第34話:廊下の鉢合わせ
台所の蛇口から流れ落ちる冷たい水が、文乃の指先を心地よく引き締めていた。
ホーローのボウルの中で、新米がサラサラと澄んだ音を立てて泳ぐ。
実家の父が精魂込めて育て上げた、粒の大きな今年の新米。最初はたっぷりの水で素早く汚れを洗い流し、二回目からは手のひらの腹で米同士を優しく擦り合わせるようにして、手早く研ぎ澄ましていく。白く濁っていた研ぎ汁が、三度目の水替えで透明感を帯び、底に沈む米粒がまるで小さな真珠のように白く輝き始めた。
ざるに上げてしっかりと水気を切り、伊賀焼の黒い炊飯土鍋へと移す。
米と同量の澄んだ水を注ぎ入れ、昆布を一切れ浮かべて、三十分の吸水時間を置く。
火曜日の夕暮れ以来、ずっと鉛のように重たく沈んでいた文乃の胸の奥底に、久しぶりに料理人としての確かな熱が戻りつつあった。
――食べることは、生きること。
誰かに拒絶されたからといって、自分の手から生み出される料理の温もりまで否定する必要はない。弟の晴臣が「腹が減った、美味い飯を食わせてくれ」と飛び込んできてくれたことが、頑なに強張っていた文乃の心を、力ずくで陽だまりへと引き戻してくれていた。
一方、リビングでは、大型台風のような弟が凄まじい勢いで作業を完了させていた。
「よっしゃ! 解体完了!」
ガムテープをペリペリと小気味よく剥がす音が止み、晴臣の快活な声が響いた。
実家から野菜を詰め込んできた二つの巨大な段ボール箱は、晴臣の怪力によって平らに押し潰され、カッターで手際よく切り揃えられて、黄色のビニール紐で十字にきっちりと固く結束されていた。
晴臣は額の汗をTシャツの袖で豪快に拭うと、結束した巨大な段ボールの束を小脇に抱え上げ、スニーカーのかかとをトントンと鳴らした。
「姉ちゃん、これ一階のゴミ集積所に捨ててくるわ! 部屋に置いとくと狭いし邪魔だろ」
「あ、ありがとう晴臣。集積所の鍵、玄関の下駄箱の上に置いてあるカードキー持ってってね」
「おう、了解! 帰ってきたらちょうど米が炊けてるくらいだな! 飯、楽しみにしてるぜ!」
晴臣は人懐っこい白い歯をニッと見せると、片手でひょいと十数キロはある段ボールの束を抱え直し、三〇一号室のドアノブを押し下げた。
ガチャリ。
ドアが開き、晴臣の大柄な身体が初夏の風が吹き抜ける共用廊下へと踏み出す。
まさに、その一秒後のことだった。
――ピロン。
三階フロアの中央にあるエレベーターの扉が、静かな電子音とともに左右に開いた。
エレベーターホールから、二つの足音が近づいてくる。
ひとつは、革靴の踵が静かにリノリウムの床を踏みしめる、落ち着いた大人の歩調。
そしてもうひとつは、小さなゴム底のスニーカーが、少しだけ疲れたように、けれど確かな意思を持ってパタパタと小気味よく前へと進む足音。
佐伯航平と、その娘のすずだった。
航平は、左手にスーパーの白いレジ袋を提げていた。中に入っているのは、朝のエントランスで管理人・長谷川から温かい叱咤を受けた後、すずの手を引いて立ち寄ったスーパーで買い求めた、新鮮な野菜と、すずが「これなら食べられるかも」とおずおずと指差した小さな果物。
そして、航平の右手は――。
すずの小さな、小さな手のひらを、決して痛がらせない絶妙な力加減で、けれど二度と離すまいとするかのように、しっかりと、温かく包み込んでいた。
「すず、お腹空いたろ。お部屋に戻ったら、パパ、お昼ごはん作るからな」
「……うん。パパ、あやのちゃんに、ごめんねするの?」
「ああ。ちゃんと、ごめんねする。パパが意地を張って、酷いことを言ってしまったから……ちゃんと瀬戸さんに頭を下げて、謝るよ」
航平の横顔には、まだ目の下に昨夜の寝不足による濃い隈が残っていたものの、今朝までのあの凍てつくような絶望の影は消え失せていた。
意地を張るのと、誠実なのは違う。
長谷川の言葉が、航平の胸の奥底で、頑丈な楔となって打ち込まれていた。
他人に迷惑をかけまいと虚勢を張り、正論の鎧で娘と自分を孤立させていた己の醜さを、航平は完全に認めていた。
嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。
火曜日の夕暮れ、あの閉ざしたドアの前で涙を流させてしまった瀬戸文乃の前に、もう一度膝をつき、心からの謝罪を告げよう。そして、自分たちの情けなさをすべて曝け出して、人と人として、もう一度助け合いたいと頭を下げよう――そう固く心に誓い、三〇二号室へと足を進めていた、まさにその瞬間だった。
三〇一号室のドアが、勢いよく外側へと開かれた。
「――っと、危ねぇ!」
「うわっ……!?」
巨大な段ボールの束を抱えた大男と、娘の手を引いたスーツ姿の男が、廊下の角で正面衝突する寸前、互いに一歩後ずさって踏みとどまった。
段ボールの隙間から、晴臣が目を瞬かせながら顔を覗かせる。
「おっと、すみませ……ん?」
晴臣の口から出かけた謝罪の言葉が、途中でピタリと凍結した。
晴臣の視線が、目の前に立つ人物の姿を捉えた瞬間、その琥珀色の瞳がカッと見開かれたのだ。
そこに立っていたのは、百八十センチ前後の長身。
スラックスの似合う引き締まった体躯に、端正で知的な顔立ち。少し跳ねた黒髪の隙間から覗く、涼しげで清潔感のある目元。
寝不足でやつれてはいるものの、同性の晴臣から見ても「うわ、めちゃくちゃ整った顔したイケメンだな」と直感させる、都会的な大人の男。
そして――何より。
晴臣の視線は、その男の足元へと、滑るように急降下した。
男の長い足にしがみつくようにして、トトロのぬいぐるみを抱え、淡い黄色のスモックを着た、信じられないほど愛らしい小さな女の子。
泣き腫らした大きな瞳をパチクリとさせながら、見上げるようにこちらを見つめている。
「…………っ」
一方の航平もまた、突如として文乃の部屋の中から飛び出してきた人物の姿に、完全に言葉を失っていた。
文乃の部屋から、見知らぬ若い男が出てきた。
自分よりも背が高く、肩幅が広く、逞しい筋肉のついた長身。
白Tシャツにカーゴパンツという、あまりにも無防備で、生活感の塊のようなラフな部屋着姿。
しかも、その男は文乃の部屋の鍵を当たり前のように手首に引っ掛け、実家からの荷物と思われる段ボールを抱え、まるでその部屋の「主」であるかのような自然さで闊歩している。
「あ……」
航平の喉から、掠れた息が漏れた。
二人の大男の視線が、静まり返った三階の共用廊下で、バチバチと火花を散らすように真正面から衝突する。
沈黙。
初夏の風が吹き抜ける廊下で、時計の針が五秒、十秒と、永遠のような遅さで時を刻む。
晴臣の脳内で、先ほど文乃の部屋で目撃した数々の「違和感」のピースが、音を立てて、猛烈なスピードで組み合わさっていった。
――一人暮らしの姉の部屋の冷蔵庫に並んでいた、業務用の巨大な耐熱タッパーの山。
――大人二人前と、子ども一人前がちょうど収まるような、不自然なボリューム。
――星型に型抜きされた人参と、小さく切り揃えられたブロッコリー。
――玄関を開けた瞬間の、姉のやつれた、罪悪感に塗れたような暗い表情。
――そして、タッパーの話題を出した瞬間に、顔を真っ赤にしてパニックを起こした姉の動揺。
それらのすべての謎が。
目の前に立つ『長身のイケメン』と、その足元にいる『四歳前後の幼女』という決定的なピースの出現によって、晴臣の直感の中で、あまりにも劇的な「ひとつのストーリー」として完成してしまったのだ。
「……ま、マジかよ……」
晴臣の顎が、外れんばかりにガクンと落ちた。
抱えていた段ボールの束が、腕の中でギシッと軋む。
その時だった。
玄関ホールの異変を察知した文乃が、エプロン姿のまま、慌てて廊下へと顔を出した。
「ちょっと晴臣! 誰かとぶつかりそうになったの? 大丈夫……って、えっ!?」
文乃の言葉が、喉の奥で凍りついた。
そこにいたのは。
スーパーの袋を提げ、驚愕に目を見開いて立ち尽くす佐伯航平。
そして、トトロを抱いて立ち尽くす、すず。
「佐伯、さん……!? すずちゃん……!?」
文乃の心臓が、跳ね上がった。
火曜日の夕暮れ以来、一度も顔を合わせていなかった。
会いたくて、謝りたくて、けれど拒絶が怖くて部屋から出られなかった、あの二人が。
今、目の前に立っている。
だが――。
文乃が安堵や戸惑いの言葉を口にするよりも、コンマ一秒早く。
文乃の登場によって「状況証拠」が百パーセント揃ってしまったと確信した晴臣の口から、共用廊下の静寂を木っ端微塵に粉砕する、超弩級の爆弾が投下された。
「ええええええええええええっっっっっっっっ!?!?!?」
大気そのものが震えるほどの、凄まじい絶叫。
晴臣は抱えていた段ボールの束を廊下の床に放り出し、両手で自分の頭を抱えながら、血相を変えて文乃へと詰め寄った。
「姉ちゃんッッ!! う、うそだろオイッ!? 彼氏!? この人、姉ちゃんの彼氏なのかッ!?」
「は……!? な、何言っ――」
「しかも……えええええっ!? 子持ち!? え、ちょっと待って、この子、誰!? 隠し子!? 姉ちゃん、いつの間に子ども産んでたの!? 俺、知らねえぞ! 山梨の母ちゃんも親父も一言も言ってなかったぞ!! え、俺、いきなり叔父さんになったの!? 俺、二十五歳でリアル叔父さんデビューなのぉぉぉぉぉっっ!?」
「っっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!」
空気が、完全に爆発した。
共用廊下の天井に、晴臣の野太い大声が何重にも反響し、フロア全体をビリビリと震わせる。
彼氏。
子持ち。
隠し子。
叔父さんデビュー。
あまりにも破天荒で、あまりにも斜め上に突き抜けた弟の早合点に、文乃の脳の血管が何本かブチ切れる音がした。
だが、文乃以上に、この世の終わりのような衝撃を受けていたのは、他でもない佐伯航平だった。
「っ…………!!!!」
航平は、まるで高圧電流を流されたかのように全身を硬直させ、顔面を真っ青から一瞬にして沸騰したトマトのような真っ赤へと染め上げた。
「ち……ち……違っ……!!」
航平は手に持っていたスーパーのレジ袋を取り落としそうになりながら、両手を胸の前でプロペラのように激しく振り回した。
「違いますッッ!! 断じて違います!! 断じてそんな、不埒で破廉恥な関係ではありませんッッ!!」
普段の冷静沈着なエンジニアの面影など、素粒子レベルで消し飛んでいた。
航平は長身を直角に折り曲げ、顔から火を吹き出しそうな勢いで、晴臣に向かって悲鳴のような弁明を捲し立てた。
「僕は、隣の三〇二号室に住んでおります佐伯航平と申します! この子は僕の娘のすずでして、瀬戸文乃さんのお子さんなどでは断じて、天地神明に誓って断じてございません!! 僕が……僕たち親子が、勝手に瀬戸さんの温かいお料理に甘え、ご迷惑をおかけしていただけであって、お付き合いしているとか、そのような畏れ多い関係などでは毛頭ございません!! 誤解です! 百パーセント、純度百パーセントの誤解でございますッッ!!」
「ええっ!? でもあんた、めちゃくちゃイケメンだし、姉ちゃんの部屋のタッパーと辻褄が合いすぎるだろ! 星型の人参は誰が食うんだよ! この子だろ!?」
「それは僕の娘が偏食で、瀬戸さんが善意で工夫してくださったものでして、僕と瀬戸さんの間にやましい意図など微塵も――!」
「やましい意図がない男が、そんな耳まで真っ赤にして狼狽えるかよ普通!!」
「それは貴方様が突然『隠し子』などと荒唐無稽な言動をなさるからですッッ!!」
大人の男二人が、高級分譲賃貸の内廊下で、顔を真っ赤にして怒号のような掛け合いを繰り広げる。
その阿鼻叫喚の地獄絵図の真ん中で――。
文乃の全身から、ゆらりと、黒いオーラが立ち上った。
顔面は茹で上がった蛸のように真っ赤だった。恥ずかしさと、いたたまれなさと、そして何より、この自由すぎる弟に対する怒りで、文乃の理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「晴……臣……」
地獄の底から響くような、ドスの利いた姉の声。
「え?」
晴臣がピクッと肩を震わせて振り返った、まさにその刹那。
シュッ……!
文乃の右手が、風を切るような鋭利な軌道を描いて振り下ろされた。
――パァァァァァァァンッッッッ!!!!
乾いた、凄まじい打撃音が廊下に木霊した。
文乃の渾身のチョップが、晴臣の硬い後頭部へと、寸分の狂いもなくクリーンヒットしたのだ。
「ぎゃああああああああっっっっっ!!!!」
百八十五センチの大男が、後頭部を押さえて廊下に派手に転がり、のたうち回った。
「いってぇぇぇぇぇっ! 痛い! マジで頭蓋骨にヒビ入った! 何すんだよ姉ちゃん! 暴力反対! コンプライアンス違反!!」
「うるさいッッ!! コンプラを違反してるのはあんたのデカい口でしょうがッッ!!」
文乃は鬼の形相で拳を握りしめ、床に転がる弟を見下ろして怒声を浴びせた。
「何を根拠に隠し子だの彼氏だの叫んでるのよこの大馬鹿者!! 佐伯さんに対して失礼極まりないでしょ! 近所迷惑もいい加減にしなさい! 通報されたらどうするのよ!!」
「だってぇぇぇ! 状況証拠が揃いすぎてるだろ! あんなタッパー見せられたら誰だってそう思うじゃねえかよぉぉぉ!」
後頭部を擦りながら涙目で喚く晴臣。
文乃は肩で激しく息を切り、それから慌てて航平の方へと向き直った。
「さ、佐伯さん……っ! 本当に……本当に申し訳ありません! うちの弟が、とんでもない無礼な暴言を……っ!」
文乃が顔を真っ赤にして頭を下げると、航平もまた、腰が抜けたように壁に手をつきながら、激しく首を横に振った。
「い、いえ……! 僕の方こそ、大声を上げて取り乱してしまい……お恥ずかしい限りです……!」
大人の男女二人が、顔から湯気を立ち上らせながら、廊下でペコペコとお互いに頭を下げ合う。
そして――。
その混乱の極みのような光景の足元で。
「…………」
佐伯すずだけが。
トトロのぬいぐるみを両腕でぎゅっと抱きしめたまま、丸い大きな瞳をパチパチと瞬かせていた。
床でのたうち回る見知らぬ大きな男。
顔を真っ赤にして怒鳴る、大好きなあやのちゃん。
そして、耳まで茹で上がってパニックになっている、大好きなパパ。
すずは、恐る恐る小さな足を一歩前へ踏み出すと、航平のズボンの裾をちょこんと引っ張った。
そして、静まり返りかけた廊下に、無垢で透き通った、鈴を転がすような少女の声がぽつりと響いた。
「……パパ」
「え……?」
「この……おおきい、ワンワンみたいなお兄ちゃん、だれ……?」
「ぶふっ……!」
床に倒れていた晴臣が、思わず変な声を漏らして噴き出した。
航平は慌ててすずを抱き上げ、文乃は天を仰いで両手で顔を覆った。
三階の内廊下に立ち込める、初夏の風と、どこか間抜けで、けれどどうしようもなく温かな笑いの予感。
数日間、二人を隔てていたあの冷酷な氷の壁は、突如として乱入してきた大型犬の弟によって、あまりにも騒がしく、あまりにもあっけらかんと、木っ端微塵に粉砕されていたのだった。




