第24話:家庭の温もりに触れて
午後三時を少し回った頃、部屋を満たしていた初夏の陽光は、わずかに西へと傾き、フローリングの上に長く伸びた影を落とし始めていた。
ホットプレートの熱がすっかり冷め、鉄板の上に残っていた香ばしいごま油の香りが、換気扇の低い唸り声とともに天井の排気口へと吸い込まれていく。
「あやのちゃん、ごちそうさまでした! すず、餃子五個もたべたよ!」
玄関のたたきの上で、靴を履き終えた佐伯すずが、満腹になったお腹を両手でポンと叩いて、見事なお辞儀をしてみせた。
サロペットのポケットには、文乃が「お土産に持っていってね」と持たせた、手作りのリンゴのパウンドケーキが小さなワックスペーパーの袋に包まれて大切そうに押し込まれている。
「ふふ、ごちそうさまでした。すずちゃんの作ったUFO餃子、すっごく美味しかったよ。包むのも食べるのも、本当に上手だったね」
文乃がしゃがみ込んで目線を合わせると、すずはえへへと嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、文乃の腕にぎゅっと抱きついてきた。
子どもの柔らかな体温と、甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。ほんの数時間前まで一緒に粉を触り、油の跳ねる音に歓声を上げていた小さな命の温もりが、肌を通してじんわりと伝わってきた。
「瀬戸さん、本当に……何から何まで、ごちそうになってしまって」
すずの後ろで、大きなホットプレートの段ボール箱を両腕に抱えた佐伯航平が、申し訳なさと充実感の入り混じった、柔らかな笑みを浮かべていた。
食事の後、航平は文乃が制止するのも聞かず、腕まくりをして率先して片付けを引き受けてくれたのだ。
熱の引いた鉄板の油汚れをキッチンペーパーで幾重にも丁寧に拭い取り、重たい本体を付属の緩衝材ごと寸分の狂いもなく箱へと収納し、最後にはテーブルの上を固く絞った布巾で、木目に沿って三度も拭き上げてくれた。その無駄のない几帳面な所作と、「使わせていただいた道具ですから」と微笑む誠実さに、文乃はただただ恐縮し、胸を温めるばかりだった。
「お礼を言うのは私の方です、佐伯さん。ホットプレートを持ってきてくださって、重たいものも全部運んでくださって……。一人じゃ絶対にできないお昼ごはんでした。本当に楽しかったです」
「僕たちもです。すずがあんなに楽しそうに料理を手伝って、あんなにたくさん笑いながらご飯を食べたの……本当に久しぶりでした」
航平はそう言うと、抱えた段ボール箱を少し持ち直し、少しだけ名残惜しそうに文乃の部屋のリビングを一瞥した。
「それじゃあ、すず。お昼寝の時間だから、お部屋に戻ろうか」
「はーい! あやのちゃん、ばいばい! またあしたね!」
「うん、ばいばい、すずちゃん。パパとゆっくりねんねしてね」
すずが小さな手を大きく頭上で振る。
航平もまた、深く丁寧に一礼した。
「お邪魔しました。……本当に、ごちそうさまでした、文乃さん」
「はい。お粗末様でした、航平さん」
自然にこぼれ落ちた名前の呼び合い。
二人の視線がふわりと絡み合い、互いの目尻に温かな笑みが重なる。
カチャリ、と三〇一号室のドアノブが引かれ、二人の姿が外の廊下へと出た。
すずのトタトタという弾む足音と、航平の落ち着いた靴音が、数歩先の隣の部屋――三〇二号室の前で止まる。
ガチャリと鍵が開き、ドアが開き、二人の気配が吸い込まれていく。
そして――。
バタン。
三階の内廊下に、静かに、けれどしっかりとドアが閉まる音が響き渡った。
それと同時に、文乃もまた、自分の部屋のドアをゆっくりと閉じた。
カチャリ。
鍵を回す、乾いた金属音。
その瞬間だった。
――スッ……。
まるで、大気そのものの重力が一変したかのように。
文乃の身体を、突如として降りてきた圧倒的な「静寂」が、津波のように呑み込んだ。
「…………」
玄関ホールに立ち尽くしたまま、文乃は小さく息を止めた。
何の音も、しない。
さっきまで廊下に木霊していたすずの愛らしい笑い声も、ホットプレートの上でジュワジュワと脂が爆ぜる音も、航平が「熱いからフーフーしような」と穏やかに窘める低い声も。
すべてが幻であったかのように、綺麗さっぱりと掻き消えていた。
耳に入るのは、ただ、換気扇がカタカタと低く回る一定の機械音と、冷蔵庫のコンプレッサーが時折刻む、微かな微振動の音だけ。
文乃はスリッパを引きずるようにして、ゆっくりとリビングへと足を進めた。
普段の一人暮らしのワンルーム。
広さは八畳ほど。単身者向けの賃貸マンションとしては、決して狭すぎるわけではないが、かといって広大というわけでもない、ごく標準的な間取りのはずだった。
なのに――。
「……ひろい」
思わず、乾いた呟きが口をついて出た。
リビングの中央に置かれた、四角い二人掛けの木製ダイニングテーブル。
航平が几帳面に拭き上げてくれたおかげで、天板の上には粉ひとつ、油の飛び散り一滴残っておらず、窓からの午後の光を浴びてピカピカに光っていた。
けれど、その何もないテーブルの上が、やけに寒々しく見えた。
つい十分前まで、ここには山盛りの餃子の皮があり、ひき肉と野菜のボウルがあり、三人で腕を突き合わせて「UFOみたい」「四ミリのひだです」と笑い合っていた熱気が渦巻いていたはずだった。
テーブルの向かい側の席。
航平が腰掛けていた椅子は、整然とテーブルの下へと引かれている。
文乃の隣の席。
すずが座っていた丸い布製クッションの表面には、小さな身体が乗っかっていた丸い窪みが、まだ名残惜しそうに浅く残されていた。
指先を伸ばし、そのクッションの窪みに触れてみる。
微かな繊維の柔らかさ。けれど、そこに宿っていたはずのあの子のぽかぽかとした体温は、冷たい空気に晒されて、すでに跡形もなく霧散していた。
「…………」
文乃は立ち上がり、キッチンのシンクへと向かった。
シンクの脇の水切り籠には、先ほど航平と二人で洗い終えた食器たちが、整然と伏せられていた。
文乃が愛用している波佐見焼の小皿が一枚と、航平が使った同じシリーズの小皿が一枚。
すずのために用意した、小さなウサギの絵柄が入った子ども用の取り皿が一枚。
そして、麦茶を注いだ、背の高いガラスのタンブラーがふたつと、表面に滑り止めの凹凸がついた、小さな子ども用の強化ガラスタンブラーがひとつ。
三人分の、食器。
三人分の、グラス。
一人暮らしを始めて、今年で六年目になる。
実家の山梨を出て、都内の食品メーカーに就職し、この『メゾン・ド・フルール』の三〇一号室で暮らし始めてから、文乃の日常は常に「一人分」で完結していた。
食器棚に並ぶのは、自分のお気に入りの器が一揃い。
冷蔵庫の中身も、一週間で自分が過不足なく消費できるだけの食材。
休日に何時に起きようと、誰にも文句は言われない。
夜中に思い立って出汁をコトコト煮出そうと、誰の邪魔も入らない。
掃除も、洗濯も、インテリアも、すべて自分の好みの美意識だけで統一された、誰にも侵されない聖域。
文乃にとって、このワンルームで過ごす一人きりの時間は、何よりも気楽で、何よりも自由で、愛おしくてたまらない「自分の城」だったはずなのだ。
他人に干渉されず、自分のペースを乱されないことこそが、大人として自立した贅沢な暮らしなのだと、何の疑いもなく信じ切っていた。
それなのに。
「……どうしてかな」
文乃は清潔なリネンの布巾を手に取り、水切り籠からグラスをひとつ、持ち上げた。
キュッ、キュッと、布地越しにガラスの表面を拭う。
部屋が、広すぎる。
天井が、妙に高く感じられる。
いつも通りに整頓された部屋の空気が、まるで冬の朝のように冷ややかに肌を刺してくる。
静かすぎるのだ。
時計の秒針がチクタクと刻む音すら、耳障りなほど鮮明に鼓膜を震わせてくる。
文乃はいたたまれなくなって、リビングのテレビの電源リモコンを手に取り、主電源を入れた。
パッと画面が点灯し、日曜日の昼下がりのバラエティ番組が映し出される。
スタジオのひな壇に並んだ芸人たちが大声で笑い、派手な効果音とテロップが画面の上を賑やかに踊る。
けれど――。
その賑やかな音声は、文乃の部屋の空気に馴染むことなく、ツルツルとしたプラスチックの板のように滑り落ちていくだけだった。
何を喋っているのか、頭の中に全く入ってこない。
画面を見つめているはずの瞳のピントは完全にぼやけ、どこか遠い世界で鳴り響いている雑音のようにしか感じられないのだ。
「…………」
文乃はリモコンのボタンを押し、再びテレビを消した。
ぷつり、と画面が暗転し、部屋にはさっきよりも一層深い静寂が舞い戻ってくる。
違う。
テレビの人工的な笑い声が聞きたいわけじゃない。
文乃の耳の奥にこびりついて離れないのは、もっと別の、温かな音たちだった。
『あやのちゃん、お肉でてきちゃった!』と半泣きになった、すずの幼い声。
『すずの餃子、UFOみたい!』と手を叩いて笑い転げた、あの無邪気な瞳。
『皮の半径に対して、具の体積が……』と真面目くさった顔で几帳面にひだを寄せていた、航平の照れくさそうな横顔。
そして――。
『あっつい! ……でも、すっごくおいしい!』
『いくらでも食べられますよ、これ……!』
ホットプレートの蓋を開けた瞬間の、真っ白な湯気。
カリッと底が焼けた餃子を口いっぱいに頬張り、顔を見合わせて「美味しいね」と笑い合った、あの瞬間の食卓の熱。
布巾を持つ文乃の手が、シンクの前でぴたりと止まった。
透明に磨き上げられたタンブラーの底に、窓からの午後の光が屈折して、小さな虹のようなプリズムを落としている。
「……私」
ぽつりと、掠れた声がこぼれ落ちた。
文乃は、自分の胸の真ん中に、そっと左手を当てた。
薄い部屋着のカットソー越しに、トクン、トクンと規則正しい拍動が伝わってくる。
けれど、その鼓動のすぐ裏側に――。
風穴が空いたような、冷たくて、頼りない、ぽっかりとした「空白」が横たわっているのを、文乃ははっきりと自覚していた。
「私……あの子たちの笑い声に、思った以上に救われてたんだ……」
認めたくなかったわけではない。
けれど、言葉にして輪郭を与えてしまった瞬間、胸の奥底から込み上げてくる感情の波に、文乃は息を呑んだ。
自分は、ずっと「助けてあげる側」のつもりだったのだ。
偏食で泣き叫ぶ子どもと、激務と育児の狭間で過労死寸前まで追い詰められていた若い父親。
その過酷な限界生活を見かねて、趣味の料理をお裾分けし、出汁の知恵を貸し、破れたバッグをミシンで繕ってあげた。
自分のできることで、困っているお隣さんを少しでも救ってあげたい――そんな、親切心と良心に基づいた善意の行動だったはずだった。
けれど、それは傲慢な思い違いだった。
救われていたのは、自分の方だったのだ。
一人暮らしの静かな部屋で、自分のためだけに丁寧な自炊を繰り返す日々。
それは確かに満ち足りていたけれど、同時に、誰とも分かち合うことのない、閉じた自己満足の円環でもあった。
どんなに美しく面取りをしたカボチャも。
どんなに時間をかけて野菜をすりおろしたカレーも。
一人で口に運べば、「うん、上手にできた」という淡々とした納得感しか得られない。
そこに、命の爆発のような喜びをもたらしてくれたのは、他でもない、あの二人だった。
『あまい! すず、これすき!』と全身で美味しさを表現してくれた、すずの純真な笑顔。
『生き返りました……本当に、美味しいです』と、涙を滲ませながら料理を噛み締めてくれた、航平の真っ直ぐな瞳。
誰かのために心を込めて火を使い、その料理が目の前の誰かの命を潤し、笑顔を咲かせる。
そして、「美味しいね」と言葉を交わしながら、同じ温かい湯気を分け合う。
祖母がかつて教えてくれた、台所仕事の本当の喜び――『食べることは生きること、誰かと分かち合うことは愛すること』という温かな真実を、文乃の味気なくなりかけていた日常の中に、鮮やかに蘇らせてくれたのは、あの不器用な親子だったのだ。
あの子たちの笑い声が満ちていたからこそ。
航平が真剣な顔で餃子を包み、優しい眼差しで文乃を見つめてくれたからこそ。
この無機質なコンクリートの部屋は、今日、たった数時間の間だけ、世界で一番温かい「家庭の温もり」を宿すことができたのだ。
「…………」
文乃は、拭き終えたすずの小さなプラスチックのコップを、食器棚の定位置へと戻した。
続いて、航平の使った背の高いタンブラー。
そして、自分の一回り小さなタンブラー。
三つのグラスが、食器棚のガラス戸の奥に、仲良く並んで収まる。
その光景を見つめながら、文乃の胸の奥に、かつて経験したことのない、甘くて、少しだけ痛みを伴う感情の波が押し寄せてきた。
これは、もう。
ただの「親切なお隣さん」に対する感情ではない。
困っているシングルファザーを助けてあげるという、健全なご近所付き合いの枠組みを、とっくに踏み越えてしまっている。
あの二人のいない部屋が、こんなにも寂しい。
三人で囲んだ食卓の温もりが、こんなにも愛おしく、忘れがたい。
また明日も、あの笑顔が見たい。
明後日も、あの不器用な父親がほっと息を吐き出す瞬間を、すぐ隣で見守っていたい――。
胸の真ん中に空いた小さな隙間に、航平のあの低く澄んだ声と、すずの小さな手のひらの熱が、じんわりと染み込んでいく。
それは、文乃自身がまだ名前をつけることを躊躇ってしまうような、けれど絶対に否定することのできない、淡く、確かな恋情の萌芽だった。
窓の外を見上げると、初夏の西日はすっかりビルの谷間へと沈み、空は柔らかな茜色から薄紫色のグラデーションへと移り変わろうとしていた。
文乃はエプロンを外し、静かに畳んでカウンターの上に置いた。
部屋は、相変わらず静まり返っている。
けれど、その静けさの向こう側――壁一枚隔てた三〇二号室で、今頃すずがトトロを抱いてすやすやとお昼寝をしていて、その傍らで航平が、少しだけ肩の力を抜いて穏やかな休日の午後を過ごしているのだと思うだけで。
文乃の胸の奥の冷たい隙間は、夕暮れの陽だまりのような優しい温もりで、静かに、満たされていくのだった。




