陽光をそのまま閉じ込めたかのように艶やかに輝く、純白の新米だった。表面には薄い膜のような透明な艶が張り、まるで磨き抜かれた白真珠がぎっしりと敷き詰められているかのように眩しい。
「うわ……っ」
晴臣の鼻腔がピクリと動き、思わず喉仏が鳴った。
航平もまた、その圧倒的な香りに打たれたように、ハッと目を見張っていた。
文乃は濡らした飯切りのしゃもじを土鍋の縁に沿って差し入れ、底から空気を抱き込ませるように、ふんわりと十字に米をほぐした。シャクッ、シャクッ、と米粒が擦れ合う小気味よい音が響く。
「熱いうちに握っちゃうね。すずちゃん、すぐできるから待っててね」
「うん!」
すずが身を乗り出し、机の上に敷かれたランチョンマットを小さな手でトントンと叩く。
文乃の手際は、まさに職人の領域だった。
大きめの平皿に、水で濡らした清潔なサラシを広げる。
両手のひらを冷水に浸し、指先にほんの少しだけ、伊豆大島産の粗塩――ミネラルを豊富に含んだ、尖った塩辛さのない円やかな自然塩を擦り付ける。
炊きたての、湯気を噴き上げる熱々の新米を、惜しみなく両手で掬い上げる。
「あつっ……ふふ、でも今が一番美味しい」
文乃の手の中で、米粒たちがリズミカルに踊る。
決して、力任せに押し潰してはならない。
手のひらの中に空気の層を包み込むように、外側だけを優しく三方から包み、キュッ、キュッ、キュッと三回、手の角度を変えて形を整える。
わずか十秒。
まな板の上に置かれたのは、角がほんのりと丸みを帯びた、吸い込まれそうなほど美しい二等辺三角形の『塩おにぎり』だった。
具材は何も入っていない。
海苔すら巻かれていない。
ただ、研ぎ澄まされた新米の甘みと、職人のような手のひらの塩気だけで勝負する、究極の米の結晶。
表面にはうっすらと蒸気のヴェールが揺らめき、粒と粒の間に適度な隙間があるため、今にも口の中でホロリとほどけてしまいそうな、完璧な握り加減。
それを、大人の握り拳大で四つ、すずの小さな口に合わせたミニサイズで二つ、手際よく握り上げていく。
並行して、コンロのもうひとつの大鍋からは、信州白味噌と赤味噌を合わせた、濃厚な出汁の香りが溢れ出していた。
実家の畑から晴臣が運んできた、掘りたての新じゃが。
皮ごと一口大に切った新じゃがは、煮崩れすることなくホクホクとした芯を残し、乱切りにした大根と人参、笹がきの牛蒡、そして香ばしく炒められた豚バラ肉の脂が出汁に溶け合っている。
仕上げに、銅の卵焼き器で焼き上げられたばかりの、出汁をたっぷりと抱き込んだ分厚い『だし巻き卵』が、湯気を立てながら四等分に切り分けられた。
「お待たせしました。……お昼ごはん、どうぞ!」
テーブルの上に並べられたのは、日本の家庭料理の原点にして、至高の三品。
大皿に盛られた、艶めく六つの塩おにぎり。
大ぶりの漆のお椀に波々と注がれた、具だくさんの熱々の豚汁。
そして、黄金色に輝き、断面から出汁がジュワッと滲み出している、出来立てのだし巻き卵。
「うおおおおぉぉぉぉっっ!! これだよこれ!! 親父の新米と、姉ちゃんの豚汁!!」
晴臣は我慢の限界とばかりに両手を合わせ、「いただきます!」と叫ぶや否や、巨大な塩おにぎりを鷲掴みにして大口を開けた。
ガブリッ!
心地よい咀嚼音が響く。
「んんんんん〜〜〜〜っっっ!! うっま……!! マジでうめぇぇぇ!!」
晴臣は目を剥き、咀嚼しながら唸り声を上げた。
「米の甘みが濃い! 外側はしっかり握れてんのに、噛んだ瞬間に口の中でパラパラって米粒がほどけていく! 塩加減が絶妙すぎて、具がなくてもこれだけで無限に食えるわ!」
勢いよく豚汁の椀を持ち上げ、ズズッと豪快にすする晴臣。
「ぶはぁぁぁっ! 出汁が染みるぅぅぅ! じゃがいもがホクホクで、豚肉の脂とごま油のコクが最高だ! 生き返るぅぅぅ!」
実の弟が獣のようにがっつく横で、航平は――。
「…………」
航平は、すぐには箸を伸ばさなかった。
彼はまず、隣に座るすずの様子を静かに確認した。
テーブルの上に置かれたペーパーナプキンを二枚取り、丁寧に四つ折りにすると、すずのスモックの襟元にそっと挟み込んで、服が汚れないよう胸元を保護した。
「すず、熱いから気をつけような」
低く、どこまでも穏やかな声。
航平は自分のお椀の前に、すず用の子ども用の小さな木のお椀を引き寄せた。
豚汁の中から、柔らかく煮込まれた人参と大根、そして小さく千切られた豚肉をスプーンですくい取り、小皿の上に移す。
そして、熱い蒸気が立ち上る具材に、フーフーと何度も、何度も自分の息を吹きかけて冷ました。
指先で小皿の底に触れ、熱が十分に飛んだことを確認してから、スプーンをすずの小さな手元へと握らせてやる。
「ほら、すず。もう熱くないよ。人参、柔らかいから食べてごらん」
「……うん」
すずはスプーンを受け取ると、昨夜の頑なな拒絶が嘘のように、素直に口を開けて人参をパクリと咥えた。
モグ、モグ……。
小さな口が動く。
その瞬間、すずの瞳が、パッと春の陽射しを浴びた花のように見開かれた。
「…………っ、あまい!」
すずは口の中のものをすんなりと飲み込むと、小皿に残っていた大根と豚肉も、自分のスプーンで夢中になってすくい上げ、次から次へと口の中へ運んでいった。
「パパ! お野菜、やわらかい! お出汁の味がする! すず、これすき!」
「そうか……よかったな、すず」
航平の目尻が、ふわりと細められた。
その眼差しには、昨夜の絶望も、今朝の焦燥もなかった。
娘が自分の手で、美味しそうにご飯を口に運んでいる――ただその奇跡のような光景を見守る父親の、底知れぬ愛おしさと、安堵の光だけが満ちていた。
航平はポケットから清潔なハンカチを取り出し、すずの口元についた微かな味噌の雫を、トントンと優しく拭き取ってやった。
そして、ようやく。
航平は文乃へと向き直り、両手をテーブルの上に揃えて、深く、深く頭を下げた。
「瀬戸さん。……いただきます。心の底から、感謝していただきます」
寸分の狂いもない、美しい礼。
航平は小さめの塩おにぎりを両手で持ち上げ、おずおずと口へと運んだ。
サクッ、フワッ……。
米粒の繊維がほどけ、舌の上に広がった瞬間、航平の動きが完全に止まった。
「…………っ!」
航平の喉仏が、大きく上下した。
「な……なんですか、このお米は……」
航平の声が、かすかに震えていた。
「ただの白米と塩だけなのに……噛めば噛むほど、上品な甘みと香りが溢れ出してくる……。お米の芯まで瑞々しくて、舌触りが驚くほど滑らかです。それに、この塩の加減……お米の甘みを極限まで引き立てる、完璧なバランスだ……」
続けて、豚汁のつゆを一口啜る。
ゴクリ、と飲み干した瞬間、航平は両手でお椀を包み込んだまま、深く、長い溜息を吐き出した。
「……五臓六腑に染み渡ります。根菜の土の力強さと、豚肉の旨味、そして何より……この出汁の深さ。昨夜から張り詰めていた身体の強張りが、全部……綺麗に溶けていくようです」
「ふふ、良かったです。実家の父が作ったお米と、畑の野菜ですから、大地の力がいっぱい詰まってるんですよ」
文乃が嬉しそうに微笑む。
その時だった。
すずが、小皿の豚汁を綺麗に平らげると、大皿の上に残っていた小さな塩おにぎりへと、短い両手を力いっぱいに伸ばしたのだ。
「あやのちゃん! すず、おにぎりたべたい!」
「いいよ、すずちゃん。持てるかな? まだちょっと温かいから気をつけてね」
「もてる! すず、力持ちだもん!」
すずは両手で小さな三角形のおにぎりを包み込むように抱え、口を大きく開けた。
あーん、と大口を開けて、てっぺんの角をパクリとかじりつく。
モグモグ、モグモグ……。
小さなリスのように両頬をぷっくりと膨らませて咀嚼した瞬間。
「…………っっっ!!!」
すずの顔全体に、満開の向日葵のような、弾けるような笑顔が咲き誇った。
「おいしぃぃぃぃぃっっ!!」
すずはおにぎりを両手で持ったまま、椅子の上でピョンピョンとお尻を跳ねさせた。
「おにぎり、つやつや! あま〜い! あやのちゃんのごはん、やっぱり世界一すき!!」
「ふふっ、ありがとうすずちゃん! いっぱい食べてね!」
「うん! すず、おっきいお口でぜんぶ食べる!」
昨夜、冷えたパック惣菜の前で激しい涙を流し、「パパのごはん嫌い、あやのちゃんがいい」とハンガーストライキを起こしていた少女が。
今、何のためらいもなく、自らの手でおにぎりを頬張り、満面の笑顔で命を輝かせている。
その姿を横で見つめていた航平は――。
「…………っ」
航平は手元の箸を置き、両手で口元を覆った。
眼鏡の奥の切れ長な瞳に、じわりと、熱い涙の膜が張っていく。
泣きそうになるのを、必死で奥歯を噛み締めて押し留めているのが、その震える肩から痛いほど伝わってきた。
すずが笑っている。
すずが、自分の意思で、美味しそうにご飯を食べている。
自分が意地を張り、正論の鎧で閉ざしかけていた娘の笑顔を、この温かい食卓が、またしても救い出してくれたのだ。
航平はすずの小さな頭を、壊れ物を撫でるように優しく、愛おしそうに撫で回した。
「……よかったな、すず。美味しいな……本当に、美味しいな……」
その声は掠れていたが、そこには父親としての心底からの安堵と、文乃への底知れぬ敬意が、温かな光となって滲み出ていた。
――そして。
その一部始終を。
豚汁のおかわりをよそいながら、腕を組んでじっと見つめていた男がいた。
瀬戸晴臣だった。
「…………」
晴臣は、空になった自分のお椀を見つめ、それから向かいの航平へと視線を戻した。
最初のような、刺々しい査定の眼光は、もうそこにはなかった。
見えていた。
航平が席に着いてから、自分の空腹を差し置いて、真っ先に娘のナプキンを整えたこと。
熱い豚汁を何度も何度もフーフーと冷まし、温度を確かめてから娘の口へ運んだこと。
娘の口元を拭う手つきの、あの繊細な柔らかさ。
そして、姉の作った料理に対して、一口ごとに心からの敬意を払い、手を合わせて深く頭を下げていた、あの礼儀正しさ。
何より――。
娘がおにぎりを頬張って「世界一すき」と笑った瞬間、この長身の男が、まるで自分の命を救われたかのように目を潤ませ、愛おしそうに娘の頭を撫でていた、あの横顔。
――あんな顔をする奴が。
――姉ちゃんを都合よく利用するような、薄っぺらい悪人であるはずがない。
他人の善意に無神経に甘えるような男なら、あんなふうに恐縮しきりで背筋を伸ばし続けたりはしない。
むしろ、この男は――真面目すぎるのだ。
真面目すぎて、不器用すぎて、一人で子どもを育てる重圧に押し潰されそうになりながら、それでも必死で娘の手を握りしめ続けている。
そんな男だからこそ、お人好しで尽くし屋の姉が、放っておけずに手を差し伸べてしまったのだと、晴臣には痛いほど理解できてしまった。
晴臣の胸の中にあったトゲトゲとした警戒心は、新米の湯気の中に、完全に溶け去っていた。
「ふぅ……」
晴臣は息を吐き出し、乱暴に自分の頭をガリガリと掻いた。
そして、最後のだし巻き卵を箸で摘んで口に放り込み、咀嚼し終えると、向かいの航平に向かって、ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。
「……佐伯さん、でしたっけ」
ピクリ、と航平の肩が跳ねた。
航平は居住まいを正し、晴臣の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「はい、佐伯です」
晴臣は肘をテーブルにつき、少しだけ照れくさそうに視線を逸らしながら、ぽつりと呟いた。
「あんた……めちゃくちゃ、真面目な人っすね」
「え……?」
航平が目を丸くする。
晴臣は鼻を鳴らし、口の端を少しだけ持ち上げて笑った。
「廊下で突っかかって悪かったっす。……見てりゃ分かりますよ。あんたが娘さんのこと、死ぬほど大事にしてることも。姉ちゃんの飯に、ちゃんと感謝して食ってることもさ」
「晴臣くん……」
文乃が息を呑む。
航平は一瞬だけ呆然としたように瞬きを繰り返し、それから、胸の奥底から込み上げてくる熱い安堵に喉を詰まらせた。
そして、長身を折り曲げ、晴臣に向かって、ペコリと深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。瀬戸さんにも、晴臣さんにも……何とお礼を申し上げたらいいか……」
「いいっすよ、お礼なんて。俺、美味い飯食えただけで満足なんで」
晴臣はカラカラと笑い、空になったお椀を文乃へと突き出した。
「姉ちゃん! 新米のおにぎり、もう二個握って! 豚汁も大盛りでおかわり!」
「もう、晴臣ったら……食べすぎよ」
文乃は苦笑しながらもお椀を受け取り、キッチンへと向かった。
その背中は、先ほどまでの重たい強張りなど微塵もなく、初夏の陽光を浴びて、柔らかく、温かな喜びに満ち溢れていた。
テーブルを囲む四人。
立ち上る新米の湯気と、すずの屈託のない笑い声。
閉ざされていたはずの三階の空気は、艶めく新米の三角と、不器用な大人たちの誠実さによって、再び心地よい温度を取り戻していた。




