第23話:日曜日のお昼ごはん
五月の澄み渡るような青空が、やわらかな初夏の光を部屋いっぱいに注ぎ込んでいた。
日曜日の午前十一時。瀬戸文乃の部屋――三〇一号室のドアベルが、まるで小鳥が跳ねるようなリズミカルな音を立てて鳴り響いた。
ピンポン、ピンポーン。
文乃がスリッパを鳴らして玄関へ向かい、鍵を開けると、そこにはすでに両手を広げて待ちきれないといった様子の佐伯すずが立っていた。
「あやのちゃん! きたよーっ!」
黄色いミツバチのアップリケがついた長袖Tシャツに、動きやすそうなデニムのサロペット。左右で揺れる二本の三つ編みは、今朝も父親の手によって一生懸命に結ばれたことが分かる、愛らしい少しの歪さを残していた。
すずの後ろには、黒のスキニーパンツに淡いグレーのオックスフォードシャツを羽織った佐伯航平が、両手で四角い大きな段ボール箱を抱えながら、恐縮しきりの苦笑いを浮かべて立っていた。
「瀬戸さん……おはようございます。本当に、お休みの日に押しかけてしまってすみません。すずが朝起きた瞬間から『今日はお隣でごはん食べるのおおお!』って聞かなくて……」
「ふふ、おはようございます。ううん、全然迷惑じゃないですよ。私の方からお願いしたんですから」
文乃は満面の笑みでドアを大きく開け放った。
事の発端は、今朝八時過ぎのゴミ出しの時だった。廊下ですれ違ったすずが、文乃の手をぎゅっと握りしめて「あやのちゃん、今日なにするの? すず、あやのちゃんのおうちでごはん食べたい!」と、天使のような瞳で真っ直ぐにおねだりしてきたのだ。
いつもなら「他人の迷惑になるから」と血相を変えて娘を制止するはずの航平が、金曜日の夜のベランダでの対話を経ていたからか、気まずそうに、けれどどこか照れくさそうに視線を彷徨わせていた。
そこで文乃は、すかさず完璧な口実を提示したのだ。
『実は私、実家から大きなホットプレートをもらったんですけど、一人暮らし用の小さなキッチンには置く場所がなくて困ってたんです。佐伯さん、もしよかったら……おうちのホットプレートをお借りして、三人でお昼に餃子パーティをしませんか?』
一人暮らしの女がホットプレートを欲しがり、隣室の道具を借りて、そのお礼として一緒にご飯を食べる。
健全で、誰にも後ろめたさのない「等価交換」の延長線。航平はその提案に目を見張り、最後には「……僕たちのほうこそ、お邪魔させていただけるなら願ってもないです」と、深く頭を下げてくれたのだった。
「さあ、上がってください。すずちゃん、手洗いに行こうね」
「はーい!」
靴を脱いで上がった航平は、抱えていた段ボール箱――手入れの行き届いた大きなホットプレートのセットをリビングの隅に慎重に下ろした。
「瀬戸さん、手洗い場をお借りしてもいいですか?」
「もちろんですよ。洗面台のタオル、一番左の黄色いのがすずちゃんの分で、真ん中のグレーのが佐伯さんの分です。使ってくださいね」
「あ……ありがとうございます。何から何まで準備していただいて……」
洗面所から戻ってきた航平とすずを迎え入れたのは、普段の静かな一人暮らしの部屋とは一変した、美味しそうな香りと温かな活気に満ちたキッチンだった。
文乃の部屋の四角いダイニングテーブルの上には、すでに真っ白なクッキングシートが敷かれ、大皿の上には白い丸い餃子の皮が二袋、五十枚ほど並べられていた。脇には小さな器に入った水と、ティースプーンが三本。
そして、テーブルの中央に鎮座していたのは、深みのあるガラスボウルいっぱいに仕込まれた、艶やかな『特製餃子の餡』だった。
「うわぁ……! これ、お肉?」
すずがテーブルに爪先立ちになり、ボウルの中をキラキラした目で見つめる。
「そうだよ、すずちゃん。豚肉と、お野菜がたっぷり入った餃子の具だよ」
文乃はエプロンの紐をキュッと結び直し、ボウルを指差して微笑んだ。
この餃子の餡には、文乃の並々ならぬ計算と工夫がぎっしりと詰まっていた。
メインとなる豚ひき肉は、赤身と脂身のバランスが良い肩ロースの粗挽きを選択。そこに粘りが出るまでしっかりと塩と酒、そして一番出汁を加えて練り込んである。
野菜には、定番の白菜とニラ。白菜は細かく刻んだあと、塩もみをして徹底的に余分な水分を絞り切ってある。こうすることで、焼いた時に皮がベチャつかず、噛んだ瞬間に白菜本来の自然な甘みがジュワッと溢れ出す。
そして――何より重要なのが、二つの「隠し味」だった。
一つ目は、すずがかつて大泣きして拒絶した『椎茸』だ。
椎茸の持つグアニル酸は、豚肉のイノシン酸、白菜のグルタミン酸と合わさることで、味覚の爆発的な旨味の相乗効果を生み出す。けれど、あの特有のぬめりと強い香りは、子どもにとって最大の難関だ。
だからこそ、文乃は干し椎茸を前夜からじっくり冷水で戻し、その戻し汁をひき肉の練り込み段階でスープとして吸わせた。さらに、戻した椎茸の傘は、包丁の刃先で米粒よりも小さなミリ単位の微塵切りにして、豚肉の粒と完全に見分けがつかないレベルにまで細かく刻み込んで混ぜてある。
そして二つ目の隠し味は、旬の『蓮根』だった。
すりおろした蓮根を少量混ぜて肉汁を逃さない保水膜を作ると同時に、二ミリ角ほどの極小のダイス状に刻んだ生の蓮根をたっぷりと散りばめてある。皮のモチモチ感と、お肉のジューシーさの中に、シャキシャキ、コリッとした小気味よい歯触りが紛れ込むことで、噛むこと自体が楽しくなる仕掛けだ。
「よし! それじゃあ、三人で餃子を包みましょうか!」
「おーーっ!」
すずが両手を突き上げて歓声を上げる。
「僕も……手伝います。手先はあまり器用じゃないんですが、指示してください」
航平がシャツの袖を肘まで捲り上げ、気合を込めてテーブルの席についた。長身の航平が文乃の小ぶりなダイニングチェアに腰掛けると、普段の静かな部屋が一気に狭く、けれど心地よい密度で満たされていく。
文乃はすずの隣に座り、まずは見本を見せるように一枚の皮を手のひらに乗せた。
「すずちゃん、見ててね。まず、皮の真ん中にスプーンで具をちょこんと乗せます。欲張りすぎるとお腹が破けちゃうから、これくらいね」
「これくらい!」
「そう。そしたら、人差し指にちょんってお水をつけて、皮の周りをぐるーっと一周、濡らしてあげます」
文乃の手際はお見事だった。
皮を半分に折り、右手の親指と人差し指を器用に使って、キュッ、キュッ、キュッと三つの美しいひだを寄せていく。わずか五秒。まるで中華街の点心師が作ったかのような、三日月形の端正な餃子がテーブルの上にコロンと立った。
「わあぁぁっ! あやのちゃん、すごい! お店屋さんだ!」
「ふふ、慣れれば簡単だよ。すずちゃんもやってみる?」
「やる! すず、やる!」
すずは小さな両手で真剣に皮を持ち上げ、スプーンを握った。
だが、小さな子どもにとって「適量」の加減は至難の業だ。すずは山盛りの餡をスプーンですくい上げ、皮の中央にドカンと乗せてしまった。
「あ、すず、ちょっと多いんじゃないか……?」
航平が横から心配そうに声をかけるが、すずは真剣そのものの表情で「だいじょうぶ!」と言い張り、人差し指を豪快に水入れに突っ込んで、皮の全面をびしょびしょに濡らした。
そして、ぎゅっと両手で皮を二つ折りにする。
――ムニュッ。
当然のように、皮の端から豚肉とニラの緑色がはみ出し、すずの小さな手のひらにくっついた。
「あっ……! お肉が、でてきちゃった……!」
すずが半泣きのような顔で手のひらを見つめる。
丸まりきらず、ひだも寄せられず、ただ平べったく潰れて端っこから餡がこぼれかけた、なんとも言えない不恰好な楕円形の物体。
航平が「あちゃあ……」と額を押さえたが、文乃はすずの手をそっと優しく包み込んだ。
「ううん、全然失敗じゃないよ! はみ出たところをね、指先でキュッて中に押し込んで、端っこをペタペタって潰してあげれば……ほら!」
文乃が手助けをして形を整えると、それはひだこそないものの、まるで小さな帽子か、空飛ぶUFOのような不思議に愛嬌のある形になった。
「できた! すずの餃子、UFOみたい!」
「本当だ、UFO餃子だね! すっごく可愛いよ、すずちゃん」
「えへへ〜! UFO餃子、いっぱい作る!」
すずはたちまち機嫌を直し、二枚目、三枚目と夢中になって皮を手に取っていく。
具が多すぎて破裂しそうになったり、逆に具が少なすぎてペラペラのせんべいのようになったり、水気をつけすぎて皮が破けたり。テーブルの上には、すずの手によって生み出された個性豊かな「すず特製餃子」が、楽しげに並び始めた。
「佐伯さんは、どうですか?」
文乃が視線を上げると、航平は眉間に深いシワを寄せ、まるで精密機器の基板を組み立てるかのような猛烈な集中力で、餃子の皮と対峙していた。
「……皮の半径に対して、具の体積が約十五パーセント。水分の表面張力を利用して接着し……ひだの間隔は、四ミリ均等……」
「ぷっ……! 佐伯さん、ロジカルすぎます!」
文乃が思わず吹き出すと、航平はハッとして顔を上げた。
航平の手元には、寸分の狂いもなく正確に等間隔のひだが五つ刻まれた、恐ろしいほどに幾何学的に美しい餃子が整然と並んでいた。
「あ……すみません、エンジニアの職業病で。どうもこういう反復作業になると、パラメータを均一にしたくなってしまって……」
「いえ、素晴らしいです! 佐伯さんの餃子、プロみたいに綺麗ですよ」
「本当ですか? ……よかった。すずのUFO餃子の隣に並べると、僕のやつ、やけに堅苦しい気がして恥ずかしかったんですが」
「パパの餃子、まじめな形してる!」
すずが指差して笑うと、航平も「まじめって何だよ」と目尻を下げて笑った。
テーブルを囲む、三人の笑い声。
文乃の美しい三日月餃子、航平の几帳面な精密餃子、そしてすずの自由奔放なUFO餃子。
三つの異なる形の餃子が、粉のついたトレイの上に肩を並べてぎっしりと並んでいく。
一人でキッチンに立ち、効率よく整然と作り置きをしていた時には絶対に味わえなかった、温かくて、少し騒がしくて、愛おしい時間。
文乃は指先についた白い小麦粉を眺めながら、胸の奥がじんわりと甘い熱で満たされていくのを噛み締めていた。
「よし! 五十個、全部包めましたね!」
「お腹すいたーーっ!」
すずがお腹をポンポンと叩く。
「それじゃあ、いよいよ焼きましょう! 佐伯さん、ホットプレートの電源、お願いできますか?」
「了解です。二百度にセットしますね」
航平が手際よくダイヤルを回し、ホットプレートの平らな鉄板が熱を帯び始める。
文乃は薄く純正のごま油を鉄板全体に引き伸ばした。
ジワッ……と、香ばしい胡麻の香りが立ち上る。
「並べるよ、すずちゃん。火傷しないように見ててね」
文乃と航平がトングと箸を使い、鉄板の上に丸く円を描くように餃子を並べていく。外側には文乃と航平の綺麗な餃子を並べ、その中央の特等席には、すずが一生懸命に作った不恰好なUFO餃子たちを鎮座させた。
パチパチ、パチパチ……。
心地よい油の爆ぜる音が、鉄板の上から響き始める。
底面に軽く焼き色がついたのを見計らい、文乃は計量カップに用意しておいた、少量の小麦粉を溶いた湯を一気に回し入れた。
ジャァァァァァッッッ――!!
猛烈な水蒸気が立ち上り、白い霧が三人の視界を一瞬で覆い尽くす。
「うわぁぁっ!」
「すず、危ないから一歩下がってな」
航平がすずの肩を抱き寄せ、文乃が素早くホットプレートの重いガラス蓋をカチリと閉めた。
密閉された蓋の内側で、沸騰した湯が激しく泡立ち、蒸気がガラスを真っ白に曇らせていく。
ジュクジュク、パチパチ。
蒸し焼きの時間が始まった。
「あやのちゃん、まだ?」
「もうちょっとだよ。中の水分が飛んで、パチパチって高い音がしてきたら出来上がりだからね」
すずは両手をテーブルについて、曇ったガラス蓋をじっと見つめていた。小さな鼻をヒクヒクと動かし、隙間から漏れ出てくる肉とごま油の香りを胸いっぱいに吸い込んでいる。
水分が徐々に蒸発し、音が湿った鈍い響きから、チリチリ、パチパチとした乾いた鋭いリズムへと変わっていく。
「……佐伯さん、そろそろです」
「はい!」
航平がミトンを両手にはめ、ガラス蓋の取っ手を掴んだ。
「いきますよ……せーの!」
パカッ。
蓋が持ち上げられた瞬間、凝縮されていた濃厚な湯気が、爆発するように天井へと吹き上がった。
部屋中に満ちる、圧倒的なまでの飯テロの暴力。
香ばしく焦げたごま油の匂い。豚肉のジューシーな脂の香り。そして、ニラと出汁の食欲を容赦なく刺激する芳香。
湯気の向こうから姿を現したのは、薄いレースのような黄金色の羽根をまとった、完璧な焼き上がりの餃子たちだった。
底面はパリッと見事なきつね色に焼き締まり、皮の表面は蒸気を吸ってツヤツヤと透明感を帯びて輝いている。すずのUFO餃子も、中のスープをしっかりと閉じ込めたまま、ぷっくりと美味しそうに膨らんでいた。
「わあぁぁぁぁぁっっっ!!!」
すずが椅子の上で飛び跳ねんばかりに歓声を上げた。
「焼けた! すずのUFOも、ちゃんと焼けてる!」
「大成功ですね!」
文乃も思わず両手を叩いて声を弾ませた。
航平は仕上げとして、鉄板の縁からごま油を一筋タラーリと回し入れ、強火で底面のパリパリ感を極限まで引き上げた。パチパチと弾ける小気味よい音が、食卓のクライマックスを告げる。
「よし、火を保温に切り替えました。……食べましょう!」
「いただきまーす!」
三人の声が、綺麗に重なり合った。
小皿には、文乃特製のタレ。
大人用には酢と醤油と自家製ラー油。すず用には、酸味を抑えて出汁醤油と少量のリンゴ酢、そしてごま油を合わせた、マイルドで甘みのある特製ダレが用意されている。
すずは待ちきれない様子で、箸を放り出して子ども用スプーンを構え、自分が作ったUFO餃子をひとつ、皿へと救い上げた。
「あっついから、フーフーしてね」
「うん! フーフー……フーフー……」
すずは小さな唇を尖らせて、一生懸命に息を吹きかける。
そして、冷めかけた端っこを、小さな口で思い切りパクリとかじりついた。
カリッ……!
静かな部屋に、驚くほど澄んだ、クリスピーな咀嚼音が響き渡った。
直後。
じゅわりと、皮の破れ目から溢れ出した熱々の肉汁が、すずの舌の上へと広がった。
「っ……!」
すずは目をカッと見開き、両手で自分の小さな頬をペタッと押さえた。
「あっつい! ……でも、すっごくおいしいーーーっっっ!!」
もぐもぐ、と小さな口を懸命に動かしながら、すずは満面の笑みで足をバタバタと揺らした。
「皮がパリパリしてて、お口の中でスープがぴゅーって出た! お肉が甘い! すずのUFO餃子、世界一おいしい!」
「ふふ、よかったねぇ。蓮根入ってるの、分かった?」
「うん! サクサクする! お口の中で、シャキシャキ、コリコリって音がするよ!」
すずは夢中になって、二口目で残りの半分を丸ごと口の中に放り込んだ。
その姿を横で見守っていた航平は、信じられないものを見るように目を見張り、それから自分も箸を伸ばした。
きつね色に美しく焼き上がった、自分の幾何学餃子を一つ摘み、タレにつけて口へと運ぶ。
サクッ、ジュワッ。
「…………っ!!」
航平の動きが、完全に停止した。
噛み締めた瞬間、航平の目が見開かれ、そのまま絶句した。
「な……なんですか、この食感……!」
航平は驚愕の声を絞り出した。
「皮の底が信じられないくらいパリッとしてるのに、上の皮はモッチモチで……中から溢れ出てくる肉汁の量が半端じゃないです。それに……この蓮根! 微塵切りの蓮根のシャキシャキした歯触りが絶妙なアクセントになっていて、脂っこさを完全に消してくれている……! いくらでも、無限に食べられますよこれ……!」
「ふふ、蓮根のすりおろしも少し入れてあるので、お肉が縮まないで肉汁を抱え込んでくれるんです」
「プロの技ですよ、本当に……。あ、それにこの深いコク……これ、干し椎茸の出汁ですか?」
「さすが佐伯さん、大正解です!」
文乃が嬉しそうに頷くと、すずがもぐもぐしながら不思議そうに首を傾げた。
「しいたけ……? これ、しいたけ入ってるの?」
「入ってるよ、すずちゃん。お肉の中に、細かーくして入ってるの」
文乃が優しく教えると、すずは目をパチクリとさせ、それから誇らしげにニカッと笑った。
「すず、しいたけ食べられた! 全然苦くないもん! いいにおいするもん!」
「偉いぞ、すず! 椎茸も克服したな!」
航平がすずの頭をくしゃくしゃと撫で回し、すずがキャッキャと声を上げて笑う。
そこからの食卓は、まさに戦場ならぬ、幸福の宴だった。
「パパ、すずのUFO餃子、一個あげる!」
「お、ありがとう。……うん! すずの作ったやつ、皮がもっちりしててすごく美味いぞ!」
「あやのちゃんにもあげる!」
「ありがとう、すずちゃん。……ん〜〜っ、美味しい! すずちゃん、包むの上手だね!」
五十個あった餃子は、三人の箸とスプーンによって、見る見るうちに鉄板の上から姿を消していった。
普段は一人で静かに、テレビの音だけを聞きながら食べていた文乃の部屋。
けれど今、この空間には、立ち上る温かな湯気と、ホットプレートのパチパチという香ばしい音、そして途切れることのない笑い声が、満ち潮のように満ち溢れていた。
ふと、すずが麦茶を飲んでいる合間に、航平が文乃の方へと視線を向けた。
ホットプレートの湯気の向こう側。
航平の瞳には、金曜日の夜のベランダで見せていたあの深い苦悩の影は、もう欠片も残っていなかった。
そこにあったのは、文乃に対する心からの敬意と、親愛の情、そして――言葉には出さないけれど、互いの魂の傷を知り、受け入れ合った者同士の、確かな絆の光だった。
「……文乃さん」
航平が、小さく呟いた。
「はい?」
「……ごちそうさまです。本当に、最高の日曜日のお昼ごはんです」
「ふふ。佐伯さんがホットプレートを運んでくれたおかげですよ。美味しかったですね」
目が合い、どちらからともなく、ふわりと柔らかな笑みがこぼれ落ちる。
言葉の端々に滲む、自然な親密さ。
鉄板の上には、カリカリに焼けた最後のひとつの羽根が、小さな香ばしい湯気を上げていた。
壁一枚を隔てた二つの部屋の間にあったはずの境界線は、ホットプレートの温かな湯気の中に、完全に溶け去っていた。
笑い合う三人の姿は、まだ「家族」という名前はついていなくても、世界で一番温かい、確かな愛の食卓そのものだった。




