第26話:すずのお迎えピンチ
キーボードを叩く指先が、わずかに軽やかさを帯びていた。
木曜日の午後五時五十分。渋谷の雑居ビル四階にあるWeb開発会社『ネクスト・ロジック』のオフィスには、夕暮れの斜光がブラインドの隙間から差し込み、フロアのデスクを細長い縞模様に染め上げていた。
佐伯航平は、手元のサブモニターに表示されたタスク管理ツールを確認し、小さく息を吐いた。
本日予定していたフロントエンドのコードレビューはすべて完了。明朝デプロイ予定のステージング環境へのマージリクエストも、すでに承認を通している。
「よし……これなら、今日は定時で上がれる」
航平はデスクの片隅に置いたスマートフォンの画面に目を落とした。
待ち受け画面には、先週の土曜日の朝市ですずが誇らしげに泥つき大根を抱きかかえている写真が設定されている。画面の横に表示されたデジタル時計は『17:52』。
あおぞら保育園の通常の延長保育時間は午後七時まで。月極の延長申請を出してあるため、午後七時までに園の門をくぐれば追加料金も発生しない。
そして――万が一、電車が遅延したり急なトラブルが発生した場合でも、園が定めている絶対の最終リミットは『午後八時』だ。
ここ数週間、文乃のおかげですずの生活リズムは劇的に安定していた。偏食が治り、保育園でも笑顔が増え、夜もぐっすり眠るようになった。日曜日に文乃の部屋で三人で包んだあの餃子の温もりを思い出すたび、航平の胸の奥底には、日々の過酷な激務を耐え抜くための確かな活力が満ちていた。
「今日は帰りに、すずの好きなイチゴでも買って帰ろうか……」
航平がコートを手に取り、デスクの引き出しに鍵をかけようとした、まさにその瞬間だった。
――ビビビビビッ! ピピピピピピピッ!!
静かだったオフィスに、耳を劈くような高周波の警告音がけたたましく鳴り響いた。
ひとつではない。フロアの中央に設置された大型監視モニター、航平のメインディスプレイ、そしてデスクの上に置かれたスマートフォンの画面が一斉に、不吉な真っ赤な光を点滅させ始めたのだ。
『CRITICAL ALERT : Payment Gateway Transaction Failure Rate > 85%』
『ERROR : Database Deadlock Detected in Settlement Cluster』
社内チャットツール『Slack』の緊急障害チャンネルに、秒単位で何百行もの赤文字のエラーログが濁流のように雪崩れ込んでくる。
航平の背筋に、氷水を一気に浴びせられたような戦慄が走った。
「なっ……!?」
コートを取り落としそうになりながら、航平は椅子へと引き戻されるように腰を落とし、マウスを鷲掴みにした。
画面に映し出されていたのは、彼らが開発と保守を一手に引き受けている、国内最大手の通販FinTechプラットフォームの決済中継サーバーのステータス画面だった。
全クラスターの稼働グラフが、垂直に崖を転がり落ちるようにゼロへと急降下している。
「おい、航平ッ!! 見たかッ!?」
フロアの奥の会議室から、ガラス戸を蹴破らんばかりの勢いで飛び出してきたのは、共同創業者の神谷陸だった。
普段の飄々とした軽薄さは微塵もなく、ネクタイを緩め、額にびっしりと脂汗を浮かべた陸が、航平のデスクのパーテーションに両手を叩きつける。
「決済APIが完全に死んでる! リクエストが全部タイムアウトで弾かれて、ロールバックすらコケて二重引き落としの例外エラーが吐き出されまくってるぞ! 何が起きてる!?」
「今、ログを追ってます……!」
航平の指先が、猛烈なスピードでキーボードの上を疾走した。
ターミナル画面を開き、本番サーバーのアクセスログとデータベースのロック状態を瞬時に解析する。黒い画面を滝のように流れていく数万行のスタックトレース。
原因の輪郭が浮き彫りになるにつれて、航平の顔から急速に血の気が引いていった。
「……先方です。先方のインフラチームが、夕方十八時に事前告知なしでデータベースのパーティション最適化パッチを本番環境に直あてしました。そのせいで、うちの決済処理トランザクションと競合してデッドロックを起こし、キューに溜まっていた数十万件の決済キューがメモリ上で破損してます……!」
「はぁッ!? あの大手クライアント、何勝手な真似してやがんだ!!」
陸が激昂し、デスクの天板を拳で殴りつけた。
「うちのシステムの問題じゃねえだろ! 先方のやらかしじゃねえか!」
「でも、決済基盤のトランザクション整合性を保証するリカバリロジックは、僕たちが納品したプログラムです!」
航平は掠れた声で叫び返した。
「破損したキューを放置したら、今この瞬間に買い物客から引き落とされた数億円分の決済データが消失します! カード会社との通信不整合で、サービス全体の即時全面停止……最悪の場合、数千万円規模の損害賠償請求と、会社の信用失墜でうちは確実に倒産します!」
「くそっ……!!」
オフィスの空気が、一瞬にして鉛のように重く凍りついた。
社内のエンジニアたちが血相を変えて航平の周りに集まり、電話番のデスクでは、クライアントの最高技術責任者(CTO)や決済代行会社からの怒号混じりの電話が鳴り止まなくなっていた。
緊急復旧作業。
それは、破損したメモリ上のトランザクションログを一行ずつサルベージし、整合性を手動で検証しながらデータベースの整合パッチを作成し、ステージングでテストした上で本番環境に適用するという、針の穴に糸を通すような極限の精密作業を意味していた。
航平は画面の右隅に目をやった。
時刻は――『18:15』。
喉の奥が、ヒュッと音を立てて狭まった。
頭の中で、冷徹な復旧工程のタイムラインが高速で組み上がっていく。
ログの抽出に四十分。不整合データのパッチ作成に最短で一時間半。テストとロールバック検証に一時間。本番デプロイと動作確認に一時間――。
どんなに神がかり的なスピードで、一切のミスなく作業を完遂したとしても。
現場を離れられるのは、どう計算しても深夜になる。
「…………っ」
航平の心臓が、早鐘のように乱打を始めた。
あおぞら保育園。
すずが待っている、保育園。
通常の延長保育リミットである十九時までは、あと四十五分。
そして――何があっても子どもを預かっておけない、園が完全に閉鎖される最終限界時刻の二十時までは、あと一時間四十五分しかない。
「神谷」
航平は震える手でキーボードから指を離し、青ざめた顔を上げて陸を見つめた。
「すまない……! 俺、一度抜けさせてくれ。保育園のお迎えが……すずが、二十時を過ぎたら預かってもらえないんだ。すずをピックアップして、連れて戻ってくるか、家で待たせてすぐにトンボ返りするから――」
「バカ言えッッ!!」
陸の怒声が、フロアを切り裂いた。
陸は航平の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出し、血走った目で航平を睨みつけた。
「ふざけんな航平! この決済エンジンのコアロジックを書いたのは誰だ!? お前だろ! 非同期処理のキュー構造と暗号化キーのハンドリングを完璧に把握してんのは、社内でお前一人しかいねえんだよ!」
「でも、すずが……!」
「お前が今ここを抜けたら、原因究明もデータ復旧も完全にストップする! 一時間のロスで、被害額が数千万円跳ね上がるんだぞ! クライアントのCTOが今こっちに向かってんだ、お前が抜けた瞬間にこの会社は終わるんだよ!!」
「っ…………!!!」
親友の放った言葉は、冷酷なまでに完璧な正論だった。
共同創業者としての責任。数十人の社員とその家族の生活を背負っているという現実。
自分が抜ければ、会社が潰れる。
だが――自分が行かなければ、四歳の娘はどうなる?
八時を過ぎて、真っ暗になった保育園の玄関で、他の園児たちが全員親に抱きしめられて帰っていく中、たった一人で取り残されるすずの姿が、航平の脳裏に鮮烈にフラッシュバックした。
『パパ、まだ?』
『パパ、お仕事おわらないの?』
母のいないあの小さな背中が、暗闇の中で震え、泣き叫んでいる光景。
父親としての責任と、社会人としての責任。
その二つの巨大な鉄の歯車に挟まれ、航平の骨がきしきしと音を立てて軋んだ。呼吸が浅くなり、視界がチカチカと明滅する。
「……探す。シッターを探すから……!」
航平は叫ぶように言い放つと、震える手でスマートフォンを掴み取った。
画面の時計は『18:25』。
一分一秒が、砂時計の砂のように容赦なく零れ落ちていく。
航平はデスクの下に潜り込むようにして、事前に登録してある民間ベビーシッター会社、当日緊急派遣サービスのマザーリストをブラウザで開いた。
震える指先で、最初の一社の緊急ダイヤルをタップする。
プルルル、プルルル……。
呼び出し音が、耳の奥で永遠のように長く響く。
『はい、キッズサポート緊急受付デスクです』
「あ、あの! 会員番号3829の佐伯です! 今すぐ、あおぞら保育園へのお迎え代行と、自宅での夜間シッティングをお願いしたいんです! 園の最終リミットが二十時で、どうしても仕事が抜けられなくて……!」
早口で捲し立てる航平に対し、電話口のオペレーターは、申し訳なさそうに、けれど機械的な冷淡さを伴った声で告げた。
『申し訳ございません、佐伯様。現在、夕方の悪天候予報と都内の交通機関の乱れに伴い、当日緊急手配のご依頼が殺到しておりまして……本日対応可能なシッターは、都内全域で完全に埋まっております』
「割増料金でも構いません! 倍額でも三倍でも払いますから、誰かいませんか!?」
『本当に申し訳ございません。物理的に稼働可能なスタッフが一人も待機しておらず、手配が不可能な状態です……』
「くそっ……!」
通話を切り、すぐさま二社目の番号を押す。
画面の時計は『18:32』。
『お電話ありがとうございます。ファミリーエイド緊急手配デスク――』
「今から一時間以内に、渋谷区から目黒区の保育園へのお迎えに行けるシッターさんはいませんか!? 子どもが一人で待ってるんです!」
『恐れ入ります。当サービスでは、初回の送迎代行には事前のご自宅面談と登録手続きが必須となっておりまして……当日直前のお電話での新規送迎依頼はお受けできかねます』
「そんな規約、今関係ないだろ!? 子どもが園から追い出されそうになってるんだぞ!」
『申し訳ございません、安全管理上の規定でございまして……』
ガチャリ。
冷酷に切られた通話のツーツーという電子音が、航平の耳の奥を無慈悲に穿つ。
「ああああっ……!!」
三社目。不在。コール音が鳴り響くだけで繋がらない。
四社目。シルバー人材センターの夜間緊急窓口――「本日の受付は十七時で終了いたしました」という無機質なガイダンス音声。
時刻は――『18:40』。
最終リミットの二十時まで、あと一時間二十分。
航平の手のひらは冷や汗でぐっしょりと濡れ、スマートフォンを持つ指先が痙攣したようにガタガタと震えていた。
実家の両親。
山形の実家。
電話帳の『実家』の文字を見つめるが、新幹線を使っても東京まで最短で三時間半はかかる。今すぐ山形の父が家を飛び出したところで、東京駅に着く頃には深夜だ。何の解決にもならない。
「どうすればいい……? どうすれば……っ!」
航平は頭を抱え、床に蹲りそうになった。
オフィスでは、エンジニアたちが「神谷さん、メモリリークの箇所を特定しました!」「トランザクションの分離レベルを再設定しなきゃダメです!」と怒号を交わしている。
自分がいなければ、この会社は終わる。
けれど、自分がここに残れば、すずは暗闇の中に置き去りにされる。
その絶望の淵。
思考が真っ白に焼き切れそうになった航平の脳裏に――ふわりと、ひとつの面影が浮かび上がった。
――瀬戸文乃。
エプロン姿で、柔らかく目を細めて笑う彼女の顔。
『すずちゃん、いっぱい食べてね』と、優しい手で背中を撫でてくれたあの温もり。
『佐伯さんは、逃げずにすずちゃんの手を握りしめ続けました。立派なお父さんです』と、夜のベランダで涙を流しながら叫んでくれた、あの澄んだ声。
日曜日の昼下がり、三人でホットプレートを囲み、カリカリに焼けた餃子を分け合って笑い合った、あの陽だまりのような時間。
文乃の勤務先は、都内の中堅食品メーカーだ。
営業事務の彼女は、トラブルさえなければ、普段は十八時半前には退社しているはずだった。
マンションの三〇一号室。壁一枚を隔てた、すぐ隣の部屋。
「…………っ」
航平の指が、スマホの連絡先画面の上で止まった。
検索窓に打ち込まれた『瀬戸文乃』の四文字。
だが、その発信ボタンを押そうとした瞬間――航平の中の、鉄のような理性が、猛烈な力でブレーキを踏み込んだ。
――ダメだ。
――絶対に、甘えちゃいけない。
親友の陸から浴びせられた、あの痛烈な言葉が耳の奥で蘇る。
『独身の若い女性の時間と労力をタダで恵んでもらって、甘えきってるだけだ』
『それは善意の搾取だ』
そして、自分自身が胸に誓ったはずの戒め。
他人の善意に無神経に寄りかかってはならない。
娘を言い訳にして、若い独身女性のプライベートや生活を侵食してはならない。
料理を作ってもらい、電球や換気扇の掃除でお返しをして、ようやく対等な「等価交換のご近所付き合い」の形を作ることができたのだ。
それなのに。
保育園のお迎えを頼む?
自分の仕事の都合で、他人の娘の引き取りを、独身の若い女性に押し付ける?
それはもはや「ご近所の助け合い」の範疇を完全に超えている。
家族でもない、恋人でもない、ただの隣人に、そこまでの重荷を背負わせるなど――男として、人として、あまりにも身勝手で、厚顔無恥で、醜悪すぎるのではないか。
もし頼んでしまえば、彼女は優しい人だから、断れずに引き受けてしまうだろう。
そしてその結果、彼女の時間を奪い、彼女の生活を縛り付け、最後には「重たい」「都合よく使われている」と愛想を尽かされてしまうのではないか。
あの温かな笑顔を、永遠に失ってしまうのではないか――。
恐怖と躊躇が、航平の喉を締め上げる。
発信ボタンの上で、親指が小刻みに震え、どうしても画面に触れることができない。
「航平ッ!!」
デスクの向こうから、陸の鋭い怒声が飛んできた。
「何突っ立ってんだ! ログの暗号化復号ルーチン、お前のトークン通さなきゃ先へ進まねえぞ! 早く席に戻れッ!!」
時計の針が、非情にも『18:48』を刻んだ。
もう、時間がない。
二十時まで、あと一時間十分。
今、この瞬間に誰かが保育園へ向かって走り出さなければ、物理的に間に合わなくなる限界点。
航平はぎゅっと目を閉じ、奥歯をギリリと噛み締めた。
口の中に、微かに血の味が広がった。
――プライドなんて、どうでもいい。
――嫌われたって、軽蔑されたって、何だっていい。
今、すずを救える可能性がある大人は、世界中に、あの人しかいないのだ。
父親としての体裁も、大人の男としての矜持も、すべて泥水の中に投げ捨てろ。
すずを一人ぼっちにして泣かせるくらいなら、自分がどれほどの恥辱を受けようと、どんな罵声を浴びせられようと構わない。
「…………頼む」
航平は掠れた声で祈るように呟くと、意を決して、画面の緑色の発信ボタンを力いっぱいに押し込んだ。
耳に当てたスピーカーから、電子音が響く。
プルルル……。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。
出てくれ。
お願いだから、出てくれ。
プルルル……。
二度目のコール。
そして――三度目のコールの途中で、カチリと音がして、通話が繋がった。
『――もしもし、佐伯さん?』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、少し驚いたような、けれどいつものように澄んだ、柔らかな文乃の声だった。
その声を聞いた瞬間、航平の張り詰めていた糸が、千切れる寸前の悲鳴を上げた。
航平は受話器を両手で握りしめ、喉の奥から、魂を削り出すような切迫した声を絞り出した。
「瀬戸さん……っ!! 本当に、本当に身勝手なお願いなのは承知の上なんですが……っ!!」
赤点滅のエラーログが不気味に照らすオフィスの中で、男の悲痛なSOSが、夕暮れの電波に乗って真っ直ぐに放たれた。




