第31話:すずの不満とハンガーストライキ
静まり返ったリビングに、電子レンジの無機質な回転音だけが低く響いていた。
――ブゥゥゥゥン……。
ターンテーブルの上で、透明なラップをふわりとかけられた白い陶器の平皿が、一定の速度で回っている。
皿の上に乗せられているのは、駅前のスーパーの総菜コーナーで買い求めた『特売・牛肉コロッケ』二個と、透明なプラスチックパックから乱雑に移し替えただけの『ツナとコーンのポテトサラダ』だった。
佐伯航平は、キッチンの作業台に両手をつき、じっと電子レンジの小窓を見つめていた。
火曜日の夕暮れ。
あの出来立ての和風おろしハンバーグを抱え、涙を浮かべて立ち尽くしていた瀬戸文乃の目の前で、冷酷な営業スマイルを貼り付けて鉄のドアを閉ざしてから、三日が過ぎていた。
あの夜、航平は自分に厳しく誓ったはずだった。
文乃の善意に無神経に寄りかかり、若い独身女性の時間と未来を搾取するような生活は、絶対に断ち切らなければならない。これ以上、あの人の温もりに甘えてしまえば、いつか彼女の人生を取り返しのつかない形で縛り付けてしまう。
娘の食事は、父親である自分が責任を持って用意する。偏食が改善し始めた今なら、多少不器用であっても、自分が時間をやりくりして作っていけば何とかなるはずだ――そう信じていた。
けれど、現実は、航平の浅薄な覚悟を嘲笑うかのように過酷だった。
水曜日の夜。仕事帰りにスーパーで食材を買い込み、文乃のレシピを思い出して、鶏肉と野菜の煮物に挑戦した。
だが、昆布と鰹節で出汁を取る余裕など平日の夜にあるはずもなく、市販の顆粒出汁を適当に湯に溶かし、薄口醤油とみりんを目分量で放り込んだ鍋は、火加減の失敗であっという間に煮詰まり、根菜の芯は硬いまま、表面だけがドス黒く塩辛く焦げ付いてしまった。
木曜日の夜。リベンジとして挑んだ野菜炒めは、水切りの甘いキャベツともやしから大量の水分が溢れ出し、炒め物というよりは油臭い温野菜の残骸のようになって、皿の底に濁った油水が溜まった。
そして今夜――金曜日の夜。
月末に向けたクライアントとの仕様調整が長引き、保育園の延長保育上限ギリギリに駆け込んで、すずの手を引いてスーパーに滑り込んだ時には、すでに包丁を握る気力も時間も、航平の身体には一欠片も残っていなかった。
結局、逃げ込んだのは、かつて毎晩のように利用していた、あの揚げ物の茶色いパックが並ぶ総菜コーナーだった。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ。
加熱の終了を告げる甲高い電子音が鳴り響く。
航平は扉を開け、熱を持った平皿を取り出した。
立ち上ってきたのは、出汁や味噌の澄んだ芳香ではない。
何度も使い回された揚げ油特有の、少し酸化した油の重たい匂い。
レンジのマイクロ波を浴びたコロッケの衣は、揚げたてのサクサク感を取り戻すどころか、内側から吹き出した蒸気でしんなりと濡れ、油を吸ってペタペタと皿の底に張り付いていた。
ポテトサラダも、余計な熱が中途半端に入ってしまったせいで、マヨネーズの油分が分離し、酢の尖った酸味だけが鼻腔をツンと刺激する。
「……くそっ」
航平は奥歯を噛み締め、小さく呻いた。
自分で作ったわけでもないのに、温め直すことすら満足にできない。
文乃が届けてくれていた料理が、どれほど綿密な温度管理と、冷めても美味しく食べられるような工夫――出汁を含ませた豆腐や、細やかな隠し包丁、余分な油の徹底的なトリミングによって支えられていたのかを、失って初めて、骨の髄まで思い知らされていた。
けれど、弱音を吐いている暇はなかった。
航平は息を整え、茶碗に炊飯器の保温ご飯をよそい、インスタントの粉末味噌汁に熱湯を注いで、お盆に乗せてリビングへと運んだ。
ダイニングテーブルの上に、二つの席。
茶色いコロッケと、マヨネーズの浮いたポテトサラダ、インスタントの味噌汁、そして少し黄ばんだ保温ご飯。
「すず、ごはんできたよ。おいで」
航平は努めて明るい声を作り、リビングの隅に向かって呼びかけた。
部屋の明かりは煌々と点いている。
けれど、先週の日曜日に三人でホットプレートを囲んでいた時の、あの眩いほどの温かな空気は、部屋のどこにも見当たらなかった。
リビングのクッションの上に、すずがぽつんと座っていた。
淡いピンク色の長袖シャツに、デニムのショートパンツ。
その胸の前には、いつもの灰色のトトロのぬいぐるみが、ぎゅうぎゅうと力いっぱいに抱きしめられていた。
航平の声に、すずはビクッと肩を揺らしたが、すぐに立ち上がろうとはしなかった。
俯いたまま、擦り足で、まるで重たい鉛の靴でも履いているかのように、一歩、一歩、時間をかけてダイニングテーブルへと近づいてくる。
ここ三日間、すずはずっとこうだった。
以前のように「パパ、今日のごはんなあに?」と跳ねるように駆け寄ってくることもなく、保育園から帰る道中も、ずっと文乃の部屋がある三階の廊下を気にしながら、俯いて無言のまま航平の手を握っていた。
「ほら、すず。お腹空いただろ? すずの好きなコロッケだよ。お肉屋さんの美味しいやつ買ってきたから」
航平はすずを抱き上げ、子ども用の椅子へと座らせた。
小さな手元に、子ども用の木製スプーンを握らせる。
けれど――。
すずは、スプーンを握ったまま、ピクリとも動かなかった。
視線は、テーブルの上に並べられた茶色いコロッケと、白いポテトサラダに落とされたまま、微動だにしない。
「……すず?」
航平が怪訝そうに覗き込む。
すずの小さな肩が、微かに震えていた。
見開かれた瞳には、数日前まで宿っていた「食べる喜び」の光は一片もなく、代わりに、半年前に毎晩のように見せていた、あの食卓に対する本能的な恐怖と、強固な拒絶の色が、色濃く蘇っていた。
油の回った、分厚い衣。
具材の形が分からない、べちゃっとしたジャガイモの塊。
そして、ツンと鼻を突くマヨネーズの人工的な酸味。
味覚過敏のすずにとって、それは「美味しいご飯」などではなく、かつて喉に詰まらせ、吐き気を催し、パパに怒鳴られる原因となった、恐ろしい異物そのものだった。
「すず、どうした? スプーン、持てないか? パパが一口、小さく切ってあげるからな」
航平は箸を取り、コロッケの端を小さく崩そうとした。
その時だった。
――ポタ、ポタッ。
すずの顎から、大粒の涙が零れ落ち、テーブルの木目を濡らした。
「え……?」
航平の手が止まる。
すずは唇をへの字にぎゅっと引き結び、両手で持っていたスプーンを、カタ、と音を立てて皿の脇へと放り出した。
そして、胸元にトトロを抱き直すと、堰を切ったように、ポロポロと涙を溢れさせ始めた。
「……これ、あやのちゃんのじゃない」
掠れた、小さな、けれど痛烈な拒絶の声。
「すず……?」
「これ、あやのちゃんのごはんじゃないもん……!」
すずは俯いたまま、小さな拳を握りしめ、震える声で叫んだ。
「あやのちゃんのにんじんがいい……! お星さまのにんじんがいい! あやのちゃんの、甘い黄色いたまごがいい! あやのちゃんの、お出汁のスープがいいのおぉぉぉっ!!」
「っ…………!!」
航平の心臓を、太い杭が貫いた。
火曜日の夕暮れ。
ドアの隙間から香っていた、あの和風おろしハンバーグの芳醇な出汁の匂い。
文乃のタッパーの中に並んでいた、星型に型抜きされた人参と、鮮やかなブロッコリー。
すずは、見ていたのだ。
航平が背後へと押し戻す直前、あやのちゃんが自分たちのために、大好きなハンバーグを持って立っていてくれたことを、あの子はちゃんと分かっていたのだ。
「すず……」
航平は胸の激痛を必死で押し殺しながら、膝をついてすずの目線まで腰を落とした。
そして、言い聞かせるように、震える声を絞り出した。
「すず、聞いてくれ。……瀬戸さんは、お隣さんなんだ。親戚でも、家族でもないんだよ」
「おとなりさんでも、いいもん……!」
「ダメなんだよ」
航平はすずの小さな手を、両手で包み込もうとした。
けれど、すずはその手を、バッと払い除けた。
「っ……!」
航平の手が、空を切る。
航平は唇を噛み締めながら、己の胸に言い聞かせるように、冷酷な大人の理屈を紡ぎ続けた。
「瀬戸さんには、瀬戸さんのお仕事がある。自分の生活があるんだ。それなのに、僕たちがいつもいつもご飯を作ってもらったり、お迎えに行ってもらったりしたら……瀬戸さんは自分の時間がなくなって、疲れ果ててしまう。……迷惑なんだよ、すず」
「めいわくじゃないもんッッ!!!」
すずの甲高い絶叫が、リビングの壁を震わせた。
すずは椅子の上で立ち上がり、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、父親を真っ向から睨みつけた。
「めいわくなんかじゃないもん! あやのちゃん、いつも笑ってたもん! すずが『おいしい』って言ったら、すっごく嬉しそうに、おいしいねって笑ってたもん!!」
「すず……っ」
「あやのちゃん、火曜日も来てくれたのに……! ハンバーグ持って、すずの名前呼んでくれたのに! パパが……パパがドア閉めちゃったんじゃないかぁぁぁっ!!」
幼い子どもの純粋な直感が、航平の張り巡らせた欺瞞を、粉々に叩き割っていく。
「パパのうそつき! パパが意地悪したんだ! あやのちゃんを追い払ったんだ! すず、こんな黒いごはん、ぜったいに食べない! パパのごはん、きらい!! あやのちゃんがいいぃぃぃっっ!!」
「すずッ!!」
航平の口から、無意識のうちに鋭い怒声が漏れた。
ビクッと、すずの身体が硬直する。
半年間、出さないようにと必死で封印してきた、父親の焦燥と怒りの声。
その響きに、すずの瞳に絶望的な恐怖が満ちた。
次の瞬間、すずは椅子から滑り降りるように床に着地すると、トトロを抱きしめたまま、リビングの廊下へと脱兎のごとく駆け出した。
「すず、待て!」
航平が立ち上がって追いかけようとしたが、それよりも早く。
――バタンッッッ!!!
寝室のドアが、凄まじい音を立てて乱暴に閉められた。
カチャリ、と内側から鍵が掛けられる金属音。
続いて、ドアの向こう側から、シーツに顔を押し当てて激しく泣き叫ぶ、幼児の悲痛な嗚咽が漏れ聞こえてきた。
「うわああぁぁぁぁんっっ!! パパなんかすきじゃないぃぃぃっ! あやのちゃん、あやのちゃぁぁんっっ!!」
「…………っ」
航平の足が、廊下の途中で止まった。
伸ばしかけた右手が、宙を彷徨い、力なく垂れ下がる。
静寂が、再びリビングを支配した。
ただ、寝室のドアの向こうから響く、娘の泣き声だけが、針のように航平の心臓を刺し続けている。
航平は、重たい足取りでダイニングテーブルの前へと戻った。
椅子に、崩れ落ちるように腰掛ける。
テーブルの上には、手つかずのままの食卓。
一口も口をつけられず、湯気を失っていくインスタントの味噌汁。
冷え切り、皿の底で白く固まり始めた、コロッケの油。
そして、すずが放り出した小さな木のスプーンが、蛍光灯の光を浴びて、虚しく転がっていた。
「…………」
航平は、両手で頭を抱え込んだ。
指先を髪の毛に深く突っ込み、ギリギリと頭皮を軋ませる。
何が、正解だったのか。
自分は、一体何を守ろうとしていたのか。
文乃の未来を守るため。
若い独身女性の善意を搾取しないため。
父親としての尊厳を保ち、他人の人生に寄生しないため――そう信じて、自分自身の胸を切り裂くような思いで、あの一線を引いたはずだった。
大人の男として、社会人として、それは絶対に正しい選択だったはずなのだ。
けれど。
その「正しさ」の結果が、これだった。
食卓から笑顔が消え、娘は再び食事を拒絶して泣き叫び、暗い寝室に閉じこもってしまった。
文乃の温かな料理によって、ようやく開きかけていたすずの心の扉を、自分の手で乱暴に閉ざし、再び飢えと恐怖の暗闇へと突き落としてしまったのだ。
「娘をこれ以上傷つけたくない」という、父親としての本能。
そして、「他人の善意に甘えてはならない」という、大人の冷酷な理性。
その二つの巨大な質量が、航平の胸の中で激しく正面衝突し、彼の魂をズタズタに引き裂いていく。
頭を上げると、視線の先――リビングの壁の向こう側に、三〇一号室があった。
壁一枚。
わずか十数センチのコンクリートの向こう側。
今頃、彼女は何をしているだろうか。
火曜日にあんなにも残酷な形で拒絶され、傷つけられた文乃は、今、どんな思いで一人分の部屋にいるのだろう。
もし、今すぐ頭を下げて、三〇一号室のチャイムを鳴らせば。
『すずがご飯を食べてくれません、助けてください』と、恥も外聞も捨てて縋り付けば、あの人はきっと、怒ることもなく、エプロンを締めて温かいご飯を持って駆けつけてくれるだろう。
すずを抱きしめ、頭を撫で、笑顔を取り戻してくれるだろう。
けれど――。
それは、父親としての完全な敗北だった。
自分の都合で突き放し、自分の都合でまた縋り付く。そんな身勝手な真似が、人として許されるはずがない。
「……どうすればいいんだよ」
航平の喉から、血を吐くような掠れ声が漏れた。
冷めきったコロッケの油の匂いが、鼻腔の奥に重たく淀んでいる。
寝室のドアの向こうからは、泣き疲れたすずの、しゃくりあげるような小さな呼吸音が、途切れ途切れに聞こえていた。
娘の胃袋は空っぽのまま。
父親の心も、罪悪感と無力感で完全に擦り切れ、空っぽのまま。
冷え切った食卓の上に、救いのない重い沈黙だけが、永遠のように降り積もっていた。




