第25話:職場の後輩・矢野の接近
火曜日の午後三時十五分。オフィスビルの窓の外には、初夏の澄み切った青空がどこまでも高く広がり、街路樹の青葉が午後の日差しを浴びてキラキラと眩い光の破片を散らしていた。
中堅食品メーカー『ヒノデフーズ』の本社オフィスでは、午後一番の怒涛の受発注業務がようやく一段落し、フロア全体を覆っていたキーボードの激しい打鍵音と内線電話のコール音が、ひとときの凪を迎えていた。
「……ふう」
瀬戸文乃は、パソコンのモニターから視線を外し、小さく肩を回して凝り固まった首筋をほぐした。
ディスプレイに並ぶ数字の整合性を確認し、営業担当者たちから上がってきた伝票の承認ボタンをすべて押し終えたところだ。几帳面な文乃の仕事には一切の狂いがなく、デスクの上は余計な書類が一枚も散らかることなく整然と片付いている。
けれど、集中力が途切れた瞬間、文乃の思考はふわりと、二日前の日曜日の午後へと引き戻されていた。
――ホットプレートから立ち上っていた、あの真っ白な湯気。
すずちゃんが小さな手を粉だらけにしながら作った、不恰好で愛らしいUFO餃子。
航平が真面目な顔で「四ミリ間隔のひだです」と几帳面に包んでいた、端正な三日月餃子。
そして、二人が帰ってしまったあとの、あの冷たくて広すぎた部屋の静寂――。
「……私、本当に……」
文乃は自分の胸のあたりをそっと手のひらで押さえた。
食器棚の奥に並べられた、三人分のグラス。
あの二人のいない部屋が耐え難いほど寂しくて、三人で囲んだ食卓の温もりがどうしようもなく恋しかった、あの胸の疼き。
あれは決して、単なる「親切なお隣さん」の領域に留まる感情ではなかった。自分の中に芽生え始めた、名前をつけるのも気恥ずかしいような淡い熱情を思い出し、文乃はオフィスの中で一人、耳たぶをカッと赤く染めた。
「いけない、いけない……仕事中なのに」
文乃は小さく頭を振って雑念を振り払うと、デスクの引き出しから愛用のマイボトルを取り出した。
気分転換に、給湯室でお茶を淹れ直そう。
立ち上がり、オフィスのパーテーションの隙間を縫って、フロアの奥にある給湯室へと向かった。
ステンレスのシンクと白いタイルが清潔に磨かれた給湯室は、ちょうど誰も使っておらず、午後の静けさに包まれていた。
文乃はマイボトルの蓋を開け、小さめの茶漉しを取り付ける。
今日文乃が家から持参してきたのは、自作の特製ブレンド茶だ。
香ばしく焙煎された京都の茎ほうじ茶をベースに、美肌効果の高いハトムギ、直火でじっくり炒った玄米、そして極薄くスライスして天日干しにした乾燥生姜のチップを少量ブレンドしたもの。
給湯器のレバーを押し、熱湯を注ぎ入れる。
シュンシュンと音を立てて熱湯が茶葉を満たすと、瞬間、給湯室の狭い空間いっぱいに、えも言われぬ香ばしい芳香が立ち上った。
焙じ茶の奥深い香ばしさと、炒り米の甘やかな穀物の匂い。そして、鼻腔をすっと抜ける生姜の爽快な刺激。
蒸気を胸いっぱいに吸い込むだけで、パソコン作業で強張っていた胸の奥が、じんわりとほどけていくのを感じる。
「……うん、いい香り」
文乃が満足そうに目を細め、茶葉が十分に開くのを待っていた、その時だった。
「――うわぁ、すごくいい匂いですね。瀬戸さん」
背後から、爽やかで人当たりのいい男声が降ってきた。
振り返ると、給湯室の入り口に、一人の若い男性社員が立っていた。
矢野俊樹、二十六歳。
営業二課に所属する文乃の二歳後輩で、柔らかな癖毛に人懐っこい垂れ目が印象的な、いわゆる「後輩系男子」の代表格のような青年だった。社内でも女性社員たちから「人当たりが良くて可愛い」と可愛がられており、物腰が柔らかく、誰に対しても礼儀正しい。
その矢野の手には、綺麗に洗われて拭き上げられた、ネイビーの布で包まれた長方形のお弁当箱が握られていた。
「矢野くん、お疲れ様。今、お弁当箱を片付けに来たの?」
「はい。さっき外回りの書類整理が終わって、遅いお昼をデスクで済ませたところなんです」
矢野は屈託のない笑顔を浮かべながら給湯室に入ってくると、文乃の隣のシンクの前に立ち、持っていたお弁当の包みを丁寧に畳んでバッグへとしまった。
矢野は社内でも珍しい、いわゆる「お弁当男子」を自称している。
半年ほど前から一人暮らしの節約と健康管理のために自炊を始めたらしく、文乃がお弁当箱を開けていると、よく給湯室でおかずや調味料の話題を振ってくるのが日課になっていた。
矢野はくんくんと鼻を鳴らし、文乃のマイボトルから立ち上る蒸気を見つめた。
「それ、ほうじ茶ですか? でも、普通のほうじ茶よりずっと香ばしくて……甘い穀物みたいな匂いもしますね」
「あ、分かりますか? ほうじ茶に、炒り玄米とハトムギ、それに乾燥生姜を少しだけブレンドしてあるんです。生姜を入れると、エアコンで冷えがちな身体が芯から温まるんですよ」
「へえぇ……! 自分でブレンドしてるんですか? やっぱり瀬戸さんって、本当に生活が丁寧ですよね。僕なんて、スーパーの安い麦茶パックをそのままボトルに放り込むのが精一杯ですよ」
矢野は感心したように目を丸くし、それから少しだけ気恥ずかしそうに頬を緩めた。
「瀬戸さん、いつもお弁当も本当に美味しそうですもんね。おかずの彩りとか、隙間の詰め方とか、遠くから見てても『うわ、お店のお弁当みたいだな』って見惚れちゃうことが多くて」
「そんなことないですよ。私のお弁当なんて、前の日の晩ごはんの残りを適当に詰めてるだけの、地味な茶色いお弁当ですから」
「そんなことないです! 全然地味じゃないですよ。あ、そうそう、瀬戸さん」
矢野は一歩、文乃の方へと歩み寄った。
その距離が、普段の同僚としての間合いよりも、ほんの数センチだけ近いことに、文乃は微かな違和感を覚えた。
矢野は自分のネクタイを少し直しながら、少しだけ躊躇うような、けれど熱意を秘めた眼差しで文乃を見つめてきた。
「実は僕……最近、夜ご飯の自炊もちゃんとやろうと思って、和食に挑戦してるんです」
「そうなんですか? 自炊、続いてて偉いですね」
「いえ、全然です。……実は、出汁の取り方がよく分からなくて。レシピ本を見ても『一番出汁』とか『合わせ出汁』とか書いてあって、昆布を何分水につけて、沸騰直前に引き抜いて、鰹節を入れて火を止めて……って、工程が多すぎて仕事帰りにやるにはハードルが高すぎるんです。結局、粉末の顆粒出汁に頼っちゃうんですけど、そうすると全部のおかずが同じような塩辛い味になっちゃって……」
困り果てたように眉を寄せる矢野の姿に、文乃は思わずクスリと笑ってしまった。
料理を始めたばかりの人間が最初にぶつかる、典型的な「出汁の壁」だ。
「分かります、最初はそうですよね。でも矢野くん、平日からわざわざお鍋で鰹節を漉すような丁寧な出汁取りをする必要なんて、全然ないんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。市販の無添加の出汁パックを使うだけでも十分美味しいですし……もっと簡単なのは『水出し』です」
「水出し……?」
「そう。麦茶用の耐熱ガラスのピッチャーに、水道水と、手のひら大の利尻昆布と、鰹節の厚削りを一掴み放り込んで、冷蔵庫に一晩入れておくだけ。朝起きたら、澄んだ黄金色の上品なお出汁が勝手にできあがってるんです。火も使わないし、濾す手間もいらないんですよ」
「ええっ!? そんな簡単な方法があるんですか!?」
矢野は目を輝かせ、まるで世紀の大発見を聞いたかのように身を乗り出した。
「冷蔵庫に入れておくだけでいいんですか? 濁ったり、生臭くなったりしないんですか?」
「低温でゆっくり抽出するから、余分な雑味やえぐみが出ないで、すっきりした甘みだけが引き出されるんです。お味噌汁にも煮物にもそのまま使えますし、冷蔵庫で三〜四日は持ちますから、一人暮らしの自炊にはぴったりですよ」
「すごい……! さすが瀬戸さん、めちゃくちゃ実践的で勉強になります!」
矢野は両手を合わせて喜んでいたが、次の瞬間、その表情がふっと真剣なものへと変わった。
垂れ目の奥に宿る光が、少しだけ熱を帯びる。
矢野は唾を飲み込み、文乃の瞳をまっすぐに見据えて、意を決したように切り出してきた。
「あの……瀬戸さん」
「はい?」
「実は、職場の近く……駅前の裏通りに、先週新しいお店がオープンしたの、知ってますか?」
「新しいお店……? カフェですか?」
「いえ、全国各地の老舗の蔵元から集めた、天然醸造の発酵調味料を扱ってるセレクトショップなんです」
「発酵調味料の、セレクトショップ……!」
その単語を聞いた瞬間、文乃のアンテナがピクリと反応した。
調味料に並々ならぬこだわりを持つ文乃にとって、木桶仕込みの醤油や無添加の味噌、蔵元直送の本みりんといった言葉は、何よりも魅力的な響きを持っていた。
「木桶で二年熟成させた生醤油とか、全国の無添加味噌の量り売りとか、出汁の試飲コーナーもあるらしくて……。僕、自炊のモチベーションを上げるために行ってみたいと思ってたんです」
「へえぇ……! そんな素敵なお店ができたんですね。全然知りませんでした」
「そうなんです! ……それで、あの」
矢野の声音が、わずかに上ずった。
彼はスーツのポケットに手を入れたり出したりしながら、耳元を少しだけ赤く染めて、文乃へと身を寄せた。
「もし……もしよかったら、今度の金曜日の仕事帰り、一緒に行きませんか?」
「え……?」
「僕一人じゃ、どれが良い調味料なのか全然分からなくて……。瀬戸さんに、おすすめの出汁や調味料を案内してほしいんです」
矢野の瞳は、嘘偽りのない期待に満ちていた。
だが、彼の言葉はそれだけで終わらなかった。
「……で、もし瀬戸さんの都合がよければ、そのあと……お店の近くにある落ち着いた和食屋さんで、夕飯でも一緒にどうかなって。瀬戸さんのおすすめの調味料のお礼に、僕がごちそうしますから!」
「…………っ」
文乃の思考が、一瞬にして凍りついた。
後輩社員からの、何気ない調味料の相談。
最初はそう思っていた。けれど、目の前で耳を赤く染め、少し緊張した面持ちでこちらの返答を待っている矢野の表情を見れば、それがただの「買い物の付き添い」ではないことくらい、鈍感な文乃でも痛いほど理解できてしまった。
好意が、透けて見えていた。
仕事帰りに二人きりでセレクトショップへ行き、そのあとにディナーを共にする。
それは、どう見ても明確な「デートのお誘い」だった。
矢野は社内でも評判がよく、清潔感があり、真面目で、誰に紹介しても恥ずかしくない好青年だ。独身のOLとして、二歳年下の爽やかな後輩男子からこんなふうに真っ直ぐにアプローチされるなど、客観的に見れば願ってもない幸運であり、浮き足立ってもおかしくないシチュエーションのはずだった。
けれど――。
文乃の胸の中に湧き上がってきたのは、ときめきや高揚感などではなかった。
むしろ、息が詰まるような戸惑いと、身体が反射的に後ろへと引いてしまうような、居心地の悪さだった。
――金曜日の、夜。
矢野の口から出たその日時の響きに、文乃の脳裏を駆け巡ったのは、全く別の情景だった。
静まり返った部屋。
弱火にかけたホーロー鍋から立ち上る、鰹と昆布の豊かな湯気。
あの薄い壁の向こう側から聞こえてくる、小さな足音と、不器用な父親の低い声。
『あやのちゃん、おやすみなさい!』
『……文乃さん、おやすみなさい』
そして、日曜日に三人で囲んだ、あの笑い声に満ちた餃子の食卓。
自分にとって、金曜日の夜は、誰かと華やかな外食をするための時間ではない。
一週間の労働を終えて、心から大切に想うあの二人のために、そして自分自身のために、静かに火の前に立って温かな料理を仕込むための、何物にも代えがたい時間なのだ。
そして何より――。
文乃の心の真ん中には、すでに別の誰かの影が、あまりにも深く、強固に根を張っていた。
目の前で爽やかに笑う矢野の姿と、あの、ボロボロのスウェットを着て、泥水に腕を突っ込み、手すり越しに「文乃さんと話していると、呼吸が深くなる気がします」と掠れた声で囁いた、あの不器用な男の姿。
比べることすらできないほどに、文乃の心は、すでにあの限界のシングルファザーに奪い去られていたのだ。
「あ……え、ええと……」
文乃の喉から、ぎこちない掠れ声が漏れた。
矢野は決して嫌な人間ではない。社内の大切な後輩であり、角を立てて傷つけたり、気まずい空気を作ったりするわけにはいかない。
文乃はマイボトルの蓋をキュッと締め、努めて穏やかな営業用の笑みを顔に貼り付けながら、曖昧に言葉を濁した。
「調味料のお店……すごく気になりますね。でも、今週の金曜日はちょっと……月末の伝票の締め切りが重なっていて、何時に退社できるかまだ分からなくて……」
「あ、そうですよね! 月末ですもんね、営業事務の皆さん、いつも忙しそうですし」
「ええ……。ですから、その……シフトと仕事の予定を、もう一度確認してみますね。行けそうだったら、また社内チャットで連絡しますから」
「本当ですか!? はい、僕いつでも合わせられますから、瀬戸さんの都合のいい日を教えてください!」
矢野は全く疑う様子もなく、パッと満面の笑顔を咲かせた。
「じゃあ、僕、フロアに戻りますね。お茶の話、ありがとうございました!」
矢野は軽く会釈すると、軽やかな足取りで給湯室を出ていった。
カチャリとドアが閉まり、再び静寂が戻る。
「…………はぁぁぁぁぁっ」
文乃はその場にへたり込みそうになり、シンクのステンレスの縁を両手で強く握りしめた。
全身の毛穴から冷や汗が噴き出すような感覚。
心臓が、嫌なリズムでバクバクと早鐘を打っている。
「どうしよう……曖昧に濁しちゃった……」
断り切れなかった。
はっきりと「行けません」と言えればよかったのに、波風を立てるのを恐れて「予定を確認してみる」などと期待を持たせるような言い方をしてしまった。
自分はなんて優柔不断で、不器用なのだろう。
自己嫌悪に苛まれ、文乃が深く額を垂れていた、まさにその時だった。
――カラン。
給湯室のドアが、ノックもなしに静かに押し開かれた。
「…………っ!」
文乃が弾かれたように顔を上げると、そこに立っていたのは――。
腕を組み、ドア枠に背中を預けたまま、口元に冷ややかな笑みを浮かべてこちらを凝視している、倉田佳奈の姿だった。
「く、倉田、先輩……!?」
文乃の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
佳奈はいつからそこにいたのか。
マグカップを手にした佳奈は、まるで獲物を追い詰めた肉食獣のような、鋭利極まりない眼光で文乃をじっと見つめていた。
「……全部、聞こえてたわよ」
低く、湿り気を帯びた姉貴分の声が、給湯室の空気をピシャリと切り裂いた。
「ひ……っ!」
文乃の喉が悲鳴を呑み込む。
佳奈はゆっくりと給湯室の中へ足を踏み入れ、背後でパタンとドアを閉めた。
逃げ場のない密室。
佳奈は文乃の目の前まで歩み寄ると、首をコキリと鳴らし、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「矢野俊樹くん、二十六歳。営業二課のホープ。実直で爽やか、社内の女子社員からの人気ナンバーワンの大型新人……ねえ、文乃ちゃん?」
「は、はい……」
「完全に、あなたを狙ってるわね」
「っ……!!」
文乃は息を呑み、両手でマイボトルを胸元に抱きしめて後ずさった。
佳奈の観察眼は、相変わらず寸分の狂いもなく的確だった。
「調味料のセレクトショップ? 水出し出汁の相談? ふふん、笑わせるわね。あの子、あなたがお弁当と出汁の話が大好物だってこと、ちゃーんとリサーチした上で踏み込んできてんじゃないの。草食系の顔して、なかなか計算高いアプローチじゃないのよ」
「ち、違います先輩! 矢野くんは純粋に自炊の相談を……!」
「純粋な相談で、そのあとに『二人きりで和食屋さんにご飯に行きませんか、僕がごちそうします』なんて言うわけないでしょ! あんた、二十八にもなって男の遠回しな告白のジャブも見抜けないわけ!?」
佳奈の痛烈なツッコミに、文乃はぐうの音も出なかった。
真っ赤になって俯く文乃に対し、佳奈は呆れたように小さくため息を吐き出した。
そして、手にしたマグカップをシンクに置き、文乃の顔を真正面から覗き込んできた。
「で? あんたはどうするつもりなのよ。『予定を確認してみます』なんて、思わせぶりな返事しちゃってさ」
「それは……無下に断ったら、業務で気まずくなるかと思って……」
「嘘おっしゃい」
佳奈の人差し指が、文乃の額をトン、と軽く小突いた。
「あんたのあの顔を見れば、一発で分かるわよ。矢野くんのこと、男としてこれっぽっちも意識してない顔だったわ」
「先輩……」
佳奈は腕を組み、窓の外の青空を一瞥すると、ふっと意地の悪い、けれどどこまでも核心を射抜くような笑みを深めた。
「矢野くんも可哀想にねえ。タイミングが悪すぎるのよ。……文乃ちゃんの心は、もう別の『胃袋』に、完全に奪われちゃってるんだから」
「っっっ…………!!!!」
心臓が、跳ね上がった。
全身の血液が沸騰し、顔面から火が噴き出しそうになる。
別の、胃袋。
その言葉が指し示している相手が誰であるか、文乃に分からないはずがなかった。
「な、何を……何を仰ってるんですか倉田先輩! そんな、胃袋に奪われてるだなんて、そんなこと――」
「ごまかしても無駄よ」
佳奈は文乃の耳元に顔を寄せ、囁くように釘を刺した。
「金曜日の夜を空けておきたい理由……隣のあの親子でしょ? あの誠実そうなパパさんと、可愛い娘さんのために、腕を振るってあげるんでしょ?」
「…………っ」
「いい顔してるわよ、文乃ちゃん。誰かを好きになって、誰かのためにご飯を作りたいって思ってる女の顔よ。……矢野くんには悪いけど、あの子じゃあのパパさんには到底敵わないわね」
佳奈はそう言い残すと、文乃の肩をポンと叩き、優雅に給湯室のドアを開けて出ていった。
一人取り残された給湯室。
文乃は真っ赤になった両手で、自分の顔を覆った。
手のひらから伝わってくる、熱い熱い自分の体温。
――別の胃袋に、奪われている。
佳奈の放った言葉が、頭の中で何度も、何度もリフレインしていた。
否定したかった。
自分はただの親切なお隣さんで、等価交換の助け合いをしているだけなのだと、理性ではそう叫びたかった。
けれど、矢野からの好意を向けられた瞬間に、自分の胸を埋め尽くしたのは、困ったように眉を下げて笑う佐伯航平の顔と、すずちゃんの小さな手の温もりだけだった。
それは、紛れもない真実だった。
文乃はマイボトルを強く握りしめ、静かに息を吐き出した。
自分の心の中に育ち始めたこの想いから、もう、目を背けることはできない。
矢野の誘いをどう断るべきかという現実的な悩みを抱えながらも、文乃の視線は、壁の向こうのあの二人が待つ、夕暮れのマンションへと、まっすぐに向けられていた。




